結びし糸に 問いは寄り
訪れし風に 縁は芽吹く
鬼道衆へ来て、最初に頼まれたのは茶を飲むことだった。
俺が庭へ向かおうとすると、昨日声を掛けてくれた男が、まずはこちらへと部屋を示す。佐伯までそちらへ上がったので、俺も続いた。机には紙が揃えてある。茶だけ飲んで済むようには見えないけれど、菓子もあるなら座っていていいねぇ。
「昨日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。結界、よく持たせてくれたね」
「お二人とも、こちらの持ち場を避けてくださいましたので」
男が佐伯へも礼をする。あいつの袖はもう新しくなっていた。伏見が渡す時に何を言ったのか聞いてみたかったが、朝、そちらへ目を向けただけで、稽古はしておりませんと返されてしまった。
俺だって、毎日刀を合わせようとは思ってないよ。今日は鬼道だしねぇ。
「白縫を、こちらでも試させていただければと思っております」
「いいよ。佐伯も、ほかの子へ教えてるからね」
男が紙を一枚寄せてきた。昨日のうちに書いたらしい。腕へ回す糸の位置が描いてある。指で追ってみると、ちゃんと肘まで押さえていた。
「ここ。お前さんが使ったの?」
「はい。ただ、相手が踏み込むと、私の方が引かれてしまいまして」
「俺も昔、それで殴られたよ」
顔が上がる。そこは驚くところかい。まだ縄の代わりに巻いていただけの頃だ。腕を縛ったので安心して近づいたら、そのまま肩からぶつかってきた。止める場所を増やしたのは、あれからだったねぇ。
佐伯が紙へ指を添える。
「地面にも支えを作れます。相手の腕だけへ巻くと、引き合うことになりますので」
「なるほど。でしたら、外でお願いできますか」
ようやく庭へ行ける。
菓子を一つ取って立つと、佐伯に湯呑を見られた。飲み終えてからだね。座り直して残った茶をいただく。男まで待ってくれるので、こちらが急かしたみたいになってしまった。
*
庭には、もう何人か集まっていた。
昨日、結界を張っていた子もいる。男のところへ紙を持ってきて、それぞれ試したものを比べていた。その横では、二番隊の子が一人、抱えていた包みを渡している。金色の髪が少し顔へ掛かり、受け取ってもらう間も、こちらをちらちら見ていた。
男が先にそちらの用事を受ける。俺は佐伯と庭の端へ行き、杭を一本借りた。地面へ打ち、傍にいた子へ手首を借りる。
「痛かったら言ってねぇ」
「はい」
白縫を二本、手首へ回す。一本は杭へ、もう一本は地面の奥へ伸ばした。子が腕を引くと糸が張り、杭の周りで土が動く。
「もう少し、強く引いてみて」
「よろしいのですか」
「うん。抜けそうになったら、その先を直すから」
腕へ力が入った。杭が傾きかけたので、地中へ伸ばした糸を横へ広げる。浮いた土が止まり、子の肩だけが少し後ろへ引けた。
「へぇ……今、そっちを変えたんスね」
いつの間にか、包みを渡していた子が傍へ来ていた。こちらが振り返ると、軽く頭を下げる。けれど目は糸へ戻り、杭の周りを覗き込んだ。
「お邪魔しちゃいました?」
「いいよ。何か気になった?」
「縛った方は、そのままでしたよね。だったら、逃げられそうになってからでも間に合うんじゃないかと思いまして」
俺の左手を見る。杭が傾いたところも、その後も見ていたらしい。これなら、最初からやり直さずに済むねぇ。
「間に合えばね。遅れたら引かれるよ」
「ですよねぇ。そこまで都合よくはいきませんか」
「お前さんも使ってみる?」
「いいんスか? いやぁ、言ってみるものですね」
まだ頼んではいなかったでしょう。そう返すと、そいつは悪びれずに笑った。傍にいた子へ少し場所を空けてもらい、杭の前へ屈む。
「その前に、お前さんの名前を聞こうか」
「ああ、これは失礼。二番隊の、
その名を聞いて、もう一度顔を見る。
喜助。
随分と昔に覚えた名だ。あれだけ長く生きて、もう忘れていることも多いのに、この顔と一緒なら出てくるんだねぇ。帽子はない。気の抜けた笑い方をしているけれど、こちらが手を動かすと、その目もついてくる。
