白き山に 埋もれぬ血潮
長き夜に 醒めぬ夢あり
籠をどかした奥の部屋には、古い布団が一組あった。広げると藁の屑が落ち、壁際でまた鼠が鳴いた。俺は布団を軒先へ運び、埃を払ってから敷き直した。
老人は何も言わなかった。炉の前へ戻ると鍋の底に残っていた芋を椀へ移してくれた。薪を足そうとした俺の手を止め、細い枝を二本だけ火へ入れる。
「太いのは朝じゃ」
「夜中に消えないか」
「消える。寝とる間まで焚いてどうする」
なるほど、と返して椀を受け取った。山本の塾では薪の残りを気にしたことがなかった。ここでは切るのも運ぶのも、この老人一人でやっている。
飯を食って布団へ入る頃には、火は赤い
「ゆめ。爺さん、寝たよな」
「お休みになっているようでありんす」
「庭はどうなってると思う?」
「ご覧になればよろしゅうありんしょう。ただ、戸は静かに」
布団を抜け、戸を少し開いた。雪はまだ降っていた。家の前へ吹き込んだものが、昼と同じところで左右へ流れていく。
寝ていても続くこと自体は珍しくない。俺の
庭へ下りてみた。雪の手前まで歩き、掌を差し出す。指へ触れた雪は溶けた。その下を通ったものは、俺の足元へ来る前に脇へ逸れていった。風は頬へ当たっている。雪と一緒に風まで止めているわけではなさそうだった。
「閉めんか。寒い」
家の中から声がした。
「悪い。起こしたか」
「戸を開ければ起きる」
急いで戻って戸を閉めた。寝息を聞いたくらいで、完全に眠ったと決めるのも早かったらしい。布団へ潜ると、ゆめが小さく笑った。
*
薪割りは家の裏でやることになった。
朝飯の後に渡された斧は、柄の先が黒ずんでいた。刃には細かな欠けがある。刀なら手入れを勧めるところだが、老人はそれで昨日まで薪を割っていた。
丸太を立てて斧を振り下ろす。乾いた音がして左右へ割れた。何本か片づけたところで、老人が一方を拾い、さらに半分へ割った。
「その大きさでは、鍋の下へ入らん」
「ああ、朝の枝と同じくらいか」
「割ったら壁際へ積んどけ。濡れたのを混ぜるなよ」
老人は籠を持って畑の向こうへ歩いていった。雪の中へ入ると足元が開き、やがて岩の陰へ姿が消える。家の周りでは変わらず雪が逸れていた。
斧を下ろした。今度は老人が見えなくなった後も、庭を眺めていた。
「爺さんについて動いてるところと、家に残ってるところがあるんだな」
「お前様の糸も、置いていけば残りんす」
「そうなんだけどさ。俺の糸なら、俺の力が残ってるのは分かるだろ」
割った薪を一本拾った。庭と雪の境目へ近づき、先を外へ差し出す。降ってきた雪が木の上へ積もった。少し待ってから、ゆっくり引き戻した。
薪は何にも押されなかった。
けれど、その上に載っていた雪は落ちた。庭へ入ったところで横へ滑り、木の端から外へ散っていく。薪を傾けたわけではない。水平に持ったまま、もう一度外へ出した。
「……雪だけか」
同じことを三度繰り返した。木は通り、雪は通らない。家の周りへ力を張って、何でも押し返しているのではなかった。
庭の別のところでも試していると、老人が戻ってきた。籠には枯れ枝が入っている。俺の手元を見てから、壁際の薪へ目を移した。
「終わったのか」
「まだ半分」
「遊ぶなら済ませてからにせい」
「遊んでるわけじゃないんだけどな」
薪を置いて斧を拾った。老人は軒下へ籠を置き、俺が割ったものを長さごとに分け始めた。
雪のことを聞いても、やはり積もらないようにしているとしか言わなかった。何をしているかという問いには、それで答えたつもりらしい。俺が知りたいのはその先だったが、尋ね直す前に水汲みの桶を渡された。
