積み重ねし日々に 別れは訪れ
開かれし道に 望みは育つ
曳舟の机に、俺の置いていった箱があった。
蓋へ手を掛けると、中から焦げた金具が出てくる。これは覚えている。喜助が手を離しても白縫を保てるようになった日に、俺が少し引いて壊したものだ。捨てていなかったんだねぇ。
「そいつも持っていくの?」
「ああ。上手くいったものばかり残しても、後で困るだろう」
「俺が壊したんだけど」
「壊れるまで使ってみたんだろう。おかげで、喜助が直せたじゃないか」
隣で喜助が笑った。今日は大きな箱を抱えていない。代わりに、曳舟から返された帳面を膝へ載せている。その厚みを見ていたら、昔、懐から小さな仕掛けを出した時の顔を思い出した。
五番隊で平子と刀を合わせてから、十四年になる。
喜助が持ってくるものは、その間も増え続けた。うちへ置いていったものだけでも棚が一つ埋まっている。そろそろもう一つ欲しいと佐伯に言われたばかりなのに、こちらでは机まで空き始めていた。
「本当に、行くんだねぇ」
金具を箱へ戻す。
曳舟は紐を掛けながら頷いた。
「呼ばれたからね。あたしにも、まだやってみたいことがある」
「うん。おめでとう」
「ありがとうよ。お前さんに言われると、少し妙な気分だね」
「どうして?」
「先に、向こうへ顔を出してきた奴だろう」
喜助の顔がこちらへ向く。あいつも知ってはいたけれど、俺から詳しく聞こうとはしなかった。今日は何か尋ねるかと思ったが、先に曳舟がこちらの手を叩く。
「そっちは、まだ閉じないよ」
「あら。これも入れるんじゃないの?」
「中身を確かめてるところだ。お前さんの棚を片づけてるんじゃないんだから」
手を引くと、喜助まで笑った。
零番隊へ上がる。
そう聞いたのは、つい先ほどだ。次に来る時には食べられるものを持ってくるように言われていたから、ちゃんと菓子を買ってきた。机の端に包みを置いた時には、ここで一緒に食べるつもりだったねぇ。
俺はその包みを寄せ、紐を解いた。
「茶は飲むでしょう」
「もちろんさ。片づけが終わるまで、待たなくていいよ」
曳舟が椅子へ腰を下ろす。喜助も帳面を脇へ置いたが、一冊だけは膝へ残していた。表紙の角が擦り切れている。あいつが初めてここへ来た時にも、持っていたものだ。
「それ、返してもらったの?」
「ええ。もう、お預けしておくわけにもいきませんから」
「また持っておいでとは、言えなくなるね」
曳舟が言う。
喜助は表紙へ目を落とし、少しして笑った。
「困りましたねぇ。まだ、お聞きしたいことがあったんスけど」
「今、聞けばいいじゃないか」
「一日では、ちょっと」
「だろうね。あたしも、答えてるうちに次が出てくるだろうし」
俺は空いている椅子を引いた。
最初に二人を引き合わせた時も、そうだった。俺の前から紙がなくなり、曳舟の隣へ喜助が座り直した。灯りを一つ見せるつもりが、帰る頃には借りたものまで増えていたねぇ。
今日は、あの時の金具が箱へ入っている。
「烏有。菓子を取っておくれ」
「うん」
皿へ移す前に、一つ渡した。
曳舟はそれを受け取り、向かいに座る喜助へ顔を向ける。
「喜助。お前さん、自分で隊を持ってみる気はないかい」
喜助の手が、帳面の上で止まった。
*
「……随分、大きなお話になりましたね」
喜助が笑う。
曳舟は菓子を食べ、飲み込んでから頷いた。俺も湯呑を取ったけれど、そちらの顔が気になって、まだ口をつけられない。
「十二番隊の、次の隊長だよ」
「僕は、二番隊の三席なんスけど」
「知ってるよ。だから、聞いてるんじゃないか」
喜助が俺を見る。
俺へ振られても、曳舟の代わりには答えられないねぇ。ただ、お前さんが十二番隊へ来るのなら、今までより顔を合わせやすくはなる。
「夜一には?」
「話してあるよ。そろそろ来るんじゃないかね」
「……僕が最後ですか」
「お主が、いつまでも帳面を取りに行かんからじゃ」
戸口から声がした。
夜一が入ってくる。喜助の隣へ立ち、膝に残った帳面を見てから、俺へ片手を上げた。
「烏有も来ておったか」
「うん。曳舟に菓子を頼まれてねぇ」
「儂には、こいつを頼まれた」
喜助の肩へ手が載る。
あいつはその手を見上げ、困ったように口元を緩めた。
「夜一さんまで、そのつもりなんですか」
「儂は、お主を推薦するつもりでおる」
「二番隊の仕事は?」
「お主がおらんと回らんようにしてあるとでも思うか」
喜助が黙る。
