掲げし義に 道は違い
閉じゆく瞳に 夜は降る
「痛みを感じなくすれば、耐えられるということではありません」
烈が紙を置いた。
痣城は向かいへ座っている。隊首会の時と同じ姿勢だった。膝へ置いた両手も動かさず、烈が尋ねれば答える。隠す気がないのだろう。こちらが読み違えたところまで、丁寧に直してくれた。
そのたびに、俺は紙へ目を戻す。
怖くても逃げられないのかと思った。違うらしい。怖がらなくなるように、そこから変えるという話だった。
「戦闘に不要な反応を抑えます。負傷によって動きを止めれば、それだけ生存の可能性も下がりますから」
「身体が傷んでいるのに動かし続ければ、その者は死にます」
「通常の魂魄よりも、損傷に耐えられるようにします」
「その処置にも耐えられなかった者は、どうなりますか」
痣城が別の頁を開く。
俺はそちらを見ず、最初に渡された図へ指を置いていた。身体のどこを変えるかは、随分と細かく書いてある。けれど、終わった後のことは少ない。
「元に戻せるのかい」
痣城の手が止まる。
「戦闘能力を失わせる必要があるのでしたら」
「そうじゃないよ。処置を受ける前の、その者へ戻せるかって聞いてる」
男が俺を見る。
俺も顔を上げた。喜助なら、使った本人が後から直せるか考えていただろうか。いや。あいつと一緒に眺めた金具を、今ここで思い出したくはなかった。
「現在の段階で、保証はできません」
「それじゃあ、駄目だねぇ」
「虚に殺された魂魄は、戻ってきません」
返事は早かった。
烈がこちらを見る。俺は紙から指を離し、痣城の言葉を待った。
「今も、救援の間に合わない場所で犠牲が出ています。死神を増やしても、虚が現れるたびに派遣するのであれば同じです。発生を待つ必要のない方法を、考えなければなりません」
「それで、流魂街の者を使うのかい」
「必要な戦力を、最も早く揃えられます」
「お前さんが守りたい者も、そこにいるんじゃないの」
痣城は答えなかった。
窓の外で足音がする。四番隊の子が廊下を急ぎ、別の子が小さな声で呼び止めていた。ここへ来る時にも、手当てを待つ者がいたねぇ。あいつの言う犠牲を、俺は知らないふりもできない。
それでも、この図へ頷くことはできなかった。
「俺も、間に合わなかったことはあるよ」
痣城の目が僅かに動いた。
「だから、減らす方法を考えるなとは言わない。けれど、帰りたいと思うことまで奪って、守ったことにはできないよ」
烈が俺の傍から紙を取る。
重ねて揃える音を聞きながら、俺は痣城を見ていた。言い返してくれた方が、まだ話を続けられたのかもしれない。男はただ、俺たちが読み終えるのを待っているように座っていた。
*
先生の返事は、変わらなかった。
「この計画は認めぬ。流魂街の者へ手を出すことも、独断で虚圏へ兵を送ることも許さん」
痣城が頭を下げる。
その横顔を、俺は見ていた。烈の説明を聞いている間も、先生は一度も杖から手を離さなかった。最後に痣城へ顔を向け、もう一度言う。
「十一番隊隊長としての命令じゃ。よいな」
「……承知しました」
今度は声があった。
けれど、紙を引き取る手には迷いがなかった。書き直すところを尋ねることもなく、男は束を抱えて部屋を出ていく。
先生が俺を呼んだのは、その足音が聞こえなくなってからだった。
「烏有」
「うん」
「何を考えておる」
「話が済んだ顔には、見えなかったねぇ」
先生も頷かなかった。
俺は痣城の座っていたところを見る。こちらを納得させられなかった。それだけで、あいつがやめてくれるだろうか。
十番隊へ戻ると、庭から声がした。
榛名が地面へ片膝をつき、刳屋敷を見上げている。佐伯は少し離れたところで刀を下げていた。俺を見つけると、先に一礼してくれる。
「遅くなったねぇ」
「お帰りなさいませ」
「どうだった。話は」
