忍びし足に 影は添い
巡りし塵に 昔は息づく
喜助が机へ置いたのは、小さな丸い金具だった。
指で摘まめるくらいの大きさで、真ん中には細い溝がある。俺が手を出す前に、夜一が横から取った。裏返し、目の前へ持ち上げる。喜助は止めずに、もう一つ同じものを懐から出していた。
「これ、まだ持っておったのか」
「直してる途中なんスから、持ってますよ」
「前は廊下の端で鳴らしたじゃろう。見に行った者が戻ってこんので、儂まで呼ばれたぞ」
「ええ。よく聞こえることは確かめられましたね」
「お主は、その間に帰ったな」
「用事が済みましたので」
夜一の指が金具を強く挟む。喜助がそちらへ手を差し出したので、壊される前に返してほしいのだろう。俺も見たいよと言うと、ようやくこちらへ渡してくれた。
軽いねぇ。振っても音はしない。中へ霊力を少し通してみると、喜助の持つ方が淡く光った。
「そちらを置いていただけます?」
「ここでいい?」
「ええ。こちらは、手に持ってください」
二つ目の金具を受け取る。言われた通り指で叩くと、机へ置いた方から、こつ、と音が鳴った。もう一度叩けば、また向こうから聞こえる。
あら。
手元へ耳を寄せて試す。こっちは鳴らないのに、向こうからはちゃんと聞こえる。佐伯も顔を寄せたので、そちらへ渡した。
「音を移すんだねぇ」
「ええ。離れた場所へ一つ置いておけば、そっちから鳴らせるんス」
「そっちを見てもらうの?」
「その間に通り抜けたり、相手を別の道へ誘ったり。足音を出せれば、誰かが逃げたと思って追ってくれるかもしれませんし」
佐伯が手元の金具を叩く。喜助は机へ置いた方を持ち上げ、横へ動かした。次の音は、金具のあるところよりも少し先から聞こえた。
「……ずれましたね」
「そうなんスよ。置いたままならいいんですけど、動かすと音だけ先へ行っちゃうんです」
「先へ行くなら、相手もそっちを見るんじゃない?」
「そういう使い方ならいいんスけどね。隣の部屋で鳴らしたいのに、さらに向こうで鳴ったら困るでしょう?」
喜助が金具を戻す。夜一が横から、塀の向こうで鳴ったぞと言った。
そっちはもう試したんだねぇ。喜助が何も言わずに笑っているので、夜一も一緒に走ったのだろう。廊下を見に行った者が戻ってこなかった話まで、少し分かってしまった。
「庭で使ってもいいかい」
「座ったばかりだぞ」
夕月に言われ、湯呑を見る。
茶はまだ残っていた。佐伯が金具を机へ置き、喜助も帳面を閉じる。皆でこちらを見るので、俺はまず茶をいただいた。せっかく淹れてもらったものだしねぇ。菓子も一つ取ると、夜一が立ちかけた膝を戻した。
「それも食うのか」
「お前さんも、いる?」
「……一つもらおう」
皿が夜一へ渡る。その先で喜助も手を伸ばした。夕月が長く息を吐いたが、菓子を取る手は止めなかった。
*
庭へ出ると、夜一が俺の懐へ手を伸ばした。
何かと思って見下ろしたところで、羽織の内側へ指が入る。俺がその手を取ると、夜一は空いた手を反対側から回してきた。そちらも受けると、あいつが顔を上げた。
「何を探してるの?」
「何か取るものはないかと思ってな」
「俺の懐には、あんまり入ってないよ」
「では、その手拭いでよい」
羽織の内側から、手拭いの端が少し覗いていた。
手を離すと、夜一は二歩下がる。喜助から金具を受け取り、袖へ入れた。俺も手拭いを引き出し、帯へ挟み直す。これを取るつもりなら、見えるところにあった方がいいでしょう。
「取れたら、儂の勝ちじゃ」
「うん。取らせなかったら?」
「お主の勝ちでよい」
「いつまで?」
「……細かいのう」
「お前さん、ずっと走りそうだからねぇ」
