卍解のその先を追い求めて。   作:lalaland

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掲げし義に 道は違い
閉じゆく瞳に 夜は降る




119.白刃の静夜

 

 

「痛みを感じなくすれば、耐えられるということではありません」

 

 烈が紙を置いた。

 

 痣城は向かいへ座っている。隊首会の時と同じ姿勢だった。膝へ置いた両手も動かさず、烈が尋ねれば答える。隠す気がないのだろう。こちらが読み違えたところまで、丁寧に直してくれた。

 

 そのたびに、俺は紙へ目を戻す。

 

 怖くても逃げられないのかと思った。違うらしい。怖がらなくなるように、そこから変えるという話だった。

 

「戦闘に不要な反応を抑えます。負傷によって動きを止めれば、それだけ生存の可能性も下がりますから」

「身体が傷んでいるのに動かし続ければ、その者は死にます」

「通常の魂魄よりも、損傷に耐えられるようにします」

「その処置にも耐えられなかった者は、どうなりますか」

 

 痣城が別の頁を開く。

 

 俺はそちらを見ず、最初に渡された図へ指を置いていた。身体のどこを変えるかは、随分と細かく書いてある。けれど、終わった後のことは少ない。

 

「元に戻せるのかい」

 

 痣城の手が止まる。

 

「戦闘能力を失わせる必要があるのでしたら」

「そうじゃないよ。処置を受ける前の、その者へ戻せるかって聞いてる」

 

 男が俺を見る。

 

 俺も顔を上げた。喜助なら、使った本人が後から直せるか考えていただろうか。いや。あいつと一緒に眺めた金具を、今ここで思い出したくはなかった。

 

「現在の段階で、保証はできません」

「それじゃあ、駄目だねぇ」

「虚に殺された魂魄は、戻ってきません」

 

 返事は早かった。

 

 烈がこちらを見る。俺は紙から指を離し、痣城の言葉を待った。

 

「今も、救援の間に合わない場所で犠牲が出ています。死神を増やしても、虚が現れるたびに派遣するのであれば同じです。発生を待つ必要のない方法を、考えなければなりません」

「それで、流魂街の者を使うのかい」

「必要な戦力を、最も早く揃えられます」

「お前さんが守りたい者も、そこにいるんじゃないの」

 

 痣城は答えなかった。

 

 窓の外で足音がする。四番隊の子が廊下を急ぎ、別の子が小さな声で呼び止めていた。ここへ来る時にも、手当てを待つ者がいたねぇ。あいつの言う犠牲を、俺は知らないふりもできない。

 

 それでも、この図へ頷くことはできなかった。

 

「俺も、間に合わなかったことはあるよ」

 

 痣城の目が僅かに動いた。

 

「だから、減らす方法を考えるなとは言わない。けれど、帰りたいと思うことまで奪って、守ったことにはできないよ」

 

 烈が俺の傍から紙を取る。

 

 重ねて揃える音を聞きながら、俺は痣城を見ていた。言い返してくれた方が、まだ話を続けられたのかもしれない。男はただ、俺たちが読み終えるのを待っているように座っていた。

 

        *

 

 先生の返事は、変わらなかった。

 

「この計画は認めぬ。流魂街の者へ手を出すことも、独断で虚圏へ兵を送ることも許さん」

 

 痣城が頭を下げる。

 

 その横顔を、俺は見ていた。烈の説明を聞いている間も、先生は一度も杖から手を離さなかった。最後に痣城へ顔を向け、もう一度言う。

 

「十一番隊隊長としての命令じゃ。よいな」

「……承知しました」

 

 今度は声があった。

 

 けれど、紙を引き取る手には迷いがなかった。書き直すところを尋ねることもなく、男は束を抱えて部屋を出ていく。

 

 先生が俺を呼んだのは、その足音が聞こえなくなってからだった。

 

「烏有」

「うん」

「何を考えておる」

「話が済んだ顔には、見えなかったねぇ」

 

 先生も頷かなかった。

 

 俺は痣城の座っていたところを見る。こちらを納得させられなかった。それだけで、あいつがやめてくれるだろうか。

 

 十番隊へ戻ると、庭から声がした。

 

 榛名が地面へ片膝をつき、刳屋敷を見上げている。佐伯は少し離れたところで刀を下げていた。俺を見つけると、先に一礼してくれる。

 

「遅くなったねぇ」

「お帰りなさいませ」

「どうだった。話は」

 

 刳屋敷が近づいてきた。

 

 俺は首を振り、先生が認めなかったことを伝える。あいつは腕を組んだまま聞き、話が終わっても、すぐには庭へ戻らなかった。

 

