焼け落ちた昨日に 誰が火を灯す
帰らぬはずのものを 誰が帰らぬと定めた
薪を切る前に声を掛けろと言われていたので、朝飯の椀を洗ってから老人を呼んだ。爺さんは炉の前で膝を伸ばしていたが、俺が刀を腰へ差すと立ち上がった。
「その辺の木は倒すなよ。拾いに下りるのが面倒じゃ」
「昨日は山へ向けて撃てって言ってたろ」
「山へ撃てとは言った。薪を吹き飛ばせとは言っとらん」
家の裏を回り、畑から離れたところへ向かった。雪に埋まった斜面の先に、岩肌が露出している。老人は途中で足を止め、俺にはそのまま進めと手を振った。
振り返ると、足跡がなくなっていた。爺さんと一緒に歩いたところには雪がなく、一人で進んだ先には俺の踏んだ穴が続いている。
「まずは、何を見せればいい?」
「よく使うものからでええ」
左手を上げた。指先から
老人は近づいてきて、岩の下へ手を入れた。
「落とさんじゃろうな」
「落とさないけど、わざわざ下に入れなくても」
「触れねば分からん」
岩へ掌を当て、次に糸を指で押した。俺が手を引いたまま待っていると、爺さんは糸の掛かったところを覗き込んだ。
「岩は締め潰さんのか」
「潰すこともできる。でも、持ち上げるだけならそこまではしない」
「人の腕では?」
「折りたくなければ加減するよ。暴れるなら別だけど」
老人が手を退けたので、岩を下ろした。白縫を解くと、細い糸が岩の表面から散っていった。
「今のは、何をやめた」
「糸を保つのをやめたんだ」
「引くのをやめただけでは、残るんじゃろう」
「ああ。薪を括った時みたいに、置いてもおける」
もう一度糸を掛けた。今度は岩を動かさず、手を下ろす。老人は張った糸を摘まみ、二、三度引いた。
「こっちの方が、長く使っとるな」
「分かるのか」
「さっきより手が早い」
言われて、自分の左手を見た。人を縛るために覚えた術だった。引くことも持ち上げることもできるが、逃がさず、その場へ留める使い方が一番長い。
「火も使えるか」
頷いて、右手を岩壁へ向けた。爺さんが俺の後ろへ下がったのを確かめてから、掌へ力を集める。
「破道の三十一、
赤い火が斜面を渡り、岩へ当たった。砕けた欠片が雪の上へ落ちる。窪んだ岩肌には炎が残り、流れ落ちた水が下の雪へ細い溝を作った。
「それは、教わったものか」
「山本に。糸の方は、自分で使ってたものに名前をつけた」
「教わる前から、火は使えたんじゃろう」
「使えたよ。ただ、今の術とは違った」
老人は岩壁まで歩いていった。俺も後を追ったが、爺さんは焼けたところへ顔を寄せようとした。
「まだ熱いぞ」
「見れば分かる」
それはそうだろうけど、と思いながら手を上げた。残った炎を消し、岩肌から熱を逃がす。掌を近づけても熱気が返ってこなくなったところで、手を下ろした。
「ほう。片づけまでできるか」
「山火事にしたことがあってさ。覚えた方がいいと思って」
「その時に覚えたのか」
「その時は、燃えてない木を先に倒した。消せるようになったのは後だよ」
爺さんが笑った。俺は黒く焼けた岩へ触れた。熱はなくなったが、指先には煤がつく。雪の中へ落ちた欠片も、そのままだった。
「火を消しただけじゃ、元には戻らないんだよな」
老人は俺の手元を見た。
「戻したかったのか」
「いや。今は熱を取っただけだ。ただ、糸なら解けば岩からなくなるだろ。火も消えるけど、燃やした跡は残る。作ったものを消すのと、そいつがしたことを戻すのは違うんだなと思って」
指についた煤を雪で拭った。白縫を解いた後にも、強く締めた相手には傷が残る。術をやめれば、何もかも術を使う前に戻るわけではない。
老人が岩へ手を置いた。
何かするつもりだと思い、その手へ意識を向けた。指の周りだけでなく、岩の中へ入り込む力も探した。
爺さんの掌が離れた。
そこだけ、煤がなかった。
指を揃えて置いていたところに、灰色の岩肌が見えている。周りに残った黒い跡と比べれば、手の形がはっきり分かった。
「……擦ったのか?」
老人の掌を見た。黒くなってはいなかった。
「お前も触ってみい」
同じところへ手を置いた。煤はつかない。焼けた表面が剥がれたのかと思ったが、周りより窪んでもいなかった。
