受け継ぎし名に 風は立ち
変わらぬ声に 袖は揺る
夜一が、自分の肩を見ていた。
右を見てから左も見る。白い羽織の裾を指で引き、背中へ手を回しかけたところで、俺と目が合った。
「何じゃ」
「後ろ、見ようとしてた?」
「少し引っ掛かっただけじゃ」
「直してあげようか」
「もう直った」
そう言って、また肩を動かす。
俺も初めて着た時には気になったねぇ。刀を抜くのに邪魔ではないかと腕を回して、結局、袖のないものにしてもらった。夜一の羽織も袖がない。さっきから肩を見ているのは、布よりも、着た自分の方が気になるのだろうか。
後ろへ回ると、二の字があった。
「似合ってるよ」
「前から言えばよかろう」
「後ろも見ておきたかったんだよ」
夜一が振り返る。俺が少し離れると、自分でも裾を摘まんでみせた。白い布の下から、いつもの足が覗く。
「これで、逃げるお主を追ってもよいわけじゃな」
「隊長になる前から追ってたでしょう」
「今度は、隊長同士じゃ」
「じゃあ、捕まえた後の仕事も半分持ってもらおうか」
「そこは佐伯に頼め」
変わらないねぇ。
笑っていると、向こうから先生の杖の音がした。夜一の手が裾から離れる。俺も隣を空け、ほかの隊長たちと一緒に先生へ顔を向けた。
帰ってから、二十年になる。
佐伯と夜一が手合わせをしたあの日からは十五年だ。夕月はあれから、少しずつ夜一を自分の傍へ置くようになった。先に行けと送り出すこともあれば、戻ってきたところで長く話す日もあった。
俺が訪ねた時、二人して紙を覗いていることが増えたねぇ。
夜一が退屈しているのかと思えば、夕月へ指を突きつけて何か言っている。向こうも負けずに返すので、俺は廊下でしばらく待った。後で夜一に聞くと、もっと早く声を掛けろと叱られたものだ。
今日は、その夕月がここにいない。
「四楓院夜一」
先生に呼ばれ、夜一が一歩前へ出る。
返事は短かった。いつも俺を呼ぶ時より、ずっと落ち着いた声だ。背を伸ばしたところへ白い羽織が下り、さっきまで指で弄っていた裾も動かなくなった。
俺は、その背中を見ていた。
初めて会った時には、鬼道衆の塀に座っていたねぇ。喜助を迎えに来たくせに、自分まで庭へ下りて腕を差し出した。あの時から、知りたいものがあれば自分で触る子だった。
今日も、ちゃんと自分から前へ出ている。
「二番隊を、しかと率いよ」
「はっ」
夜一が頭を下げた。
先生が皆へ目を向け、話を続ける。俺も顔を上げた。新しい隊長のことだけで隊首会が済むわけではない。けれど、夜一の声が間へ入るたび、ついそちらを見てしまった。
銀嶺まで、一度こちらを見た。
何だい。お前さんだって、さっき夜一の返事を聞いて頷いていたでしょう。
*
「ずっと見ておったな」
部屋を出るなり、夜一に言われた。
俺は返事をする前に、その顔を見る。さっき先生へ向けていた顔より、口元が少し上がっていた。
「分かった?」
「分かるわ。何か言いたそうにするから、途中でそっちを見そうになったぞ」
「ちゃんと聞いてたよ」
「儂の話ばかりじゃったろう」
「先生の話も聞いてたよ」
夜一が笑った。横から京楽まで顔を出し、今日は随分と静かだったねと言う。
「俺、いつもそんなに喋ってる?」
「終わってからが長いでしょう。今日は夜一ちゃんに先を越されたね」
「ちゃんは要らぬ」
「おっと。これは失礼、四楓院隊長」
京楽が笠へ手を添える。夜一はそちらを一度睨んだが、すぐに笑って歩き出した。
浮竹が、その背へ声を掛ける。
「改めて、おめでとう。夕月殿にも、よろしく伝えてくれ」
「うむ。お主らも、また顔を出せ」
「ああ。落ち着いた頃に伺おう」
「京楽は酒を持ってくるなよ。夕月が帰さんようになる」
「それは、僕のせいかなぁ」
俺も一緒に笑った。
廊下の先で卯ノ花が待っていた。夜一が足を止め、こちらへ礼をする。烈は微笑んだまま、よくお似合いですよと言った。
「ありがとうございます」
「ただ、あまり羽織を傷めませんように。こちらの方を追っていらっしゃると、すぐに替えが要るでしょうから」
「烈。俺は切ってないよ」
「追いつかれる場所を、お選びになってください」
夜一がこちらを見る。
「そうじゃ。屋根から木へ下りるな。枝が引っ掛かる」
「お前さんなら避けられるでしょう」
「避けた分、離れるではないか」
烈が口元へ手を添えた。
