深き傷にも 春は巡り
伏せたる刃に 夜は残る
烈の前へ座ると、つい昔の癖で刀を遠ざけてしまう。
傷が治ったと思った途端に、もう一度と誘われたことが何度もあった。こちらの刀が手の届くところにあれば、断る前に渡される。俺も嫌いではなかったから結局付き合うのだけど、せめて一息つく暇くらいは欲しかったなぁ。
今は隣に夕月も座っている。俺の腕を見終えた烈がそちらへ手を伸ばすと、あいつまで素直に袖を上げた。
「傷はありません。どちらも、お変わりなく」
「うん。ありがとうねぇ」
刀を腰へ戻そうとして、その手が止まった。
俺の代わりに座った隊士が、烈へ腕を出している。昼に榛名の組で怪我をした子だ。手を当てられ、少しずつ肩の力が抜けていく。烈は男の顔を見てから、巻かれた布を解いた。
馴染んだ光景だった。
俺も部下を連れて何度ここへ来ただろう。今では烈に任せておけばいいと、怪我をした奴へ真っ先に言っている。
それなのに、さっき思い出したのは斬り合いの続きだ。
この人が自分から誘ってくることは、随分と長くなかった。百八十年前、俺を止めるためには刀を抜いた。あの刃は覚えている。けれど、旅から帰った俺へ何を覚えたのかと尋ね、そのまま庭へ連れ出した頃とは違う。
「烈。お前さん、最近は斬り合おうって言わなくなったねぇ」
手当ての邪魔にならないよう、男の指が動くのを待って声を掛けた。烈は顔を上げ、隣の四番隊の者へ布を渡す。
「お望みでしたか」
「いや。昔は顔を見たら言ってたなと思ってさ。俺が旅の話をしてても、刀の方を見てたじゃないか」
夕月がこちらを向いた。
「卯ノ花隊長がか」
「そうだよ。傷を治してくれた後もね。もう動くでしょうって」
「途中で終わってしまうのは、惜しかったものですから」
烈が笑った。
夕月は笑わなかった。俺と烈の顔を見比べている。ああ、お前さんは知らないのか。こいつが知っている烈は、怪我をした者を座らせてくれる四番隊の隊長だ。
「治してから、また斬っていたのか」
「ええ。そのために回道を覚えましたので」
夕月の目が烈の手へ落ちる。さっき自分の腕を預けていたところだ。今更引っ込めるものもないのに、少しだけ袖を直した。
「初代剣八だったとは知っている。だが、そこまでとは」
「結構、付き合ってもらったよ。俺が治す暇をくれるから、楽だったって言われたこともある」
「烏有隊長には、長くお付き合いいただきました」
そう言われると、俺まで手が止まる。
烈はまだ隊士の腕を見ていた。指を開くよう頼み、傷へ触れる。男は俺たちの話を聞いていたらしく、目が合うと慌てて自分の手元へ戻した。
「今はもう、その先を頼まれる心配はないよ」
俺が言うと、烈に少し笑われた。
手当てを終えた男は四番隊の者に連れられ、座る場所を移った。烈が盆を脇へ置くと、夕月が膝へ手をついて少し身を寄せる。
「何があったんだ。剣八を退くほどのことが」
俺も烈を見る。
いつの間にか十一番隊ではなくなり、八千流と呼ぶと烈にしてほしいと言われた。旅へ出る前に話してくれればよかったのにと、その時は思ったものだ。
けれど、俺が留守の間も皆は生きている。
帰るたびに少し違う顔が増えることを、長いこと忘れていたんだねぇ。
「昔、流魂街で出会った子供がおりまして」
烈の指が胸元へ触れた。
夕月の目がそこへ向く。俺も知っている傷だった。誰につけられたのかは、今まで聞かずにいた。
「その子との斬り合いで、私は自分の剣を知りました」
*
side:卯ノ花
刀を抜かずに帰った日は、物足りないものでした。
隊の用事を済ませ、報告を聞き、明日の人員を決める。必要なことだとは分かっていても、腰へ差したものを一度も使わなければ、まだ何か残っているような気がします。
相手がいなければ、探しに行きました。