「烏有玄十郎。よろしくねぇ」
「存じてますよ。夕月様からも、お話は」
「どんな話?」
「お会いしたいなら、帰ってきたと聞いた日に行けって。次の日までいるとは限らないそうで」
「今回は、ちゃんと帰ってきたよ」
「ええ。だから、今日お会いできたわけですね」
そういうことになるのかい。俺が少し考えている横で、佐伯が口元を押さえた。喜助はそちらへも挨拶してから、杭へ巻かれた糸へ手を近づける。
「触っても?」
「うん」
指先が糸を押す。少し引き、緩めてから、今度は杭へ巻かれたところを見る。俺が糸を解くと、あいつも左手を開いた。佐伯から作り方を聞き、指先へ白い光を寄せる。
一本、伸びた。
杭へ巻く前に切れてしまったが、喜助は残った光を見ていた。もう少し太くしてみてと伝えると、今度は自分で指を開き直す。
「このくらいで?」
「うん。それで掛けてみようか」
「……ああ。締める前に、形を作っておくんスね」
白い糸が杭へ一周する。その先を引いたところで輪が崩れかけた。喜助は引くのをやめ、ほどけた部分へ光を寄せる。完全には戻らなかったが、糸を切らずにもう一度巻き直した。
俺は隣へしゃがむ。
「お前さん、よく見てるねぇ」
「見てるだけなら、できるんスけどね。やってみると、そう簡単には」
言いながら、もう地面へ別の糸を伸ばしている。
できないと言ったところまで、手を止めて待つ気はないらしい。俺も先生の前でそうしていたねぇ。教わった通り使おうとして、その途中で別のことが気になった。
佐伯が喜助の糸を見た。
「そちらは、後からでも構いません。まずは杭へ掛けたものを」
「ええ。ただ、引かれた時にどちらへ力が掛かるのか、ちょっと確かめたくて」
「じゃあ、俺が引こうか」
「お願いします。あんまり強くはしないでくださいね?」
白縫を一本伸ばし、喜助の糸を引く。杭へ掛けた輪が締まった。地面へ伸ばした方は途中で抜け、喜助の左手が前へ引かれる。肩が傾いたところで、俺も手を緩めた。
「あらら。やっぱり、先にこっちでしたか」
「だから申し上げました」
「すみませんねぇ。聞くより早く、手が動いちゃいまして」
喜助が頭を掻く。佐伯もそれ以上は言わず、同じ杭へ自分の糸を掛けた。二本を比べると、喜助の方は巻いたところだけが少し固い。
「固めすぎたかな」
「……これ、止めた後も流してるんですか?」
喜助の指が止まった。
さっきまでの笑い顔で聞くものだから、俺もいつもの調子で頷く。するとあいつは、地面へ伸ばしかけていた糸を解いた。杭へ掛けた一本だけを残し、今度は巻いたところをゆっくり緩める。
お前さん、そこからやり直すんだね。
「掛けた形を、ずっと保とうとしちゃってたんスね。だから、変えようとすると切れる」
「うん。相手が動くんだから、こっちも変えられるようにしておこうか」
「それなら⸺」
「喜助!」
塀の上から声が来た。
女の子が一人、こちらを見下ろしている。喜助は顔を上げたが、左手の糸はまだ解かなかった。あ、と小さく声を出してから、困ったように笑う。
「夜一さん。どうしたんスか、こんなところまで」
「お主が戻ってこんからじゃ! 受け渡しだけで、いつまで掛かっておる」
「受け渡しは、ちゃんと済ませましたよ?」
「なら、何をしておる」
「見ての通り、ちょっとお勉強を」
女の子が庭へ降りた。足音はほとんどない。喜助の左手を見てから、杭へ掛かった糸を辿る。その先で俺を見つけると、顔を覗き込んできた。
「お主が、烏有か」
「うん。お前さんは?」
「
夜一まで来た。
五十年空ける前には、夕月のところでこんな声を聞かなかったねぇ。こちらを眺める目も遠慮がない。俺が顔を少し寄せてみると、夜一は退かずに笑った。
「聞いていたより、随分とのんびりしておるな」
「どんな話を聞いてたの?」
「強い。よく出歩く。菓子を出すと帰るのが遅くなる」
「最後のは、夕月が皿を寄せてくれるからだよ」
「なくなったら帰るのか?」
「茶が残ってたら、飲んでからだねぇ」
