消えゆく影に 衣は残り
暮れゆく森に 声は絶える
袖の継ぎ目に、違う色の糸があった。
膝へ広げた着物をもう一度裏返す。肘のところだけ布が厚い。上から別の布を当て、何度も縫い直してある。伏見なら、先にこっちを替えましょうと言ったかもしれないねぇ。
「それで合ってる?」
向かいの女へ尋ねると、小さく頷いた。
「私が直したので」
着物へ伸びかけた手が途中で止まる。調べているものに触れてはいけないと思ったのだろうか。俺は畳み直し、縫い目が見えるようにして差し出した。
「もう確かめたよ。持っていてくれるかな」
「……はい」
女が両手で受け取る。そのまま膝へ置いたので、俺も立たずにいた。道の向こうでは榛名たちが家を訪ねている。先ほど話を聞いた男が、今度は隣の家まで案内してくれていた。
昨日、ここで一人消えた。
この女と同じ家で暮らしていた男だ。水を汲んで帰ってくるところを見た者がいる。その後、道へ落ちた着物が見つかった。帯も草履も傍にあったのに、本人だけがいない。
「喧嘩をして出ていったことはあるんです。でも、こんなふうに置いていくはずが」
女の指が布を握る。
「うん。着替えもないんでしょう」
「はい。いつもそれを着ていたので」
「そっか」
家の中まで見せてもらった。寝るところも、使っていた椀もそのままだった。俺が椀へ目を留めると、女は今朝も二つ出してしまったと言った。
帰る場所は、ここにあるんだねぇ。
「死神様」
「うん」
「見つかりますか」
顔が上がった。
大丈夫だよと返せれば、少しは楽になるのだろう。けれど俺は着物の内側まで確かめて、血の跡も見つけられずにいる。どこへ連れていかれたのかさえ、まだ分からなかった。
「探すよ。ほかにも帰ってこない者がいるからね」
女が頷く。俺は住んでいる家をもう一度確かめ、何か思い出したらここに残る者へ話してほしいと伝えた。
戸の前で別れる時、あいつは着物を胸へ抱えていた。
俺も道へ戻り、腰の刀を直す。喜助が隊長になってから九年。十二番隊へ顔を出せば、前にはなかったものが増えている。こんな時に持ってこられるものはないかと、出る前にも尋ねた。
あいつは、残された衣服を調べたいと言った。
けれど今渡してもらったばかりのものを、取り上げる気にはなれなかったねぇ。
「隊長」
佐伯が道の先から来た。榛名も一緒だった。話を聞けた家を確かめ、まだ戻っていない組の方へ目を向ける。
「こちらで確認できたのは三名です。最後に姿を見た場所は、それぞれ違っております」
「一緒にいた者は?」
「消えるところを見た者はおりません。ただ、昨日の夕方にはまだ姿があったと」
佐伯が家の一つを示した。小さな戸が開いている。俺がそちらを見ると、入口に立っていた子が奥へ引っ込んだ。
「一人で待ってるの?」
「隣の方についていただいております」
榛名が答える。俺は頷いてそちらへ行こうとしたが、道の向こうから近づく霊圧へ顔を上げた。
大きな声も一緒に来る。
「拳西! こっちにもいる!」
「聞こえてんだよ。いちいち叫ぶな!」
榛名が姿勢を正した。俺も少し片手を上げる。
九番隊の白が、先にこちらへ走ってきた。
*
「烏有隊長まで来てたの?」
白が俺の前で止まる。その後ろから拳西が隊士を連れてきた。こちらの羽織を見て眉を寄せたが、すぐに佐伯たちへも顔を向ける。
「十番隊は、こっちを調べてたんですか」
「うん。三人戻ってないって。そっちは?」
「まだ数を確かめてます。先に出した連中とも連絡が取れねえ」
軽く返すつもりだった口が閉じた。
拳西は後ろの男から紙を受け取る。俺へ渡す前に、そこへ書かれた名を指で確かめていた。