「痣城は、何と言った」

「承知したって」

「そうか」

 

 短い返事だった。

 

 あいつに負けた者へ、こういう話を聞かせるのも嫌なものだねぇ。俺が顔を上げると、刳屋敷は門の方を見ていた。

 

「俺からも、一度話してみるか」

「いいの?」

「何がだ」

「お前さんが、そこまで付き合ってやることもないでしょう」

 

 刳屋敷がこちらを見る。

 

 少しして、困ったように笑った。

 

「十一番隊の隊長だぞ。知らん顔もできんだろうが」

 

 もう、お前さんの隊ではない。

 

 そう言う気にはなれなかった。佐伯も何も挟まず、庭へ残っていた者たちへ稽古を終えるよう声を掛けている。

 

「じゃあ、俺も行こうか」

「今日はやめておけ。お前、飯も食ってないだろう」

「そうだったねぇ」

「俺も腹が減った。難しい話をするなら、せめて食ってからにしろ」

 

 こちらへ背を向け、大きな手が佐伯の肩へ載った。

 

 さっきの足だがな、と稽古の話が始まる。佐伯が顔を上げるので、俺も隣へ並んだ。帰ったら庭へ来いと言われていたのに、もう皆が片づけている。

 

 明日は、早く戻ろうか。

 

 そう思って門を見た時には、まだ、十一番隊の子は来ていなかった。

 

        *

 

 翌日の夕方、門へ駆け込んできた男は、左腕を押さえていた。

 

 血のついた指の間から、十一番隊の印が見える。俺の名を呼ぼうとするので、先に座らせた。傷へ手を当てると、男は顔をしかめながらも首を振った。

 

「俺より、痣城隊長を」

「何があった」

「流魂街へ……止めようとした連中が、斬られました」

 

 刳屋敷の声が、低くなる。

 

 俺は男の腕へ回道を通した。骨までは届いていない。けれど、ここへ来るまで押さえていたのだろう。袖の中へ随分と流れていた。

 

「ほかの者は?」

「隊舎に。追うなと、言われて……」

「分かったよ。話せることは、刳屋敷へ話しておいてね」

 

 佐伯がもう、門のところに立っていた。

 

 俺が呼ぶ前に槇島へ何か伝え、こちらへ戻ってくる。刀は腰にある。顔を見ると、あいつも頷いた。

 

「一番隊へ知らせを出しました」

「ありがとう。来てくれる?」

「はい」

 

 刳屋敷が男の隣へ膝をつく。

 

 俺はそちらへ顔を向けた。あいつの手が、傷ついた腕を支えている。

 

「こっちは任せて」

「……ああ。頼む」

 

 門を出て、屋根へ上がる。

 

 佐伯がすぐ横へ来た。昔なら、一度こちらの背を探しただろう。今日は道の先を見たまま、俺が足を出すのを待っている。

 

 置いていかないよ。

 

 そのつもりで頷き、俺は流魂街へ向かった。

 

 家並みが低くなった辺りで、妙な流れに触れた。

 

 自分の中へ巡らせている霊子が、外から引かれる。強い霊圧をぶつけられた時とは違う。屋根も道も、そこにあるままで、俺たちの向かう先へ何かが通っていた。

 

 この前、あいつが刳屋敷の身体へ入れたものも、こんなふうに通ったのかい。

 

 足を速める。

 

 町外れの道へ出た時、井戸の傍に男がいた。水を汲みに来た女が桶を抱え、その羽織を見て頭を下げている。痣城の右手が上がった。

 

 俺は二人の間へ降りた。

 

「その手を下ろしな」

 

 女の息が止まる。

 

 痣城の指が、俺の肩の向こうを向いていた。俺はそこから動かず、後ろへ声を掛ける。

 

「桶は置いていいよ。家へ戻って」

「は、はい」

 

 佐伯が女へ道を空ける。

 

 その足音が遠ざかるまで、痣城は手を上げたままだった。俺が顔を向けると、ようやく下ろす。

 

「誰かに、もう使った?」

「まだです」

「そう。間に合ったねぇ」

 

 自分へ言ったつもりだった。

 

 痣城がこちらを見る。その目が、俺の腰の刀へ一度落ちた。

 

「計画は、禁じられたはずです」

 

 佐伯が俺の隣へ出る。

 

「総隊長の御命令を、聞いておられたでしょう」

「聞きました」

「ならば、なぜ」

「許可を待つ間にも、犠牲は出ます」

 

 俺は痣城の顔を見ていた。

 

