形なきものよ その名に宿れ
声なきものよ 何に縋りて此処に在る
宿を出る頃には、通りに朝飯の匂いが漂っていた。軒先で焼いていた餅を二つ買い、一つを口へ入れる。昨夜、ゆめの座敷で飲んだ酒も、こっちの飯の代わりにはならないらしい。腹はいつも通り減っていた。眠っている間に向こうで動いていた俺が何なのかは、ゆめと話しても答えが出なかった。
荷を背負い直し、通りを抜けた。紙の束へ巻いた白い糸は、そのままにしてある。気になることは増えたが、宿へ籠もって考えていても景色は変わらない。川沿いの道を下り、まだ歩いたことのない方へ向かった。
夏の間は山を越え、秋には海へ出た。人の集まるところで飯を食い、宿がなければ木の下で寝る。刀を抜くこともあったが、山本と毎日のように斬り合っていた頃に比べれば、随分と穏やかな旅だった。
冬を迎える前、海辺の村で一晩泊まった。浜へ引き上げた舟が壊されるので、夜は誰も海へ出ないという。昼に見た舟には、底を突き破った大きな穴があった。風や波で開いたものではなさそうだったので、飯を食ってから浜へ下りた。
潮が引き、沖まで岩が露出していた。舟の傍へ荷を置いた時、背後で砂を踏む音がした。振り返ると、岩陰から白い仮面が覗いている。身体は俺より低く、長い腕を砂へ垂らしていた。近くまで来ていたのに、
爪が伸びてくる。左手で手首を掴み、身体を横へずらした。空いた右手で刀を抜くと、虚は腕を引き戻そうとした。俺は手を離さず、そのまま仮面を斬った。
膝をついた身体が砂へ倒れ、消えていく。刀を収めながら、虚が出てきた岩へ目を向けた。
「ゆめ。あいつ、近づいてくるのは分かったか」
「姿を見せる少し前には」
「俺も、そのくらいだ。上手く隠してたな」
岩陰へ回った。向こう側には海藻が溜まり、砂の上に長い腕を引きずった跡が残っていた。跡は浜の奥まで続いている。今夜、たまたまここへ出てきたわけでもなさそうだった。
俺も人の多いところでは霊圧を抑えている。そうしなければ、飯を食っているだけで隣の客が倒れかねない。抑えたからといって力を失うわけではなく、必要になればすぐ使える。あの虚も、似たことをしていたのだろう。
「姿はそこにあるのに、力は感じにくくなるんだよな」
岩へ手を置いた。虚が隠れていた場所も、俺の手も、霊子でできている。けれど普段、俺が遠くから探しているのは霊圧だった。岩の向こうに何かいると分かることと、岩そのものを感じ取ることは違う。
「霊圧を探すのには慣れたけど、霊子そのものを見てたわけじゃないのか」
掌を離し、浜を見渡した。砂も岩も海も、夜目にはよく見える。それを構成しているものを、一つずつ捉えたことはなかった。
山本の塾で、初めて鬼道の詠唱を聞いた日のことを思い出した。使えているから知っているつもりでいたが、言葉を添えるだけで術は変わった。今度も、長く使ってきた感覚だけで済ませていたところがあるらしい。
「まず、霊子をちゃんと捉えられるようになりたいな」
「岩の向こうまで?」
「できればな。隠れてる奴を探すたび、全部ひっくり返すわけにもいかないだろ」
舟の傍へ戻り、荷を拾った。宿へ帰る前に、岩陰をもう一度見た。虚の気配がなくなった今も、そこには昼と同じ岩が残っていた。
村を出てからも、霊圧を感じないものへ意識を向けるようにした。歩きながら足元の土を、休む時には背を預けた木を。初めのうちは、目を閉じれば何も分からなかった。木の幹へ触れているから位置が分かるだけで、手を離せば周りの木と区別できない。
そのくせ、自分で作った
糸へ込めた自分の力を探せば、今まで通りだった。だから、分かっている糸を指で摘まみ、その形を保っている霊子の方へ意識を向ける。力を増やしても糸は太くできるし、太さを変えずに強くすることもできる。普段はまとめて扱っていた二つを、別々に確かめようとした。
すぐには上手くいかなかった。何かを掴めた気になっても、次の日には同じことができない。山を一つ越える間に変わらないこともあった。それでも旅を続けていると、糸の気配が薄くなった後に、細い形だけが残っていると感じる時があった。
確かめるために手を伸ばすと、そこに糸がある。反対に、残っていると思った場所で指が空を掴むこともあった。外れるうちは、当たった時だけ喜んでも仕方がない。
