卍解のその先を追い求めて。   作:lalaland

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眠れる火に 灰は生まれず
帰らぬ夜に 朝は訪れず




15.常夜の残火

 

 

 老人に戻してもらった石は、机の上に置いてあった。紙を押さえるのに丁度よく、窓を開ける時には使っている。一度落として端を欠いたので、拾った欠片も隣へ並べておいた。

 

 消える前にはなかった傷だった。

 

 当たり前のことなのに、しばらく眺めてしまった。老人が掌へ返した時には、刀で眠らせる前と同じ石だった。その後で落とせば欠ける。戻ってきたからといって、それから先に起きることまで変わるわけではない。

 

 紙へ書き足してから、刀を手に取った。

 

「今日は石を眠らせてみる」

『先日も、お眠らせになりんした』

「あの時は飛んできたのを止めただろ。初めから動いてない石だと、何が変わるのか見てみたいんだ」

 

 机の石はそのままにした。老人に戻してもらうところばかり見ていては、自分の刀で起きていることが分からない。試すものは、山へ行けば幾らでもある。

 

 家を出ると、老人が軒先に座っていた。折れた柄杓から柄を抜き、先を削っている。

 

「また山へ行くのか」

「昼までには戻るよ」

「水を汲んでから行け。空じゃ」

 

 桶を持ち上げると、本当に空だった。昨日の夕方に使ったまま戻していたらしい。俺は刀を腰へ差し、水場へ向かった。

 

 山へ着いた頃には日が高くなっていた。

 

 平らな岩へ小石を置き、少し離れて刀を抜く。

 

〈現を離れ、夢路を辿れ。待つ夜に果てはなし、夢通路(ゆめのかよいじ)〉

 

 膨れ上がる霊圧を抑え、長くなった袖を左腕へ寄せた。肩に落ちた髪を払うと、黒に混じる金、白、赤の房が指を滑った。帯の位置を直してから、小石へ刃を触れさせる。

 

 見た目は変わらなかった。初めから動いていないものを眠らせても、眺めているだけでは違いが分からない。

 

 けれど、刃を返せば消える。

 

 白銀の刃文が石を横切り、岩の上には何も残らなかった。欠片も粉も落ちていない。俺は刀を下ろし、石のあった場所へ手を伸ばした。

 

「眠ったことは分かる。でも、何が眠ったのかは、これじゃ見えないな」

『動くものをお使いになっては?』

「それだと、また動かなくなったって話に戻るだろ。もう少し別のものを試したいんだけど」

 

 足元から次の石を拾い、掌で転がした。冷たい。雪の下にあったものだから当然だったが、その冷たさを感じながら、今度は火を使ってみようと思った。

 

 翌日は二つの石を持っていった。

 

 白縫(しらぬい)でそれぞれを枝から吊り、片方だけを眠らせる。下へ小さな火を起こし、同じ高さで炙った。白縫は石を支えているだけで、熱を遮るような術は掛けていない。

 

 しばらく待ってから火を消し、眠らせていない方へ触れた。指先に熱が伝わってくる。もう片方は、山で拾った時の冷たさを残していた。

 

 位置を入れ替え、もう一度試した。火に近い側も、遠い側も確かめたが、眠った石は温まらなかった。

 

「止まるのは、動きだけじゃないんだな」

 

 石へ手を添えたまま、ゆめに話した。

 

「飛んできた石なら、飛ぶのが止まる。火に当てた石なら、温まるのが止まる。何もしてないように見えても、外から受けて変わることはあるんだ」

『お前様も、眠っておいでの間に冷えなんす』

「そうだな。布団を蹴れば寒くなる。俺が普通に寝るのとは、随分違うらしい」

 

 眠った石の下では、まだ火が揺れていた。薪は燃え、灰になって崩れていく。その上に吊った石だけが、火から熱を受け取らない。

 

 目で見える動きがなくなったことを、俺は眠りだと思っていた。けれど、目に見えないところでも変化は止まっている。

 