お祝いを言ってもらっていたはずなのに、俺へ文句を言う話になっている。けれど夜一は楽しそうだった。別れ際には自分から烈へ声を掛け、今度、二番隊の者も回道を教わりたいと頼んでいる。
それは、初めて聞いたねぇ。
俺が横を見ると、夜一は烈の返事を聞いていた。
「全員に覚えさせるのですか」
「いや。まずは向いておる者から。任務の途中で、一度傷を塞げるだけでも違う」
「ええ。では、こちらでも教えられる者を選んでおきます」
「頼む」
夜一が礼をする。
烈は俺へも一度目を向けてから、四番隊へ戻っていった。俺が見送っている間に、夜一はもう先を歩いている。追いついて顔を覗くと、何じゃと返された。
「回道、教えてもらうんだね」
「使える者がおって困るものでもなかろう」
「うん。俺にも言ってくれたらよかったのに」
「お主に頼んだら、稽古の途中で別の鬼道まで始まる」
そうかい。
少し考える。傷を塞ぐために霊力を流すなら、身体の外で保つところも覚えてもらいたい。そこから白縫へ繋げられれば、人を運ぶ時にも使えるねぇ。
「今、考えておったじゃろう」
「まだ言ってないよ」
「顔に出ておる」
夜一が笑い、俺の袖を引いた。
「そちらは、また今度頼む。今日は夕月が待っておるからな」
*
門をくぐったところで、声が揃った。
夜一が足を止める。
二番隊の者たちが並んでいた。見慣れた顔もある。前には夜一と一緒に佐伯へ質問していた子が、今日は先頭で頭を下げていた。
その向こうには、黒い装束の者もいる。
俺は袖を引かれていた手を外し、少し後ろへ下がった。ここは、夜一の前を空けておこうか。
「待たせたな」
夜一が皆を見る。
返事をした者の顔を確かめ、今度は向こうの列へ目を向けた。声を掛けられた男が一歩出る。二人で短く話してから、夜一はもう一度全員へ向き直った。
「今日からは、儂が率いる。聞きたいことがあれば聞け。言っておくことがある者も、遠慮はいらぬ」
誰も、すぐには口を開かなかった。
さっきまで揃っていた顔が、少しずつ隣を見ている。夜一は腕を組んで待った。こういう時、自分から次を言ってしまいそうなものだけど、今日は黙っている。
やがて端にいた者が手を上げた。
「稽古の方は、これまで通りでしょうか」
「うむ」
「……佐伯副隊長にも、またお願いできますか」
俺まで笑いそうになった。
夜一はこちらを振り返らず、いいともと答える。
「ただし、先に儂がやる」
「はい!」
「その前に仕事を済ませよ。午後に回せる分まで、今ここで始めるな」
今度は皆が笑った。
頭を下げる者も、もう隣へ顔を向けていない。夜一が先へ進むと、列が開いた。新しい羽織がその間を通っていく。俺は後ろからついていきながら、門のところを一度振り返った。
夕月も、ここを通っていたねぇ。
あいつが声を掛けると、皆、すぐに顔を上げた。今は夜一の背を見送っている。俺へ気づいた子が礼をしたので、片手を上げて返した。
奥の部屋へ入ると、喜助がいた。
机の前から立ち、夜一の羽織へ目を向ける。今日は箱も帳面も出していない。手には、紐で結んだ紙があった。
「お帰りなさい。夜一さん」
「うむ。何じゃ、それは」
「夕月様へお渡しするつもりだったんスけどね。これからは、こちらへお願いしないと」
「何の紙じゃ」
「使いたい部屋と、置かせていただきたいものを、少々」
夜一が受け取る。
上から読んで、すぐには次を捲らなかった。喜助を見てから、もう一度紙へ戻る。俺も横から覗きたくなったが、あいつが先にこちらへ笑い掛けた。
「烏有隊長にも、後でお見せしますよ」
「うん。楽しみにしてる」
「楽しみにするな。まだ許しておらぬ」
夜一が紙を机へ置いた。
「部屋を使うなら、中を一度空けろ。今あるものの上へ増やすなよ」
「いやぁ。分かってますって」
「お主が分かっておると言った後で、何度、床が見えなくなったと思う」
「今度は、先に棚を置きますから」
「棚へ入れたら増えてもよい、という話ではない!」
よく知ってるねぇ。
俺の部屋へ来る箱も、まだ大きくなっている。曳舟のところへ持っていく紙は、それとは別だ。こいつに部屋を一つ渡したら、次に来た時には何が並んでいるのだろう。
夜一は紙を纏め、自分の傍へ寄せた。
「後で見る。まずは、夕月のところじゃ」
「ええ。お待ちですよ」
喜助が戸を開ける。
夜一が通り、その後へ俺も続いた。廊下を曲がる時、喜助が少しだけ声を落とす。
「どうでした? 隊首会は」
「ちゃんと話してたよ」
