競いし足に 土は跳ね
見守りし軒に 影は伸ぶ
「今日は、喜助の箱はないぞ」
夜一が両手を広げた。
何も持っていないのは見れば分かるよ。けれど、わざわざそう言って庭へ下りるのだから、茶を飲みに来たわけでもないらしい。俺が湯呑を置くと、隣にいた佐伯まで腰を浮かせた。
「お主を借りに来た。夕月にも話は通してある」
「俺?」
「ほかに誰がおる」
「佐伯もいるよ」
「なら、二人ともじゃ」
あら。増えたねぇ。
佐伯を見ると、もう袖を整えていた。少し前まで喜助と一緒に紙を広げていたのに、今日は夜一に付き合ってくれるらしい。俺も立ち上がり、残った茶を飲もうとしてから、もう一度座った。
「先に行ってて。すぐ追いつくよ」
「飲んでから立てばよかろう」
「立ってから気づいたんだよ」
夜一が笑う。佐伯も待ってくれたので、結局、三人で隊舎を出た。
この五年、夜一とは何度も庭を走った。あいつは俺の袖へ触れたいし、俺は踏まれた草を見て、榛名に何と言おうか考える。よそでやってくださいと言われてからは、二番隊へ行くことも増えた。
今日もそちらへ向かう。夜一は先を歩きながら、時々俺たちの足へ目を落としていた。
「佐伯。お主も、烏有に手が届かんのか」
「届くことはございます」
「ほう」
「その後、止められますが」
夜一がこちらを振り返った。
「届けばよいのではないか」
「稽古ならねぇ。でも、届いたところで止まったら、相手の刀が来るでしょう」
「儂には、まず触らせぬくせに」
「お前さん、触ったら喜ぶじゃないか」
「当たり前じゃ!」
声が大きい。
佐伯が笑ったので、夜一の目がそちらへ向いた。あいつは笑ったまま頭を下げたが、夜一はもう俺を見ていなかった。
「今日は、先にお主とやる」
「私でよろしければ」
「よいとも。烏有の前で、どこまでできるか試したい」
佐伯がこちらを見る。
いいよと頷くと、夜一は満足そうに前へ向き直った。
俺とばかり走っていた頃より、少し背が伸びただろうか。そう思って見ていたら、道の向こうから来た者へ声を掛け、午後の稽古に遅れると伝えている。相手も分かっていたようで、場所を尋ねると先に走っていった。
見に来る子までいるんだねぇ。
今日は俺も、ちゃんと座っていようか。
*
佐伯が刀を壁際へ置いた。
夜一もその隣へ自分の刀を預ける。二番隊の稽古場には、もう何人か残っていた。俺へ礼をした後は、皆、庭の真ん中へ目を向けている。空いていた縁へ座ると、後ろから夕月の声がした。
「お前はやらんのか」
「後で頼まれるかもしれないねぇ」
「先に佐伯か」
「夜一が選んだよ」
夕月は頷き、俺の隣へ腰を下ろした。
茶はない。菓子もない。今日は見るだけだろうと思っていたら、夜一がこちらを向く。
「よく見ておれよ」
「うん。見てるよ」
「佐伯。遠慮はいらん」
「承知しました」
夜一が足を開いた。佐伯も両手を上げる。始める声を頼まれたので、俺が片手を下ろすと、夜一はもう佐伯の前へ出ていた。
右の拳が顔へ走る。
佐伯が左手で外へ払った。夜一はその腕を掴まず、身を沈めて腹へ左を入れる。佐伯の右肘が下がったところへ、今度は足が伸びた。
「はっ!」
脇腹を狙った蹴りを、佐伯が腕で受けた。足が地面を滑る。夜一は着地せず、引きつけた膝をその胸へ向けた。佐伯が後ろへ離れ、ようやく二人の間が開く。
夜一が笑っている。
前は二つ目の拳を避けられると、そこで追う足が遅れたねぇ。今日は三つ、四つと続いた。最初の一つを当てるつもりで踏み込みながら、次に蹴る場所まで決めてきている。
「まだ行くぞ!」
佐伯の右へ夜一が消えた。振り向いた佐伯の肩へ掌が伸びる。その手が届く前に、佐伯は半歩後ろへ下がった。
夜一も追う。
そこへ、佐伯の手が入った。伸ばした腕を手首と肘で押さえ、身体の横へ引く。夜一の足が浮きかけたが、あいつはすぐに地面を蹴った。
自分から、佐伯の肩を越えた。
「おっと」
俺まで声が出る。
夜一は背後へ降りながら腕を捻り、佐伯の手から抜けた。そのまま足を払う。佐伯が片足を上げ、夜一の肩へ手を置いた。
今度こそ、地面へ伏せられた。
「……っ、今のも止めるか」
夜一が顔を横へ向ける。佐伯は腕を押さえたまま待っていたが、参ったと聞いてから手を離した。