その日は薪を割り、水を汲み、鼠に齧られていた袋を縫った。夕方には腹が減り、飯を食えば眠くなる。庭を見ているだけで一日過ごせると思っていたのは、少し甘かった。
翌日もその次の日も、老人は俺の分まで飯を作った。薪は二人いると早く減るので、山の下まで拾いに行くことになった。近くには低い灌木しかなかったが、斜面を幾つか下りると木が増える。倒れた幹を切り、乾いたところを選んで束にした。
持ち帰るために白縫を使った。太い枝を束ね、細い枝は隙間へ挟む。老人は俺が糸を掛けるところを、黙って見ていた。
「便利なものを使うな」
「縄を持ってくるの忘れてさ。これなら切れる心配もない」
「荷を括るために覚えたのか」
「最初は人だったかな。腕を縛って、刀を振れなくするために」
老人が束の端を持ち上げた。糸を引き、結び目のないところまで指で辿っていく。
「腕だけでは、空いた手でほどかれるじゃろう」
「そう。だから肘も押さえる。片腕だけ取れた時は、こっちへ引いて体勢を崩すんだ」
「首まで回せば早い」
「そこまでできるなら、刀でも届くからな」
老人は鼻で笑った。
「確かにのう」
薪の束を背負い、来た斜面を登った。老人は俺の隣を歩いていた。足元で雪が割れるのを見ながら、さっきの言葉を思い返した。
縄の掛け方を知っているだけなら、腕から首へ話が移るだろうか。振れなくなった刀の代わりに、空いた手で何をするか。俺が何度も斬り合って覚えたことを、あの老人はすぐ口にした。
「爺さんも、人を斬ったことがあるのか」
雪の斜面で尋ねると、老人は前を向いたまま答えた。
「ある」
「随分、慣れてるみたいな言い方だったから」
「お前もじゃろう」
それには頷いた。老人は何も聞き返さず、家まで歩いた。
*
山の下で買ってきた塩が、甕の半分ほどになった。
一度町へ下りたついでに紙も買い足していた。ここへ来てから書いたものには、庭の図や雪の動きが増えている。老人が歩く時と家の周りとで、同じことをしているのかはまだ分からない。日によって力を感じた気がすることもあったが、確かめようとすると捉えられなくなった。
雪が通らない場所は家と畑を囲んでいた。壁に沿っているわけでも、地面から同じ高さまでというわけでもない。軒から張り出したところにも雪は積もらなかった。
俺の術ならどう作るかと考え、幾つか試してみた。雪だけを選んで横へ動かすことはできた。降ってくるものへ一つずつ応じなくても、決めた範囲へ入った雪を退け続けることはできる。ただ、俺が作ったものには、それを動かしている俺の力があった。
力を抑えて分からなくすれば似せられるかもしれない。けれど、それだけで老人と同じことをしているとは言えなかった。
紙を見ていると、向かいから椀を差し出された。
「飯の上まで広げるな」
「ああ、悪い」
紙を重ねて脇へ寄せた。鍋には山の下で買った豆も入っていた。老人は柔らかくなるまで煮たものを好み、俺が持ち帰った酒には顔をしかめた。辛すぎると言いながら、毎晩少しずつ飲んでいる。
その夜も小さな杯を持ち、戸の外へ目を向けていた。
「昔の湖って、どのくらい大きかったんだ」
尋ねると、老人は杯を置いた。
「お前が薪を拾ってきた辺りまで、水があった」
「そんなに?」
「岸に木が生えとった。魚も獲れたし、人の住むところもあった」
あの斜面が湖の岸だったという。今は雪と岩ばかりで、俺が見つけた木も谷の底までは続いていなかった。
「干上がったのか」
「底が割れた」
「地震か何かで?」
「殺し合いじゃ」
老人は鍋から豆を一つ拾い、箸の先で潰した。
「岸の上から撃ち合っておった。水へ潜った者を追って、底まで掘り返した奴がおってな。翌朝には、向こうの岸まで歩いて渡れた」
「……爺さんも、その中にいたのか」
「おった。水がなくなるとは思わなんだが」
