帰りし袖に 風は宿り
迎えし門に 声は満ちる
107.師弟の帰還
十番隊の門が見えたところで、佐伯の袖から糸が落ちた。
さっき道を閉じた時に引っ掛けたらしい。本人も気づいて摘まんだが、その先までほつれ始めたので、途中で諦めて手を下ろした。帰る前にもう少し繕ってやればよかったねぇ。けれど、昨日まで刀を合わせていたのだから、先に直しても同じことになった気がする。
「隊長」
「うん?」
「一番隊へ伺う前に、着替えさせていただけますか」
「もちろん。先生のところへ、その格好では行けないねぇ」
佐伯が俺の羽織を見る。
こっちは、まだ着ていられる。裾に少し切れたところはあるけれど、羽織は稽古の時に脱いでいたからね。あいつの方は肩も袖も継ぎだらけで、帯に隠れたところまで布の色が違っていた。
よく持ってくれたものだ。
服の方にも礼を言ってやりたい。
「お帰りなさい、隊長!」
門から声が来た。
顔を上げると、昔からいる子が片手を振っている。俺が隊を預かった日にも、そこにいた顔だ。五十年ぶりなのに、こちらを見つけるのが随分と早い。
「ただいま。お前さん、元気だった?」
「はい。今回は、ちゃんと五十年でしたね」
「数えてたの?」
「そりゃ、帰ってくるって仰ったんですから」
そうか。それなら待たせずに済んだねぇ。
俺が門へ入ると、そいつの目が佐伯へ向いた。お帰りなさいと続けかけた口が止まり、袖を見てから顔へ戻る。佐伯はそれを待って、いつものように頭を下げた。
「ただいま戻りました。留守の間、ありがとうございました」
「副隊長、その服……何かあったんですか」
「修行をしておりました」
「いや、それは聞いてますけど」
俺まで見られる。
ちゃんと修行してきたよ。そこを疑われても困るねぇ。
奥へ知らせる声が上がり、庭にいた子たちがこちらへ集まってきた。知っている顔がある。知らない顔もある。後ろへ残った若い子に、あれが烏有隊長だと教えている声まで聞こえた。
あれ、になっちゃった。
五十年もいなければ、そうなるか。
「隊長! お帰りなさいませ!」
榛名が廊下から降りてくる。
その後ろに槇島、少し遅れて鷺坂と伏見。皆の顔が見えたので、俺もようやく荷を肩から下ろした。山では持って歩くことに慣れていたのに、ここへ来ると誰かに預けたくなる。いけないねぇ。帰ったばかりで、もう甘えている。
「皆、ありがとうねぇ。佐伯も、ちゃんと連れて帰ったよ」
隣へ目を向ける。
槇島は佐伯を見て、返事をするまで少し間があった。榛名も同じだ。服へ目が行った後、二人とも顔を見たまま動かなくなる。
俺には、このところ毎日見ていた顔だった。
あいつらが最後に見た佐伯は、俺と出掛ける朝の佐伯か。そう思ったら、もう少し眺めていてもらいたくなった。俺が先に口を挟まない方がいい。
「……御無事で、何よりです」
槇島が言う。
佐伯の口元が緩んだ。
「ええ。どうにか」
「どうにかって、大袈裟だねぇ」
こちらへ顔が向いた。
最近、その顔をよくされる。何か言いたい時に、あいつはまず俺を見てくれるようになった。前は言わずに飲み込んでいたことも、今は少し待っていると出てくる。
「霊圧が尽きかけた回数は、途中から数えておりませんので」
「回復してから続きをやったでしょう」
「はい。回復すると、続きをやりました」
伏見が俺を見る。
何だい。その言い方なら、何もおかしくないじゃないか。
「怪我は、残っていないんだな」
榛名が佐伯へ尋ねた。
佐伯は頷き、少し破れた襟を直す。
「傷は治していただきました。今、痛むところはございません」
「では、その袖は」
「昨日の分です」
鷺坂が小さく息を吐いた。
笑ったのかと思ったら、俺へ目が来る。
「帰る前日までですか」
「まだ一日あったからねぇ」
「隊長」
佐伯まで同じように呼ぶ。