夜一が声を上げて笑う。喜助も笑っていたが、俺が横を見ると、その指先にはまた糸が寄っていた。
夜一も気づく。
「まだ続ける気か」
「夜一さん、待ってくださいよ。今、いいところなんスから」
「さっきから、ずっといいところじゃろう」
「いやぁ。よく御存じで」
左手を下ろさないまま返す。夜一は呆れた顔で杭を見たが、今度は喜助の隣へしゃがんだ。
「何の術じゃ」
「白縫っていうんス。縛った後からでも、掛け方を変えられるそうで」
「ほう。なら、解かずに引き倒すこともできるな」
「できるよ。お前さんが引かれなければねぇ」
夜一の目が俺へ向く。手首を借りてもいいかと聞くと、すぐに袖を上げた。あら、試す方が早いところは、二人とも同じなんだね。
糸を一本、軽く巻く。
「切ってもよいか?」
「うん。好きに動いていいよ」
夜一が腕を引いた。白い糸が張る。その手が抜ける前に、本人が俺の横へ回った。引いていた腕を今度はこちらへ押し出し、糸の緩んだところへ身体を入れてくる。
肩が届く前に、足首へもう一本掛けた。
「おっと」
足が止まる。夜一はすぐに腰を落とし、地面へ片手をついた。俺が糸を緩めるより早く、もう片方の足を引きつけている。まだ動くつもりだったので、そちらにも糸を見せた。
「……あと何本ある?」
「お前さんが足をつくまでなら、まだ増やせるよ」
夜一が笑った。糸を解いて手を差し出すと、その手は借りずに立ち上がる。袖の土を払いながら、俺の左右の手を見比べていた。
「喜助。今の、見たか」
「ええ。腕を引いた時には、足の方も出てましたよ」
「言え!」
「言ったら、試したことにならないじゃないスか」
喜助が肩を竦める。夜一はそちらへ手を伸ばしたが、あいつはさりげなく杭の反対側へ回っていた。そういう逃げ方は、もうよく覚えているらしいねぇ。
「お前さんを迎えに来たんじゃないの?」
俺が聞くと、夜一の手が止まる。
「そうじゃった。烏有、お主も来い。夕月が待っておる」
「うん。顔を出すつもりだったよ」
「なら、話は向こうでもできる。喜助、糸を解け」
「はいはい。せっかくなら、杭も持って帰りたいところなんスけどね」
「自分のところにもあるじゃろう」
「ええ。残念ながら、糸はついてないんスよ」
こちらへ目が来る。
俺が少し笑うと、喜助は自分で糸を解いた。佐伯が鬼道衆の男へ残る紙を預け、次に来られる日を相談している。俺もまた来るよと伝えてから、四人で門へ向かった。
*
歩き始めてからも、喜助は時々左手を開いていた。
夜一が横を見るたびに下ろす。けれど少し進むと、また指先へ目が落ちる。角で人とぶつかりそうになった時には、自分で半歩ずれていた。見ていないようで、そこは分かるんだねぇ。
「烏有隊長。あれ、手を離しても残せるんスか」
「残せるよ」
「じゃあ、別の鬼道を使ってる間も?」
「うん」
「……なるほどねぇ」
今度は手が下がった。
何を考えたのか聞いてみたくなったが、先に夜一が俺へ顔を向ける。
「教えると、次を作り始めるぞ」
「お前さん、何か作ってるの?」
「大したものじゃないっスよ。使ってて、もう少し便利にならないかと思ったものを、いくつか」
「それ、俺もやったねぇ」
「でしょうね。あの糸、縛るだけにしては、ずいぶん気が利いてますから」
喜助がこちらを見た。
白縫を褒められたのは嬉しい。けれど、気が利いていると言われると、そいつを引っ掛けた場所の方を思い出してしまう。崖から落ちかけた時にも、荷を持って歩く時にも使った。覚えたての佐伯は、湯呑を浮かせてよく落としかけていたねぇ。
「そちらの使い方も、教わりました」
佐伯が話へ入る。
「人を運ぶ時には、身体を支える場所を増やせます」
「へぇ。そっちは、どこへ掛けるんです?」
「担架を使うなら、その枠へ。直接支える場合は⸺」
喜助が佐伯の横へ寄った。
夜一が俺を見る。迎えに来たのに、今度はそちらで話が始まった。俺が悪いのかと思っていたけれど、あいつは佐伯とも長く喋れそうだねぇ。
「お主も、ずっとこうして付き合っておったのか」
