眠りを知らぬ石にも 夜は訪れる
夢を知らぬ刃にも 朝は訪れる
屋根に使う木を見つけるまで、三日かかった。
真っ直ぐ育ったものを選んだつもりだったが、一本目は中が腐っていた。二本目は爺さんに細すぎると言われた。三本目を倒して運ぶ時には、切る前に幹の中まで確かめるようになっていた。
霊子を捉えられるようになっても、そこに何があるか分かるだけでは足りない。腐った木と乾いた木の違いは、見比べて覚えるしかなかった。
屋根を葺き直す間、老人は下から俺を見ていた。板を並べるところまでは任せてくれたが、隙間を白縫で塞ごうとすると止められた。
「そこは雨が溜まる。板をずらせ」
「糸で埋めたら通らないだろ」
「次に直す時、お前がおらんかもしれん」
手を止めた。
古い板には、何度も釘を打ち直した跡があった。今の爺さんしか見ていなかったが、ここで暮らしてきた年月の間には、自分で屋根へ上がっていた時もあるのだろう。
糸を解き、板を並べ直した。
その晩に雨が降った。俺の布団は濡れなかったが、台所の隅に雫が落ちた。爺さんはそこへ椀を置き、俺の顔を見て笑った。
翌日は、台所の上を直すことになった。
*
新しくした屋根が十二度目の冬を越す頃には、町で買うものを爺さんへ聞かなくなっていた。
塩はいつもの甕へ。酒は前に飲んでいたものより甘いものを。布は鼠に齧られるので蓋のある箱へしまう。紙だけは増える一方で、台所に置いた束を寝室へ移し、とうとう棚を一つ作った。
爺さんに見せてもらったものも、そこへ書き残してある。
折った枝が繋がった。割った石が元の形になった。俺が土へ開けた穴が消えた。見せてもらうたび、何が起きたかは分かるようになったが、どうすれば自分にもできるのかは分からなかった。
初めのうちは、変わる前後の霊子ばかり見ていた。
折れた枝を繋ぐだけなら、隙間へ霊子を集めれば似せられる。けれど爺さんが繋いだ枝には、作り足したところがなかった。樹皮も木の繊維も、折れる前から続いていたように繋がっている。
同じ枝をもう一度折り、断面を見比べたこともある。俺が繋いだものは、継ぎ目のところで折れやすかった。爺さんのものは、手を掛けた別のところで折れた。
その違いを紙へ書くと、爺さんは俺が自分で繋いだ方を拾った。
「これも、使い道はあるじゃろう」
「同じことをしようとしたんだけどな」
「折れたものが繋がっとる。足を添えて縛るより、早く歩けるかもしれん」
枝を渡され、もう一度継ぎ目を見た。
爺さんと同じではない。それでも、俺が作ったものにできることまでなくなるわけではなかった。継ぎ目を弱くしない方法は別の紙へ書き、何度か試した。
そうしているうちに、爺さんの術を調べるための紙と、自分の術を書いた紙が混ざり始めた。
その日は二つを分けるため、炉の前へ広げていた。老人は向かいで小さな刃物を使い、折れた箸の代わりを削っていた。
「お前の刀は、何ができる」
顔を上げた。
「剣術の方?」
「解放する方じゃ」
膝の横へ置いた刀を見た。ここへ来てから何度も抜いているが、始解はしていなかった。薪を切るのにも、木の枝を払うのにも必要ない。
「触れたものを眠らせる」
「人だけか」
「火も水も。動いてるものだけじゃない。岩だって眠るよ」
老人は削っていた木を置いた。
「その先を探しとるのなら、それも見せい。糸と火ばかり見ておっても、お前の刀は分からん」
確かに、と思った。
爺さんの力は刀の解放ではないようだった。だから俺も、刀とは別の力ばかり見せていた。ここへ来た理由は卍解の先を探すためなのに、いつの間にか、あの灰色の手形を作ることが目当てになっていた。
「家から、かなり離れた方がいいな」
「火は出さんのじゃろう」
「出ないけど、解放した時の霊圧がな」
老人が俺を見た。
「それほどか」
「畑、潰したくないだろ」
爺さんは箸を削る刃物を仕舞い、腰を上げた。
俺も紙を重ねて立ち上がった。