 昨日も、同じことを聞いた。あいつにとっては、昨日から今日までに亡くなった者も、待たされたための犠牲になるのだろうか。

 

「それで、お前さんを止めた子たちまで斬ったのかい」

「致命傷は避けています」

「そういう話をしてるんじゃないよ」

 

 痣城の肩越しに、戸が閉まった。

 

 俺たちを見に出ていた者が、家の中へ戻っていく。あそこに、さっきの女もいるのだろう。桶を置いたまま走らせてしまった。後で、持っていってやろうねぇ。

 

「戻ろう。十一番隊の子も、お前さんを待ってる」

「戻れば、この計画は失われます」

「うん。やらせないよ」

 

 痣城が黙る。

 

 その姿の輪郭が、薄くなった。

 

 佐伯の手が柄へ掛かる。俺は左手でそれを止め、足元へ目を落とした。砂の下へ、流れが入っていく。井戸の向こうにも、家の土台にも。

 

 道を壊して掘り返せば、そこに住んでいる者が困る。

 

 刀を抜きかけたところで、背後の空気が重くなった。

 

「痣城」

 

 先生が、道へ降りる。

 

 佐伯が一歩退いた。俺も痣城へ目を戻す。薄れていた身体が、再び男の形を取っていた。

 

「直ちに融合を解け。刀を置き、儂の前へ出よ」

 

 先生の右手は杖にある。

 

 まだ抜いていない。痣城も、それを見ていた。

 

「この計画を退けるのでしたら、代わりをお示しください」

「命令じゃ」

「虚による犠牲をなくす方法を、私は持っています」

「そのために、守るべき者をお主の道具にすることは許さぬ」

 

 声が道へ響いた。

 

 俺は先生の横へ立つ。痣城がこちらを見た。男の身体はまだ目の前にあるのに、足元の流れは、家々の下へ広がろうとしている。

 

 刀を合わせる相手なら、よかったのにねぇ。

 

『烏有』

 

 声がした。

 

 腰のゆめではない。遠いところで聞いた、あの太い声だった。俺が顔を上げると、先生も空へ目を向けている。

 

『その男の企ては、流魂街だけの話では済まぬ。虚圏へ踏み込ませれば、三界の均衡を損ないかねん』

 

 和尚。

 

 佐伯はこちらを見ていた。何が聞こえたのか尋ねたそうだったが、先生の顔を見て口を閉じる。

 

『烏有。此度に限り、おんしの先の解放を許す』

 

 俺は柄へ置いた手を見る。

 

 使うために探した力だった。ゆめと二人で、あれだけ長く歩いて見つけたものだ。それを今、誰かの目覚めを奪うために使えと言われる。

 

『痣城双也を、永遠の眠りへ誘え』

 

 返事をする前に、痣城へ目を向けた。

 

 あいつは先生を見ている。従うつもりは、まだないらしい。

 

「……聞いたね、先生」

「うむ」

 

 先生の返事は短かった。

 

 俺は刀を抜いた。

 

        *

 

「佐伯。先生の傍へいてねぇ」

 

 隊長に言われ、私は総隊長の後ろへ下がった。

 

 道の先には痣城隊長がいる。斬魄刀を構える様子はない。刳屋敷殿との決闘でも、そうだった。あの方が胸を押さえた時、私は何が起きたのか分からずにいた。

 

 今も、刀を抜いて届くのかさえ分からない。

 

 隊長は、抜いた刀を見ておられた。

 

「ゆめ」

『ええ。聞いておりんす』

 

 声が聞こえた。

 

 山で二人きりのつもりでいた時も、隊長は時々、そちらへ話しておられた。私が一度も避けられなかった刀の内側に、その方がいる。

 

 隊長の指が、柄を握り直す。

 

〈九つの夜を渡り、名を呼ぶ声のもとへ。

 醒めれば隔たる夢ならば、目覚めを此処に葬ろう。

 

 現よ、帳を下ろせ。夢よ、その奥より出でよ。

 刃を隔てて向かい合う、最後の夜は明けた。

 

 お前の見る夢を、俺の生きる世に。

 俺の生きる世を、お前の帰る場所に。

 

 もう、独りで醒めるな。

 この先は⸺二人で現と成ろう〉

 

 霊圧が膨れ上がった。

 

 息を吸ったまま、吐けなくなる。五十年の間、何度もこの方を前に立った。刀を握れなくなり、地面へ這いつくばったこともある。

 

 それでも、こんなものは知らない。

 

〈夢通路明烏添寝(ゆめのかよいじあけのからすよがたり)〉

 

 白い光が、空へ立った。

 

