名も知らぬまま 共に生きた。
名を知るために また刀を握った。
転生してから、どれだけの月日が経っただろうか⸺。
ずいぶん昔に、時間を数えるのはやめた。なぜこんなにも生きていられるのか、自分はどんな世界に迷い込んでしまったのか。分からないまま、日々を生き抜くのに必死だった。
初めは、昔の日本にでも転生したのだと思っていた。
人は着物を着て、薪で火を焚き、刀を腰に差して歩いていた。俺の知っている地名は通じなかったが、歴史に詳しいわけでもない。昔は別の名前だったのだろうと考えれば、ひとまず納得できた。
納得できないことを考えている余裕がなかった、というのもある。
何せ、腹が減る。
生まれ変わったからには、何か特別な力があるのではないか。そんな期待もした。しかし、期待している間にも腹は減った。食べられそうな実を齧って腹を壊し、川の水で空腹を誤魔化し、そのうち死体の懐まで探るようになった。
今、腰に差している刀も、その時に頂いた物だ。
最初の持ち主の顔は、まだ覚えている。名前は知らない。どこへ行こうとしていたのかも、何に斬られたのかも分からないまま、刀と履物と、残っていた飯を頂いた。
長く生きられたのは、あの人のおかげだ。
礼を言いたい気持ちはあるが、あちらが聞いてくれるかどうかは怪しい。死人相手に随分と都合のいいことをした。俺が逆の立場なら、まず履物を返せと言うと思う。
そうして生き延びているうちに、十年が経った。
自分がほとんど老いていないと気づいたのは、その頃だ。二十年経っても変わらず、三十年経っても変わらなかった。おまけに、久しぶりに立ち寄った村では、昔と同じ顔の男が昔と同じ店に座っていた。
歳を尋ねると、男は酒を飲みながら笑った。
『いちいち覚えていられるか。生きてりゃ腹が減るんだ、何年生きたか数えてる暇があったら、明日の飯の心配でもしとけ』
当時は、雑な人間だと思った。
今となっては、実に的確な助言だったと感心する。俺も途中までは年を数えていたが、印をつけていた木が焼けてから、どうでもよくなってしまった。
たぶん、五百年くらいは生きている。
五百年と五百十年では随分違う気もするが、どちらにせよ祝いを持ってくる者はいない。長寿の秘訣を尋ねられても困る。俺の方が聞きたいくらいだ。
ただ、もう普通の日本だとは思っていなかった。
素手で岩を砕く者がいた。目で追えないほど速く動く者もいた。こちらが刀を振り下ろした時には、背後へ回られていたこともある。
あれは本当に怖かった。
怖かったので、俺も覚えようとした。人に教わったこともあれば、勝手に真似したこともある。できずに諦めたことを、何十年かしてから試し直すと、案外できてしまうこともあった。
少しずつ、こちらの暮らしに馴染んだ。
飯の手に入れ方も、寝る場所の選び方も、人の殺し方も。
おかげで、今日も俺は生きている。
生きているのだが、腹は減っていた。
「悪いが、先に飯を食わせてくれないか。お前らの用事はその後で聞く。俺は昨日から何も食ってないし、腹が減ってる時に揉め事をすると、どうにも加減が雑になるんだ」
街道を塞いだ男たちへ、できるだけ穏やかに伝えた。
向こうの集落なら飯にありつける。そう聞いて山を越えたところで、六人に囲まれた。腰に刀を差した者が四人、槍を持った者が一人、何も持っていない者が一人。
道案内をしてくれる雰囲気ではなかった。
槍を持った男が、俺の足元へ穂先を向ける。
「飯の心配は要らねえよ。身ぐるみ置いていけば、向こうの村まで歩いて行かせてやる。その刀も忘れるな。お前にはもったいねえ品だ」
最後の言葉で、少しだけ評価を改めた。
この刀は、見栄えがいいわけではない。鞘は傷だらけだし、柄巻も何度か替えた。それでも、ろくに手入れの仕方も知らなかった俺に使われ続けて、まだ折れていない。
そこを見抜いたのなら、物を見る目はある。
人を見る目まであるとは限らないが。
「履物まで取るのはやめてくれ。昔それで随分と苦労した。刀については、まあ、長い付き合いでね。売るつもりも譲るつもりもないんだが、それで話をつけられないか」
「だったら、その長い付き合いとやらは今日で終いだ。大人しく渡せば生きて帰れるって言ってるうちに、言うことを聞け」
槍が動いた。
膝を狙っていた穂先が、腹へ上がる。なるほど、履物の話は聞いてもらえなかったらしい。
槍を脇へ流し、柄を掴んだ。引くと男の身体が前へ崩れる。肩を押して、右から刀を抜こうとしていた男へぶつけた。
二人が倒れる間に、左の男が踏み込んでくる。
刀を抜ききる前に柄頭を押し戻す。腹へ肘を入れ、足を払うと、背中から地面へ落ちた。次の男は、さすがに刃を抜いていた。