流魂街へ出ると、私の名を知っている者ほど遠くへ逃げます。知らない者は刀を向けてくれますが、二度目を振る前に倒れてしまうことが多い。もう少し待っていれば腕の立つ者が来るでしょうか。そう思っている間にも、足元の血は乾いていきました。
その日も、初めの一人はすぐに倒れました。
後ろにいた男が刀を握り直します。逃げるつもりはないらしい。私は嬉しくなって、立つ場所を少し空けて差し上げました。
「こちらへ。足元が悪くなってしまいましたので」
男の顔が歪みます。
踏み込んでくれた刀を受け、こちらも返しました。腕を深く斬られた男は膝をつき、それでも柄を離しません。まだ続けたいのでしたら、こちらも手を貸せます。
傷へ手を当てると、男は身を引きました。
「おやめください。治すところまで動かれては困ります」
「何を……」
「次は、もう少し長くお付き合いいただければ」
傷が塞がった男の顔を見て、私は立ち上がりました。
ようやく意味が伝わったのでしょう。男は刀を持ったまま逃げ出しました。
追いました。
背へ刃を通した時には、もうつまらなくなっていました。向き直って振ってくだされば、まだ何か違うものが見られたかもしれませんのに。
私は刀を払い、次を探しました。
あの子に会うまで、そういう日が続いていました。
*
死体の上へ立つ子供を見つけた時も、初めは刀を見ていました。
随分と長いものを持っています。自分に合った刀を選べなかったのでしょう。ですが、使いにくそうにはしていませんでした。こちらを見つけると、それを持った腕が上がります。
部下が前へ出ようとしました。
私は手で止め、自分から近づきました。この子を先に誰かへ渡すのは惜しい。そう思った時には、もう笑っていたのだと思います。
あの子は、挨拶を待ちませんでした。
私が刀を出すより速く、胸へ切っ先が届きます。痛みが来る。その痛みを確かめる前に、次の刃がこちらへ入ってきました。
受ける腕へ力が入りました。
まだ続く。
押し返すと、あの子はもっと深く踏み込んできます。こちらの刀を避けるために下がるのではなく、身体を寄せて通り抜ける。肩へ刃が近づき、私も腰を捻りました。
楽しかった。
この子は、私が返す刀を待ってくださいます。待つと言っても止まるわけではありません。次が来ることを疑わず、その先へ自分の剣を入れてくるのです。
私は追いました。
胸の傷を治す暇も要りませんでした。その間に一度でも刀を合わせ損ねたら、きっと惜しくなる。血が流れていても、腕はまだ動きます。
あの子が笑います。
私も同じ顔をしていたでしょう。
けれど、途中から刃が届くようになりました。
初めには触れられなかった腕へ、私の刀が入ります。避ける足が遅れ、こちらが追うとまた離れる。その後に来る刀は、私が受けられるところを通りました。
もっと近くへ来ていたはずなのに。
あの子の足が止まります。
その一歩が出ていれば、私の刀は間に合いませんでした。あの子も、それを知っていたはずです。いえ、知っているから止まったのでしょう。
私を斬り終えてしまえば、続きがなくなる。
あの子はまだ笑っていました。
私と同じように、ようやく会えた相手を失いたくなかったのです。
私は刀を振り続けました。
もっと速いものを返してほしくて。先ほどまでのように来てほしくて。それなのに、こちらの剣へ合わせる手つきが増えていきます。
戦いが終わった時、立っていたのは私でした。
部下は私を剣八と呼びました。
その声に、私は返事ができませんでした。
*
総隊長の前へ出た時、傷はまだ痛みました。
それまでなら、会う前に治していたでしょう。けれど、手を当てるたびにあの子の刀を思い出し、そこで止まります。
私が足りなかった。
それを、この身体が忘れてしまうのは嫌でした。
「十一番隊を退きたく存じます」
