受け継ぎし枝に 風は渡り
伸ばせし指に 春は遠し
佐伯に叩かれた榛名が、こちらを見た。
俺は縁側から片手を上げる。今のは、そっちへ逃げたら駄目だったねぇ。そう言おうとしたところで、佐伯がもう同じ場所へ戻っていた。
「もう一度、お願いいたします」
榛名が構える。佐伯が右手を伸ばすと、今度は腕を払って脇へ入った。さっきより近い。けれど佐伯は肘を引き、榛名の肩へ掌を当てた。身体が傾いたところで、足まで払う。
倒れた榛名が空を見た。槇島が傍へ寄り、起き上がる手を貸す。俺も昔、あの辺りからよく空を見ていたねぇ。土の上へ寝たまま考えていると、爺さんにまだ起きられんかと聞かれたものだ。
「先ほどよりは、近づけました」
「はい。ですが、腕を払った後に止まってしまいましたね」
「次は、肩を押さえれば?」
「試してみましょう」
佐伯が手を差し出す。榛名はすぐ構えたが、槇島に順番だと言われて下がった。見ていた子たちが笑う。五十年ぶりに戻ってきてから、庭へ集まる人数が随分と増えた。
俺が座るところだけは、毎日同じだ。
ここなら皆の足が見える。日が高くなれば、ちゃんと屋根の陰にも入る。戻ったばかりの頃に槇島が座布団を持ってきてくれたので、今はそれまである。
「烏有隊長」
廊下から声を掛けられた。
蒼純だった。傍にもう一人、男の子を連れている。顔へ掛かった髪をきちんと整え、俺を真っ直ぐ見ていた。こちらが目を合わせても逸らさない。蒼純より、銀嶺が人を見る時に少し似ているねぇ。
「お待たせいたしました」
「いいや。こっちこそ、庭でごめんね」
「こちらからお願いしたことですので。白哉、御挨拶を」
その名を聞き、俺は座り直した。
白哉。
ああ。お前さんも、ここまで来たんだねぇ。
「朽木白哉です」
「烏有玄十郎。よろしくねぇ」
頭が下がる。俺も返してから隣を示したが、白哉の目はもう庭へ向いていた。佐伯が槇島の腕を取り、身体を返す。槇島は倒れる前に足を開いたものの、その膝へ佐伯の足が添えられた。
そこで止まる。槇島が自分の足元を見て、もう一度お願いしますと言った。
「佐伯副隊長ですね」
白哉に聞かれ、頷く。
「うん。知ってた?」
「祖父から、お話を伺いました」
「長次郎と刀を合わせた時の?」
「はい」
返事をしながらも、白哉は庭を見ていた。座るつもりはないらしい。蒼純が声を掛けようとしたので、俺は少し手を上げた。
「近くで見る?」
「よろしいのですか」
「うん。皆にも聞いてみようか」
佐伯を呼ぶ。こちらへ来たあいつに二人を紹介すると、白哉は改めて頭を下げた。さっきよりも深い。佐伯も同じように返し、見ていただけるならと庭へ誘った。
その後ろへ白哉がついていく。蒼純は俺の隣へ腰を下ろし、少し息をついた。
「楽しみにしておりまして」
「うん。あの顔なら、そうだろうねぇ」
「来る前に、失礼のないようにと申し聞かせたのですが」
「ちゃんと挨拶してくれたよ」
白哉が榛名へ何か聞いている。
榛名は一度佐伯を見てから、自分の足を動かしてみせた。白哉も同じように踏む。肩を押されたところまで真似るので、榛名が慌てて手を引いた。
そこもやってほしいんだねぇ。
「お前さんも、あんなふうに教わったの?」
「父にでしょうか」
「うん」
「……私が聞くより先に、父から直されることが多うございました」
蒼純が笑う。
銀嶺なら、見ているだけでは済まなかっただろうねぇ。俺も佐伯を見ていると、つい声を掛けたくなった。今はあいつが皆へ教えているので、少し我慢できるようになったけれど。
「白哉も、父へはよく尋ねております」
「蒼純には?」
「もちろん。ただ、私が止めると、祖父ならよいと言ったと」
「銀嶺も、ちゃんと聞かないと駄目じゃないか」
笑ってしまった。
