授かりし手に 歳は積もり
差し出す手にも 道は伸びる
佐伯の刀が、俺の袖を掠めた。
避けたところへ、もう一度踏み込んでくる。昨日、平子に袖を取られた辺りから少し変わったらしい。空いた手まで見ているので、俺も掴むのはやめて刀だけで受けた。
刃が鳴る。
佐伯の腕が下がる前に押し返すと、今度は足が引かれた。戻ったところへ追えば、脇から白縫が伸びてくる。
そこまで用意してきたか。
糸を跨いで肩へ触れる。佐伯はすぐに刀を引き、俺との間へ戻した。首元まで寄せれば止まるつもりだったけれど、その手が続いたので、こちらも一度離れる。
「今の、よかったよ」
「まだ肩へ触れられております」
「うん。でも、そこで全部止まらなかった」
佐伯は俺の手を見た。
自分が斬られたことばかり気にしている。稽古の時からそうやって覚えてくれるのは助かるけれど、俺と同じ速さになるまで駄目だと思われては、こっちも何を褒めればいいか困るねぇ。
「お前さん、昨日より少し近くへ来たよ。まずはそこを覚えといて」
「承知しました」
「じゃあ、もう一度。今度は糸を張った後、俺の顔ばっかり見ないでね」
佐伯が構え直す。
付き合い始めた頃は、刀を握るところから直したものだ。今では足を取る鬼道まで、自分で斬り合いへ入れてくる。あいつが考えたところへ俺も付き合っていると、朝の短い時間ではどうにも足りなかった。
門へ出る刻限を告げられ、二人で刀を納める。
佐伯はまだ庭を見ていた。白縫を張ったところへ足を置き、こちらへ踏み込んだ距離を確かめている。
今日は俺が先に呼ばれる日だ。
「続きは帰ってからねぇ」
「はい。ありがとうございました」
頭を下げる顔を見ながら、俺はもう少し長い続きを考えていた。
*
隊首会へ向かう前に、槇島と榛名を呼んだ。
机へ来た二人が紙の方を見る。いつもなら次の巡回か、人員の相談だ。今日はまだ何も広げていないので、こちらが座るまで立って待っていた。
「座って。ちょっと先の話なんだけどねぇ」
俺も向かいへ腰を下ろす。
どこから言おうかと考えたけれど、二人ともこちらの顔を見ている。先に旅先の話をしたら、結局何日留守にするのかと聞かれるだろう。
「佐伯を連れて、暫く隊を離れようと思ってる。先生の許しは、これからもらうつもり」
「副隊長も御一緒にですか」
槇島の目が少し動いた。
榛名も同じ顔をしている。俺だけならいつものことだが、佐伯までいなくなる話は初めてだった。
「うん。本気で修行に付き合ってみたくなってさ。その間、隊はお前さんたち二人に任せたい」
「どの程度の期間をお考えでしょう」
榛名が尋ねる。
「五十年くらい」
二人とも黙った。
短く言ったつもりはないよ。俺もそのくらいの時間を使おうと思っている。ただ、聞く方には急だったねぇ。
槇島が先に息を吐いた。
「巡回の指揮と、隊内の取り纏めを分けることになるかと存じます。鷺坂と伏見にも、今より任せるものが増えます」
「うん。いきなり全部置いていくつもりはないよ。出るまでに皆で決めよう」
「隊長も副隊長もおられない間、他隊への応援要請は」
榛名の言葉を聞いて頷く。
留守を守れるかと聞かれて、二人とも気合いだけで返さない。何が足りなくなるかを先に考えてくれている。
「そこも先生に頼む。お前さんたちだけで何でも止めろ、とは言わないからねぇ。必要な時には、ちゃんと呼んでほしい」
槇島が榛名を見る。
榛名は少し考え、こちらへ顔を戻した。
「お預かりします。ただ、引き継ぎに時間をいただけますか」
「もちろん。槇島も、それでいい?」
「はい。副隊長が戻られた時に、困らせぬよう整えておきます」
佐伯の方なんだねぇ。
俺が笑うと、槇島も少し口元を緩めた。
「隊長にも、御報告はいたします」