「この辺りへ来てるはずなんですがね。住民に聞いても、通ったところまでは分からなかった」
「皆、九番隊の子?」
「ああ。勝手に揃って帰る連中じゃありません」
差し出された紙を見る。人数と、それぞれが最後に知らせを出した場所。今いるところからそう遠くはなかった。
佐伯が隣へ来たので、そのまま見せる。
「こっちへ来る前に道は通ったよね」
「はい。ですが、その時には」
「うん。会わなかったねぇ」
拳西の口元が固くなる。
俺も紙を返しながら、ここへ来た道を思い出していた。誰かとすれ違ったか。道から外れたところで声がしなかったか。
立ち止まるようなものは何もなかった。
「手分けしようか。うちの子たちには家へ声を掛けてもらってる。俺と佐伯は、お前さんたちの方へ」
「助かります。白、お前は向こうを見てこい。勝手に奥まで行くなよ」
「分かってるって!」
返事と一緒に、白の姿が道の向こうへ移る。
拳西はそれを見届けてから、後ろの者へ組を分けるよう命じた。声を掛け合える距離で進むこと。何か見つけても、一人で追わないこと。自分も歩きながら道の両側へ目を向けている。
榛名を残し、俺たちもその隣へ並んだ。
「隊長」
少し進んだところで、九番隊の子が足を止めた。
道から外れた木の下を見ている。その先に黒い布があった。俺より早く拳西が近づき、片膝をつく。
死覇装だった。
上だけではない。帯も、その下もある。土へ重なっていたものを拾い上げると、袖が空のまま垂れた。
「……こいつは」
男の声で拳西の顔が上がった。
ついてきた隊士が襟の内側へ手を寄せる。指先で小さな縫い取りを示した。俺のところからも、名前の頭だけが見える。
「間違いありません。自分が入隊の時に」
その先を聞く前に、拳西が立った。
「ほかも探せ。遠くへ離れるな」
隊士たちが動き出す。佐伯もそちらへ加わり、俺は拳西の手元へ目を戻した。
血はついていなかった。
さっき抱えて帰っていった着物と同じだねぇ。
「触ってもいい?」
「お願いします」
袖を借りて指を添える。霊圧の残りを探した。ここで何が起きたのか、少しでも辿れないかと思ったけれど、木の幹へぶつかっていた布は冷たいだけだった。
虚なら服ごと裂くこともある。
それでも何かしら残る。足跡でも、血でも、逃げようとして掴んだものでも。こうして着ていた形を失い、本人だけがどこかへ行ってしまうところを俺は見たことがなかった。
「こっちにもあります!」
声のした方へ拳西が向かう。
俺も続いた。草の間へもう一人分。少し先にも黒い袖が見えた。九番隊の子が近づき、持ち上げる前にこちらを見る。
拳西が頷いた。
広げられた死覇装を皆で見た。腰から外れた刀だけが、土の上に残っている。
「……全員か」
拳西の声だった。
誰も返事をしない。俺は落ちていた刀へ屈み、鞘についた土を払った。抜かれた跡があるのかと確かめかけて、手を止める。
持ち主が戻れば、自分で話してもらえる。
今はそう思って預かろうねぇ。
「佐伯。一番隊と十二番隊へ知らせて。九番隊の先遣隊も、同じ状態で見つかったって」
「承知しました」
佐伯が傍の隊士へ声を掛ける。拳西も自分の隊へ戻す者を決めた。それから森の奥へ目を向ける。
「日が落ちる前にもう少し見ます」
「俺も行くよ」
「村の方は大丈夫ですか」
「榛名がいる。戻ったら、皆を集めてもらおうかと思ってるんだ。家に一人ずつ残しておくのは嫌だからねぇ」
拳西が頷く。
その手にはまだ死覇装があった。渡そうと近づいた隊士へ一度目を向け、それから、なるべく土を落としてやってくれと言った。
*
暗くなると、家の間を渡る足音がよく聞こえた。