総隊長は長くこちらを見ていました。
理由を聞かれ、子供と斬り合ったことを話しました。私を上回る剣を持ちながら、続きを求めるために力を抑えてしまったことも。
口にすると、ようやく傷以外のところまで痛みました。
私はその子に譲らせたまま、剣八と呼ばれている。
「その子供は、どうした」
「流魂街に。こちらへ連れてはおりません」
「お前を斬らなんだ相手に、名を渡すつもりか」
「今すぐ渡せるとは思っておりません」
総隊長の杖へ目を落としました。
連れてくればよかったのでしょうか。もう一度戦えばよかったのでしょうか。考えはしました。それでも、同じ私が同じように刀を向けたら、またあの子に合わせてもらうことになる。
「ですが、私があの子より強いと、もう思うことはできません」
総隊長は何も仰いませんでした。
私も顔を上げ、返事を待ちました。こうして待つことは得意ではありません。斬り合いなら、相手が黙っていてもこちらから続けられます。
ですが、この日ばかりは手を伸ばせませんでした。
「退いた後は、何をする」
ようやく問われ、私は自分の手を見ました。
刀を持たずに、何ができるでしょう。
回道は使えます。自分も、斬った相手も治してきました。その後に刀を握らせないと決めれば、治療だけを続けることもできるはずです。
「四番隊へ移ることを、お許しいただけますか」
「戦いを続けるために覚えたものを、使うのか」
「ええ。使えるものは、それですので」
立派な理由はありませんでした。
急に人を救いたくなったとも、もう血を見たくないとも思っていません。斬り合いは今でも好きです。あの子と戦った時の悦びを、なかったことにもできません。
ただ、私の剣を誇って人を呼び止めることが、もうできなかった。
総隊長が目を閉じました。
「引き継ぐものは、残していけ。お前が知っておる剣まで持ち去るな」
「承知いたしました」
それから、新しい隊へ移るまでの用事が始まりました。
刀の振り方を尋ねられれば教えました。自分の腕を取り、今の一振りをもう一度と言う者にも付き合いました。
皆、私を八千流と呼びました。
その名も、置いていこうと思いました。
*
烏有隊長が戻ってきた時には、私は四番隊にいました。
どこで聞いたのか、真っ直ぐこちらへ来られます。病室へ顔を入れ、私の後ろに並ぶ寝床を見て、少し珍しそうな顔をされました。
「八千流。こっちへ来てたんだねぇ」
「ええ。それと、烈とお呼びください」
あの方の目が私へ戻りました。
「烈?」
「私の名です」
「名前も変えたの?」
「元の名へ戻しただけですよ。八千流は、私が自分で名乗ったものですので」
烏有隊長はしばらく黙っていました。
驚いたのでしょう。長い間、昔の名で呼んでくださった方です。私もその声を聞くと、刀を見せ合っていた頃の顔へ戻りそうになります。
「そっか。知らなかったよ。お前さん、初めから八千流って名乗ってたから」
そうでしたね。
あの時は気に入っていたのです。あらゆる流派を知り、どのような剣にも応えられる。その自負を、自分の名にまでしていました。
烏有隊長は刀を振る時、私の名前の由来など気にされませんでした。
その剣がどこへ来るかを見て、御自分の刀を返す。こちらが次を求めれば、付き合ってくださる。今も腰には同じ刀がありました。
「烈、でいいんだねぇ」
「はい」
呼ばれてみると、少し久しぶりでした。
その響きに慣れる前に、寝床から声がしました。私はそちらへ寄り、起きようとしていた男の肩へ手を添えます。
「まだ、お休みください」
男の身体が強張りました。
傷へ触れるより先に、こちらの手を避けようとします。私を知っている顔でした。
以前、刀を合わせた者だったのです。
私が治してから、もう一度斬った者でもありました。