「うん。帰ってきたら聞かせて。二人とも、ありがとうねぇ」
立ち上がる頃には、二人の間で話が始まっていた。
今の当番をどう分けるか、誰へ何を覚えてもらうか。こちらが五十年と言っただけで、もう最初の用事を見つけている。
俺も先生のところで、ちゃんと頼んでこなければね。
*
隊首会の部屋へ入ると、京楽に手を上げられた。
「お帰り。十番隊は皆戻れた?」
「うん。まだ四番隊に診てもらってる子はいるけどね」
「それならよかった。こっちも二人、もう少し掛かりそうだよ」
京楽の頬には小さく布が貼られていた。
笠に隠れていた傷だ。俺がそこへ目を向けると、あちらは先に卯ノ花隊長に診てもらったと言う。
「言われる前に行ったの?」
「君が言ったことは、ちゃんと覚えているよ」
こちらまで覚えてくれていたか。
浮竹も隣へ来て、自分の隊の者は戻ったと話してくれた。俺たちが川沿いを進んでいた間、あちらは別の集落を回っていたらしい。
「弓を下ろす者もいた。家の中へ入ったまま出てこない者には、時間が掛かったが」
「そっか。こっちも、最後まで中にいたよ」
「まだ残っている家は、交代した組へ伝えてある。これから確かめるところもあるだろうな」
浮竹の声が少し落ちる。
俺も、山の小屋で箱へ座っていた男を思い出した。歩けないと聞いて車を直したところまでは覚えている。あの後は四番隊に任せた。自分が見ていた道の先にも、同じような用事が幾つもあったのだろう。
先生が入ってきた。
皆が立つ場所へ戻り、話し声が止まる。俺も持ってきた紙を開いた。佐伯の字は相変わらず綺麗だ。朝に刀を振った同じ手で書いたものなのに、こちらは俺より余程落ち着いている。
「各方面の報告は、届いておる」
先生が皆を見渡す。
抵抗を続けていた集団の討伐、弓を下ろした者の拘束、戻ってきた隊士の数。その声を聞きながら、俺は自分の紙へ目を落とした。
数字の横に、負傷した二人の名前がある。
昨日は飯を食っていた。今日も四番隊の子が顔を見に来る。先生の声で同じ数が読まれても、俺にはどうしてもその顔が先に出てくる。
「大規模な掃討は、これにて終える」
紙を持つ手が少し緩んだ。
隣で夕月も顔を上げる。先生はまだ話を続けていた。残った場所の確認と、捕らえた者の監視。それは二番隊と六番隊を中心に組み直すという。
「今ある名簿は、各隊から渡せ。引き継ぐまで、所在を曖昧にするでない」
「承知しました」
銀嶺が答える。
夕月も頷き、拘束した者がいる場所を伝えた。山の小屋で捕らえた者たちも、あちらの組へ渡してある。俺の方は川沿いの分だ。佐伯が残した記録をそのまま渡せると伝えると、銀嶺から受け取ろうと言われた。
現世での巡回には、八番隊と十三番隊が交代で人を出す。
四番隊は治療を続ける。歩けるようになったからすぐ任務へ戻すつもりの者は、先に相談するよう烈から言われた。あれを聞いて何か言いかけた隊長もいたが、烈の顔が向くと返事だけになった。
俺も朝の佐伯との稽古を思い出す。
怪我をした子は庭へ呼んでいないよ。そこはちゃんと待てるようになった。
幾つかの確認が済み、先生が杖を鳴らす。
「後始末は、今定めた組で進めよ。ほかの隊は、通常の任へ戻る。動かす人員に変更があれば、一番隊へ知らせよ」
皆が答えた。
俺も紙を畳む。
ここへ来る時には、掃討の報告を済ませるつもりだった。その先の話まで持ってきたことを、先生へ言わなければならない。
*
皆が部屋を出る中、俺はそのまま残った。
京楽が戸口から振り返る。
「何かあるの?」
「先生に頼み事。お前さんたちとの話は、後でいいかな」
「もちろん。じゃあ、浮竹のところで待ってるよ」
返事をして先生へ顔を戻す。
