教わりし手に 歳は積もり
応えし声に 道は開く
佐伯は、もう紙を広げていた。
俺が部屋へ戻ると椅子を引き、隊首会の報告を受ける用意をしてくれる。机の端には湯もある。ありがたいのだけど、今日ばかりは先に筆を置いてもらいたかった。
「佐伯。そっちは後でもいい?」
「はい。何かございましたか」
「うん。今日はお前さん自身の話をしたくてさ。こっちへ座って」
向かいを示すと、佐伯の目が紙から俺へ戻った。
何かしくじったかと思ったのだろうか。座るまでの顔が少し硬い。今朝の稽古なら、直したいところも褒めたいところもあるけれど、俺はその続きを一刻だけ頼みに来たわけではない。
湯を飲んでから話そうと思っていた。
けれど、待っている佐伯を見たら、先に言いたくなった。
「お前さん、まだまだ強くなれるよ。そろそろ俺も、本気で修行に付き合おうかと思ってねぇ」
佐伯が黙った。
膝へ置いた手が動き、こちらを見たまま少し背が伸びる。その顔で待たれると、俺まで先生に何か教わる前の気分になってくる。
「隊を少し離れて、二人でやってみたい。五十年くらい。先生には、許しをもらってきたよ」
「五十年、ですか」
「うん。何年かかるか分からないけど、まずはそれくらい使ってみようと思ってさ」
佐伯の目が机へ向いた。
今日の報告だけではない。明日の巡回も、交代する者の名前も、あいつが揃えた紙の中にある。五十年と言われて、先にそちらが気になるのは無理もなかった。
「隊長も私も不在となりますが、その間は」
「槇島と榛名に頼んできた。二人とも引き受けてくれたよ。鷺坂と伏見にも任せるものは増えるけど、出る前に皆で決めようと思ってる」
佐伯がこちらへ顔を戻す。
今朝はまだ、俺が何を言い出すか知らずに刀を持ってきた。槇島たちにも話していない時なら、まず隊の用事を確かめる時間が欲しいと頼まれただろう。
あいつが気にしそうなところを、今日は俺が先に歩いてきた。
「手が足りない時には、ほかの隊も頼れるようにする。京楽と浮竹も顔を出してくれるってさ。お前さんを連れて、挨拶に行くつもり」
「お二人も御存知なのですか」
「今、話してきたんだよ。五十年付きっきりかって、驚いてたねぇ」
佐伯の口が少し開いた。
自分より先に皆が聞いていたことへ驚いたのかもしれない。俺も、ここまで先に話してから誘うのは珍しかった。いつもなら行きたいところができて、誰かへ声を掛ける。今回は佐伯へ教えたいことが先に増えた。
「だから、隊のことは一人で抱えなくていい。気になる用事は、出るまでに俺も一緒に聞くよ」
「……はい」
返事をしてから、佐伯が湯呑を手元へ寄せる。
飲むのかと思ったが、指が縁へ触れただけだった。まだ何か言いたそうなので俺も待つ。京楽たちは断れないと言っていたけれど、あいつ自身の返事は聞いておきたい。
「隊長」
「うん」
「私に、そこまで時間を使っていただいてよろしいのでしょうか」
そっちへ気が向いたか。
俺は少し笑ってしまった。五十年を頼んだ時、先生もそんなふうに思ったのだろうか。弟子がどこまで伸びるかも分からないのにと。
「いいから誘ってるんだよ。今朝、お前さんと刀を合わせてても、まだ続けたかった。昨日、平子とやってたところもね。もう少し先まで教えたら、どうなるか見てみたくなったんだ」
佐伯の指が湯呑から離れる。
そこで顔を上げてくれたので、俺も続きを言った。
「そこらの隊長格には負けないくらいになってもらいたいねぇ。長次郎にも勝てるくらいには」
今度は、はっきり驚いた顔になった。
「雀部副隊長に、ですか」
「うん。簡単じゃないよ。だから五十年も頼みに行ったんだしね」
「私は、まだ隊長の一太刀を受けることさえ」