 隊長の姿が見えなくなる。私は片腕を顔の前へ上げた。総隊長の羽織が視界へ入り、その背へ縋るように目を向ける。

 

 霊圧が、分からなくなった。

 

 思わず、腕を下ろす。

 

 つい先ほどまで、そこにいた。強すぎて立っていられなくなりそうだった方が、どこにもいない。

 

「隊長……?」

 

 呼んだ時、光の向こうで髪が揺れた。

 

 白銀の長い髪だった。

 

 光が薄れ、白い衣が見える。袖を彩る金の文様へ、私は目を奪われた。その下には、先ほどまで隊長が立っておられた道がある。

 

 足は、地面についていなかった。

 

 女の方が、空に浮いている。

 

 私は知っているはずだった。隊長が解放された姿も、普段とは違う声も。けれど、顔を上げられたその方を見て、すぐには名を呼べなかった。

 

 綺麗だと思ってしまった。

 

 こんな時に、何を考えている。

 

 自分を叱るように刀へ手をやり、そこで気づいた。刀がない。その方の手にも、腰にもなかった。

 

「……何をしたのです」

 

 痣城隊長の声がする。

 

 私はそちらを見た。あの方もまた、宙の姿を見上げている。

 

「霊圧が、消えた」

 

 違う。

 

 そう思ったのに、私にも分からない。目で見えている場所へ意識を向けても、何も掴めなかった。もっと広く探そうとして、額へ汗が伝う。

 

「探すな」

 

 総隊長に言われ、手が止まった。

 

「見失ったのではない。今のお主には、感じ取れぬ」

 

 私は総隊長を見る。

 

 杖を握る手は動いていない。その目は、白い衣の方へ真っすぐに向いていた。

 

「総隊長には……」

「感じておる」

 

 それだけ答え、総隊長は顎を上げられた。

 

 つられて空を見る。

 

 夕方だったはずの空に、星があった。

 

 家々の屋根を越え、流魂街の向こうへ、どこまでも夜が続いている。山で見上げた空よりも、ずっと近い。手を伸ばせば触れられそうで、私は左手を握った。

 

 五十年、傍にいた。

 

 少しは近づけたと、思っていた。

 

 刀を合わせるたびにまだ先があると知っていたのに、私は今、ようやく、その先の姿を見せていただいている。

 

「『よう、見えておりんすよ』」

 

 二つの声が、重なった。

 

 痣城隊長の身体が薄れる。私は反射で足を出しかけたが、その前に、白い袖が僅かに上がった。

 

「『そこにも。その先にも』」

 

 痣城隊長の姿が、止まった。

 

 消えかけていた肩が戻る。足が地面を踏み、羽織の裾が落ちた。あの方は自分の右手を見ていた。握ろうとした指が、途中で止まっている。

 

「……なぜ」

 

 井戸の縁へ、細い光が走った。

 

 石が砕けたのかと思った。けれど、欠片は落ちない。光だけが男の方へ流れ、足元の砂からも、塀からも、同じものが戻っていく。

 

 庭木の枝が一度揺れた。

 

 その葉から離れた光まで、痣城隊長の身体へ収まった。

 

「『まだ、残しておいででありんしょう』」

 

 痣城隊長が顔を上げる。

 

 唇が動いた。その言葉が聞こえるより先に、遠い屋根の向こうから、最後の光が渡ってきた。

 

 隊長は、動いておられなかった。

 

 袖から覗いた手を、そっと返されただけだった。

 

「私の……雨露柘榴が」

 

 痣城隊長の声が掠れる。

 

 その足が後ろへずれた。逃げようとしたのか、踏み直そうとしたのか。私には分からなかった。次の一歩が出る前に、あの方の膝が折れる。

 

「まだ、終わっていない。虚は、今も⸺」

 

「『ええ。起きておる者で、引き受けんしょう』」

 

 痣城隊長の目が見開かれた。

 

 白い袖が下りる。

 

「『おやすみなんし』」

 

 男の瞼が、閉じた。

 

 倒れる身体を、私は見ていた。受け止めようとした腕より先に、その身体が宙で止まる。羽織の裾が一度揺れ、それから、眠った男が静かに道へ横たえられた。

 

 音は、ほとんどしなかった。

 

 私は刀から手を離せずにいた。

 

 刳屋敷殿を倒した相手だった。身体の内側へ入り、刀で受けることさえ許さなかった相手が、目の前に横たわっている。

 

 隊長は、一歩も動いていない。

 

「……烏有」

 

 総隊長が呼ぶ。

 

 宙の方が、こちらへ顔を向けられた。

 

「済んだか」

「『ええ。もう、目覚めることはありんせん』」

 