既にこちらを見ていた。俺が残れば、何か言い出すくらいは分かるだろう。旅へ出る時にも何度かこうして許しをもらったけれど、今日は連れていく相手がいる。
「先生。佐伯を連れて、五十年くらい帰らないつもりなんだよ」
眉が動いた。
「帰らんと決めてから、儂へ言うか」
「そのつもりで、許してもらいに来たんだって」
「今度は副隊長まで連れ出すのか」
「うん。あいつを、本気で育ててみたい」
先生が紙を脇へ置く。
そちらの手が空いてから、俺も少し近くへ座った。立ったままでは、こちらがもう出掛ける支度をしているみたいだからねぇ。
「佐伯には素質があるよ。俺がいない間に卍解まで辿り着いて、隊もちゃんと預かってくれた。今朝、刀を合わせてても、まだ教えたいことが増えるんだ」
「隊で教えられぬのか」
「できることはやってる。でも、今度はあいつの修行だけに付き合いたいんだよ。隊の用事が入れば、佐伯はそっちへ手を伸ばすからさ」
俺が呼ぶより先に戸口へ向く顔を思い出す。
それが助かる日も多かった。だから今度は、こちらから連れ出してやりたい。目の前の一太刀が分からないなら、分かるまで同じ場所にいてもいい。
「留守は誰に任せる」
「槇島と榛名。二人には話してきた。引き継ぐ時間が欲しいって言われたから、出る前に皆で決めるよ」
「二人とも引き受けたか」
「うん。ただ、手が足りない時には他隊を頼れるようにしてほしい。俺と佐伯の代わりを、全部あいつらだけでやらせるつもりはないからねぇ」
先生が顎へ手を当てる。
すぐに頷いてはくれない。こちらも五十年と言った以上、途中で帰ってくれば済むような顔はできなかった。
「それで、どこまで育てるつもりじゃ」
「そこらの隊長格には負けないくらい。長次郎にも勝てるようになってもらいたいねぇ」
先生の目が細くなった。
長次郎の名を出したせいだろうか。あの人のことを軽く言ったつもりはない。だからこそ、目標にしてみたいのだ。
「佐伯なら、そこまで行けると思ってるよ。俺がまたふらっと出掛けても、何があっても大丈夫だって、安心して任せられるくらいにさ。先生も、その方がいいでしょう?」
先生はまだ答えなかった。
俺は膝へ手を置き、もう一度言った。
「本気で育て上げてくる。今度は俺が、あいつに付き合う番だと思うんだよ」
少しして、先生が口を開いた。
「厳十斎の真似事か」
爺さんの名を聞くと、顔が浮かんだ。
あの庭へ立ち、こちらの刀を待っていた。俺が何度同じところで転んでも、もう一度と頼めば付き合ってくれる。教えてもらう方は次の一振りに夢中で、爺さんがどれほど長くこちらを見ていたかまでは考えなかった。
今の佐伯を見ていると、あの時の俺まで少し分かる。
できたと思ったところへ次が来る。まだ先があると見せられたら、刀を納めるのが惜しくなる。
俺は、随分と付き合ってもらったんだねぇ。
「そうかもしれない。俺も爺さんに、長いこと教えてもらったからさ」
先生が俺を見る。
こちらから爺さんの話をしても、何も慰めるようなことは言わなかった。ただ、膝に置いた俺の手へ一度目を落とす。
「ならば、途中で飽きて放り出すでないぞ」
「放り出さないよ。五十年で足りなかったら、その時はまた頼みに来る」
「まずは五十年で戻れ。次の話は、佐伯の顔を見てからじゃ」
俺は顔を上げた。
先生はもう脇の紙を取っている。留守の間に出す人員の話を、こちらへ尋ね始めた。
許してくれるらしい。
嬉しくなってすぐに立ちそうになったが、まだ用事が残っていた。槇島と榛名から聞いたことを、俺も一つずつ伝える。
今度は五十年、佐伯を預かる。
そう思うと、行ってみたい場所より先に、あいつへ何を見せようかと考えた。
爺さんも、あの頃こんなふうに思っていたのかなぁ。