よく斬れそうな刀だった。
俺は掌へ少し力を集め、そいつの胸へ向けた。
男の身体が後ろへ飛び、追い越そうとしていた仲間を巻き込んだ。二人まとめて道の脇へ転がっていく。木にぶつかるほど強くはしていない。たぶん。
残ったのは、何も持っていなかった男だけだった。
仲間を助けるべきか、逃げるべきか。迷っているのが顔に出ている。
「さて、できれば飯を分けてほしい。銭は払うよ。今の連中をどうするかはお前に任せるが、少し寝かせておいた方がいい。起こしたら、また俺を追いかけると言い出しそうだ」
「……干し飯なら、あります。少ししかないんですが、それでよければ」
男が懐から包みを出したので、銭と引き換えに受け取った。
何とも気まずい買い物だった。
売り手が怯えた顔をしているのは、どうにも落ち着かない。俺は包みを懐へ入れ、男の肩を軽く叩いた。
「ありがとう。次に会う時は、初めからこっちで頼む。俺も道端で人を転がすより、普通に飯を買う方が好きだからな」
*
川辺で干し飯をふやかしていると、旅装の男がやってきた。
荷物は小さく、腰には刀が一本。こちらへ気づくと、まず俺の顔を見て、それから足元の椀へ目を向けた。
「向こうの道で、怪我人を見た。五人倒れて、一人が残っていたが、事情を尋ねても要領を得ない。飯を買った男がいる、とだけ聞いてきたんだが、お前か」
「ああ、俺だろうな。六人に囲まれたので、五人には少し休んでもらった。残る一人とは無事に取引ができたよ。これが、その時に買った飯だ」
椀を示すと、男は何とも言えない顔をした。
自分でも妙な説明だと思う。
ただ、順番に話せばそうなるのだから仕方がない。男はしばらく俺を見ていたが、やがて川辺へ下りてきた。
「隣へ座ってもいいか。あいつらの仲間ではないから、俺まで休ませる必要はない」
「どうぞ。飯は分けられないが、水ならいくらでもある。それと、あと少しで食えるようになるから、込み入った話なら待ってくれると助かる」
男が腰を下ろす。
その動きには、無駄がなかった。刀を抜くにしても、立ち上がるにしても、不都合のない位置へ座る。無用心に近づいてきたわけではなさそうだった。
俺は椀へ掌を添えた。
力を通すと、水面に細かな泡が浮かぶ。少し待てば湯気が立ち、固まっていた米がほぐれ始めた。
昔はこれがうまくいかず、何度も椀を割った。
火を熾す方が早いと気づいた頃には、意地になっていた。何せ、薪も火種も要らないのだ。覚えておけば便利に違いない。
便利になるまで、随分とかかったが。
「今の力の扱いは、誰に教わった。随分と細かいことをしているが、椀を温めるために覚えたのか」
「初めは、濡れた服を乾かしたかったんだ。火へ近づけすぎると焦げるし、離すといつまでも乾かない。だったら自分で温められないかと思って、色々試した。飯に使うようになったのは、もう少し後だな」
男は椀を覗き込み、湯気を確かめるように手を近づけた。
俺を斬りにきたのでなければ、こういうことに興味のある人間なのだろう。熱すぎないか尋ねられたので、一度指を入れて確かめてみせた。
「独りで覚えたにしては、よく扱えている。刀も長く使っているようだが、どこかに仕えているのか。差し支えなければ、名を聞きたい」
「烏有玄十郎。仕えている相手はいないよ。行く所も決めてない。飯が食えると聞いて、向こうの集落へ行くつもりだったんだが、途中であんな連中に会ってしまった」
「なら、俺と来ないか。師が人に剣を教えている。お前のように、独りで技を身につけた者も何人かいるから、話が合うかもしれない」
悪い誘いではなさそうだった。
長く刀を振っていると、どうしても自分のやり方へ偏る。違う剣を見るのは面白いし、見たことのない技を使われると、こちらでも試したくなる。
問題は、その師がどういう人間かだ。
以前、稽古を見せてくれと頼んだら、いつの間にか弟子を任されたことがあった。教わりに行ったはずなのに、半月も人へ剣を教える羽目になったのである。
あれには参った。
「飯が出るなら考えたい。ただ、俺も結構長く刀を振ってるからな。行って早々、ほかの奴を教えてくれと言われるのは困る。前にそういうことがあって、何をしに行ったのか分からなくなった」
男は、ここで初めて笑った。
「安心しろ、と俺が言っていいかは分からん。師がどう判断するかは、会ってみなければな。ただ、飯の方なら心配しなくていい。お前一人増えて困るような所ではない」
それは何よりだった。
俺は米を一粒摘んで、口へ入れた。ようやく食べられる硬さになっている。腹へ収めてから話を続けようと思ったところで、男が行き先の名を口にした。