 私は痣城隊長を見た。

 

 眠っている。

 

 ただそれだけに見える顔だった。明日になれば目を開き、あの紙を広げるのではないか。そう思えるほど静かな顔で、もう二度と、起きないのだという。

 

 総隊長が目を伏せられた。

 

 私もようやく、柄から手を離した。

 

        *

 

 星が消える時、私は空を見上げていた。

 

 夕暮れの色が戻ってくる。白かった衣が光に包まれ、道へ降りた足が地面を踏んだ。

 

 そこに、いつもの隊長がいた。

 

 手には刀がある。

 

 霊圧も、分かった。

 

 それを確かめてから、私は自分が随分と浅い息をしていたことに気づいた。深く吸うと、隊長がこちらを見る。

 

「佐伯。大丈夫?」

「……はい」

「そっか」

 

 刀を納める音がした。

 

 私はその手を見ていた。五十年の間、何度も傷を治していただいた手だ。痣城隊長へ触れることもなく、もう目覚めない眠りへ落としたのも、その手だった。

 

「流魂街の者を確かめます」

 

 口にしてから、ようやく足が動いた。

 

 隊長が頷く。

 

「うん。さっきの人、こっちの家へ戻ったよ。何もされてないか、聞いてきてくれる?」

「承知しました」

 

 家の戸へ向かうと、中から先ほどの女の声がした。

 

 死神様、と呼ばれる。

 

 私は刀から手を離したまま、戸の前へ屈んだ。痣城隊長に触れられなかったか。身体に変わったところはないか。一つずつ尋ねるうち、向こうの声も少しずつ落ち着いていった。

 

 井戸へ水を汲みに来ただけだという。

 

 まだ何もされていない。そう答えてから、女は隣の家にいる者のことも話してくれた。私は礼を言い、その戸へも声を掛けた。

 

 戻る頃には、総隊長が痣城隊長の傍に立っておられた。

 

「こちらは儂が預かる。お主らは、十一番隊の負傷者を見てやれ」

 

 隊長が頷く。

 

 その顔へ何か言おうとして、私は言葉を探した。先ほどのお姿についてか。それとも、霊圧についてか。

 

 どちらも、うまく口にならなかった。

 

「先生」

「何じゃ」

「十一番隊の子たちには、俺から話すよ」

「……うむ。刳屋敷にもな」

「うん」

 

 隊長がこちらへ来る。

 

 私は一礼して、その隣へ並んだ。帰ろうとする背を、あの夜空の下に浮かんでいた姿と、どうしても重ねられない。

 

「隊長」

「うん?」

「先ほどは、何も感じ取れませんでした」

 

 隊長の目がこちらへ向いた。

 

「目の前におられるのに、どこにも……五十年、教わってきたのですが」

 

 言ってから、顔を下げた。

 

 今、申し上げることではなかったかもしれない。十一番隊では負傷者が待っている。刳屋敷殿へも、伝えなければならない。

 

 それでも隊長は、私の返事を待つ時と同じように、足を緩めてくださった。

 

「うん。お前さん、よくついてきてくれたよ」

 

 その言葉に、顔を上げる。

 

「けれど、あそこまで近づけとは思ってない。今日も、俺が戻るまで待っててくれたでしょう。それで助かったよ」

 

 隊長の手が、私の肩へ触れた。

 

 私はその重さを確かめるように、少しだけ立ち止まった。

 

 追いつけない。

 

 そう思った。長次郎殿へ刀を届かせた日には、あれほど嬉しかったのに。今はまた、山で初めて刀を抜いた時のような気持ちになっていた。

 

 けれど、手はここにある。

 

「……戻りましょう。刳屋敷殿も、お待ちです」

「うん。待たせちゃったねぇ」

 

 隊長が歩き出す。

 

 私はついていこうとして、井戸の傍へ目を留めた。桶が一つ、そのまま残っていた。

 

 隊長も振り返る。

 

「ああ。そいつも、持っていってあげようか」

 

 私は先に桶を持ち上げた。

 

 水は、まだ半分ほど残っている。零さないよう両手で抱え、先ほどの家へ向かった。隊長が隣へ来て、私の代わりに戸を叩く。

 

「水。ここへ置いておくよ」

 

 中から返事があった。

 

 女が戸を少し開き、私たちを見て頭を下げる。私は桶を渡し、もう大丈夫ですと伝えた。

 

 隊長は、それを聞いてから道へ戻られた。

 

 私も一礼して、その後を追う。

 

 夕暮れの道を行く肩には、十番隊の羽織が揺れていた。

 

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