「俺が呼ぶまでにしろ」
縁側へ座った夕月が言う。夜一もそれでよいと頷いた。佐伯は夕月の隣に立ち、喜助は金具を持ったままこちらを見ている。
「お前さんも入る?」
「いいんスか?」
「夜一が手拭いを取る間、音を出してあげたらどう?」
「気が利くのう、烏有」
「いやぁ。せっかくですから、お言葉に甘えちゃいましょうか」
喜助が夜一の隣へ寄った。二人で小さく話している。途中から喜助が口元へ手を添えたので、こちらへ聞かせるつもりはないらしい。
俺も聞かないでおこうか。
庭の真ん中へ歩き、手拭いを指で確かめる。先生のところでは、刀を取られないよう握っていたねぇ。それでも気づくと向こうの手にあった。爺さんはもっとひどかった。返してもらおうと追えば、その刀でこちらを叩いてくる。
今日は手拭いでよかったよ。
「よいか?」
「うん」
夜一が消えた。
右の植え込みで足音がする。そちらを向かずに半歩引くと、左から伸びてきた手が俺の帯の前を通り過ぎた。夜一はそのまま背後へ回り、今度は低く身を沈める。
「こっちじゃ!」
声まで右から来た。
俺は手拭いへ近づいた指を払う。夜一が手を引き、庭の石を蹴って離れた。喜助も走りながら金具を使っているらしい。次の足音は、俺の後ろから聞こえた。
よく鳴るねぇ。
正面から来た夜一を避け、その腕へ手を添える。押して止めようとすると、あいつは肘を曲げて俺の脇へ潜った。俺も足をずらし、帯へ伸びてくる手から身体を離す。
「むっ!」
夜一の指が羽織へ触れた。すぐに手を引き、今度は上へ跳ぶ。肩越しに手拭いを取るつもりだろう。俺が腰を少し落とすと、伸ばした指が頭の上を通った。
夜一が着地したところへ、喜助も近づいてくる。
音を出して待っているだけではなかったんだね。俺が手を差し出すと、喜助は手首を取られる前に引いた。もう片方の手が帯へ来る。そちらを受けた時には、夜一も戻ってきていた。
「今じゃ、喜助!」
「言われると、こっちまで分かっちゃうんスけど!」
左右から手が伸びる。俺は喜助の手首を押して夜一の方へ寄せ、二人の間を抜けた。夜一が身体を捻って喜助を避ける。喜助は一歩下がり、金具を落とさないよう握り直した。
まだ持ってるんだねぇ。
庭の端で、ばたばたと足音が鳴った。夕月が顔を向ける。その隣で佐伯も一度そちらを見たが、すぐ俺へ目を戻した。
「そっち、誰もいないよ」
「分かっとる」
夕月が返す。夜一は少し離れたところで息を整えていた。こちらを見たまま袖へ手を入れ、金具を出す。
「……一度も、音の方を見んかったな」
「聞こえてはいたよ」
「聞こえたなら、少しくらい見てもよいじゃろう」
それは、頼まれて見るものだったかい。
俺が笑うと、夜一も笑った。けれど喜助は金具を裏返し、溝へ指を寄せている。動きを確かめてから、こちらへ歩いてきた。
「音の方に、何か違いがありました?」
「いいや。お前さんが走ってる音だったねぇ」
「じゃあ、何でこっちだと分かったんスか?」
夜一まで近づいてきた。
俺は足元へ目を落とす。さっきあいつが踏んだところには、砂が薄く流れていた。けれど、そこを見て避けたわけではない。足跡を追っていたら、手拭いくらいは掴まれたかもしれないねぇ。
「周りの霊子を、俺の身体へ通して戻してるんだよ」
「……庭の霊子も?」
「うん。お前さんたちが動くと、その近くの流れが変わる。音のした方には誰も通ってなかったからね」
喜助の指が止まる。夜一は自分の腕を見てから、俺へ顔を寄せた。
「儂は、霊圧を抑えておったぞ」
「よく抑えてたよ。近くへ来ても、霊圧では分かりにくかったねぇ」
「では、それを探していたのではないんじゃな」