刳屋敷が近づいてきた。
俺は首を振り、先生が認めなかったことを伝える。あいつは腕を組んだまま聞き、話が終わっても、すぐには庭へ戻らなかった。
「痣城は、何と言った」
「承知したって」
「そうか」
短い返事だった。
あいつに負けた者へ、こういう話を聞かせるのも嫌なものだねぇ。俺が顔を上げると、刳屋敷は門の方を見ていた。
「俺からも、一度話してみるか」
「いいの?」
「何がだ」
「お前さんが、そこまで付き合ってやることもないでしょう」
刳屋敷がこちらを見る。
少しして、困ったように笑った。
「十一番隊の隊長だぞ。知らん顔もできんだろうが」
もう、お前さんの隊ではない。
そう言う気にはなれなかった。佐伯も何も挟まず、庭へ残っていた者たちへ稽古を終えるよう声を掛けている。
「じゃあ、俺も行こうか」
「今日はやめておけ。お前、飯も食ってないだろう」
「そうだったねぇ」
「俺も腹が減った。難しい話をするなら、せめて食ってからにしろ」
こちらへ背を向け、大きな手が佐伯の肩へ載った。
さっきの足だがな、と稽古の話が始まる。佐伯が顔を上げるので、俺も隣へ並んだ。帰ったら庭へ来いと言われていたのに、もう皆が片づけている。
明日は、早く戻ろうか。
そう思って門を見た時には、まだ、十一番隊の子は来ていなかった。
*
翌日の夕方、門へ駆け込んできた男は、左腕を押さえていた。
血のついた指の間から、十一番隊の印が見える。俺の名を呼ぼうとするので、先に座らせた。傷へ手を当てると、男は顔をしかめながらも首を振った。
「俺より、痣城隊長を」
「何があった」
「流魂街へ……止めようとした連中が、斬られました」
刳屋敷の声が、低くなる。
俺は男の腕へ回道を通した。骨までは届いていない。けれど、ここへ来るまで押さえていたのだろう。袖の中へ随分と流れていた。
「ほかの者は?」
「隊舎に。追うなと、言われて……」
「分かったよ。話せることは、刳屋敷へ話しておいてね」
佐伯がもう、門のところに立っていた。
俺が呼ぶ前に槇島へ何か伝え、こちらへ戻ってくる。刀は腰にある。顔を見ると、あいつも頷いた。
「一番隊へ知らせを出しました」
「ありがとう。来てくれる?」
「はい」
刳屋敷が男の隣へ膝をつく。
俺はそちらへ顔を向けた。あいつの手が、傷ついた腕を支えている。
「こっちは任せて」
「……ああ。頼む」
門を出て、屋根へ上がる。
佐伯がすぐ横へ来た。昔なら、一度こちらの背を探しただろう。今日は道の先を見たまま、俺が足を出すのを待っている。
置いていかないよ。
そのつもりで頷き、俺は流魂街へ向かった。
家並みが低くなった辺りで、妙な流れに触れた。
自分の中へ巡らせている霊子が、外から引かれる。強い霊圧をぶつけられた時とは違う。屋根も道も、そこにあるままで、俺たちの向かう先へ何かが通っていた。
この前、あいつが刳屋敷の身体へ入れたものも、こんなふうに通ったのかい。
足を速める。
町外れの道へ出た時、井戸の傍に男がいた。水を汲みに来た女が桶を抱え、その羽織を見て頭を下げている。痣城の右手が上がった。
俺は二人の間へ降りた。
「その手を下ろしな」
女の息が止まる。
痣城の指が、俺の肩の向こうを向いていた。俺はそこから動かず、後ろへ声を掛ける。
「桶は置いていいよ。家へ戻って」
「は、はい」
佐伯が女へ道を空ける。
その足音が遠ざかるまで、痣城は手を上げたままだった。俺が顔を向けると、ようやく下ろす。
「誰かに、もう使った?」
「まだです」
「そう。間に合ったねぇ」
自分へ言ったつもりだった。
痣城がこちらを見る。その目が、俺の腰の刀へ一度落ちた。
「計画は、禁じられたはずです」
佐伯が俺の隣へ出る。
「総隊長の御命令を、聞いておられたでしょう」
「聞きました」
「ならば、なぜ」
「許可を待つ間にも、犠牲は出ます」
