逃れし影に 水は騒ぎ
戻りし軒に 灯はともる
床板を上げた五番隊の子が、すぐに顔を引いた。
暗がりから飛び出した爪を刀で受け、隣の子がその下へ刃を入れる。細長い虚が土間へ転がった。起き上がる前に榛名が頭を斬り、家の奥へ残っていた女へ声を掛けた。
「こちらへ。足元にお気をつけください」
女は抱えていた包みを胸へ寄せ、隊士の後ろへつく。何が入っているのかと思ったら、中から猫が顔を出した。暴れずに抱かれている。そいつも、よほど怖かったんだねぇ。
「ほかに、誰かいる?」
「いえ。私だけです」
「うん。じゃあ、向こうで少し待っててね」
榛名が外へ連れていく。俺は開いた床下を覗いた。奥には何もいない。柱へ爪の跡が残り、その手前で土が深く掻かれていた。
急いで入ったのかい。
家へ入る前にも、同じような跡を見た。小さな虚は俺たちを見つけると襲ってくるけれど、最初から人を追って潜んでいたにしては、家の奥ばかりへ入り込んでいる。
「そっちも、もうおらん?」
平子が戸口へ来た。俺が頷くと、後ろへいた子に家の確認を終えたと伝える。そいつが走っていく間に、平子も床下を覗いた。
「また、えらい奥まで入ったもんですね」
「何かから逃げてきたのかな」
「俺らから、ですか」
「俺たちが来る前から、ここへいたんでしょう?」
平子が柱へ目を向ける。俺も土へ指を触れた。乾いた表面の下は、まだ柔らかい。爪を立てて、奥へ奥へと身体を押し込んだらしい。
その時、外から佐伯に呼ばれた。
川へ近い家を見ていた組が戻っている。二人とも怪我はなかったが、片方の袖が濡れていた。
「川岸の方から、一体出てきました。こちらへ向かってきたため斬りましたが、その前に、何か大きな音が」
「水の音?」
「はい。何かが落ちたような音でした」
俺は家々の向こうを見る。屋根の間から、川沿いの木が覗いていた。鳥が何羽か飛び立ち、少し遅れて枝が揺れる。
さっきまで、あそこは静かだったねぇ。
「佐伯。こっちをお願い」
「承知しました。まだ調べていない家がございますので、榛名たちと進めます」
「うん。川から来たら、追わずに教えてね」
平子も隊士を二人呼び、佐伯へ預けた。戻りかけていた藍染には、川へ行くでと声を掛ける。あいつはすぐ頷き、刀を持ち直した。
「川岸は、この先から下りられます」
「人は?」
「先ほど、釣りをしていた者を二人、道へ戻しました。下流にも声を掛けさせております」
ちゃんと見てきたんだねぇ。
俺が頷くと、藍染は先に立とうとした。けれど平子がその肩へ手を置き、俺の方を見る。
「今回は、先に行ってもろてもええですよ」
「お前さん、今度はいいの?」
「行かせたない時に行かれるから困るんです。今は、頼んでます」
それなら、頼まれておこうか。
俺は二人の横を抜け、川へ続く道へ入った。
*
岸の土が、内側から崩れていた。
水へ伸びた木の根が持ち上がり、その下から白い顔が出ている。大きいねぇ。家の塀より高かったという話も、こいつならよく分かる。
虚の口が動いた。
歯の間に細い腕が見える。まだ動いていたが、顎が閉じると途中で切れた。残った爪が土を掻き、そのまま口の中へ引き込まれる。
「ああ。食われるのが嫌で逃げとったんか」
平子が隣へ来た。俺も頷き、岸の斜面を見る。小さい爪の跡がいくつも上へ続いていた。あそこから這い上がり、家へ潜り込んだんだねぇ。
虚がこちらを向く。
四本の腕を土へつき、身体を持ち上げた。腹の下には短い足が幾つもある。水の中へ伏せていた時より、随分と長い。
「家へ上がらせたくないね」
「そら、そうでしょうね。あの図体で通られたら、道ごとなくなりますわ」
平子が刀を上げる。藍染も少し離れ、虚の横へ回ろうとしていた。川と家の間には、俺たちの下りてきた細い道しかない。
ここで斬って倒すと、腕が上へ掛かるかな。
そう思ったところで、虚が口を開いた。
「おるなあ」
濁った声が、水の上へ広がる。
「うまそうなのが、おるなあ」
目が俺へ向いた。四本の腕のうち、二本が同時に伸びる。片方は俺の頭へ、もう片方は岸を掴もうとしていた。
「そこは、駄目だよ」
刀を抜き、頭へ来た腕を斬る。返した刃でもう一本を落とすと、虚の身体が前へ傾いた。残った腕が土を掴む前に、俺はその胸へ足をつく。
