卍解のその先を追い求めて。   作:lalaland

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競いし足に 土は跳ね
見守りし軒に 影は伸ぶ




115.疾風の若枝

 

 

「今日は、喜助の箱はないぞ」

 

 夜一が両手を広げた。

 

 何も持っていないのは見れば分かるよ。けれど、わざわざそう言って庭へ下りるのだから、茶を飲みに来たわけでもないらしい。俺が湯呑を置くと、隣にいた佐伯まで腰を浮かせた。

 

「お主を借りに来た。夕月にも話は通してある」

「俺?」

「ほかに誰がおる」

「佐伯もいるよ」

「なら、二人ともじゃ」

 

 あら。増えたねぇ。

 

 佐伯を見ると、もう袖を整えていた。少し前まで喜助と一緒に紙を広げていたのに、今日は夜一に付き合ってくれるらしい。俺も立ち上がり、残った茶を飲もうとしてから、もう一度座った。

 

「先に行ってて。すぐ追いつくよ」

「飲んでから立てばよかろう」

「立ってから気づいたんだよ」

 

 夜一が笑う。佐伯も待ってくれたので、結局、三人で隊舎を出た。

 

 この五年、夜一とは何度も庭を走った。あいつは俺の袖へ触れたいし、俺は踏まれた草を見て、榛名に何と言おうか考える。よそでやってくださいと言われてからは、二番隊へ行くことも増えた。

 

 今日もそちらへ向かう。夜一は先を歩きながら、時々俺たちの足へ目を落としていた。

 

「佐伯。お主も、烏有に手が届かんのか」

「届くことはございます」

「ほう」

「その後、止められますが」

 

 夜一がこちらを振り返った。

 

「届けばよいのではないか」

「稽古ならねぇ。でも、届いたところで止まったら、相手の刀が来るでしょう」

「儂には、まず触らせぬくせに」

「お前さん、触ったら喜ぶじゃないか」

「当たり前じゃ!」

 

 声が大きい。

 

 佐伯が笑ったので、夜一の目がそちらへ向いた。あいつは笑ったまま頭を下げたが、夜一はもう俺を見ていなかった。

 

「今日は、先にお主とやる」

「私でよろしければ」

「よいとも。烏有の前で、どこまでできるか試したい」

 

 佐伯がこちらを見る。

 

 いいよと頷くと、夜一は満足そうに前へ向き直った。

 

 俺とばかり走っていた頃より、少し背が伸びただろうか。そう思って見ていたら、道の向こうから来た者へ声を掛け、午後の稽古に遅れると伝えている。相手も分かっていたようで、場所を尋ねると先に走っていった。

 

 見に来る子までいるんだねぇ。

 

 今日は俺も、ちゃんと座っていようか。

 

        *

 

 佐伯が刀を壁際へ置いた。

 

 夜一もその隣へ自分の刀を預ける。二番隊の稽古場には、もう何人か残っていた。俺へ礼をした後は、皆、庭の真ん中へ目を向けている。空いていた縁へ座ると、後ろから夕月の声がした。

 

「お前はやらんのか」

「後で頼まれるかもしれないねぇ」

「先に佐伯か」

「夜一が選んだよ」

 

 夕月は頷き、俺の隣へ腰を下ろした。

 

 茶はない。菓子もない。今日は見るだけだろうと思っていたら、夜一がこちらを向く。

 

「よく見ておれよ」

「うん。見てるよ」

「佐伯。遠慮はいらん」

「承知しました」

 

 夜一が足を開いた。佐伯も両手を上げる。始める声を頼まれたので、俺が片手を下ろすと、夜一はもう佐伯の前へ出ていた。

 

 右の拳が顔へ走る。

 

 佐伯が左手で外へ払った。夜一はその腕を掴まず、身を沈めて腹へ左を入れる。佐伯の右肘が下がったところへ、今度は足が伸びた。

 

「はっ!」

 

 脇腹を狙った蹴りを、佐伯が腕で受けた。足が地面を滑る。夜一は着地せず、引きつけた膝をその胸へ向けた。佐伯が後ろへ離れ、ようやく二人の間が開く。

 

 夜一が笑っている。

 

 前は二つ目の拳を避けられると、そこで追う足が遅れたねぇ。今日は三つ、四つと続いた。最初の一つを当てるつもりで踏み込みながら、次に蹴る場所まで決めてきている。

 

「まだ行くぞ!」

 

 佐伯の右へ夜一が消えた。振り向いた佐伯の肩へ掌が伸びる。その手が届く前に、佐伯は半歩後ろへ下がった。

 

 夜一も追う。

 

 そこへ、佐伯の手が入った。伸ばした腕を手首と肘で押さえ、身体の横へ引く。夜一の足が浮きかけたが、あいつはすぐに地面を蹴った。

 

 自分から、佐伯の肩を越えた。

 

「おっと」

 

 俺まで声が出る。

 

 夜一は背後へ降りながら腕を捻り、佐伯の手から抜けた。そのまま足を払う。佐伯が片足を上げ、夜一の肩へ手を置いた。

 

 今度こそ、地面へ伏せられた。

 