俺は痣城の顔を見ていた。
昨日も、同じことを聞いた。あいつにとっては、昨日から今日までに亡くなった者も、待たされたための犠牲になるのだろうか。
「それで、お前さんを止めた子たちまで斬ったのかい」
「致命傷は避けています」
「そういう話をしてるんじゃないよ」
痣城の肩越しに、戸が閉まった。
俺たちを見に出ていた者が、家の中へ戻っていく。あそこに、さっきの女もいるのだろう。桶を置いたまま走らせてしまった。後で、持っていってやろうねぇ。
「戻ろう。十一番隊の子も、お前さんを待ってる」
「戻れば、この計画は失われます」
「うん。やらせないよ」
痣城が黙る。
その姿の輪郭が、薄くなった。
佐伯の手が柄へ掛かる。俺は左手でそれを止め、足元へ目を落とした。砂の下へ、流れが入っていく。井戸の向こうにも、家の土台にも。
道を壊して掘り返せば、そこに住んでいる者が困る。
刀を抜きかけたところで、背後の空気が重くなった。
「痣城」
先生が、道へ降りる。
佐伯が一歩退いた。俺も痣城へ目を戻す。薄れていた身体が、再び男の形を取っていた。
「直ちに融合を解け。刀を置き、儂の前へ出よ」
先生の右手は杖にある。
まだ抜いていない。痣城も、それを見ていた。
「この計画を退けるのでしたら、代わりをお示しください」
「命令じゃ」
「虚による犠牲をなくす方法を、私は持っています」
「そのために、守るべき者をお主の道具にすることは許さぬ」
声が道へ響いた。
俺は先生の横へ立つ。痣城がこちらを見た。男の身体はまだ目の前にあるのに、足元の流れは、家々の下へ広がろうとしている。
刀を合わせる相手なら、よかったのにねぇ。
『烏有』
声がした。
腰のゆめではない。遠いところで聞いた、あの太い声だった。俺が顔を上げると、先生も空へ目を向けている。
『その男の企ては、流魂街だけの話では済まぬ。虚圏へ踏み込ませれば、三界の均衡を損ないかねん』
和尚。
佐伯はこちらを見ていた。何が聞こえたのか尋ねたそうだったが、先生の顔を見て口を閉じる。
『烏有。此度に限り、おんしの先の解放を許す』
俺は柄へ置いた手を見る。
使うために探した力だった。ゆめと二人で、あれだけ長く歩いて見つけたものだ。それを今、誰かの目覚めを奪うために使えと言われる。
『痣城双也を、永遠の眠りへ誘え』
返事をする前に、痣城へ目を向けた。
あいつは先生を見ている。従うつもりは、まだないらしい。
「……聞いたね、先生」
「うむ」
先生の返事は短かった。
俺は刀を抜いた。
*
「佐伯。先生の傍へいてねぇ」
隊長に言われ、私は総隊長の後ろへ下がった。
道の先には痣城隊長がいる。斬魄刀を構える様子はない。刳屋敷殿との決闘でも、そうだった。あの方が胸を押さえた時、私は何が起きたのか分からずにいた。
今も、刀を抜いて届くのかさえ分からない。
隊長は、抜いた刀を見ておられた。
「ゆめ」
『ええ。聞いておりんす』
声が聞こえた。
山で二人きりのつもりでいた時も、隊長は時々、そちらへ話しておられた。私が一度も避けられなかった刀の内側に、その方がいる。
隊長の指が、柄を握り直す。
〈九つの夜を渡り、名を呼ぶ声のもとへ。
醒めれば隔たる夢ならば、目覚めを此処に葬ろう。
現よ、帳を下ろせ。夢よ、その奥より出でよ。
刃を隔てて向かい合う、最後の夜は明けた。
お前の見る夢を、俺の生きる世に。
俺の生きる世を、お前の帰る場所に。
もう、独りで醒めるな。
この先は⸺二人で現と成ろう〉
霊圧が膨れ上がった。
息を吸ったまま、吐けなくなる。五十年の間、何度もこの方を前に立った。刀を握れなくなり、地面へ這いつくばったこともある。
それでも、こんなものは知らない。
〈
白い光が、空へ立った。
隊長の姿が見えなくなる。私は片腕を顔の前へ上げた。総隊長の羽織が視界へ入り、その背へ縋るように目を向ける。