「それは、そうでしょうねぇ」
「でも、始まる前は羽織を気にしてた」
「ほう」
「聞こえておるぞ」
前から声が来る。
喜助は何でもない顔で歩き出した。俺も続く。隠れて話すほどのことではないけれど、こいつはきっと後で、夜一へ自分でも聞くつもりだねぇ。
*
夕月は、もう羽織を着ていなかった。
それだけのことなのに、部屋へ入ったところで足が緩んだ。いつもなら背中か、机の横へ置いてある。今日はどちらにもない。
「何を見ておる」
「うん。少し、変わったねぇ」
「昨日も顔を見ただろう」
そうだったね。
けれど昨日は、夜一がまだその隣へ座っていた。今日は夕月が上座を空けている。夜一もそこを見てから、少し眉を寄せた。
「そっちへ座ればよかろう」
「もう、お前の席だ」
「茶を飲むだけじゃぞ」
「なら、どこでもよいだろう」
夜一が口を閉じた。
喜助は先に俺へ席を勧め、自分もその隣へ座る。夜一はしばらく立っていたが、やがて夕月の空けたところへ腰を下ろした。
白い羽織の裾を、今度は自分で脇へ払う。
俺は茶が来るまで、その手を見ていた。今日だけでも、何度触っただろうねぇ。明日になれば、もっと気にせず着られるだろうか。
「無事に済んだか」
「うむ。総隊長にも、御言葉をいただいた」
「そうか」
夕月が頷く。
夜一はそれ以上続けず、湯呑を取った。喜助がこちらへ皿を寄せてくれたので、俺も菓子をいただく。今日は少し柔らかい。祝いの日だから変えたのかと聞くと、夕月が首を振った。
「お前が前に、こちらが好きだと言っておった」
「覚えててくれたの?」
「何度も食えば覚える」
夜一まで皿を見る。
「儂の祝いではないのか」
「お前の分もある」
「なら、先にそっちを出せ」
「今、持ってきておるわ」
喜助が顔を伏せた。
俺も笑いながら茶を飲む。夜一の前へ別の皿が来ると、本人もようやく落ち着いたらしい。夕月へ今日のことを話し始めた。皆の前で何を言ったか、誰が質問したか。佐伯の名が出たところでは、俺へも顔が向いた。
「また借りるぞ」
「本人に聞いてねぇ。最近は俺より、皆に頼まれてるから」
「先を越されるか」
「お前さんも、先にやるって言ってたでしょう」
夜一が菓子を取る。
夕月はその横顔を見ていた。俺がそちらへ目を向けると、少しだけ口元が緩む。
「これからは、俺のところへ来ても、お前の用事は済まんぞ」
「茶を飲みに来るのはいいんでしょう」
「ああ」
「じゃあ、今までと同じだよ」
夕月が笑った。
仕事の話をしに来たことだって、ちゃんとあるよ。けれど、その前にも後にも茶は飲んだ。夜一のところへ来たついでに、こちらへ寄ることはできるだろう。
「今度は、お前さんが十番隊へ来てもいいねぇ」
「その話も、覚えておったか」
「約束したでしょう」
「茶を淹れるのは、佐伯だったな」
「俺でもいいよ」
「では、お前に頼もう」
すぐに返ってきたので、喜助がこちらを見る。
「烏有隊長、お淹れになるんスね」
「淹れるよ。飲むばかりじゃないからねぇ」
「それは失礼。では、僕もその時に」
「お主は、自分の部屋を片づけてからじゃ」
夜一が口を挟む。
喜助は両手を上げた。俺はもう一つ菓子を取ろうとして、夕月に皿を寄せてもらう。
羽織がなくても、そこは変わらない。
しばらくして、廊下から夜一を呼ぶ声がした。
顔を上げたのは、夕月も同じだった。けれど、立ったのは夜一だけだ。話を聞き、すぐ行くと返す。飲みかけの湯呑を置いてから、こちらへ振り返った。
「夕餉までには戻る。烏有、お主も食っていけ」
「いいの?」
「祝いじゃからな。お主がおらん間に、儂がどれだけ働いたか聞かせてやる」
「今日は二十年、ちゃんといるよ」
「その前の五十年じゃ!」
夜一が部屋を出ていった。
喜助も紙のことを思い出したらしく、一礼して後を追う。廊下で呼び止めた声に、夜一がまだ早いと返していた。
俺は夕月へ顔を向ける。
あいつは座ったまま、二人の声を聞いていた。湯呑にはまだ茶が残っている。廊下が静かになってから、それをゆっくり飲んだ。
「夕月」
「何だ」
「温かいうちに飲めたねぇ」
湯呑が少し止まる。
それから、あいつは笑った。
「ああ」
俺も残りをいただいた。夕餉までは、まだ少しある。庭へ出ようかと思ったが、今日はもう一杯、こいつと飲んでからでもいいだろう。
「おかわり、俺が淹れようか」
「頼む」
夕月が湯呑を寄せてくる。
俺は二つ並べ、急須を取った。