烏有隊長が、後ろで立ち止まります。
私は男へ伸ばした手を引き、自分の膝へ置きました。
「刀は使いません。今日は、傷を診るだけです」
男は私の腰を見ました。
まだ信じてはいただけませんでした。自分が以前何をしたかを考えれば、言葉だけで済むはずもありません。
私は待ちました。
男が袖を緩めるまで。布を外してよいと言ってくださるまで。
その間、烏有隊長は傍へ椅子を持ってきて、座っていました。
何も急かしませんでした。
*
夕月は烈の話を聞き終えてからも、暫く口を開かなかった。
俺も四番隊へ初めて顔を出した日のことを思い出していた。烈と呼んでほしいと言われたのは覚えている。けれど、あの時は元の名を教えてもらったことより、この人が剣八を退いた方へ気が向いていた。
飯を食いながらでも聞けばよかったんだよ。
どうしてその名前にしたのか。これから何をするのか。いつもの旅の話を始める前に、もう少し話せることがあった。
「元から烈だったのか」
夕月がようやく尋ねた。
烈が頷くと、あいつは少しだけ背を伸ばした。
「俺が入った時には、もう四番隊の隊長だった。初代剣八の名は聞いていたが、今の姿とどうにも結びつかなかった」
「そうでしょうね。こちらへ移ってからは、あまり抜くこともありませんでしたので」
「話し方まで違っていたのかと思っていた」
「いや。そこは昔からだよ」
俺が言うと、夕月の顔がこちらへ向く。
「同じように笑って、同じように丁寧に付き合ってほしいって言うんだよ。その時にはもう刀を抜いてる」
「お誘いする時くらいは、礼を尽くさなければ」
「お前さん、その後は結構好きに斬ってたけどねぇ」
烈が笑った。
夕月はその顔を見て、ようやく少し口元を緩める。知らない頃の話を聞いてからだと、今の笑い方まで違って見えるのかもしれない。
「その子供には、また会ったのか」
「いいえ」
「探さなかったのか」
烈の指が膝の上で重なった。
「会えば、また斬り合いたくなったでしょう。ですが、あの時の私では同じことを繰り返します。それでは、あの子へ返せるものがありません」
夕月が頷いた。
俺は烈の刀へ目を向ける。剣を鈍らせて待っているわけではない。そのことは、あの暴走を止めた時に自分の身体で知っていた。
今、ここへ来ている隊士たちは、俺が人を斬れと命じた奴らだ。
その腕を烈が治してくれている。昔この人が回道を覚えた時には、こんなふうに頼むことになるとは思わなかったねぇ。俺だって、手当てを見て眠くなるのは自分の傷が塞がった後だけだった。
「烈。こいつらのこと、ありがとう」
こちらへ顔が向く。
改めて礼を言われるとは思わなかったのだろう。少し不思議そうだったが、後ろの隊士たちを見て頷いてくれた。
「戻られてからも、傷を隠さずに診せてくださいとお伝えを」
「うん。俺も連れていくよ。お前さんの前なら、ちゃんと痛いって言うからさ」
佐伯が近づいてきた。
交代の隊が着いたので帰還してよいと告げられ、俺たちも立ち上がる。怪我人を運ぶ者が呼ばれ、四番隊の子がそちらへついた。夕月は二番隊へ戻るらしく、道へ出る前に烈を振り返った。
「卯ノ花隊長。いずれ、剣の話も伺っていいか」
「ええ。お尋ねいただければ」
「今度、俺も呼んでよ。夕月がどんな顔で聞くか見たいからねぇ」
「お前は見ているだけで済ませろ」
夕月が先に歩く。
俺も続きながら烈へ手を上げた。もう次の怪我人へ声を掛けている。相手が怖がって手を引くこともなく、差し出された腕がその膝へ乗った。
烈。
元の名前だと聞いた時には、すぐに馴染まなかった。
今はもう、こちらが呼ぶより先にその名が出てくる。手当てを待つ隊士の声に、四番隊の子が返事をしていた。
次に訪ねた時は、俺も旅の話ばかりしないでおこう。
覚えた剣のことも、まだ聞いてもらえるだろう。