卍解のその先を追い求めて。   作:lalaland

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白き山に 埋もれぬ血潮
長き夜に 醒めぬ夢あり




12.雪間の旧夢

 

 

 籠をどかした奥の部屋には、古い布団が一組あった。広げると藁の屑が落ち、壁際でまた鼠が鳴いた。俺は布団を軒先へ運び、埃を払ってから敷き直した。

 

 老人は何も言わなかった。炉の前へ戻ると鍋の底に残っていた芋を椀へ移してくれた。薪を足そうとした俺の手を止め、細い枝を二本だけ火へ入れる。

 

「太いのは朝じゃ」

「夜中に消えないか」

「消える。寝とる間まで焚いてどうする」

 

 なるほど、と返して椀を受け取った。山本の塾では薪の残りを気にしたことがなかった。ここでは切るのも運ぶのも、この老人一人でやっている。

 

 飯を食って布団へ入る頃には、火は赤い熾(おき)だけになっていた。隣から寝息が聞こえてくる。戸の隙間では風が鳴り、外壁へ細かな雪が当たっていた。

 

「ゆめ。爺さん、寝たよな」

「お休みになっているようでありんす」

「庭はどうなってると思う?」

「ご覧になればよろしゅうありんしょう。ただ、戸は静かに」

 

 布団を抜け、戸を少し開いた。雪はまだ降っていた。家の前へ吹き込んだものが、昼と同じところで左右へ流れていく。

 

 寝ていても続くこと自体は珍しくない。俺の白縫(しらぬい)も、作った後まで一本ずつ気にしているわけじゃない。気になるのは、あれだけの雪を動かしているのに術を支える力がほとんど分からないことだった。

 

 庭へ下りてみた。雪の手前まで歩き、掌を差し出す。指へ触れた雪は溶けた。その下を通ったものは、俺の足元へ来る前に脇へ逸れていった。風は頬へ当たっている。雪と一緒に風まで止めているわけではなさそうだった。

 

「閉めんか。寒い」

 

 家の中から声がした。

 

「悪い。起こしたか」

「戸を開ければ起きる」

 

 急いで戻って戸を閉めた。寝息を聞いたくらいで、完全に眠ったと決めるのも早かったらしい。布団へ潜ると、ゆめが小さく笑った。

 

           *

 

 薪割りは家の裏でやることになった。

 

 朝飯の後に渡された斧は、柄の先が黒ずんでいた。刃には細かな欠けがある。刀なら手入れを勧めるところだが、老人はそれで昨日まで薪を割っていた。

 

 丸太を立てて斧を振り下ろす。乾いた音がして左右へ割れた。何本か片づけたところで、老人が一方を拾い、さらに半分へ割った。

 

「その大きさでは、鍋の下へ入らん」

「ああ、朝の枝と同じくらいか」

「割ったら壁際へ積んどけ。濡れたのを混ぜるなよ」

 

 老人は籠を持って畑の向こうへ歩いていった。雪の中へ入ると足元が開き、やがて岩の陰へ姿が消える。家の周りでは変わらず雪が逸れていた。

 

 斧を下ろした。今度は老人が見えなくなった後も、庭を眺めていた。

 

「爺さんについて動いてるところと、家に残ってるところがあるんだな」

「お前様の糸も、置いていけば残りんす」

「そうなんだけどさ。俺の糸なら、俺の力が残ってるのは分かるだろ」

 

 割った薪を一本拾った。庭と雪の境目へ近づき、先を外へ差し出す。降ってきた雪が木の上へ積もった。少し待ってから、ゆっくり引き戻した。

 

 薪は何にも押されなかった。

 

 けれど、その上に載っていた雪は落ちた。庭へ入ったところで横へ滑り、木の端から外へ散っていく。薪を傾けたわけではない。水平に持ったまま、もう一度外へ出した。

 

「……雪だけか」

 

 同じことを三度繰り返した。木は通り、雪は通らない。家の周りへ力を張って、何でも押し返しているのではなかった。

 

 庭の別のところでも試していると、老人が戻ってきた。籠には枯れ枝が入っている。俺の手元を見てから、壁際の薪へ目を移した。

 

「終わったのか」

「まだ半分」

「遊ぶなら済ませてからにせい」

「遊んでるわけじゃないんだけどな」

 

 薪を置いて斧を拾った。老人は軒下へ籠を置き、俺が割ったものを長さごとに分け始めた。

 