白哉がこちらを振り返る。聞こえたらしい。蒼純が何でもないと手を振ると、少し気にしながらも榛名へ向き直った。
*
「一度、私にもお願いいたします」
白哉がそう言うまで、それほど長くは掛からなかった。
佐伯がこちらを見る。俺より先に蒼純が頷いたので、あいつも刀を脇へ置いた。白哉も自分の刀を預け、少し離れて礼をする。
「今、榛名殿となさっていたものを」
「分かりました。同じように、腕を伸ばします」
「はい」
佐伯の右手が来る。白哉は外へ払い、その脇へ足を入れた。榛名が止まったところで、今度は肩へ手を伸ばす。
佐伯が腕を下ろした。
白哉の手が届く前に肘で塞ぎ、反対の掌を胸へ添える。押された白哉が二歩下がった。倒れなかったが、すぐ戻ろうとして自分の足を見る。
さっき見た通りには、いかなかったねぇ。
「もう一度」
「白哉」
蒼純が呼ぶ。白哉は顔を上げ、唇を結んでから、お願いいたしますと言い直した。佐伯は構わず手を差し出す。
今度は白哉もすぐに払わなかった。伸びてきた手へ触れ、佐伯の肘を見る。押さえられる前に肩へ回ろうとしたが、佐伯が半歩退くと届かなくなった。
追ったところへ、掌が来る。
白哉が身を捻って避ける。佐伯はそれ以上押さず、足を止めてくれた。白哉は自分の手を見てから、また相手を見る。
「どうして、届かないのですか」
「私が離れた分まで、腕だけで追おうとなさったからです」
「足も出しました」
「はい。ただ、その時には肩が前へ出ておりましたので、こちらから押しやすくなっておりました」
白哉が胸へ触れる。
佐伯は同じように腕を伸ばし、今度はゆっくり離れた。白哉もついていく。肩が前へ出たところで止めてもらうと、自分で足を寄せ直した。
あら。もう一度、最初から頼むのかと思ったよ。
「この位置なら?」
「先ほどよりは、押されにくいと思います」
「では、押してください」
佐伯の掌が胸へ当たる。白哉は足を踏みしめたが、そのまま耐えようとして身体を反らした。佐伯が力を抜くと、今度は前へ戻りすぎる。
榛名が傍で頷いていた。
お前さんも、そこはよくやったねぇ。
「受け止めなくてもいいよ」
俺が声を掛けると、白哉がこちらを見た。
「押される前と、同じところへ立ってなくてもいいんだよ。足を動かしてみようか」
「ですが、それでは離れてしまいます」
「うん。一度離れてから、もう一度近づいてもいいでしょう」
「……はい」
白哉が佐伯へ向き直る。
さっきより、足元を気にしていた。押されると一歩下がり、そのまま腕を払って戻る。佐伯の肩へ伸ばした手はまた止められたが、今度は自分から離れた。
そうそう。
届かなかったところで、全部やめなくてもいいんだよ。
「祖父上なら、ここで腕を取られます」
「では、私も取りましょうか」
「はい」
佐伯の手が白哉の手首を掴む。白哉はすぐに肘を曲げ、身体を寄せて外そうとした。取られた後も、よく覚えているんだねぇ。けれど佐伯は指を緩めず、白哉が動いた方へ自分も足を運んだ。
外れない。
白哉の眉が寄った。さらに力を込めたところで、佐伯が少し腕を下げる。引かれた身体が傾き、白哉は空いた手を地面へついた。
「っ……」
佐伯が手を離す。
白哉はすぐに立ち上がった。土のついた掌を一度握り、開いてから、もう一度礼をする。
「ありがとうございました」
そのまま戻ってくるのかと思ったら、佐伯の手首を示した。
「今のところを、もう一度見せていただけますか」
「はい。ゆっくりでよろしければ」
蒼純の肩が少し緩む。
俺も隣から白哉を眺めた。悔しそうな顔はしている。けれど、帰るとは言わないんだねぇ。佐伯がまた手を伸ばすと、今度は取られるところからよく見ていた。
*
「白哉坊。何をしておる」
聞き覚えのある声に、白哉の手が止まった。