そのまま川の方へ押した。
大きな身体が岸から離れる。虚が口を開け、俺の足へ噛みつこうとしたので、顎へ白縫を回した。上を向かせ、伸びてきた腕もまとめて引く。
「平子。少し下がってて」
「もう下がってます!」
返事が聞こえたので、足場にしていた胸から離れた。
虚の背後へ瞬歩で回る。家々は向こう岸の上だ。こちらへ倒せば、川の真ん中へ収まる。
糸を引くと、白い顔が俺を追って上がった。
「ぐ、あっ⸺」
仮面の額から刀を通す。
刃を止めずに振り抜き、虚の身体から足を離した。大きく開いた口が閉じないまま川へ落ちる。俺は水面の手前で立ち、跳ね上がる水を左手の霊力で押さえた。
岸まで飛ばなければ、それでいい。
水が落ち着くのを待ってから、刀を払う。家のある方へ顔を向けると、平子が岸の端からこちらを見ていた。
「済んだよ」
「それは見たら分かります。こっちへ戻ってから言うてください。水の上で立ち話せんでええでしょう」
ああ、そうだねぇ。
岸へ戻ると、藍染が俺の足元へ目を落とした。それから川を見て、刀を納める。
「……あの位置から斬って、岸へ倒さずに済むのですね」
「先に川へ押したからね。足場を残しておくと、そっちへしがみつくでしょう」
「腕を斬った時には、もう背後へ回るところまでお決めに?」
「うん。頭を上げてもらえれば、上から斬れるからねぇ」
藍染の目が俺の左手へ向く。
「白い糸も、そのために」
「そう。引きすぎると、こっちへ飛んでくるけど」
「その加減まで、あの短い間に確かめておられたのですか」
「お前、よう喋るな」
平子が間へ入った。
藍染は口を閉じ、少し笑って頭を下げる。
「失礼しました。つい、気になりまして」
「帰ってから聞いたらええやろ。まだ家ん中、確かめてる連中がおるんやから」
「はい」
藍染が道へ戻る。俺も続こうとして、もう一度川へ目を向けた。さっき土を掴んでいた爪は、もう見えない。
あいつは、俺が腕を斬ったところから見ていたんだねぇ。
ただ強かったと言われるより、どこを見ていたか分かる聞き方だった。喜助もそういうところがある。けれど、同じ調子で嬉しくなっていい相手なのか、俺にはまだ決められなかった。
「烏有隊長」
平子に呼ばれる。
顔を上げると、道の途中で待っていた。俺はそちらへ手を振り、今度こそ川を離れた。
*
最後の家を見終える頃には、竈から煙が上がり始めていた。
川の向こうへ行くつもりだった者たちが、荷を持って戻ってくる。まだ見張りは残すと伝えると、女が家の戸を開けた。さっき抱えていた猫が飛び下り、自分で中へ入っていく。
お前さんは、もう大丈夫そうだねぇ。
榛名が戻ってきたので、腕を見せてもらう。袖が少し裂けていたが、傷は浅い。手を当てると、あいつは向こうの家を気にしていた。
「運んだ者も、落ち着いております。今夜は親類が一緒にいるとのことでした」
「そっか。水も飲めた?」
「はい。食事も取れそうだと」
「じゃあ、よかったねぇ」
手を退ける。榛名は腕を一度曲げてから頭を下げ、待っていた隊士たちへ戻った。
佐伯は平子と数を確かめている。どの家で何体斬ったか、誰を向こう岸へ運んだか。五番隊の子が紙へ書きつけ、藍染が地図の印を直していた。
俺も覗くと、平子が指で道を示す。
「この辺りは、今夜もう一度回ります。川岸も、土が崩れたところへ誰か近づかんようにしときますんで」
「うん。十番隊からも残そうか」
「佐伯副隊長と、もう決めました。そっちから二人、うちから二人です」
「そっか。ありがとうねぇ」
佐伯が頷く。
あいつが相談してくれるので、俺は治療を済ませてから戻ってこられる。山では二人で何でもやっていたけれど、ここへ帰れば頼める相手がいるんだねぇ。
「ほな、戻りましょか」
平子が紙を畳む。
橋へ向かう途中、家の前にいた男から呼び止められた。手を怪我していた方だった。もう布は替えてある。今夜は見張りがいると聞いて、もう一度確かめたかったらしい。
「はい。何かあれば、近くの死神へ声を掛けてください」
藍染が答える。
男が礼をすると、あいつは足元に置かれた桶を持ち上げた。戸の内側へ入れ、手を使いすぎないよう言ってから戻ってくる。