俺は拍手をした。夜一がこちらを見るので、今のはよかったねぇと伝える。
「どっちじゃ」
「肩を越えたところ」
「あれは、前にお主に投げられた時から考えておった」
「俺にもやるつもりだったの?」
「当たり前じゃろう」
佐伯へ先に見せちゃったねぇ。
そう言うと、夜一は土を払いながら立ち上がった。けれど、こちらへ来るつもりはないらしい。佐伯へ向き直り、もう一度じゃと手を上げる。
「最後は、どこで分かった」
「着地された時です。すぐに足を払える位置でしたので」
「足を見たのか」
「腰も。ですが、腕を抜かれた時には驚きました」
「なら、次は驚いている間に当てる」
いい顔をするねぇ。
佐伯も少し笑い、構え直した。今度は夜一がすぐには動かない。足を少しずつずらし、佐伯の正面から外れようとする。そのたびに佐伯も向きを変えた。
俺も山で、ずっと回られたことがあった。
どちらへ行っても正面を向かれるので困った、と後で佐伯に言われたねぇ。困っていた割に、飯の後まで続けようとしたのは、お前さんの方だったでしょう。
「お前、口が動いておるぞ」
「何か言った?」
「いや。笑っておった」
夕月に言われ、口元へ手をやる。
その間に夜一が入った。佐伯の左へ踏み込み、上げた腕の下を抜けようとする。佐伯が身体を向けたところで、夜一は足を止めた。
さっきより、近い。
佐伯の手が肩へ来る前に、その胸へ掌を打った。乾いた音が響く。佐伯の上体が揺れ、夜一がもう片方の拳を引いた。
「もらった!」
佐伯が夜一の右手首を掴む。
胸を打たれた勢いに合わせて身体を引き、踏み込んできた足の外へ自分の足を置いた。夜一も気づいて拳を開いたが、佐伯はもうその肘を押さえていた。
腰が回る。
夜一の身体が地面へ落ちる手前で、佐伯の手が背へ添えられた。音は小さかった。けれど、肩を押さえられた夜一は、すぐには起きられない。
「……当たったぞ」
「はい」
「なのに、何故そっちが勝つ」
「当たる前から、掴むつもりでおりましたので」
夜一が佐伯の胸を見る。
そこへ、あいつも目を落とした。死覇装には掌の跡が残っている。軽く触れてから手を退けたので、俺も少し身を起こした。
「佐伯。痛かった?」
「はい。よいところへいただきました」
「受けなくてもよかったんじゃないかい」
「次の拳まで、出していただこうと思いまして」
夜一が黙った。
怒ったのかと思ったが、佐伯の右手を見ている。さっき自分を掴んだ手だ。手を離してもらうと起き上がり、同じところへ自分の指を置いた。
「先に、こっちを待っておったのか」
「ええ。二度目は、もっと強く踏み込まれると思いました」
「……そうか」
夜一が息を吐く。
俺なら、あそこへ掌を通したくなかったかもしれないねぇ。佐伯の前で何でも避けて、足りないところを探してもらうことばかり考えていた。こいつは当てさせた上で、その次まで見せようとしている。
胸が痛いのは、後で治そうか。
「もう一度じゃ」
夜一が立った。
佐伯も立ち上がり、服についた土を払う。夜一はその手を待ってから、今度は少し深く腰を落とした。
「次は、そこを掴ませぬ」
「では、私も別のところを」
「言わんでよい!」
声を上げながら笑っている。
周りにいた子たちも、いつの間にか近くへ寄っていた。一人が今の足の位置を隣へ尋ねている。佐伯も聞こえたらしく、始める前に足元を示した。
夜一までそちらを見るので、俺は夕月と顔を合わせた。
すぐには、終わりそうにないねぇ。
*
「烏有。手を出せ」
ようやく休むことになった夜一が、俺の前へ来た。
出してやると、その掌へ自分の掌を合わせる。押し合いたいのかと思って少し力を入れたら、違うと言われた。
「さっきのを確かめるだけじゃ」
「俺へ打ってみる?」
「今やったら、お主は避けるじゃろう」
「うん」
「なら、ここでよい」
掌を離し、今度は俺の手首を掴む。佐伯がどう返したか、自分の身体で確かめたいらしい。横から本人が教えると、夜一は俺の肘へ手を移した。
お前さんたちでやった方が、早いんじゃないかい。
そう思ったけれど、夜一は俺の腕を曲げたり伸ばしたりしている。佐伯も、そこから引かれると返せますと話を続けるので、しばらく貸しておくことにした。
「こうか」
「はい。ただ、そちらへ寄りすぎますと⸺」
「こうされるねぇ」