掌を退け、爺さんへ顔を向けた。
「今の、もう一回見せてもらっていいか」
「見とったじゃろう」
「見てた。でも、何をしたか分からなかった」
老人は俺の掌と岩を順に見た。
「では、もう一度焼け。同じところじゃぞ」
俺は岩から離れた。爺さんも横へ退く。
『お前様。今のは、わっちにも分かりんせん』
「俺もだ」
右手を上げ直した。今度は岩を砕かないよう、掌に炎を作って近づけた。灰色に戻ったところが火に包まれ、やがて周りと同じ黒い色になった。
炎を消して後ろへ下がる。老人は俺が触る前に手を伸ばした。
「熱いって」
「分かっとる」
指が岩へ触れた。爺さんが手を退けるまで、俺はその周りの霊子を見ていた。
岩が削れることはなかった。表面から何かが剥がれ落ちた様子もない。灰色のところへ触れると、今度は熱までなくなっていた。
そのすぐ横へ指をずらした。熱い。手を引いてから、もう一度、爺さんの触ったところだけを確かめた。
「そこだけ、冷えてるな」
「焼ける前は冷たかったじゃろう」
「冷やしたんじゃないのか?」
「焼けておらんことにした」
老人の顔を見た。
何かを言い間違えたのかと思ったが、爺さんは俺の視線を受けても言い直さなかった。
「……焼けた岩を戻したってこと?」
「その辺りが焼けたことをなくした。お前が最初に砕いたところまでは、戻しとらんぞ」
岩壁を見直した。赤火砲でできた窪みは残っている。その中の、掌ほどの場所だけが灰色だった。足元の欠片も、溶けた雪も、俺が散らした通りにある。
時間を戻したのなら、俺が火を放った後に起きたことも一緒に戻りそうだった。けれど、目の前で起きたことは違う。焼けたところを選んで、それだけをなくしていた。
「どうやって?」
考えるより先に聞いていた。
老人は岩へ置いた手を、俺の前へ差し出した。
「お前は、これが焼けた手に見えるか」
「見えない」
「では、岩も見てみい」
爺さんの手を見ながら、岩へも意識を向けた。
岩の形は捉えられる。周りの黒いところと、爺さんが触った灰色のところも分かる。けれど、それを見ただけでは、何を変えれば同じことができるのかは分からなかった。
自分の掌へ炎を作った時は、どう力を使ったかが分かる。爺さんがしたことには、その手がかりがなかった。
「……今の俺じゃ、見ても分からないみたいだ」
「そうか」
老人はあっさり頷き、家の方へ歩き始めた。
「もう終わり?」
「朝から立っとると、腰にくる」
「俺の術、まだ二つしか見せてないぞ」
「逃げはせんのじゃろう。また見せい」
追いかけようとして、岩へ目を戻した。灰色の手形は残っていた。俺が触れても、爺さんが離れても変わらない。
その周りに力が残っているかを探した。何も感じなかった。ただ、俺に分からないだけということもある。庭の雪を見ていた時と同じだった。
老人の後を追った。雪のなくなったところへ足を置きながら、今度は爺さんの背中を見ていた。
「庭も、今のと同じことをしてるのか」
老人が振り返った。
「同じとは?」
「雪を押し退けてるんじゃなくて、積もることをなくしてるとか」
爺さんは足元へ目を落とした。
「お前には、どう見えとる」
「雪が横へ流れてる。だから、動かしてると思ってた」
「流れとるな」
「でも、さっきの岩も、煤を取ったように見えた」
口にしてから、岩で起きたことを思い返した。
煤を取ることなら、俺にもできる。岩を冷やすこともできる。さっき爺さんに見せたばかりだ。けれど同じような岩肌が残っても、同じことをしたとは限らない。
「俺は、今ある雪へ力を使ってた。爺さんは、雪がここへ積もる方を変えてるのか?」
老人はしばらく俺を見ていた。それから家へ向き直った。
「庭には積もらんようにした。それは、前にも言ったじゃろう」
「言ってたな」
あの時は、何を聞いてもそれしか答えないと思った。
今も、どうやっているかは分からない。けれど、あの言葉を聞いて俺が思い浮かべていたものは、爺さんのしていることと違ったのかもしれない。
家の裏まで戻ると、老人は壁際に積んだ薪を指した。
「午後は、そこの太いのを割っとけ」
「まだ俺の見せる番じゃなかったっけ」