「うん。お前さんが動いた時に、周りの霊子も動く。それで、どっちから来るか分かったんだよ」
掌を上へ向け、庭の霊子を少し寄せた。喜助が目を落とし、指を近づける。その横から夜一まで手を差し込んだ。
昔は、これが分からなかったねぇ。
ゆめに付き合ってもらって、何もないところへ何度も手を伸ばした。集めるだけなら鬼道でもやっていたのに、身体へ通して戻そうとすると上手くいかない。腹いっぱい飯を食った後でも、あれを続けるとすぐ腹が減った。
『あの頃は、お召し物までよう破いておいでで』
「そこも覚えてたの?」
『ええ。わっちが忘れるほど、少なくはありんせん』
喜助が顔を上げた。誰と話したのか気になったらしい。ゆめだよと刀へ手を添えると、夜一もそちらを見る。
「刀と一緒に覚えたのか?」
「そうだねぇ。もっと先へ行けないかと思って、霊子を身体へ通してばかりいたんだよ」
「もっと先?」
「卍解の、その先」
夜一の目が少し開いた。
喜助は俺の掌を見たままだった。触れかけていた指を引き、今度は自分の手を開く。
「……それを探していて、人が近づくのも分かるようになったんスか」
「うん。最初は、そんなことまで考えてなかったよ。夜に目を閉じてたら、近づいてくるものが分かってねぇ。何度か試すうちに慣れちゃった」
「それなら、音だけ変えても駄目じゃな」
夜一が金具を喜助へ渡す。
喜助は受け取ったが、懐へは戻さなかった。二つを並べ、しばらく見比べる。俺が覗くと、その口元が少し上がった。
「何か思いついた?」
「ええ。でも、そっちは後ですね」
「今のを直すの?」
「まずは、狙った場所で鳴らせるようにします。違うところで鳴ったせいで、余計な見張りまで来ちゃったら困りますから」
俺が頷くと、喜助は佐伯へ顔を向けた。白縫をもう一度見せてもらえますか、と頼んでいる。庭へ出る時には金具の話だったのに、また糸へ戻るらしい。
「先に、儂じゃ」
夜一が俺の前へ立った。
袖へ残っていた金具をもう一つ取り出し、喜助へ投げる。あいつが受け取ると、夜一は俺の帯へ目を向けた。
「それを使わんでも、取ってみせる」
「うん。やってみようか」
「今度は、霊子で儂の動きを確かめておってもよいぞ」
夜一が笑う。
そう言われると、こちらも少し嬉しいねぇ。
*
夕月が呼ぶまで、夜一は何度も来た。
俺の手に触れる前に引き、下へ回り、次には頭の上を越える。同じところから来た時にも、すぐには手を伸ばさなかった。俺が避ける方へ身体を向けてから、帯を狙ってくる。
こちらも少し足を動かした。そのたびに夜一が追ってくる。速く近づけても、それだけでは手拭いを取れない。さっき払われた指を見て、今度は掴まれる前に引いていた。
「そこまでだ。夜一」
「まだ取っておらん」
「見れば分かる。戻れ」
夕月が縁側から手を上げた。
夜一は俺の帯を見てから、ようやく肩を下げる。袖で額を拭き、取れんかったと笑った。俺も手拭いを抜き、そちらへ渡す。
「使っていいよ」
「今もらっても、勝ったことにはならんぞ」
「うん。汗、拭こうか」
夜一が受け取る。顔を拭きながら縁側へ戻ったので、俺も続いた。夕月が座る場所を少し空けてくれる。庭では喜助と佐伯が屈んでいた。二人の間に金具があり、細い糸がその溝へ掛かっている。
そっちは、もう始めてたんだねぇ。
「どうだった」
夕月に聞かれ、隣へ座る。
「よく走るね。途中から、俺が避けた先にも来たよ」
「取れなかったがな」
「俺も取らせないつもりだったからねぇ」
夕月が笑った。夜一は手拭いから顔を上げ、そこも聞いていたらしい。もう一度と言いかけたところへ、夕月が先に口を開く。