霊圧が、分からなくなった。
思わず、腕を下ろす。
つい先ほどまで、そこにいた。強すぎて立っていられなくなりそうだった方が、どこにもいない。
「隊長……?」
呼んだ時、光の向こうで髪が揺れた。
白銀の長い髪だった。
光が薄れ、白い衣が見える。袖を彩る金の文様へ、私は目を奪われた。その下には、先ほどまで隊長が立っておられた道がある。
足は、地面についていなかった。
女の方が、空に浮いている。
私は知っているはずだった。隊長が解放された姿も、普段とは違う声も。けれど、顔を上げられたその方を見て、すぐには名を呼べなかった。
綺麗だと思ってしまった。
こんな時に、何を考えている。
自分を叱るように刀へ手をやり、そこで気づいた。刀がない。その方の手にも、腰にもなかった。
「……何をしたのです」
痣城隊長の声がする。
私はそちらを見た。あの方もまた、宙の姿を見上げている。
「霊圧が、消えた」
違う。
そう思ったのに、私にも分からない。目で見えている場所へ意識を向けても、何も掴めなかった。もっと広く探そうとして、額へ汗が伝う。
「探すな」
総隊長に言われ、手が止まった。
「見失ったのではない。今のお主には、感じ取れぬ」
私は総隊長を見る。
杖を握る手は動いていない。その目は、白い衣の方へ真っすぐに向いていた。
「総隊長には……」
「感じておる」
それだけ答え、総隊長は顎を上げられた。
つられて空を見る。
夕方だったはずの空に、星があった。
家々の屋根を越え、流魂街の向こうへ、どこまでも夜が続いている。山で見上げた空よりも、ずっと近い。手を伸ばせば触れられそうで、私は左手を握った。
五十年、傍にいた。
少しは近づけたと、思っていた。
刀を合わせるたびにまだ先があると知っていたのに、私は今、ようやく、その先の姿を見せていただいている。
「『よう、見えておりんすよ』」
二つの声が、重なった。
痣城隊長の身体が薄れる。私は反射で足を出しかけたが、その前に、白い袖が僅かに上がった。
「『そこにも。その先にも』」
痣城隊長の姿が、止まった。
消えかけていた肩が戻る。足が地面を踏み、羽織の裾が落ちた。あの方は自分の右手を見ていた。握ろうとした指が、途中で止まっている。
「……なぜ」
井戸の縁へ、細い光が走った。
石が砕けたのかと思った。けれど、欠片は落ちない。光だけが男の方へ流れ、足元の砂からも、塀からも、同じものが戻っていく。
庭木の枝が一度揺れた。
その葉から離れた光まで、痣城隊長の身体へ収まった。
「『まだ、残しておいででありんしょう』」
痣城隊長が顔を上げる。
唇が動いた。その言葉が聞こえるより先に、遠い屋根の向こうから、最後の光が渡ってきた。
隊長は、動いておられなかった。
袖から覗いた手を、そっと返されただけだった。
「私の……雨露柘榴が」
痣城隊長の声が掠れる。
その足が後ろへずれた。逃げようとしたのか、踏み直そうとしたのか。私には分からなかった。次の一歩が出る前に、あの方の膝が折れる。
「まだ、終わっていない。虚は、今も⸺」
「『ええ。起きておる者で、引き受けんしょう』」
痣城隊長の目が見開かれた。
白い袖が下りる。
「『おやすみなんし』」
男の瞼が、閉じた。
倒れる身体を、私は見ていた。受け止めようとした腕より先に、その身体が宙で止まる。羽織の裾が一度揺れ、それから、眠った男が静かに道へ横たえられた。
音は、ほとんどしなかった。
私は刀から手を離せずにいた。
刳屋敷殿を倒した相手だった。身体の内側へ入り、刀で受けることさえ許さなかった相手が、目の前に横たわっている。
隊長は、一歩も動いていない。
「……烏有」
総隊長が呼ぶ。
宙の方が、こちらへ顔を向けられた。
「済んだか」
「『ええ。もう、目覚めることはありんせん』」
私は痣城隊長を見た。