お前さんも、昨日はもう一度と頼んだじゃないか。そこを言おうとしたら、先に伏見が新しい死覇装を用意しますと言ってくれた。助かるよ。こっちの話を続けていたら、皆に余計な心配をさせそうだ。
荷を受け取りに来た子が、佐伯の前で足を止めた。
知らない顔だった。佐伯が袋を差し出しても、すぐには手が出ない。槇島が名を呼ぶとようやく受け取り、深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
佐伯が礼を言った。
その声を聞いて、子がもう一度顔を上げる。こちらが思っていたより穏やかな人だった、とでもいう顔だ。俺の隣に立っていただけなのだけどねぇ。
槇島がそいつを先へ行かせ、佐伯へ少し近づいた。
「戻られた時には、稽古をお願いすると申し上げました」
「覚えております。私も、皆さんが続けてこられたものを拝見したいです」
「ぜひ」
いい返事だった。
榛名も頷き、鷺坂は庭の方へ目を向ける。今すぐ木刀を持ってきそうだったので、俺は先に片手を上げた。
「その前に、着替え。それから飯にしようか」
「はい。用意させます」
槇島が答える。
佐伯は庭を一度見てから、伏見について廊下へ上がった。あいつも少し、やりたそうだったねぇ。
戻ってきてすぐに頼める相手がいる。
山を出る時には、もう少し続きを教えたくなった。けれど、ここへ連れて帰ってよかったと思ったよ。
*
俺の部屋には、ちゃんと机が残っていた。
当たり前かもしれないけれど、五十年も空けたのだから、槇島たちが使いやすいように変えてくれていても構わなかった。座ってみると、手を置くところまで覚えている。山では膝の上や平らな石へ皿を置いていたので、何を置いても傾かないのが少し嬉しい。
「留守の間の記録です」
槇島が紙を持ってくる。
嬉しいと思ったところへ、それかい。
「今日、全部?」
「いえ。まず御覧いただきたいものを」
「そっか。ありがとうねぇ」
受け取ると、思っていたほど厚くない。
榛名と二人でまとめてくれたらしい。俺がいなくても任務は済み、皆の稽古も続いていた。書かれた名を指で追うと、門で見かけた知らない子の名もある。
五十年。
こちらでは、こうして時間が経っていたのか。
佐伯が戻ってきたので、紙から顔を上げる。新しい死覇装がよく似合っていた。袖が揃っているだけで随分と違うものだねぇ。俺がそう言う前に、あいつは畳んだ古い服を傍へ置いた。
「捨てなかったの?」
「後で、残せるところを確かめます」
「ほとんど残らないと思うよ」
「そうでしょうね」
それでも、自分の横へ置いている。
俺もそれ以上は言わなかった。爺さんのところを出た時に、使えなくなったものまで荷へ入れた覚えがある。後から見れば要らないものでも、出る時には置いていけないことがあるんだよねぇ。
膳が運ばれてきた。
佐伯も隣へ座り、皆で少し遅い飯になる。蓋を取ると湯気が上がった。魚もある。山で食ったものも旨かったけれど、誰かが用意してくれた膳はいいねぇ。俺が火を見なくても、その間に次の皿が来る。
「副隊長。修行はいかがでしたか」
鷺坂が尋ねる。
佐伯は箸を取る前に、少し考えた。
「教わりたいと思っていたことは、教えていただけました」
「五十年でも、足りましたか」
「足りないと申し上げれば、帰還を延ばされそうでしたので」
俺は箸を止める。
「延ばさないよ。先生と約束したじゃないか」
「はい。ですので、私からは申し上げませんでした」
榛名が笑った。
槇島まで口元を隠している。あいつら、俺が真面目に五十年付き合ったことは、ちゃんと分かってくれているんだろうねぇ。
「ただ、三途の川が見えたことも、一度や二度ではございません」
「お前さん、大袈裟だなぁ。ちゃんと休ませたでしょう」