「俺の方も、そう簡単に受けてほしくないなぁ。お前さんが上手くなったら、その分こちらも続きを見せるよ」
佐伯が口を閉じた。
俺を斬れるようになるまで強くなければ、留守を預かれないと思っているわけではない。それでも、こちらへ近づきたいと思ってくれるのなら、離れたところから褒めるだけで済ませたくなかった。
爺さんも、俺が一つ覚えると次を寄越した。
できたつもりで刀を振れば、今度は違うところで止められる。庭へ座り込んで考えている間、爺さんは先に飯を食い、俺が立つ頃にはまたそこへいた。
あの頃、俺は教わることばかり考えていた。
爺さんが待ってくれている時間まで、自分の修行に使っていたんだねぇ。
「佐伯。お前さんには素質があるよ。俺が留守にしてる間にも、随分と覚えてくれた。今度は俺の方が、最初から最後まで付き合ってみたいんだ」
佐伯の目が少し下がる。
腰へ差した刀を見ていた。今朝、俺の袖へ届いたものだ。あいつにとっても、まだあそこで終わりにしたくはなかっただろう。
俺も同じだった。
「来てくれる?」
尋ねると、佐伯が顔を上げた。
「はい。御一緒させてください」
*
side:佐伯
返事をしてから、五十年という長さをもう一度考えました。
隊長が御不在だった五十年は、よく覚えています。初めには、何を先に決めればよいのかも分からず、机へ紙を並べたまま夜になったことがありました。
今は、同じ机に座っております。
ここを槇島たちへ預け、自分も隊を離れる。そう考えると、伝えておかなければならないことが幾つも浮かびました。
ですが、向かいには隊長がおられます。
この方も一緒に来てくださる。
先ほどから何度も同じことを考え、そのたびに、隊の用事から刀へ気が戻りました。
「よかった。俺だけ楽しみにしてたら、少し困るところだったよ」
隊長が湯を飲まれます。
私はまだ自分の分へ口をつけていませんでした。勧められて持ち上げましたが、温かさを確かめるくらいで、すぐに机へ戻してしまいます。
聞きたいことがありました。
「卍解も、見ていただけますか」
「もちろん。お前さんの刀も、まだ先があると思うよ。でも、それだけでは済ませないからねぇ」
「はい。お願いしたいのは、斬術や鬼道も含めてです」
隊長が頷かれました。
私はその顔を見て、今朝の庭を思い出します。肩へ触れられた後、自分の刀を戻すところまではできました。ですが、あの方が次に何をなさるかは見えていません。
続けられたことを褒めていただいても、自分が届かなかったところは残ります。
それを、もう一度尋ねられる。
時間が来たので明日に、ということを繰り返さず、分かるまで教わってよいのです。
「今朝、肩へ触れられた時にも、まだ御手が空いておられました。私は刀を戻すだけで、そちらへは何もできておりません」
「うん。そこは、まだ使わなかったね」
「次を拝見したいと思っていました。庭を離れてからも、どうすれば見せていただけたか考えておりましたので」
口にすると、隊長の顔が少し変わりました。
嬉しそうでした。
私はそれを見て、ようやく自分も笑っていることに気づきました。五十年と伺ってから、隊を空ける話ばかりしてしまいましたが、本当は最初に修行と聞いた時から、続きをお願いしたかったのです。
「見せるよ。お前さんが間に合わなくなったところも、何度でもやろう」
「はい」
その返事だけでは足りない気がしました。
私は膝へ手を置き、改めて頭を下げます。
「御指導をお願いいたします。隊長がお時間を使ってくださるだけ、私も強くなりたいです」
隊長はすぐには答えられませんでした。