夜一の手を外し、肩へ軽く触れる。
本人が一歩退いた。俺を見てから佐伯を見て、もう一度じゃと言う。
「休むんじゃなかったの?」
「今ので疲れるか」
「俺は疲れないけど、お前さん、息が上がってたよ」
「もう戻った」
そう言い張ったところで、腹が鳴った。
夜一が自分の腹を見る。佐伯が顔を横へ向けたので、俺も笑わないように口を閉じた。夕月だけは遠慮なく笑い、先に食ってこいと立ち上がる。
「佐伯。付き合ってやってくれ。こいつを残すと、飯の前にまた始める」
「承知しました」
「その後は、烏有じゃぞ」
「うん。飯の後ならね」
夜一は念を押してから、佐伯と庭を出た。
二番隊の子たちもついていく。途中で一人が佐伯へ尋ねたので、あいつは歩きながら手を動かしてみせた。夜一が横から、そこは儂がもう一度試すと言っている。
皆、腹は減っていないのかい。
最後の一人が角を曲がるまで見送り、俺は縁へ座り直した。夕月も戻ってくる。今度は茶を頼んでくれたので、もう少し待っていられそうだ。
「よく動くようになったねぇ」
「まだ、勝ちたい方へ目が寄る」
「勝ちたいだろうさ。俺もそうだったよ」
「お前は今もそうだろう」
それは、相手によるでしょう。
言い返そうとして、佐伯が次の稽古を頼んできた時のことを思い出した。前より届くようになったと言われると、その先も見せてやりたくなる。先生にも、昔はそうしてもらった。
「夕月にも、あんなふうに来る?」
「ああ。負けたところを直したと言ってな。別のところで投げると、しばらく帰らん」
「うちでも、そうだよ」
「知っておる。お前に何をされたか、帰るたびに話すからな」
あら。
夜一の話は、夕月のところまで続いていたんだねぇ。俺が黙っていると、あいつは庭へ目を向けた。さっきまで二人が走っていた土には、まだ足跡が残っている。
「佐伯には、よい相手をしてもらった」
「本人も嬉しそうだったよ」
「そうか」
「うん。教えて、もう一度来てもらえると嬉しいからねぇ」
夕月が頷く。
茶が来たので、二人で受け取った。菓子もある。先に一つ取ると、夕月はいつものように皿を寄せてくれた。
「あいつに任せる日も、そう遠くないと思っておる」
手を止め、そちらを見る。
夕月は湯呑を持ったまま、俺へ顔を向けた。冗談を言う顔ではなかった。けれど、何か困って相談しているようにも見えない。
「当主の方?」
「そちらもだ。任せる以上、家の名だけでは済まん」
「二番隊も、見てもらうんだねぇ」
「ああ。自分で前へ出るだけなら、今のあいつにもできる。その後ろにいる者まで見られるかは、これからだ」
俺は菓子を皿へ戻した。
夜一が皆を連れて歩くところを思い浮かべる。あの速さで先へ出たら、追いつけない子もいるだろうねぇ。けれど今日、佐伯に投げられた後で、周りの子が何を聞いているかは自分でも確かめていた。
「ちゃんと聞いてたよ。さっきも」
「うむ」
「自分の番を取られるのは、嫌そうだったけど」
「そこも、もう少し直してもらわねばな」
夕月が笑う。
俺も笑い、庭へ目を戻した。ここへ来ると、こいつは大抵仕事をしている。俺が茶を飲んでいても呼ばれるし、戻ってから冷めた湯呑を取ることもあった。
「任せたら、少し暇になるかい」
「今よりはな」
「じゃあ、その時はお前さんも、うちへおいでよ」
「菓子を持ってか」
「なくてもいいよ。佐伯が茶を淹れてくれるから」
それは悪いなと返される。
自分で淹れてもいいんだよ。そう続けたら、夕月は湯呑を置いて笑った。夜一たちの声が聞こえてきたのは、その時だった。
もう食べ終えたのかい。
俺は戻していた菓子を取り、先に口へ入れた。夕月がそれを見て立ち上がる。どうせ呼ばれるぞと言われたところで、庭の入口へ夜一の顔が出た。
「烏有! 約束じゃ!」
佐伯が後ろで頭を下げている。
俺は茶を飲んでから、湯呑を置いた。今日はちゃんと、立つ前に済ませたよ。
「分かってる。今度は、どこへ触りたいの?」
「どこでもよい。逃げた先で決める」
「へえ」
それなら、こちらも少し遠くへ行こうか。
庭へ下りると、夜一が嬉しそうに足を開いた。佐伯は俺の座っていたところへ腰を下ろす。夕月もその隣へ戻り、二人でこちらを見ていた。
夜一が走る。
俺もその足に合わせて、一歩目を踏んだ。