「休む前の話をしております」
伏見が膳へ目を落とした。
そこで笑うのを隠さなくてもいいよ。俺も少し笑ってしまった。佐伯は真面目な顔で汁を飲んでいる。あいつがこういうことを言うと、皆がよく聞くんだよねぇ。
五十年前には、俺が話しすぎないように話を戻してくれた。
今は本人が話を増やしている。
皆に聞いてもらいたいことがあるなら、今日は好きなだけ喋ればいい。
「でも、行ってよかったのでしょう?」
伏見が顔を上げた。
佐伯は湯呑を置く。
「ええ」
返事は早かった。
「隊長に、まだ強くなれると言っていただきましたので。それを確かめる時間を、十分にいただけました」
俺は魚へ箸を伸ばした。
こちらを見て言われると、何か返したくなる。もっと教えたかったとも、よくついてきてくれたとも。けれど、今はあいつらへ話しているのだから、俺の返事は後でいい。
魚が旨い。
少し黙っていても、不自然にならずに済んだ。
*
一番隊へ向かう道で、佐伯が足を止めた。
屋根の上を黒い装束の者が渡っていく。こちらへ一礼して、そのまま向こうへ消えた。夕月のところへ行く者だろうか。佐伯は最後の一人まで見てから、また俺の隣へ戻る。
「人の気配が、多いですね」
「帰ってきたねぇ」
「はい」
山では、遠くで何か動けばすぐに分かった。
今は塀の向こうに何人もいて、廊下を歩く足音や、誰かを呼ぶ声まで重なる。俺が菓子の匂いへ顔を向けると、佐伯にも気づかれた。
「お帰りに寄られますか」
「いいの?」
「報告が済んでからでしたら」
「じゃあ、そうしようか」
先に許してもらっちゃった。
俺が寄り道を頼むより早い。五十年、こいつも俺をよく見ていたんだねぇ。
「佐伯。卍解のことだけどさ」
声を掛けると、あいつの顔が向いた。
「俺の許可なく使うのは禁じるよ」
「……承知しました」
「俺が手塩にかけて育てたんだ。卍解しなくても、そこらの相手くらい一掃してもらわないとねぇ。俺も教えた甲斐がないでしょう」
佐伯が自分の刀へ目を落とす。
あいつの嵐をここへ持ってきたら、と思って屋根を見る。並んだ瓦も、その下で暮らす者も、山にはいなかった。風がどこまで届くかを眺めていられた場所とは違う。
ここでは俺も、皆の隊長へ戻らないとねぇ。
「必要になった時は、申し上げます」
「うん。その時は俺も見るよ」
佐伯が頷く。
それから少し間を置いて、こちらへ言った。
「卍解を使わずとも、教わったことをお見せできるようにいたします」
「楽しみにしてる」
俺がもう知っているものでも、ここで使うところはまだ見ていない。
山で俺へ向けていた刀を、今度は誰へ向けるか。隣に誰が立つか。あいつが選ぶところまで、帰ってきたら見られるんだねぇ。
一番隊の門で、長次郎が待っていた。
先に知らせを受けていたらしい。俺たちへ挨拶してから佐伯を見る。その目が腰の刀へ下がり、また顔へ戻った。
「お帰りをお待ちしておりました」
「ただいま、長次郎。五十年だよ」
「はい。総隊長もお待ちです」
長次郎が先に歩く。
俺は佐伯の隣から、そちらの肩を見る。五十年前にも同じ廊下で、この二人に刀を合わせてもらう約束をした。今日は俺が言う前に、佐伯の方から声を掛けた。
「雀部副隊長。以前のお約束ですが」
「覚えております」
「改めて、お手合わせをお願いいたします」
長次郎の足が止まった。
振り返った顔は穏やかだったが、返事をするまで、佐伯をよく見ていた。
「こちらこそ。ぜひ、拝見させていただきたい」
ああ、いいねぇ。
俺が連れてきたからと、ただ付き合ってくれる返事ではなかった。長次郎も、あいつの刀を見たくなっている。
佐伯が頭を下げるのを、俺も隣で待った。
先生は、前と同じところに座っていた。
こちらが入ると、杖へ置かれた手が少し動く。俺がただいまと言う前に、目は佐伯へ向いていた。