 白縫を外した。眠った石は落ちず、枝の下に残った。

 

 それでも、石の輪郭は捉えられた。周りの霊子とは違うまとまりが、そこにある。今まで眠らせてきたものを、初めて斬る前のように見ていた。

 

        *

 

 そうして試すうちに、幾年かが過ぎた。

 

 雪が解ければ山の水を使い、冬には氷を使った。風の強い日には吹き上がる雪を、雨の日には岩を打つ雫を。家から離れた場所で始解し、起きたことを紙へ書いて戻った。

 

 老人が見に来る日もあったが、毎回ではない。俺が山へ出ている間に酒を飲み、帰ると寝ていることもある。寝ていると思って静かに飯を作っていれば、出来上がる頃には起きていた。

 

 ある秋の日、岩場で火を眠らせた時には、老人も隣にいた。

 

 刃へ触れた炎が揺れるのをやめる。赤い形は残っているのに、近づけた掌へ熱は届かなかった。火の上へ枯れ枝を差し入れても、焦げた匂いはしない。

 

 老人はその様子を見てから、持っていた芋を懐へ戻した。

 

「それでは焼けんな」

「飯の火は、向こうに作るよ」

「先に作っておけばよかろうに」

 

 仕方なく、少し離れたところで火を起こした。老人はそちらへ芋を埋め、また戻ってきた。

 

 燃えている火と、眠った火が並んでいた。片方では薪が爆ぜ、もう片方には音がない。

 

「火が燃えなくなっても、形は残るんだな」

 

 俺は動かない炎へ目を向けた。輪郭だけなら、火が燃えているところを絵へ描いたようにも見える。けれど、触れている刃を通じて、まだそこにあることは分かった。

 

「石もそうだった。落ちないし、温まらない。それでも石そのものは残ってた」

「では、返す刀ではどうなる」

「消えるよ」

 

 刀を返した。

 

 炎がかき消える。赤い光もなくなり、向こうの岩肌が見えた。そこへ意識を向け続けたが、白縫を解いた時のように霊子が散っていく様子は追えなかった。

 

 自分の術で起きたことなのに、使うたびに同じところで見失う。

 

「ゆめとは、話したのか」

「話してるよ。今日も聞いてた」

「刀を握って尋ねるばかりではないぞ」

 

 老人に顔を向けると、既に芋の方へ歩き始めていた。

 

「顔を見て話せ。儂の顔は、嫌というほど見ておろう」

 

 俺は刀へ目を落とした。朱の組紐が、山の風に揺れていた。

 

        *

 

 その夜、ゆめの座敷には火鉢が置かれていた。

 

 襖の向こうから、花街の灯りが差している。外を流れる川には赤い光が揺れ、ときおり橋を渡る足音が聞こえた。

 

 ゆめは火鉢の傍へ座り、俺の来る方を見ていた。

 

「今夜は、お早いお越しで」

「爺さんに、顔を見て話せって言われた」

「言われねば、お越しになりんせんか」

 

 返す言葉を考えている間に、ゆめが笑った。俺は向かいへ座り、火鉢へ手をかざした。

 

 暖かかった。

 

 山で眠らせた火にはなかった熱が、ここにはある。現実の身体は布団の中で寝ているはずなのに、俺はこの暖かさを感じていた。

 

「こっちの火でも、手は温まるんだな」

「寒いまま座らせては、長居してくださりんせん」

「そんなことないけどさ」

 

 火鉢へ寄せていた手を引くと、ゆめが自分の手を差し出した。

 

「こちらも、お確かめになりんすか」

 

 差し出された指へ触れた。火鉢ほどではないが、温かい。触れたところだけでなく、指を握れば柔らかさも分かる。

 

 俺が黙っていると、ゆめは手を引かずに尋ねた。

 

「火と、同じでありんしたか」

「いや。こっちの方が、離しにくい」

 

 ゆめの指が俺の手を握り返した。少し遅れて、顔を見た。

 