「……っ、今のも止めるか」

 

 夜一が顔を横へ向ける。佐伯は腕を押さえたまま待っていたが、参ったと聞いてから手を離した。

 

 俺は拍手をした。夜一がこちらを見るので、今のはよかったねぇと伝える。

 

「どっちじゃ」

「肩を越えたところ」

「あれは、前にお主に投げられた時から考えておった」

「俺にもやるつもりだったの?」

「当たり前じゃろう」

 

 佐伯へ先に見せちゃったねぇ。

 

 そう言うと、夜一は土を払いながら立ち上がった。けれど、こちらへ来るつもりはないらしい。佐伯へ向き直り、もう一度じゃと手を上げる。

 

「最後は、どこで分かった」

「着地された時です。すぐに足を払える位置でしたので」

「足を見たのか」

「腰も。ですが、腕を抜かれた時には驚きました」

「なら、次は驚いている間に当てる」

 

 いい顔をするねぇ。

 

 佐伯も少し笑い、構え直した。今度は夜一がすぐには動かない。足を少しずつずらし、佐伯の正面から外れようとする。そのたびに佐伯も向きを変えた。

 

 俺も山で、ずっと回られたことがあった。

 

 どちらへ行っても正面を向かれるので困った、と後で佐伯に言われたねぇ。困っていた割に、飯の後まで続けようとしたのは、お前さんの方だったでしょう。

 

「お前、口が動いておるぞ」

「何か言った?」

「いや。笑っておった」

 

 夕月に言われ、口元へ手をやる。

 

 その間に夜一が入った。佐伯の左へ踏み込み、上げた腕の下を抜けようとする。佐伯が身体を向けたところで、夜一は足を止めた。

 

 さっきより、近い。

 

 佐伯の手が肩へ来る前に、その胸へ掌を打った。乾いた音が響く。佐伯の上体が揺れ、夜一がもう片方の拳を引いた。

 

「もらった!」

 

 佐伯が夜一の右手首を掴む。

 

 胸を打たれた勢いに合わせて身体を引き、踏み込んできた足の外へ自分の足を置いた。夜一も気づいて拳を開いたが、佐伯はもうその肘を押さえていた。

 

 腰が回る。

 

 夜一の身体が地面へ落ちる手前で、佐伯の手が背へ添えられた。音は小さかった。けれど、肩を押さえられた夜一は、すぐには起きられない。

 

「……当たったぞ」

「はい」

「なのに、何故そっちが勝つ」

「当たる前から、掴むつもりでおりましたので」

 

 夜一が佐伯の胸を見る。

 

 そこへ、あいつも目を落とした。死覇装には掌の跡が残っている。軽く触れてから手を退けたので、俺も少し身を起こした。

 

「佐伯。痛かった?」

「はい。よいところへいただきました」

「受けなくてもよかったんじゃないかい」

「次の拳まで、出していただこうと思いまして」

 

 夜一が黙った。

 

 怒ったのかと思ったが、佐伯の右手を見ている。さっき自分を掴んだ手だ。手を離してもらうと起き上がり、同じところへ自分の指を置いた。

 

「先に、こっちを待っておったのか」

「ええ。二度目は、もっと強く踏み込まれると思いました」

「……そうか」

 

 夜一が息を吐く。

 

 俺なら、あそこへ掌を通したくなかったかもしれないねぇ。佐伯の前で何でも避けて、足りないところを探してもらうことばかり考えていた。こいつは当てさせた上で、その次まで見せようとしている。

 

 胸が痛いのは、後で治そうか。

 

「もう一度じゃ」

 

 夜一が立った。

 

 佐伯も立ち上がり、服についた土を払う。夜一はその手を待ってから、今度は少し深く腰を落とした。

 

「次は、そこを掴ませぬ」

「では、私も別のところを」

「言わんでよい!」

 

 声を上げながら笑っている。

 

 周りにいた子たちも、いつの間にか近くへ寄っていた。一人が今の足の位置を隣へ尋ねている。佐伯も聞こえたらしく、始める前に足元を示した。

 

 夜一までそちらを見るので、俺は夕月と顔を合わせた。

 

 すぐには、終わりそうにないねぇ。

 

        *

 

「烏有。手を出せ」

 

 ようやく休むことになった夜一が、俺の前へ来た。

 

 出してやると、その掌へ自分の掌を合わせる。押し合いたいのかと思って少し力を入れたら、違うと言われた。

 

「さっきのを確かめるだけじゃ」

「俺へ打ってみる?」

「今やったら、お主は避けるじゃろう」

「うん」

「なら、ここでよい」

 

 掌を離し、今度は俺の手首を掴む。佐伯がどう返したか、自分の身体で確かめたいらしい。横から本人が教えると、夜一は俺の肘へ手を移した。

 

 お前さんたちでやった方が、早いんじゃないかい。

 

 そう思ったけれど、夜一は俺の腕を曲げたり伸ばしたりしている。佐伯も、そこから引かれると返せますと話を続けるので、しばらく貸しておくことにした。

 

「こうか」

「はい。ただ、そちらへ寄りすぎますと⸺」

「こうされるねぇ」

 