向かったのは、家から尾根を二つ越えたところだった。爺さんが湖の岸だったと話していた斜面より、さらに奥へ進む。途中に木はなく、雪の下から黒い岩が覗いていた。
老人が足を止めたので、俺はそこから離れた。
「ゆめ。いいか」
『久方ぶりでありんすね』
刀を抜いた。細い刃が冬の日を受けて光る。
息を吐き、爺さんへ目を向けた。こちらを見ていた老人が頷く。
〈現を離れ、夢路を辿れ。待つ夜に果てはなし、
解放した霊圧が、足元の雪を吹き飛ばした。
斜面に積もっていた白い雪が一斉に浮き、尾根の向こうへ流れていく。露出した岩から細かな欠片が剥がれた。俺は柄を握ったまま、広がる力を抑え直した。
刀身へ黒が走る。白銀の刃文だけが残り、鍔から垂れた朱の組紐が揺れた。
服が黒地の着物へ変わり、金の模様が袖を伝った。白い重ね襟が首元を包み、腰には幅広の帯が締まる。長くなった裾を払うと、赤い裏地が覗いた。
肩から髪が落ちてきた。黒を基調に、金、白、赤がそれぞれ一房ずつ混じっている。指で耳の後ろへ寄せ、長い袖を退けて刀を下ろした。
爺さんのいたところを見た。
老人は、同じ場所に立っていた。
その周りだけ、雪が残っている。俺の霊圧で剥がれた岩肌と、爺さんの足元の白い雪との境目が、地面にくっきり出ていた。
「……そっちには、届かなかったか」
「届いたぞ。雪まで持っていかれては、帰りに足元が滑る」
何をしたのか聞こうとして、やめた。今日は俺の刀を見せるために来ている。
老人が近づいてきた。俺の袖と髪へ目を向け、少し首を傾げた。
「刀だけではないのか」
「俺も、初めて使った時は驚いた。顔も少し変わってるらしい」
「目元も輪郭も、柔らかくなったのう。お前の顔とは分かるが、男とも女ともつかん」
頬へ指を当てた。自分では見えないが、山本にも似たことを言われた。花魁を思わせる着物に、この顔。初めて解放した時は、刀より自分の姿の方が気になったものだった。
『よう似合っておりんす』
「こいつは気に入ってるみたいだけど」
老人は刀へ視線を落とした。
「名を聞かせる相手が、まだおるのじゃな」
柄を握った手へ目を向けた。ゆめは何も言わなかった。
「爺さんの頃にも、こういう刀があったのか」
「おったよ。刀より持ち主の姿が変わる奴もな」
さらりと返され、老人を見た。
「どんな?」
「腕が増えた。二本と思って斬り込むと、下から腹を掴まれる」
爺さんが俺の腹の辺りへ手を伸ばした。咄嗟に半歩退くと、その手は何も掴まず下ろされた。
「近づくと分からんから、先に一、二本斬っておった」
「……解放した姿の話だけしてるんだよな?」
「戦っとる時しか見んからのう」
爺さんは、箸を削っていた時と同じ顔だった。俺は着物の裾を足へ巻き込まないよう払い、刀を持ち直した。
「何か投げてもらっていいか。岩でも、木でも」
老人は足元から石を拾った。握り拳ほどのものを掌で転がし、俺へ目を向ける。
「頭へ投げるぞ」
「構わないよ」
爺さんの腕が動いた。
石は俺の顔へ真っ直ぐ飛んできた。刀を立て、刃先で表面へ触れる。
音はしなかった。
目の前で石が止まった。半歩横へ動いても、同じ高さに残っている。老人は石の向こうから、俺の刀を見ていた。
「落ちんのか」
「眠ってる間は、こうなる」
刀を返し、止まった石へ振るった。
黒い刃が通り過ぎる。石は砕けず、欠片も落ちなかった。そこに残っていた形が消え、刀の向こうに爺さんの顔が見えた。
「眠らせてから、消すんじゃな」
「ああ」
刀を下ろした。爺さんは俺の足元を見てから、石があった場所へ目を戻した。
「そこへ、手を出してみい」
左手を差し出した。
掌の上へ、重みが落ちた。
石が載っていた。
握り拳ほどの灰色の石だった。表面には、爺さんが拾った時と同じ欠けがある。指で転がして確かめた。俺が触れたところにも、刀の跡はなかった。
「消えたことを、なくしたのか」
「そうじゃ」
掌の石を見たまま、刀を下げた。