幾度か冬を越した頃には、足元の石を拾う前に、砂との境目を捉えられるようになっていた。
「随分、時間かかったな」
河原へ腰を下ろし、拾った石を掌で転がした。目を閉じても、指に触れていない側の輪郭まで分かる。手から離して隣へ置くと、感覚は薄れたが、なくなりはしなかった。
「前は、自分の力をつけないと分からなかったんだよな」
「今は、その石にもお前様の力を?」
「いや。何もしてない」
答えてから、もう一度確かめた。石を動かそうとも、包もうともしていない。自分の力が届いている場所を探すのをやめ、石の方へ意識を向けていた。
拾った石だけでは心許なかったので、少し離れたところへ手を伸ばした。丸い石の隣に、欠けた石がある。目を開けると、見えたものは感じた通りだった。
「……これなら、消した糸も追えるかもしれない」
指先から白い糸を伸ばした。膝の上へ垂らし、力を感じているところと、霊子のまとまりを捉えているところを確かめる。それから糸を消した。
白い形が崩れた。いつもなら、そこで手を下ろしていた。今度は意識を向け続けた。糸だったものが細かく散り、膝の上から周りへ広がっていく。やがて大気中の霊子と入り混じり、どれが糸を作っていたものなのか分からなくなった。
同じことをもう一度した。今度は糸を長くしたが、消した後に起きることは変わらなかった。
「なくなったわけじゃなかったのか」
掌を開いたまま、散っていった辺りを見た。
「お前様には、見えなんしたか」
「途中まではな。周りと混ざったら、もう追えない」
霊子が消えたのではなく、糸の形で集まっていたものが散った。少なくとも、今見た二本についてはそう言えそうだった。では、作る時はどうだったのか。自分の掌から出ているつもりでいたが、そこへ周りの霊子が集まってきていた可能性もある。
もう一度作ろうとして、手を止めた。消えるところが分かったからといって、作るところまで分かったことにはならない。
「ゆめ。今日はもう少し、ここにいる」
「日が暮れるまで?」
「腹が減るまでかな」
荷から紙を出した。川の音を聞きながら、糸が散っていった様子を書き足す。何年も前に書いた「消した後、どこへ行く」の横へ、ようやく続きを書けた。
糸を作る時、掌の周りの霊子がどう動くかを見た。指先へ力を集めると、それに引かれるように周囲の霊子が寄ってくる。白い糸が伸びていく間も、その流れは続いていた。手を止めれば糸は伸びなくなるが、集まった霊子まで散るわけではない。
「……周りからも集めてたのか」
掌から出ている力ばかり感じていた頃には、分からなかったことだった。身体の中から何もかも出しているつもりでいたが、糸を構成するものには大気中の霊子も使っている。
試しに、集まってくる方を止めようとした。普段なら一息で伸びる糸が、指の先で短く途切れた。さらに力を込めると、その周りからまた霊子が寄ってくる。力を出すことと、周囲へ働き掛けることを、今まで一緒にやっていたらしい。
何度か繰り返したところで、手を下ろした。上手く分けられないまま力を増やしても、同じことを強くするだけだった。
「ゆめ。
「その名は、お前様から聞いたことがありんす」
「外の霊子を集めて、弓とか矢を作る連中なんだけどさ。俺も糸を作る時、外から集めてた」
ゆめは刀の中で少し黙った。俺は指先に残った糸を、反対の手で引いた。白い糸は張り、細くても切れなかった。
「じゃあ、俺の術と何が違うんだろうな」
前世で読んだ時には、死神は自分の力を使い、滅却師は周囲の霊子を使う、と覚えていた。今もその違いはあるのだろう。けれど、自分の力を使うことと、外にある霊子を使うことは、両方できていた。
思い出そうとすると、弓を引く石田の姿が浮かんだ。その周りで建物が崩れ、霊子となって集まってくる。あれは、ただ大気中を漂っているものだけではなかった。
河原の石へ目を向けた。糸を作る間も、石は石のままだった。周りから霊子が集まってきても、その形が崩れることはない。
「集めるだけなら、俺もやってる。でも、あいつは建物まで持っていったんだよな」
「石を砕いて、お使いになるので?」
「いや。砕いてから拾うんじゃなくて、形を保ってるものを霊子に戻してた。確か、そうだった」