「元字塾という。流派の名は元流だ。聞いたことはないか。師の名なら、知っている者も多い」
椀を持ち上げかけて、手が止まった。
どこかで聞いたことがある気がした。
元字塾。
元流。
この辺りを通った時か。もっと遠くの土地だったか。思い出そうとしても、風景が浮かばない。代わりに、妙に馴染みのある文字の並びが、頭の中へ現れた。
「……念のため聞きたいんだが、その師匠、何て名前だ。俺も長くうろついてるから、どこかで会っているかもしれない」
「山本重國だ。会ったことがあるなら、そう簡単には忘れないだろう。剣を合わせた者なら、なおさらだ」
山本重國。
その名前を、頭の中でもう一度繰り返した。
知っている。
会ったことはない。どこかの土地で噂を聞いたわけでもない。それなのに、顔が浮かんだ。声まで思い出せそうだった。
俺はこちらへ来る前、漫画を読んでいた。
好きな作品は何度も読み返した。続きを待ち、技の名前を覚え、あの台詞を一度くらい言ってみたいなどと考えた。
人へ聞かせられる趣味ではないと思っていたが、今の俺なら大抵のことを笑って済ませられる。
済ませられるのだが、これは少し話が違った。
長く生きる人間。
目で追えない動き。
触れもせず、人を吹き飛ばせる力。
そして、死体から拾い、何百年も振り続けたこの刀。
「ちょっと待ってくれ。山本重國って、額に傷のある人か。剣もとんでもなく強いが、怒らせると、それどころでは済まないような……」
「よく知っているじゃないか。会ったことがないという顔をしているが、誰かに話を聞いたのか。まあ、怒らせない方がいいのは確かだな」
俺は椀を地面へ置いた。
こぼしては困ると思った。
五百年かけて覚えたことが、そんな判断にまで染みついている。それが今は、ひどく腹立たしかった。
五百年。
たぶん五百年。
何をしていた、俺。
「……BLEACHの世界かよぉぉぉぉ!」
男が勢いよく立ち上がった。
刀へ手を掛けかけ、どうしたものかといった顔で俺を見ている。
「おい、どうした。どこか痛むのか。それとも、師と何かあったのか。行きたくないというなら無理に連れてはいかんが、もう少し分かるように話してくれ」
「いや、悪い。少し待ってほしい。お前の師匠に恨みがあるわけじゃないし、頭がおかしくなったわけでもない。たぶん、逆だ。今、やっと分かった」
何が分かったのかと聞かれても、うまく説明できる気がしなかった。
俺は両手で顔を覆った。
今まで、変な世界だと思っていた。
そういうものなのだと、納得して暮らしていた。納得できないことも、そのうち気にならなくなった。
違った。
俺は、この世界を知っていた。
刀には、名前がある。
あの力には、学び方がある。
それから、あれも。
顔から手を離し、腰の刀へ目を落とした。
死体から持ち去った時には、身を守れるなら何でもよかった。生き延びるうちに手へ馴染み、ほかの刀では落ち着かなくなった。何度柄を巻き直したか、もう覚えていない。
長い付き合いだった。
俺は鞘へ手を添え、思わず笑ってしまった。
「五百年も世話になっておいて、名前も聞いてなかったとはな。そりゃ、お前も言いたいことくらいあるだろう。悪かったよ。これからは、ちゃんと聞く」
返事はなかった。
それでも、今までとは違って見えた。
男が警戒した顔のまま、俺と刀を見比べている。独りで叫んだかと思えば、今度は刀へ話しかけ始めたのだ。頭はおかしくないと言ったばかりだが、あまり信用されていないだろう。
仕方がない。
こればかりは、少し大目に見てほしかった。
「その塾、連れていってくれ。さっきの話は全部忘れていい。飯が出なくても行くし、何なら掃除くらいはする」
男は困惑しながらも、頷いた。
俺は椀を拾った。飯はすっかり冷めていたが、掌へ力を通す気にはなれなかった。
これも、ひょっとすると鬼道に繋がるものだったのだろうか。服を乾かしたり、飯を温めたりするために、何十年も試してきた。ちゃんと教わっていれば、もう少し早くできたかもしれない。
そんなことを考えながら飯を掻き込んでいると、男が川の上流を指した。
「ここからなら、日が落ちる前には着ける。食い終わったら出よう。師に紹介するのは構わんが、さっきのように急に叫ぶのはやめてくれよ。俺まで妙な奴を拾ってきたと思われる」
「気をつける。できれば今の話も黙っておいてほしい。あれは俺も初めてだったんだ。普段は、もう少し落ち着いてる」
男の顔を見る限り、信用はされていなかった。
空になった椀を川で洗い、荷物へ戻す。刀を差し直して立ち上がると、男が歩き出した。
俺も、その後へ続いた。