煤がなくなった時とは違った。自分の刀が何をしたかは知っている。眠らせ、刃を振るって消した。その石が、今は手の上にある。
「爺さんが作り直したんじゃないんだよな」
「元の石じゃ」
指を閉じた。硬い感触が掌へ返る。
岩の継ぎ目を見ていた時には、形が同じだから見分けられないのだと思っていた。今は、自分で消した石を持っている。
爺さんの力は、霊子を集めて同じ形を作るだけでは説明できなかった。
『お前様』
ゆめの声に、柄を握り直した。
『今の石を、もう一度』
顔を上げる。
「爺さん。もう一回やっていいか」
「構わん」
石を放り、刀で触れた。宙へ止まったものを斬る。今度は、消える時に散っていく霊子へも意識を向けた。
俺の身体の周りにも、大気の中にも、霊子はある。石の形がなくなった後まで追おうとしたが、全てを見分け続けることはできなかった。
老人へ頷いた。
差し出した手の上に、石が戻った。
近くの霊子が掌へ集まった様子はなかった。けれど、だからどこからも集まっていないと決めるには、俺に見えているものが足りない。
「……分からないな。見てるところが違うのか」
老人は答えず、俺の刀を指した。
「お前は、それをどこまで知っとる」
黒い刃へ目を落とした。
「使い方なら、分かってるつもりだよ」
「では、眠った石は何をしとった」
「動かなくなってた」
「それは、儂にも見えた」
返そうとした言葉が止まった。
刀に触れれば眠る。だから石が止まった。そう覚えている。けれど爺さんが知りたいのは、止まった理由だった。
「……石が眠るって、そもそも何なんだろうな」
老人は刀の黒い刃を眺めていた。
投げられた石は止まった。けれど、最初から地面に置いてある石へ触れても眠らせられる。動いていないものなら、何が変わっているのか。
炎なら熱を失う。腕なら動かなくなる。そのどれも眠った結果だとして、俺の刀は何に触れ、何を止めているのだろう。
「ゆめ。分かるか」
『眠りへ誘う感覚は、ありんす。けれど、お前様の知りたいことを、どうお伝えすればよいか』
声が途切れた。
俺も、糸を使っていた頃には同じだった。指から伸ばせる。腕を縛れる。けれど何を集め、何で形を保たせているかは、長く考えもしなかった。
ゆめにできることなら、ゆめが全て説明できると思っていた。俺自身はできなかったくせに。
「いいよ。一緒に見よう」
石を握ったまま、老人へ顔を向けた。
「爺さんの力ばっかり見てたな。俺の刀でも、調べることはありそうだ」
「先へ行きたいのじゃろう」
「ああ」
老人が頷いた。
「では、そいつを置いて先へ行くな」
柄へ視線を戻した。
始解も卍解も、ゆめの力だった。使えるようになってからは、どれだけ強いか、どんな相手に通せるかを確かめてきた。それでも足りないと思い、その先を探している。
今の力が何なのかを、知り尽くしたわけでもないのに。
解放を解くと、幅広の帯が消え、着物は元の服へ戻った。長い袖も裾もなくなり、黒髪に混じっていた金、白、赤の三房が黒へ戻る。老人は俺の顔から手元へ視線を移した。
「今の石は、持って帰るのか」
「持って帰るよ。調べたいし」
「また紙が増えるのう」
石を懐へ入れ、刀を収めた。爺さんは来た道へ向き直ったが、何歩か進んだところで足を止めた。
「それほど力があるなら、薪を拾いに行く時も見せればよかった」
「木が眠ったら、薪にならないぞ」
「斬った時に倒れんのじゃろう。下へ入っても安全じゃ」
少し考えてしまった。
『お前様。わっちを使うなら、もう少し華のあるところで』
「だよな。悪い」
爺さんが振り返った。
「何じゃ」
「刀に嫌がられた」
「贅沢な刀じゃのう」
笑いながら、老人の隣へ並んだ。
帰ったら紙を一枚出そうと思った。灰色の手形の続きではなく、ゆめの名前を書いたところから始める。
眠る前の石と、眠った石。消える前と、消えた後。その間に、俺とゆめが何をしているのか。
懐へ手を入れた。爺さんに戻してもらった石は、歩くたびに腿へ当たっていた。