「飯を食ってからじゃ」
戸を開けて入っていく背中を見送り、俺は軒下へ腰を下ろした。
刀の柄へ手を置く。
「ゆめ。焼けたことをなくしたってさ」
『聞いておりんした』
「そんなこと、できるんだな」
織姫の顔が浮かんだ。
傷を治すだけではなかった。壊れたものを直すという説明でも、足りなかったはずだ。あの力を何と呼んでいたのか、遠い記憶を辿った。
事象の拒絶。
思い出した言葉に、掌を握った。俺が見た爺さんの力も、それに近いのだろうか。焼けたところを元に戻したと言うより、焼けたという出来事をなくしていた。
ただ、呼び方を思い出したからといって、目の前のことが分かるわけではない。織姫の力と同じなのかも、まだ確かめられていなかった。
『お前様の知るものが、ありんしたか』
「似た力のことを、思い出した。でも、爺さんがどうやってるかは分からない」
刀を膝へ載せた。
「雪が積もらないようにするためだけに使ってるんだよな」
『ここでは、そのようでありんすね』
湖の底が割れたという話を思い出した。あの老人が殺し合っていた頃には、これも人へ向けて使ったのだろうか。
家の中から、鍋を動かす音がした。
「入らんか。戸の前に座られると邪魔じゃ」
顔を上げると、爺さんが桶を持って立っていた。
「考えてたんだよ」
「考えながら水を汲め。なくなっとる」
差し出された桶を受け取り、立ち上がった。聞きたいことが増えた日に限って、薪も水も減っている。
岩へもう一度戻るのは、午後になりそうだった。
*
山の下で道が開いたと聞いたのは、それからしばらく経ってからだった。
塩を買いに下りると、町には荷を運んできた者が増えていた。峠を越えるなら今のうちだと、店の主人が言った。もう少しすれば雪解け水で道が崩れるところもあるらしい。
塩の包みを荷へ入れ、紙も買い足した。山の家へ戻る途中、最初に登ってきた道の分かれ目で足を止めた。
ここへ来る前は、雪山を越えて別の土地へ行くつもりだった。
歩いていれば、何か見つかるかもしれないと思っていた。その何かは見つかった。けれど爺さんが毎日していることを、俺はまだ一つも使えない。
あの日から何度も、岩や木へ触れる手を見てきた。俺の術も見せた。使い方を変えて試したものは、紙に書き留めてある。
岩を磨けば煤は取れた。霊子を寄せて欠けたところを埋めることも、形を保たせることもできた。爺さんに見せると、作り足したところを指で叩かれた。
どれも、俺が何をしたかは説明できた。あの灰色の手形だけは、まだできない。
『このまま、お発ちになりんすか』
腰の刀から声がした。
「いや。もう少しいようと思う」
『もう少し、で済みんすか』
「どうだろうな。爺さん次第かな」
分かれ目を山の方へ曲がった。
戻る頃には日が傾いていた。老人は軒下へ出て、俺が干していった布を取り込んでいた。塩の包みを渡すと、紙の束まで買ってきたことに気づいて眉を上げた。
「まだ書くことがあるか」
「増える方が早いんだよ」
荷を下ろし、畳んだ布を受け取った。部屋へしまう前に、爺さんへ顔を向ける。
「下の道、開いたらしい」
「そうか。飯を食ってから行くか」
「今日は行かない」
「では、明日か」
首を振った。
「冬だけのつもりだったけど、しばらく置いてもらえないか。爺さんに、まだ聞きたいことがある」
老人は俺が抱えた布へ目を落とした。
「お前の寝とる部屋、雨が入るぞ」
「雪は入らないのに?」
「屋根が古い。春までに直すつもりじゃった」
「俺が直すよ」
爺さんは家の裏を顎で示した。
「板を取る木から探せ。薪と同じ大きさでは足りん」
「ああ。爺さんの分まで壊さないようにする」
老人が鼻で笑った。
それから、俺の荷からはみ出した紙を抜き取り、台所の棚へ置いた。水の桶から遠く、炉の火からも離れたところだった。
「そこへ置け。床へ広げると踏む」
棚には古い椀が二つ重ねてあった。俺はそれを横へ寄せ、残りの紙も並べた。何枚か丸まっていたので、懐に入れていた河原の石を上へ載せる。
爺さんが鍋の蓋を取った。俺も布を部屋へしまい、炉の前へ戻った。
明日はまず、屋根に使える木を探しに行く。その帰りに、あの岩も見てこようと思った。