夜一は肩から手を離し、空いていた椅子へ座った。俺の寄せた皿から菓子を一つ取り、今度は喜助の顔を正面から見る。
「気になるなら、引き継いでから行け。隊長になるのが嫌なら、そう言え。儂の隊の話で逃げるでない」
曳舟が茶を差し出した。
喜助は両手で受け取り、しばらく湯気を眺めている。いつもなら、夜一へもう一言返していたねぇ。今日は飲む方を先にしたらしい。
俺もようやく、一口いただいた。
「お前さん、卍解は習得してるんだろう?」
喜助の顔が上がった。
「……どこで、お聞きになったんスか?」
「いや。できるのかなと思って、今聞いたんだよ」
喜助が夜一を見る。
あいつは何も言わず、笑っていた。
「夜一さん」
「儂は何も言うておらんぞ」
「ええ。そうでしょうね。今のお顔で、よく分かりました」
喜助が湯呑を置く。
俺は腰の刀へ一度目を向けた。初めて会った頃から、鬼道の話ばかりしていたねぇ。あいつがどんなふうに刀と話すのか、考えてみれば聞いたこともなかった。
「見せてくれる?」
「ここでは、ちょっと」
「うん。場所は変えるよ」
「烏有。先に、こっちの話をさせておくれ」
曳舟に言われ、俺は座り直した。
夜一が声を出して笑う。喜助まで少し肩を揺らしたので、待っていてくれるつもりはあるらしい。
「卍解は、会得しております」
今度は、曳舟へ向けた返事だった。
「ですが、隊を預かるとなると、それだけでは」
「そうだね。お前さんが考えなきゃならないことは、随分と増えるよ」
「研究ばかりしているわけにも、いきませんし」
「あたしが、そうしていたように見えたかい」
喜助はすぐに首を振った。
廊下で足音が止まる。声を掛けた十二番隊の子へ、曳舟が入るように言った。渡された紙へ目を通し、二つ尋ねてから返す。男は頷き、俺たちへも礼をして出ていった。
曳舟はその背を見送り、それから喜助へ向き直る。
「ここで、お前さんと話してる間も、隊の者は働いてる。任せていい仕事まで取り上げたら、あたしだって何も作れやしないよ」
「はい」
「お前さんは、どうするつもりだい」
喜助の指が、膝の帳面へ触れた。
俺もそちらを見る。角の擦れた表紙を、一度撫でる。まだ隊長になるとは答えていない。けれど、何も考えずに座っている手ではなかった。
「……十二番隊で、やってみたいことがあるんです」
夜一が菓子を置いた。
曳舟も、先を促さずに待っている。
「一人では、できることに限りがありますから。研究する者を集めて、継続して取り組める場所を作りたいと思っていました」
「どんな研究を?」
「幾つもあります。すぐに役立つものも、そうでないものも。今は、手をつけられずにいるものが多いんです」
喜助が帳面を開く。
曳舟に見せるつもりで持ってきたのだろうか。それとも、聞かれた時のために、いつも持ち歩いていたのか。開いた頁には、俺も見覚えのある形が描かれていた。
「これ、まだ使ってくれてるんだねぇ」
「ええ。白縫だけでは、もったいないでしょう」
手を離しても術を保つ金具だった。
今、十番隊へ配っているものは、これよりずっと小さい。喜助が直し、うちの子が使い、切れたところをまたあいつへ持っていった。榛名は三度目に壊した時から、自分でも帳面をつけ始めたねぇ。
「これを直してる間、ほかは止まってしまうんです。僕が任務へ出れば、そちらも。せっかく使っていただいているのに、次をお渡しするまで待たせることもあります」
「うん。でも、お前さんだけに急いでくれとは言えないよ」
「ですから、一人で抱えずに済むようにしたいんスよ」
喜助が笑った。
その先の頁には、別の字もある。俺の知らないものだった。喜助はそこを隠さず、曳舟へ帳面を向け直す。
「僕より詳しい者も、違う考え方をする者もいるでしょう。そういう人たちと、一緒に仕事ができたらと」
曳舟が手を伸ばした。
喜助から帳面を受け取り、少し前へ戻して読み始める。俺も椅子を寄せたくなったが、今日は顔を近づける前に待てた。
「隊の中へ、そういう場所を作りたいんだね」
「はい。設備も、人も、必要になります。総隊長へ、お認めいただかなければなりませんが」
「名は?」
「……まだ、お話をする段階ではないかと」
「あるんじゃろう」
夜一に言われ、喜助がそちらを見る。
あいつは腕を組んで待っていた。逃げるところがないねぇと思っていたら、喜助の目が俺へ来る。俺も聞きたかったので、そのまま頷いた。
「技術開発局、と」
曳舟が、もう一度その名を口にした。