「佐伯と? うん。五十年だからね」
「よく話が尽きぬな」
「尽きなかったよ。分かったことがあると、次も聞きたくなるでしょう」
「喜助と同じことを言う」
前を歩く喜助が振り返った。
「同じなら、もう少し待ってくれてもいいじゃないスか」
「待った結果が、あの庭じゃろう」
「いやぁ、あれはいい寄り道でしたね」
「寄り道したことは認めるんじゃな」
喜助が笑う。
夜一も笑っていた。叱っている声は大きいけれど、あいつが何を見つけたかは、ちゃんと聞いている。糸の使い方へ話が戻ると、自分の足首を示して佐伯へ尋ねていた。
角を曲がったところで、黒い装束の者が二人、道を渡る。夜一へ礼をしてから、一人は屋根へ上がり、もう一人は先の門へ入った。夜一が片手を上げて応え、俺たちにも門を示す。
「こちらじゃ。夕月も、まだ仕事をしておるだろう」
「忙しかったら、後でもいいよ」
「茶くらいは飲む。お主が来たら菓子も出る」
「それなら、今行こうか」
喜助がこちらへ道を譲った。門へ入る前に、俺へ少し顔を寄せる。
「またお邪魔しても?」
「いいよ。今度は、お前さんが作ったものも見せてねぇ」
「お見せできるものがあれば」
「今、何か持ってるんじゃないの?」
懐へ目を向ける。
喜助はそこへ手をやりかけて、笑った。
「困ったなぁ。まだ、ちょっと手直ししたいところがあるんスけど」
「手直しするところも聞いてみたいよ」
「それなら、お茶を飲みながらでも」
先に歩いていた夜一が振り返る。
「烏有。そいつに話させる前に、夕月へ顔を見せろ」
「うん。そうだったねぇ」
廊下の奥から、夕月が出てきた。
夜一と喜助を見てから、俺と佐伯へ目を向ける。少し呆れた顔になるのは、前と同じだ。迎えに出した者まで帰ってこんと思えば、と言うので、夜一が胸を張った。
「ちゃんと連れてきたぞ」
「お前まで、寄り道してきたな」
「面白い鬼道を使っておったのでな」
喜助が傍で頷いた。
「そうなんスよ。これは、帰るのが遅くなっても仕方ないですねぇ」
「お主が言うな!」
夜一の声が廊下へ響く。
俺も笑ってから、夕月へ片手を上げた。
「ただいま、夕月」
「ああ。五十年で戻ったな」
「約束したからねぇ」
「佐伯も、御苦労だった」
佐伯が頭を下げる。
夕月はその顔をしばらく見ていた。昨日の手合わせの話も、もう届いているのだろうか。俺が先に言いたくなったところで、座れと部屋を示された。
向かいへ夜一と喜助が並ぶ。喜助は懐から小さな帳面を出し、俺が覗けるよう横へ置いた。まだ開かない。佐伯が隣へ座り、夕月も腰を下ろすまで、何でもない顔で待っている。
俺も、まずは挨拶からだねぇ。
「元気だった?」
「見れば分かるだろう。お前の方は、五十年ずっと刀を振っていたそうだな」
「飯も食ったよ」
「そういう話ではない」
夜一が笑う。佐伯まで口元を緩めた。
茶が来たので湯呑を取る。前と同じくらい苦かった。菓子へ手を伸ばすと、夕月が皿を寄せてくれる。その横で喜助の帳面が開いた。
あら、待っててくれたんだね。
「烏有隊長。これなんスけど」
覗くと、紙には小さな仕掛けの絵が描いてあった。直したところには別の線が重なり、端にも細かな字がある。俺が指を寄せると、喜助は先にその横へ自分の指を置いた。
「そこ、まだ上手くいってないんです。どうも、動かすたびにずれるんスよ」
「どんなふうに動くの?」
「お見せした方が早いですね」
懐から、小さなものが出てくる。
夕月が俺を見た。俺もそちらへ顔を向けたが、止める言葉はなかった。ただ、茶を飲んでからにしろと頼まれる。
「うん。分かってるよ」
もう一口いただいてから、喜助の手元へ目を戻す。
五十年前には、帰ったらまた茶を飲みに来ると約束した。ちゃんとその茶は飲めている。けれど、今日は夕月の顔だけ見て帰るつもりには、もうなれなかった。
喜助が、小さな仕掛けへ指を掛ける。
夜一も身を寄せ、佐伯が隣から覗いた。俺は菓子を皿へ戻して、両手を空ける。
お前さんが何を面白がっているのか、まずは見せてもらおうか。