細部までは覚えていなかった。それでも、壁や足場がほどけるように崩れていった光景は記憶に残っている。戦いながら周囲を取り込み、力にしていた。何百年も前に格好いいと思った場面が、今は別の理由で気になった。
俺の白縫は、力を解けば散る。石は手を離しても石だった。その違いを知らないままでは、石を砕いたところで小石が増えるだけだろう。
「ゆめ。この糸、俺の力を抜いたらどうなると思う?」
「先ほどのように、散るのでは」
「だよな。形を残したまま抜けるか、やってみたいんだけど」
いきなり全部解かず、少しずつ力を引いた。糸は細くなる前に緩み、張っていたところが垂れた。それでも白い形は残っている。もう少し引くと、摘まんでいた指の間から糸が崩れた。
集めた霊子が散っていく。俺はその流れを追いながら、石へ置いていたもう片方の手を握った。こちらは握ったくらいでは形を変えない。
「糸を作る時、霊子を集めてるだけじゃないんだな。集めた後も、俺の力で形を保たせてる」
石の中にも、同じように形を保つ働きがあるのだろうか。そう考えて意識を向けたが、自分の糸ほどはっきりしたものは捉えられなかった。
日が傾き、川面が眩しくなった。俺は紙を荷へ戻し立ち上がった。次の町まではまだ歩く。道端に転がる石を一つ拾い、掌で転がしながら河原を離れた。
街道へ上がってからも、指の間で石を転がしていた。糸なら白く細く伸ばす。相手へ巻きつけ動きを止める。その形と使い方を、俺は作る前から決めている。ただ霊子を集めただけでは白縫にはならない。
そこで、山本の言葉を思い出した。何を縛るか。何を貫くか。言葉が呼ぶものと術が違っていては意味がない。
「ゆめ。先生に詠唱を教わった時のこと、覚えてるか」
「お前様が、岩壁に穴を開けていた時でありんすか」
「ああ。飯の献立でも唱えれば強くなるのか、なんて言ってた頃だ」
あの日、山本は同じ霊圧で二度、
「赤火砲って、力を込めるだけじゃ出ないよな。炎にして、まとめて、狙った方へ撃つ。そこまでやって、初めてあの術になる」
山本に教わった言葉を、声に出さず辿った。赤火砲を使うつもりで思い浮かべれば、掌へ力を集めたくなる。長く使ってきた術ほど、次に何をするか迷わない。言葉を覚えているだけではなく、唱えながら力をどう動かすかまで覚えていた。
「詠唱が、力に形と働きを与えてるんじゃないか。炎になれ、それを放てっていう具合にさ」
「お唱えにならなくとも、炎はお作りになりんす」
「そう。俺が自分でやれば作れる。言葉でも同じことをさせられるなら、両方使った時に差が出るのも分かる気がする」
まだ考えたばかりの話だった。それでも、ただ威力が増すと言うより、今まで見てきたものに合っていた。霊力を込める量が同じでも、どんな形で、どう働かせるかによって結果は変わる。
山本から赤火砲を習った頃、詠唱を省くと炎がまとまらないことがあった。撃つ前に広がったり、飛ばした途中で崩れたりする。火を起こすことはできても、教わった術を同じように放てるとは限らなかった。
「最初は、長い詠唱を辿って術を作る。それを何度もやるうちに、名前だけで同じことを呼び起こせるようになるのかもしれないな」
「名へ、詠唱が収まると?」
「そんな感じだ。赤火砲って言えば、ただ赤い火を思い浮かべるんじゃない。俺には、あの術を使うまでのやり方がついてくる」
だから名前を知っているだけの者と、使い続けた者では、同じ言葉を口にしても違う。省いた部分を自分で補えなければ、術は不十分になる。慣れた今も完全詠唱で威力が上がるのなら、短い名では働かせきれていないものもあるのだろう。
白縫は逆だった。先に使い方を覚え、後から名前をつけた。名前を呼ぶ頃には、既に何百年分もの使い方が俺の中にあった。さらに詠唱をつけると術が強くなったのも、言葉がその働きを支えているのだとすれば繋がる。
「先生、最初から随分大事なことを教えてくれてたんだな」
石を持った手を下ろした。山本の下で百年学んだ。教わったことは使えるようになったつもりでいたが、旅へ出てから分かることもあるらしい。
「お戻りになったら、お話しになりんすか」
「ああ。もう少し分かってからな。今のままじゃ、思いついた話を聞かせに帰るだけになる」
街道の先に、家々の屋根が見えてきた。夕飯には間に合いそうだった。俺は石を懐へ入れ、坂を下りながら、覚えている鬼道の詠唱を一つずつ辿った。