酒を飲む口元は、いつもと変わらなかった。俺は棚に立て掛けてある斧を見た。老人が刀を持っているところは、まだ一度も見ていない。
「いつ頃の話?」
「三万年は経っとるじゃろう」
箸を止めた。
「三万?」
「それより前かもしれん。湖がなくなってからも、しばらくは人が来とったからな」
もう一度、老人の顔を見た。冗談を言っている様子はなかった。
五百年歩いて、山本の下で百年過ごした。それだけ生きれば、俺だって随分な年寄りだと思っていた。目の前の老人が話しているのは、その何十倍も昔のことだった。
「何じゃ」
「いや。長く住んでるとは聞いたけど、そこまでとは思ってなかった」
「ここにずっとおったわけではないぞ。家も何度か建て直しとる」
「そりゃ、そうだろうけどさ」
答えながら、紙を寄せた机の端へ目を向けた。俺が旅の間に聞いた昔話に、そんな湖の話はなかった。この山の奥に人が住んでいたという話さえ、麓では聞かなかった。
何万人が暮らしていたのか。誰と誰が殺し合っていたのか。今では雪に埋まっている場所を、老人だけは水のある景色で覚えていた。
「敵は、何だったんだ。虚とか?」
「人じゃ。お前と同じように刀を持ち、術を使う者もおった。腹を裂かれても斬り返す。腕を落としても、残った方で首を取りに来る。大した連中じゃったよ」
杯へ酒を注ぎ足しながら、老人が笑った。
「儂も、よう斬った」
その声を聞いて、薪を束ねた日の話を思い出した。腕を縛られた相手が次に何をするか、この老人も知っている。知るまでに、俺と同じように斬ってきたのだろう。
ただ、その頃に斬り合った者たちは、もう誰もここへ来ない。
老人は豆を食べ、俺の脇に置いた刀へ目を向けた。
「お前は、何を探しとる」
「雪のこと?」
「それもじゃ。刀を持って、こんな山まで来た。下には人も道もあるのに、まだ帰らん」
膝の横へ置いた刀を引き寄せた。ゆめは黙っていた。
「刀の解放があるだろ。始解と卍解」
「ああ」
「その先へ行けないかと思ってるんだ」
老人はすぐには答えなかった。俺の刀から顔へ視線を移し、続きを待っているようだった。
「卍解はできる。使えるようになった時は嬉しかったよ。今でも、できることが増えれば嬉しい。でも、そこまでで終わりだって言われると、どうも納得できなくてさ」
「刀には聞いたか」
「聞いた。こいつも一緒に考えてくれてる」
柄へ手を置いた。
「山本って人の下で百年学んだ。剣も鬼道も、教わることは山ほどあった。でも、その先の手がかりは掴めなかった。だから、別の場所へ行ってみようと思ったんだ」
話しているうちに、旅立つ前の夜を思い出した。山本の前でも、その先がないとは思えないと言った。あの時から歩いてきた理由は変わっていない。けれど今は、刀を眺めるだけでなく、石や木を調べた紙も手元にあった。
「最近は、霊子がどう集まって、何で形を保ってるのかを見てる。鬼道を作る時に俺がしてることも、ちゃんと知りたい。そこから何か分かるかもしれないから」
「それで、庭をうろついておったのか」
「かなり気になってるんだよ。爺さんの雪」
老人は空になった杯を置いた。
「明日は、薪を切る前に声を掛けろ」
「何か見せてくれるのか」
「お前の術を見せてみい。荷を縛る糸以外にも使うんじゃろう」
思わず顔が緩んだ。
「幾つかは」
「山へ向けて放てよ。家を壊されてはかなわん」
頷いて刀を膝へ戻した。老人は残った豆を俺の椀へ移し、鍋へ水を入れた。
「お前様。随分、楽しそうでありんすね」
ゆめの声がした。声には出さず柄を指で叩くと、刀の中で笑われた。
老人が立ち上がったので、俺も空の椀を持って腰を上げた。明日見せる術を考えながら、流しの桶へ手を伸ばした。