「烏有。戻っている間、こいつの相手もしてやってくれ」
「いいよ」
「俺とばかり稽古していると、他の相手まで同じように動くと思い込む。今日も、最初はそうしただろう」
「……最初だけじゃ」
「潜入中なら、一度捕まれば逃げられるとは限らん。相手の動きを知っているつもりで近づくな」
夜一が手拭いを膝へ下ろした。
夕月は廊下へ目を向ける。黒い装束の者が一人、角で待っていた。こちらの話が済むまで声を掛けずにいる。夕月が呼ぶと、すぐ傍へ来て耳元で何か伝えた。
仕事へ戻るのかと思ったが、夕月は頷いてから、もう一度夜一を見る。
「速く走れれば済む仕事ばかりではない。相手を捕らえる時も、気づかれずに通り抜ける時も、近づき方を考えろ」
「分かっておる」
「夜一なら、次もよく考えて来ると思うよ」
「来るぞ」
本人がすぐ答えた。俺は頷き、庭へ手を向ける。
「喜助も一緒なら、俺の方まで考えないといけなくなるねぇ」
「それは、連れてくるなということか?」
「いいや。一緒においで」
夜一が笑った。
夕月は立ち上がり、待っていた者と廊下へ出る。俺が帰る時には、もう仕事へ出ているかもしれないねぇ。手を上げて呼ぶと、あいつも振り返った。
「今度は、十番隊へ来て。佐伯の稽古も見てやってよ」
「ああ。そちらも頼もうと思っていた」
「本人へ言ってあげて。俺が言うより喜ぶからねぇ」
夕月の目が佐伯へ向く。
あいつは金具を持ち上げたところだった。喜助に何か聞かれ、もう一度下ろす。こちらの話に気づいていないので、夕月は俺へ頷いてから歩いていった。
「できましたよ」
喜助が顔を上げる。
俺と夜一も庭へ戻った。佐伯の指先から伸びた糸が金具を支えている。喜助はもう一つを握り、こちらへ振ってみせた。
「動かしてもらえます?」
「はい」
佐伯が金具を横へ送る。喜助が手元を叩くと、その先から音が鳴った。今度はずれない。戻してもらっても、金具のあるところから聞こえる。
「糸を通して、動かした先の位置をこっちへ伝えてもらってるんス。今までは、最初に置いた場所を基準にしてましたから」
「糸が切れたら?」
「またずれますねぇ。そこは、これからです」
喜助が佐伯へ礼をする。あいつは糸を解き、金具を掌へ下ろした。喜助は受け取ってから裏を確かめ、溝へ指を当てる。
「次は、糸を繋がなくても位置が分かるようにしたいんスけど」
「離したままで?」
「ええ。途中で引っ掛けたり、相手に切られたりするかもしれませんので」
俺が手を差し出すと、喜助は金具を載せた。
小さいねぇ。
これを直せば、鬼道を使わずに同じことができる子もいるのだろう。俺なら自分で繋いで、そのまま使っていた。けれど喜助は、ほかの者へ持たせるつもりで作っている。さっきも佐伯の手を借りて、自分では動かさずに確かめていたねぇ。
「できたら、また見せてねぇ」
「もちろん。次は一度くらい、振り返ってもらいたいところっスね」
「儂も、もう一度使うぞ」
夜一が金具へ手を伸ばす。喜助は俺の掌から先に取って、さっと懐へ戻した。
「直す前に持っていかれちゃ、困るんスけど」
「儂が使った方が、悪いところもよく分かるじゃろう」
「ええ。分かりましたよ。塀の向こうまで鳴ることは」
夜一の手がまた伸びた。喜助は佐伯の後ろへ回る。あいつが少し困って俺を見るので、俺も笑ってしまった。
今日はもう帰ろうか。そう言おうとしたところで、喜助が懐から帳面を出した。まだ一つだけ聞きたいことがあるらしい。夜一までその紙を覗いたので、俺も隣へ屈む。
夕月に、菓子を出すと帰るのが遅くなると言われていたねぇ。
今日のところは、お前さんたちのせいにしてもいいかい。