喜助は少し照れたように頭を掻く。いつもの金具なら、まだ直したいところがあると言って、懐へ戻していたかもしれない。今日は帳面が曳舟の手にあるので、そちらもできなかった。
「いいじゃないか」
曳舟が言った。
「ただし、あたしの机を空けただけじゃ、局にはならないよ」
「承知しています」
「ここで働いてる者もいる。お前さんの作りたいものへ、皆が最初から頷くと思わないことだ」
「はい」
喜助の返事を聞いて、俺は皿を少し寄せた。
曳舟が一つ取り、喜助にも勧める。あいつは礼を言ったけれど、手は帳面を受け取る方へ伸びていた。
そっちを、先に返してほしかったんだねぇ。
*
部屋を出る時、喜助が箱の前へしゃがんだ。
俺が最初に触った箱だった。曳舟へ断ってから蓋を開け、焦げた金具を持ち上げる。直したものならうちにもあるけれど、あいつは溝を覗き、裏返して紙の残ったところまで確かめていた。
「懐かしい?」
「ええ。あの頃は、ここまで持たせるだけでも大変でしたから」
「今なら、もっと小さくできるね」
「小さくするだけなら。使う方が楽になるかは、別ですけどね」
俺は少し笑った。
昔も、曳舟に聞かれていた。使う者にどう動かしてほしいのか。指を当てるだけか、何かを持たせるのか。喜助はその場で、紙へ手の形を描き始めた。
今日、持ってきた帳面にも、似たような絵があったねぇ。
「そいつは置いていきな」
曳舟が後ろから声を掛ける。
喜助が顔を上げた。
「あたしも、持っていくものが欲しいんだよ」
「……まだ、そんなものをお使いになるんですか」
「使うかどうかは、持っていってから考えるさ。続きは、お前さんが作りな」
喜助は金具へ目を戻した。
しばらくして、箱の中へそっと置く。蓋を閉じる前に、焦げたところをもう一度見た。
「でしたら、次はもう少し、よいものを」
「楽しみにしてるよ」
曳舟が笑う。
俺も隣へ屈み、今度は聞いてから蓋を閉じた。紐は曳舟が掛けるというので、そのまま立ち上がる。
「向こうへ行っても、飯は食うでしょう」
「そりゃあね」
「じゃあ、また一緒に食べようねぇ」
曳舟がこちらを見た。
喜助も夜一も、何も言わない。俺は少し考え、まだ机へ残っていた菓子を指した。
「次は、今日より多く持っていくよ」
「自分が食べる分まで入れてだろう」
「うん」
「なら、あたしも多めに作っとかないとね」
その声を聞くと、ようやく、また会えるような気がした。
ここへ来れば会える。それだけは変わってしまうけれど、今日で何もかも済ませなくてもいい。聞き残したことなら、俺にも幾つもある。
曳舟へ手を振り、廊下へ出た。
喜助は隣を歩いている。抱えた帳面がずれ、俺が手を添える前に、自分で持ち直した。夜一は少し前へ行き、角を曲がったところでこちらを待った。
「決まったか、喜助」
喜助の足が止まる。
庭から、十二番隊の者が二人歩いてきた。曳舟の部屋を尋ねられたので、まだおられますよと喜助が答える。二人は礼をして、俺たちの来た方へ向かった。
喜助は、その背を見送っていた。
「……はい」
夜一へ顔を戻す。
「推薦を、お願いいたします。隊長試験を、受けます」
「うむ」
夜一が頷いた。
喜助はそれから、俺にも向き直る。
「烏有隊長にも、お世話になると思います」
「今までと同じでいいよ」
「そうもいきませんよ。今度は、僕の方からお願いすることが増えますから」
「何を?」
「まずは、作ったものを使っていただける方を。できれば、気づいたことを遠慮なく仰る方がいいですね」
榛名の顔が浮かんだ。
切れた金具と帳面を一緒に抱え、俺の部屋へ来た時の顔だ。直してほしいところがあると言いながら、喜助が来るまでに自分でも幾つか描き足していた。
「あいつ、喜ぶよ」
「まだ、お名前を伺ってませんけど」
「聞けば分かるでしょう」
「ええ。たぶん」
喜助が笑う。
夜一が先に歩き始めた。試験の前に片づける仕事があるぞと言われ、喜助が慌てて続く。俺も門まで一緒に行こうと、その隣へ並んだ。
「喜助。卍解は、いつ見せてくれる?」
「……そちらも、覚えておいででしたか」
「うん。楽しみにしてるよ」
「儂も、見物に行こうかの」
「夜一さんは、御存じでしょう!」
門のところで、夜一が笑った。
喜助は帳面を抱え直し、俺へまた日をお知らせしますと答える。その顔を見て、俺も頷いた。
次に来る時には、あいつの話を聞くために、もっと長く座っていることになりそうだねぇ。
俺は門を出る前に、一度だけ振り返った。
廊下の奥で、曳舟がこちらへ手を振っていた。