俺は少しだけ、その顔を見た。
男へ向けた笑みは、さっき俺へ挨拶した時とよく似ていた。
*
「で、何食べます?」
瀞霊廷へ戻り、報告を済ませたところで平子が言った。
俺は隣へいた佐伯を見る。あいつも少し驚いた顔だったが、平子はもう歩き出している。藍染にも、お前も来いと声を掛けていた。
「飯に行くの?」
「腹減ったでしょう。昼、ろくに食うてへんのですから」
「うん。お前さんが誘ってくれると思ってなかったよ」
「俺かて飯くらい誘います。店の前で、そんな珍しそうな顔せんといてくださいね」
それなら、気をつけるよ。
入った店には、まだ少し席が空いていた。四人で座ると、平子が壁へ掛かった品書きを見上げる。俺も同じように見ていたら、隣の佐伯が先に茶を寄せてくれた。
「焼いた魚もあるんだねぇ」
「それにします?」
「うん。佐伯は?」
「私は、煮た方を」
「では、僕も同じものをお願いします」
藍染が言う。
さっきまで任務の話をしていた声が、店の中では少し低かった。平子が自分の分まで頼むと、あいつは置かれた箸を皆へ配る。俺の前にも一膳来たので、礼を言って受け取った。
「お前さんたちは、よく一緒に来るの?」
「こいつ、放っといたら本読んでるんで。飯、食うたか聞いたら、まだや言うことがあるんです」
「毎回ではありませんよ」
「毎回やったら、毎回引っ張り出してるわ」
「では、その分は助かっております」
平子が藍染を見る。
藍染は茶を飲んでいた。言い返したつもりもなさそうな顔だったので、俺は少し笑ってしまう。
「どんな本を読むの?」
「いろいろと。鬼道に関するものも読みますし、流魂街の昔話を集めたものも」
「昔話?」
「はい。土地によって、随分と違いますので。同じような話でも、出てくる者の名前が変わっていたり」
「それ、俺も聞いたことがあるねぇ」
山の中へ住む大きな虚の話だったかい。
別の村では、川から来る化け物になっていた。どちらも、夜に子供を外へ出さないために聞かせている。俺が実際に見たか尋ねたら、どちらの爺さんも、自分の爺さんから聞いたと言っていたねぇ。
そう話すと、藍染が湯呑を置いた。
「その話は、どちらで?」
「随分と昔だからねぇ。川の名前まで、今も同じかな」
「覚えておられるところだけでも、伺えますか」
「飯が来てからにしとき」
平子が箸を持ち上げた。
「お前ら二人で喋り出したら、魚、冷めるで」
「まだ来てないよ」
「来る前から言うとかんと、来てからも喋るでしょう」
佐伯が笑った。
藍染も口元を緩め、では後ほどと湯呑を取る。俺は頷いたが、何から話そうか少し考えてしまった。あの村では、魚を塩で包んで焼いていた。話の中身より先に、そっちを思い出す。
「佐伯。山で焼いてた魚、覚えてる?」
「はい。隊長が、もう少し待とうと仰って、私の分まで焦げた時のことでしょうか」
「そっちじゃないよ」
「そんなこともさせてたんですか」
平子が身を乗り出す。
佐伯は少し考え、私も火を見ておりませんでしたのでと答えた。庇ってくれたのかな。それとも、一緒になって別の話をしていたことを思い出したのかい。
「稽古の話をしておりまして。魚を裏返すのを忘れておりました」
「五十年も一緒におったら、そういうことまで似てくるんですねぇ」
「お前さんも、喋ってたら忘れるんじゃない?」
「俺は、食うもん来たら箸持ちます」
ちょうど、皿が運ばれてきた。
平子が言った通り箸を取る。佐伯も藍染も手を合わせたので、俺も続いた。焼けた皮を少し割ると、中から湯気が上がる。
うん。今日は焦がさずに食べられるねぇ。
「烏有隊長」
藍染に呼ばれ、顔を上げる。
何か聞かれるのかと思ったら、あいつは俺の袖を示した。皿の縁へ掛かりそうになっていたので、肘を引く。
「ありがとう」
「いえ」
それだけ返し、藍染は自分の箸へ目を戻した。
俺も魚を一口いただく。今日会ったばかりの男と、同じ卓で飯を食っている。覚えていたことも、今日初めて見たことも、どちらもある。
向かいでは平子が、佐伯へ山の話をせがんでいた。俺が大袈裟に話さないでねと頼むと、佐伯はまだ何も申し上げておりませんと笑った。
その横で、藍染も聞いている。
俺はもう一度袖を引き、皿へ箸を伸ばした。