 雪のことを聞いても、やはり積もらないようにしているとしか言わなかった。何をしているかという問いには、それで答えたつもりらしい。俺が知りたいのはその先だったが、尋ね直す前に水汲みの桶を渡された。

 

 その日は薪を割り、水を汲み、鼠に齧られていた袋を縫った。夕方には腹が減り、飯を食えば眠くなる。庭を見ているだけで一日過ごせると思っていたのは、少し甘かった。

 

 翌日もその次の日も、老人は俺の分まで飯を作った。薪は二人いると早く減るので、山の下まで拾いに行くことになった。近くには低い灌木しかなかったが、斜面を幾つか下りると木が増える。倒れた幹を切り、乾いたところを選んで束にした。

 

 持ち帰るために白縫を使った。太い枝を束ね、細い枝は隙間へ挟む。老人は俺が糸を掛けるところを、黙って見ていた。

 

「便利なものを使うな」

「縄を持ってくるの忘れてさ。これなら切れる心配もない」

「荷を括るために覚えたのか」

「最初は人だったかな。腕を縛って、刀を振れなくするために」

 

 老人が束の端を持ち上げた。糸を引き、結び目のないところまで指で辿っていく。

 

「腕だけでは、空いた手でほどかれるじゃろう」

「そう。だから肘も押さえる。片腕だけ取れた時は、こっちへ引いて体勢を崩すんだ」

「首まで回せば早い」

「そこまでできるなら、刀でも届くからな」

 

 老人は鼻で笑った。

 

「確かにのう」

 

 薪の束を背負い、来た斜面を登った。老人は俺の隣を歩いていた。足元で雪が割れるのを見ながら、さっきの言葉を思い返した。

 

 縄の掛け方を知っているだけなら、腕から首へ話が移るだろうか。振れなくなった刀の代わりに、空いた手で何をするか。俺が何度も斬り合って覚えたことを、あの老人はすぐ口にした。

 

「爺さんも、人を斬ったことがあるのか」

 

 雪の斜面で尋ねると、老人は前を向いたまま答えた。

 

「ある」

「随分、慣れてるみたいな言い方だったから」

「お前もじゃろう」

 

 それには頷いた。老人は何も聞き返さず、家まで歩いた。

 

           *

 

 山の下で買ってきた塩が、甕の半分ほどになった。

 

 一度町へ下りたついでに紙も買い足していた。ここへ来てから書いたものには、庭の図や雪の動きが増えている。老人が歩く時と家の周りとで、同じことをしているのかはまだ分からない。日によって力を感じた気がすることもあったが、確かめようとすると捉えられなくなった。

 

 雪が通らない場所は家と畑を囲んでいた。壁に沿っているわけでも、地面から同じ高さまでというわけでもない。軒から張り出したところにも雪は積もらなかった。

 

 俺の術ならどう作るかと考え、幾つか試してみた。雪だけを選んで横へ動かすことはできた。降ってくるものへ一つずつ応じなくても、決めた範囲へ入った雪を退け続けることはできる。ただ、俺が作ったものには、それを動かしている俺の力があった。

 

 力を抑えて分からなくすれば似せられるかもしれない。けれど、それだけで老人と同じことをしているとは言えなかった。

 

 紙を見ていると、向かいから椀を差し出された。

 

「飯の上まで広げるな」

「ああ、悪い」

 

 紙を重ねて脇へ寄せた。鍋には山の下で買った豆も入っていた。老人は柔らかくなるまで煮たものを好み、俺が持ち帰った酒には顔をしかめた。辛すぎると言いながら、毎晩少しずつ飲んでいる。

 

 その夜も小さな杯を持ち、戸の外へ目を向けていた。

 

「昔の湖って、どのくらい大きかったんだ」

 

 尋ねると、老人は杯を置いた。

 

「お前が薪を拾ってきた辺りまで、水があった」

「そんなに?」

「岸に木が生えとった。魚も獲れたし、人の住むところもあった」

 

 あの斜面が湖の岸だったという。今は雪と岩ばかりで、俺が見つけた木も谷の底までは続いていなかった。

 

「干上がったのか」

「底が割れた」

「地震か何かで?」

「殺し合いじゃ」

 

 老人は鍋から豆を一つ拾い、箸の先で潰した。

 