塀の上に夜一がいた。俺へ片手を上げてから、庭へ降りてくる。蒼純が挨拶をすると、そちらにはちゃんと返した。けれど白哉の前へ来た時には、もう笑っていた。
「十番隊まで稽古に来たのか」
「……何の用だ」
「儂は烏有に会いに来たんじゃ。お主こそ、家の庭では狭くなったか?」
白哉が口を閉じる。
さっきまで佐伯へ聞いていた顔と、随分と違うねぇ。夜一はその手元を覗き、土のついた掌を見つけた。
「転ばされたな」
「転んでいない」
「では、その手はどうした」
「手をついただけだ」
それなら、転んではいないのかな。
俺が少し考えていると、夜一がこちらを見た。
「どうじゃ。白哉坊は」
「よく見てるよ。佐伯にも、何度も頼んでる」
「ほう。では、儂の相手もできそうじゃな」
「お前が、こっちへ来い」
白哉が一歩出る。
夜一はそこから動かなかった。手の届くところで待ち、白哉が腕を伸ばすと横へずれる。その肩へ指を当てた。
「遅い」
「まだだ!」
振り返った白哉の手が、夜一の袖を掠めた。
さっき佐伯へ入った時より、ずっと速い。夜一も少し眉を上げたが、そのまま白哉の背へ回った。髪を括っていた紐を抜くと、長い髪が肩へ落ちる。
「おっ」
「返せ!」
白哉が振り返る。夜一はもう、紐を指へ掛けて揺らしていた。
「取ってみよ」
「夜一」
蒼純が呼ぶ。けれど、白哉は先に地面を蹴っていた。
夜一が庭を横切る。その後を白哉が追った。真っ直ぐ行くのかと思ったら、途中の石へ足を掛け、横へ跳ぶ。夜一が曲がろうとした先へ手を伸ばした。
届きかける。
夜一は紐を持つ手を上げ、その下を白哉に通り抜けさせた。白哉が足をついて振り返る。もう一度走ろうとしたところで、俺も縁側から立った。
「二人とも。そっちは皆がいるよ」
夜一がすぐ足を止めた。
白哉も止まる。庭の向こうでは、槇島たちが場所を空けようとしていた。白哉はそちらを見てから、握っていた手を下ろす。
「……申し訳ありません」
「うん。こっちなら空いてるからね」
庭の端を示すと、蒼純が俺を見る。
あら。止めてほしかったかい。
けれど夜一は、白哉の前へ戻っていた。紐を差し出し、取ろうとした指の先でひょいと上げる。
「まだ追えるじゃろう?」
「当たり前だ」
白哉が構える。
俺は今度、夜一の手から紐を取った。
「おっ?」
あいつの顔がこちらを向く。白哉まで俺を見たので、紐を返してあげようかと思ったが、それではまだ走りたそうな顔が二つ残ってしまう。
「じゃあ、俺が持ってようか」
「烏有。儂は取る方か?」
「うん。白哉も。取れた方に渡すよ」
「私の髪紐ですが」
白哉の言う通りだった。
俺が頷いて差し出すと、今度は夜一がその手を押し戻す。
「よいではないか。儂より先に取れば、お主の勝ちじゃ」
「……お前には負けない」
「それは、取ってから言うんじゃな」
二人が俺の前へ並んだ。
蒼純が額へ手を当てる。佐伯は傍へ来たものの、何を言うか少し迷っているようだった。俺が紐を見せると、あいつは笑って一歩下がった。
「私が、お二人の動きを見ております」
「うん。後で教えてあげてねぇ」
白哉が俺へ礼をする。夜一もその横で、わざとらしく同じように頭を下げた。白哉が睨むと笑い、すぐこちらへ目を戻す。
お前さんたち、仲がいいねぇ。
口へ出したら、白哉は怒るだろうか。そう思いながら紐を指へ掛けると、二人の足が同時に動いた。
夜一は右へ。
白哉は左へ来かけて、途中で足を止めた。俺が夜一へ向けた手を見て、その後ろへ回る。さっき佐伯とやったことを、もう試すつもりらしい。
いいよ。
俺も少しだけ、紐を持つ手を下げた。
伸びてきた白哉の指を避けると、その向こうから夜一の手が来る。こちらを払えば、白哉がまた追ってきた。
縁側で蒼純が笑った。
今日はあいつにも、少し待っていてもらおうか。白哉が何を教わったか、もう見せてくれているところだからねぇ。