「十番隊副隊長、
佐伯が膝をついて頭を下げる。
俺も隣へ座った。五十年前は、ここであいつを連れていくと頼んだ。その時に言ったことを、先生はどこまで覚えているだろう。いや、忘れてくれているところはないだろうねぇ。
「御苦労じゃった」
先生が言う。
佐伯が顔を上げると、目が合ったまましばらく誰も喋らなかった。俺も先に何か言いたくなったが、膝へ手を置いて待つ。
「長次郎へ頼んだそうじゃな」
「はい。帰還の折にと、お約束をいただいておりましたので」
「今のお主が、何を覚えたか。儂にも見せてもらおう」
佐伯の背が少し伸びた。
「よろしくお願いいたします」
そこで、先生の顔が俺へ向く。
「烏有」
「うん。ちゃんと連れて帰ったよ」
「途中で放り出しはせなんだか」
「お前さん、聞かれてるよ」
佐伯へ顔を向ける。
あいつは俺を一度見てから、先生へ答えた。
「最後まで、付き合っていただきました」
「そうか」
「最後の日まで」
先生の眉が動く。
そこまで言わなくてもいいじゃないか。俺が口を開く前に、長次郎が傍で少し俯いた。あちらまで聞こえているのだから、余計な言い訳はやめておこう。
「まだ教えることがあったんだよ」
「五十年、ずっとか」
「うん。あいつも、よく覚えてくれたからねぇ」
佐伯へ目を戻す。
新しい袖の下に手があった。何度も俺へ刀を向け、倒れてもまた握り直していた手だ。今日は膝へ置いて、先生に見てもらう時を待っている。
出掛ける前に言ったところへ、連れてきた。
俺は先生へ顔を戻した。
「先生。今度は、俺が喋るより見てもらいたいんだ」
杖を握る手へ、少し力が入った。
「随分と、自信があるようじゃな」
「俺の弟子だからねぇ」
言ってから、隣が静かになったことに気づく。
佐伯がこちらを見ていた。そんなに驚かなくてもいいよ。五十年も付き合っておいて、今更ほかの呼び方を探す用事もないでしょう。
先生が長次郎を呼ぶ。
明朝、手合わせの場を用意するようにと伝えられ、長次郎が頭を下げた。佐伯もそちらへ礼を言う。俺は場所を聞き、皆をどこへ座らせようかと考えた。
「烏有。お主は手を出すでないぞ」
「出さないよ。俺も見ていたいからさ」
先生の目が、もう一度佐伯へ向いた。
今度は俺も、隣からその顔を見る。
明日は、長次郎の前に立つ。
あいつが帰る前に聞いた名だ。目標にするには随分と高かったけれど、それでも行くと答えてくれた。今は自分で手合わせを頼み、先生の前でも顔を上げている。
いい五十年だったねぇ。
俺だけがそう思っているのではないと、あいつの顔を見て確かめられた。
*
一番隊を出ると、佐伯が長く息を吐いた。
「緊張した?」
「はい」
「長次郎とのこと?」
「そちらもですが」
俺へ顔が向く。
「弟子と仰るなら、先にお聞きしたかったです」
「お前さん、違うつもりだったの?」
「そうではございません。総隊長の前で、急に仰るとは思っておりませんでしたので」
耳の辺りまで少し赤い。
山でも褒めたことはあるけれど、こんな顔はしなかった。あちらでは俺と二人だったからかな。俺も爺さんに人の前で何か言われたら、返事に困ったかもしれないねぇ。
「じゃあ、今度から先に言おうか」
「そのために呼ばれるのも、困ります」
「注文が多いなぁ」
佐伯が笑った。
通りへ戻ると、さっきの菓子の匂いがまだ残っている。俺が顔を向けるより先に、あいつが店の方へ足を寄せた。
「皆さんの分も、買って帰りましょう」
「うん。佐伯、どれがいい?」
「私は、あちらを」
迷わず指が出る。
五十年前なら、隊長のお好きなものでと返されたかもしれない。俺はそちらも包んでもらい、十番隊へ持ち帰る分を増やした。
明日は刀を見せる。
今日は皆のところへ帰って、佐伯が選んだ菓子を食おう。