榛名たちが空いていた大きな家へ住民を案内している。一人では歩けない者もいた。俺が背を貸そうとしたら、腰を抜かしたわけじゃねえと叱られてしまった。
「足が痛いんでしょう」
「杖がありゃ歩ける」
「じゃあ、そっちは持っていこうねぇ」
差し出した肩へ、ようやく手が載った。
佐伯が先に戸を開ける。中にはもう昼に話した女もいた。着物は畳んで脇へ置かれている。俺の肩から手を離した男が座ると、その傍へ水を寄せてくれた。
誰も遠くへ行きたがらなかった。
帰ってきた時に家が空いていたら困る。そう言われるたびに、榛名が元の家にも見回りを出すと伝えていた。俺も同じ話をしている。安心して眠ってもらうには、まだ足りないのだろうねぇ。
「烏有隊長、まだおる?」
戸の外から白の声がした。
出てみると、両手を腰へ当てて待っていた。森から戻ったばかりらしく、足袋へ細かな草がついている。
「うん。拳西は?」
「向こう。あたしまで呼びにやらんでも、ほかにいるのにさ」
「お前さんが早いからじゃないの?」
「そうだけど!」
胸を張りかけ、すぐに顔が曇った。
「あっちは見つかってないんでしょ」
「うん」
「こっちも。服ばっかり」
白が戸の内側へ目を向ける。中にいた子がこちらを見たので、片手を上げてみせた。けれど、さっきまでの声ではもう話さなかった。
「夜は森の手前にいるって。何かあったら、すぐ呼べるようにしとくってさ」
「分かった。俺からも行くよ」
「じゃ、待ってる!」
白が駆けていく。
俺はその背を見送り、佐伯へ声を掛けた。家の周りへ立つ者と、元の家々を確かめる者。顔を揃えてから動いてもらう。ここで誰かがいなくなった時、皆が別のところにいると思っていたでは困るからねぇ。
「隊長は九番隊の方へ?」
「うん。後は榛名に任せて、一緒に来て」
「承知しました」
佐伯が戸の傍へ戻る。俺は道へ出て、森の方を見た。
拳西の霊圧はそこにある。
昼に一緒に歩いた時よりも、皆が近くへ集まっていた。俺も足を向け、道の角を曲がろうとした。
短い叫び声がした。
拳西のものではない。
足を止めずに屋根へ上がる。木の向こうで霊圧が乱れた。さっきまで揃っていたものが一つ、急に分からなくなる。
「佐伯。村を頼む」
振り返る前に返事が来た。
俺は屋根を蹴った。
森の手前を越え、枝の間へ入る。顔へ掛かる葉を避けた先で幹が一本折れた。飛んできたものの下へ入り、倒れていた隊士を抱えて横へ抜ける。
太い枝が、さっきまで男の頭があったところへ落ちた。
「大丈夫?」
返事はない。
脇腹に傷があった。手を当てると血が指の間へ溢れる。俺は傷口を押さえ、そのまま霊力を通した。奥から何かを殴りつける音がする。
拳西。
呼びかけようとして、口を閉じた。
木の向こうに白いものがあった。
さっきまで話していた男の顔へ、骨のような仮面が被さっている。肩から伸びた腕も見覚えのある形ではなかった。足元に倒れた隊士へ向き直り、その手が上がる。
俺は抱えていた男を木の根元へ寝かせた。
次の瞬間には拳西の前へ入っていた。
振り下ろされた腕を、抜いたゆめで受ける。地面が沈んで背後の木から葉が落ちた。刀へ掛かる重さを横へ逃がすと、白い仮面がこちらへ向く。
その向こうから声がした。
言葉にはならなかった。
「拳西」
俺は刀を合わせたまま、その顔を見た。
昼には、部下の服から土を落としてやれと言っていた。あの時の手が今、俺の刀を押し込んでくる。
自分が誰を殴ろうとしたか、分かってるかい。
拳西の足が地面を蹴った。俺も踏み直し、背後に倒れた子から離れる方へ刃を滑らせる。
「うん。こっちへおいで」
白い仮面がすぐ目の前へ迫った。
「お前さんの相手は俺がするよ」