顔を上げると、こちらを見ておられます。その目に覚えがありました。初めて稽古をつけていただいた頃、自分ではできたと思ったものを、もう一度と言われる前の顔です。
あの時は、なぜ駄目だったのかが分かりませんでした。
今は少しだけ分かります。
それでも、この方が見ているところまでは届きません。
「うん。俺も本気で教える。お前さんができるようになるまで、ちゃんと付き合うよ」
そう仰って、隊長は机の紙を見られました。
「そのためにも、まずはこっちを皆に渡そうか。俺も聞くから、お前さんだけで片づけないでねぇ」
私は頷きます。
紙へ手を伸ばすと、隊長も一枚取ってくださいました。普段なら御自身が目を通す分を選ばれるところですが、今日は私の方のものです。
槇島へ渡すつもりだった、巡回の記録。
隊長が開き、私に尋ねられます。
私はいつもより少しゆっくり、何を残しておくべきかを話しました。
*
槇島と榛名を呼ぶと、佐伯が先に立ち上がった。
俺も行くつもりだったのに、戸口へいた隊士へ声を掛けるところまで先に済んでいる。修行を受けてくれたからといって、今日から全部置いていけるわけではなかったねぇ。
でも、戻ってきた顔は少し違う。
こちらへ座った時の硬さがなくなり、槇島へ渡す紙を自分の手元へ分けていた。皆が来るまでに何を話すか考えているのだろう。その隣へ刀がある。
俺はそれを見て、行く先をまだ決めていないことを思い出した。
佐伯へ教えたいことばかり増えて、どこへ連れていくかが後になった。昔の俺なら、旅に出る話は順番が逆だったはずだ。
『お前様。よう楽しみにしておいでで』
「うん。あいつも来てくれるって」
『わっちにも聞こえておりんすよ』
笑われた。
そうだねぇ。わざわざ言わなくても、ゆめは同じところにいた。けれど、もう一度誰かに話したくなったのだから仕方がない。
槇島たちが来る。
佐伯が二人へ向き直り、自分も隊を離れることになったと伝えた。槇島は頷き、榛名は俺を一度見てから、佐伯へ顔を戻す。
「お引き受けになったのですね」
「はい。留守をお願いすることになります。私からも、改めて」
「隊長から伺った時に、引き受けるとお伝えしております。まずは、こちらを確かめさせてください」
槇島が座った。
佐伯も腰を下ろし、紙を広げる。榛名が隣へ入り、俺も向かいへ戻った。途中で鷺坂と伏見を呼ぶことになり、机の周りが少し狭くなる。
皆が揃ったところで、俺から修行の話をした。
五十年と聞いて伏見の目が丸くなったが、佐伯も行くと分かると、今度はあちらへ顔を向けた。鷺坂は出発の日を尋ね、まだ決めていないと答えたら少し安心した顔になる。
「いきなり明日とは言わないよ。渡すものを渡して、皆にも挨拶してからねぇ」
佐伯が頷く。
俺はその顔へ目を向けた。
「蒼純のところへも、一緒に行こうか。銀嶺にも留守の話をしておきたいし」
「はい。六番隊へ伺う日を確かめておきます」
「夕月とも茶を飲む約束があるんだよ。そっちも連れていくからね」
佐伯がまた頷いた。
机を離れる話をするたび、あいつが自分の用事として聞いてくれる。いつもは俺が誰に会うかを確かめ、隊へ残るものを揃えていた。
今度は一緒に行く。
俺は紙の端へ手を置き、槇島の話を聞いた。途中で佐伯が答え、榛名が自分の分を書き足す。鷺坂も伏見も、頼まれたところだけで済ませるつもりはないらしい。
帰ってきたら、こいつらの顔も変わっているだろうなぁ。
それを見るためにも、ちゃんと五十年で戻らなければね。
話が一段落すると、佐伯がこちらを見た。
「隊長。明日の朝も、庭へ伺ってよろしいでしょうか」
もうその続きを待っている。
俺は笑って頷いた。
「いいよ。刀を持っておいで。出掛けるまでも、少しずつ始めようか」