 夜一の手を外し、肩へ軽く触れる。

 

 本人が一歩退いた。俺を見てから佐伯を見て、もう一度じゃと言う。

 

「休むんじゃなかったの?」

「今ので疲れるか」

「俺は疲れないけど、お前さん、息が上がってたよ」

「もう戻った」

 

 そう言い張ったところで、腹が鳴った。

 

 夜一が自分の腹を見る。佐伯が顔を横へ向けたので、俺も笑わないように口を閉じた。夕月だけは遠慮なく笑い、先に食ってこいと立ち上がる。

 

「佐伯。付き合ってやってくれ。こいつを残すと、飯の前にまた始める」

「承知しました」

「その後は、烏有じゃぞ」

「うん。飯の後ならね」

 

 夜一は念を押してから、佐伯と庭を出た。

 

 二番隊の子たちもついていく。途中で一人が佐伯へ尋ねたので、あいつは歩きながら手を動かしてみせた。夜一が横から、そこは儂がもう一度試すと言っている。

 

 皆、腹は減っていないのかい。

 

 最後の一人が角を曲がるまで見送り、俺は縁へ座り直した。夕月も戻ってくる。今度は茶を頼んでくれたので、もう少し待っていられそうだ。

 

「よく動くようになったねぇ」

「まだ、勝ちたい方へ目が寄る」

「勝ちたいだろうさ。俺もそうだったよ」

「お前は今もそうだろう」

 

 それは、相手によるでしょう。

 

 言い返そうとして、佐伯が次の稽古を頼んできた時のことを思い出した。前より届くようになったと言われると、その先も見せてやりたくなる。先生にも、昔はそうしてもらった。

 

「夕月にも、あんなふうに来る?」

「ああ。負けたところを直したと言ってな。別のところで投げると、しばらく帰らん」

「うちでも、そうだよ」

「知っておる。お前に何をされたか、帰るたびに話すからな」

 

 あら。

 

 夜一の話は、夕月のところまで続いていたんだねぇ。俺が黙っていると、あいつは庭へ目を向けた。さっきまで二人が走っていた土には、まだ足跡が残っている。

 

「佐伯には、よい相手をしてもらった」

「本人も嬉しそうだったよ」

「そうか」

「うん。教えて、もう一度来てもらえると嬉しいからねぇ」

 

 夕月が頷く。

 

 茶が来たので、二人で受け取った。菓子もある。先に一つ取ると、夕月はいつものように皿を寄せてくれた。

 

「あいつに任せる日も、そう遠くないと思っておる」

 

 手を止め、そちらを見る。

 

 夕月は湯呑を持ったまま、俺へ顔を向けた。冗談を言う顔ではなかった。けれど、何か困って相談しているようにも見えない。

 

「当主の方?」

「そちらもだ。任せる以上、家の名だけでは済まん」

「二番隊も、見てもらうんだねぇ」

「ああ。自分で前へ出るだけなら、今のあいつにもできる。その後ろにいる者まで見られるかは、これからだ」

 

 俺は菓子を皿へ戻した。

 

 夜一が皆を連れて歩くところを思い浮かべる。あの速さで先へ出たら、追いつけない子もいるだろうねぇ。けれど今日、佐伯に投げられた後で、周りの子が何を聞いているかは自分でも確かめていた。

 

「ちゃんと聞いてたよ。さっきも」

「うむ」

「自分の番を取られるのは、嫌そうだったけど」

「そこも、もう少し直してもらわねばな」

 

 夕月が笑う。

 

 俺も笑い、庭へ目を戻した。ここへ来ると、こいつは大抵仕事をしている。俺が茶を飲んでいても呼ばれるし、戻ってから冷めた湯呑を取ることもあった。

 

「任せたら、少し暇になるかい」

「今よりはな」

「じゃあ、その時はお前さんも、うちへおいでよ」

「菓子を持ってか」

「なくてもいいよ。佐伯が茶を淹れてくれるから」

 

 それは悪いなと返される。

 

 自分で淹れてもいいんだよ。そう続けたら、夕月は湯呑を置いて笑った。夜一たちの声が聞こえてきたのは、その時だった。

 

 もう食べ終えたのかい。

 

 俺は戻していた菓子を取り、先に口へ入れた。夕月がそれを見て立ち上がる。どうせ呼ばれるぞと言われたところで、庭の入口へ夜一の顔が出た。

 

「烏有! 約束じゃ!」

 

 佐伯が後ろで頭を下げている。

 

 俺は茶を飲んでから、湯呑を置いた。今日はちゃんと、立つ前に済ませたよ。

 

「分かってる。今度は、どこへ触りたいの?」

「どこでもよい。逃げた先で決める」

「へえ」

 

 それなら、こちらも少し遠くへ行こうか。

 

 庭へ下りると、夜一が嬉しそうに足を開いた。佐伯は俺の座っていたところへ腰を下ろす。夕月もその隣へ戻り、二人でこちらを見ていた。

 

 夜一が走る。

 

 俺もその足に合わせて、一歩目を踏んだ。

 

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