「……今日、爺さんにも見せたんだ。火を眠らせてから、返す刀で消すところを」

「ええ」

「最初の一刀では、まだそこにある。燃えなくなっても火の形は残るし、石なら石のままだ。なのに、もう一度刃を返すと、そのものまで消える」

 

 ゆめは頷き、火鉢へ目を移した。

 

「初めの眠りでは、その働きをお休ませしんす。次の刃でお誘いするのは、それより深いところ」

 

 握っていた指が、少しだけ強く俺の手を包んだ。

 

「石ならば、石そのものを。火ならば、火そのものを。二度と目覚めぬ眠りへ、お連れするのでありんす」

 

 俺は動かなくなった炎を思い出した。

 

 火でありながら燃えず、熱を伝えず、それでもそこにあった。返す刀は、残っていたその火自体を眠らせる。動かなくなったものを、ただ斬って壊していたわけではなかった。

 

「永遠の眠り、か」

「明ける夜ばかりが、夜ではありんせん」

 

 火鉢の炭が小さく鳴った。

 

 目の前の火は燃えている。山の火は眠り、返す刀で消えた。二つの眠りを同じものとして扱っていたから、石が残ることと消えることが、俺の中で繋がらなかった。

 

「俺の白縫は、術を解けば霊子に戻る。集めていたものが散るところまで、見たことがあるんだ。でも、お前と眠らせたものは、同じようには見えない」

「どちらも、お目には消えて見えなんす」

「ああ。だから、同じことが起きてると思いかけてた」

 

 そこまで話して、火鉢からゆめへ目を戻した。

 

「消えたから、散ったとは限らないんだな」

「眠りの底まで、ご覧になるおつもりで?」

「できるなら。お前が連れていくところを、俺も知りたい」

 

 ゆめはしばらく俺を見ていた。それから、握った手を自分の膝へ下ろした。

 

「ならば、今夜もお帰りになるまで、お付き合いしんしょう」

 

 俺は座り直した。まだ聞きたいことはあったが、繋いでいる手を離してまで紙を探す気にはならなかった。

 

 襖の外で、橋を渡る足音が遠ざかっていった。

 

        *

 

 翌朝、老人は庭の石へ腰を下ろしていた。

 

 俺が桶を持って出ると、顔を上げる。

 

「話してきたか」

「ああ。最初は働きを眠らせる。返す刀では、物そのものを永遠に眠らせる。だから消えるんだって」

「そうか」

 

 老人はそれだけ言って、手元へ目を戻した。昨日とは別の木を削っている。

 

「それで、儂に何を聞きたい」

 

 まだ頼んでもいないのに言われて、俺は桶を置いた。

 

「また、石を戻すところを見せてほしい。今度は、眠らせる前から戻るまでを見てたいんだ」

「飯の後じゃ」

「分かった。米、炊いてくる」

 

 台所へ入り、鍋を火へ掛けた。薪へ火が移り、細い炎が底を舐める。昨夜までなら、あの火を消した後に霊子がどこへ散るのかを探していただろう。

 

 けれど、俺の刀は火を散らしているのか。それとも、俺が捉えられるところから眠りの底へ連れていっているのか。

 

 まだ分からなかった。ゆめから聞いた言葉を、自分の目で確かめたわけではない。

 

 飯が炊けるまでの間に紙を開き、「消えた後、どこへ行く」の下へ一行を書き足した。

 

 返す刀は、そのものを永遠に眠らせる。

 

 机の上から石を取った。欠けた端へ親指を当て、それから隣に置いていた欠片も拾う。

 

 老人が戻したこの石は、ここにある。眠らせたものが消えたことも、戻ってきたことも、俺は見ていた。その間に何が起きていたのかを、今度こそ追ってみたかった。

 

「焦げるぞ」

 

 庭から声が飛んできた。

 

 紙を置き、慌てて鍋の火を弱める。蓋を取ると、まだ米は無事だった。

 

 俺は石を懐へ入れ、茶碗を二つ並べた。

 

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