眠っている。
ただそれだけに見える顔だった。明日になれば目を開き、あの紙を広げるのではないか。そう思えるほど静かな顔で、もう二度と、起きないのだという。
総隊長が目を伏せられた。
私もようやく、柄から手を離した。
*
星が消える時、私は空を見上げていた。
夕暮れの色が戻ってくる。白かった衣が光に包まれ、道へ降りた足が地面を踏んだ。
そこに、いつもの隊長がいた。
手には刀がある。
霊圧も、分かった。
それを確かめてから、私は自分が随分と浅い息をしていたことに気づいた。深く吸うと、隊長がこちらを見る。
「佐伯。大丈夫?」
「……はい」
「そっか」
刀を納める音がした。
私はその手を見ていた。五十年の間、何度も傷を治していただいた手だ。痣城隊長へ触れることもなく、もう目覚めない眠りへ落としたのも、その手だった。
「流魂街の者を確かめます」
口にしてから、ようやく足が動いた。
隊長が頷く。
「うん。さっきの人、こっちの家へ戻ったよ。何もされてないか、聞いてきてくれる?」
「承知しました」
家の戸へ向かうと、中から先ほどの女の声がした。
死神様、と呼ばれる。
私は刀から手を離したまま、戸の前へ屈んだ。痣城隊長に触れられなかったか。身体に変わったところはないか。一つずつ尋ねるうち、向こうの声も少しずつ落ち着いていった。
井戸へ水を汲みに来ただけだという。
まだ何もされていない。そう答えてから、女は隣の家にいる者のことも話してくれた。私は礼を言い、その戸へも声を掛けた。
戻る頃には、総隊長が痣城隊長の傍に立っておられた。
「こちらは儂が預かる。お主らは、十一番隊の負傷者を見てやれ」
隊長が頷く。
その顔へ何か言おうとして、私は言葉を探した。先ほどのお姿についてか。それとも、霊圧についてか。
どちらも、うまく口にならなかった。
「先生」
「何じゃ」
「十一番隊の子たちには、俺から話すよ」
「……うむ。刳屋敷にもな」
「うん」
隊長がこちらへ来る。
私は一礼して、その隣へ並んだ。帰ろうとする背を、あの夜空の下に浮かんでいた姿と、どうしても重ねられない。
「隊長」
「うん?」
「先ほどは、何も感じ取れませんでした」
隊長の目がこちらへ向いた。
「目の前におられるのに、どこにも……五十年、教わってきたのですが」
言ってから、顔を下げた。
今、申し上げることではなかったかもしれない。十一番隊では負傷者が待っている。刳屋敷殿へも、伝えなければならない。
それでも隊長は、私の返事を待つ時と同じように、足を緩めてくださった。
「うん。お前さん、よくついてきてくれたよ」
その言葉に、顔を上げる。
「けれど、あそこまで近づけとは思ってない。今日も、俺が戻るまで待っててくれたでしょう。それで助かったよ」
隊長の手が、私の肩へ触れた。
私はその重さを確かめるように、少しだけ立ち止まった。
追いつけない。
そう思った。長次郎殿へ刀を届かせた日には、あれほど嬉しかったのに。今はまた、山で初めて刀を抜いた時のような気持ちになっていた。
けれど、手はここにある。
「……戻りましょう。刳屋敷殿も、お待ちです」
「うん。待たせちゃったねぇ」
隊長が歩き出す。
私はついていこうとして、井戸の傍へ目を留めた。桶が一つ、そのまま残っていた。
隊長も振り返る。
「ああ。そいつも、持っていってあげようか」
私は先に桶を持ち上げた。
水は、まだ半分ほど残っている。零さないよう両手で抱え、先ほどの家へ向かった。隊長が隣へ来て、私の代わりに戸を叩く。
「水。ここへ置いておくよ」
中から返事があった。
女が戸を少し開き、私たちを見て頭を下げる。私は桶を渡し、もう大丈夫ですと伝えた。
隊長は、それを聞いてから道へ戻られた。
私も一礼して、その後を追う。
夕暮れの道を行く肩には、十番隊の羽織が揺れていた。