「岸の上から撃ち合っておった。水へ潜った者を追って、底まで掘り返した奴がおってな。翌朝には、向こうの岸まで歩いて渡れた」

「……爺さんも、その中にいたのか」

「おった。水がなくなるとは思わなんだが」

 

 酒を飲む口元は、いつもと変わらなかった。俺は棚に立て掛けてある斧を見た。老人が刀を持っているところは、まだ一度も見ていない。

 

「いつ頃の話?」

「三万年は経っとるじゃろう」

 

 箸を止めた。

 

「三万?」

「それより前かもしれん。湖がなくなってからも、しばらくは人が来とったからな」

 

 もう一度、老人の顔を見た。冗談を言っている様子はなかった。

 

 五百年歩いて、山本の下で百年過ごした。それだけ生きれば、俺だって随分な年寄りだと思っていた。目の前の老人が話しているのは、その何十倍も昔のことだった。

 

「何じゃ」

「いや。長く住んでるとは聞いたけど、そこまでとは思ってなかった」

「ここにずっとおったわけではないぞ。家も何度か建て直しとる」

「そりゃ、そうだろうけどさ」

 

 答えながら、紙を寄せた机の端へ目を向けた。俺が旅の間に聞いた昔話に、そんな湖の話はなかった。この山の奥に人が住んでいたという話さえ、麓では聞かなかった。

 

 何万人が暮らしていたのか。誰と誰が殺し合っていたのか。今では雪に埋まっている場所を、老人だけは水のある景色で覚えていた。

 

「敵は、何だったんだ。虚とか?」

「人じゃ。お前と同じように刀を持ち、術を使う者もおった。腹を裂かれても斬り返す。腕を落としても、残った方で首を取りに来る。大した連中じゃったよ」

 

 杯へ酒を注ぎ足しながら、老人が笑った。

 

「儂も、よう斬った」

 

 その声を聞いて、薪を束ねた日の話を思い出した。腕を縛られた相手が次に何をするか、この老人も知っている。知るまでに、俺と同じように斬ってきたのだろう。

 

 ただ、その頃に斬り合った者たちは、もう誰もここへ来ない。

 

 老人は豆を食べ、俺の脇に置いた刀へ目を向けた。

 

「お前は、何を探しとる」

「雪のこと?」

「それもじゃ。刀を持って、こんな山まで来た。下には人も道もあるのに、まだ帰らん」

 

 膝の横へ置いた刀を引き寄せた。ゆめは黙っていた。

 

「刀の解放があるだろ。始解と卍解」

「ああ」

「その先へ行けないかと思ってるんだ」

 

 老人はすぐには答えなかった。俺の刀から顔へ視線を移し、続きを待っているようだった。

 

「卍解はできる。使えるようになった時は嬉しかったよ。今でも、できることが増えれば嬉しい。でも、そこまでで終わりだって言われると、どうも納得できなくてさ」

「刀には聞いたか」

「聞いた。こいつも一緒に考えてくれてる」

 

 柄へ手を置いた。

 

「山本って人の下で百年学んだ。剣も鬼道も、教わることは山ほどあった。でも、その先の手がかりは掴めなかった。だから、別の場所へ行ってみようと思ったんだ」

 

 話しているうちに、旅立つ前の夜を思い出した。山本の前でも、その先がないとは思えないと言った。あの時から歩いてきた理由は変わっていない。けれど今は、刀を眺めるだけでなく、石や木を調べた紙も手元にあった。

 

「最近は、霊子がどう集まって、何で形を保ってるのかを見てる。鬼道を作る時に俺がしてることも、ちゃんと知りたい。そこから何か分かるかもしれないから」

「それで、庭をうろついておったのか」

「かなり気になってるんだよ。爺さんの雪」

 

 老人は空になった杯を置いた。

 

「明日は、薪を切る前に声を掛けろ」

「何か見せてくれるのか」

「お前の術を見せてみい。荷を縛る糸以外にも使うんじゃろう」

 

 思わず顔が緩んだ。

 

「幾つかは」

「山へ向けて放てよ。家を壊されてはかなわん」

 

 頷いて刀を膝へ戻した。老人は残った豆を俺の椀へ移し、鍋へ水を入れた。

 

「お前様。随分、楽しそうでありんすね」

 

 ゆめの声がした。声には出さず柄を指で叩くと、刀の中で笑われた。

 

 老人が立ち上がったので、俺も空の椀を持って腰を上げた。明日見せる術を考えながら、流しの桶へ手を伸ばした。

 

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