眠れる火に 灰は生まれず
帰らぬ夜に 朝は訪れず
老人に戻してもらった石は、机の上に置いてあった。紙を押さえるのに丁度よく、窓を開ける時には使っている。一度落として端を欠いたので、拾った欠片も隣へ並べておいた。
消える前にはなかった傷だった。
当たり前のことなのに、しばらく眺めてしまった。老人が掌へ返した時には、刀で眠らせる前と同じ石だった。その後で落とせば欠ける。戻ってきたからといって、それから先に起きることまで変わるわけではない。
紙へ書き足してから、刀を手に取った。
「今日は石を眠らせてみる」
『先日も、お眠らせになりんした』
「あの時は飛んできたのを止めただろ。初めから動いてない石だと、何が変わるのか見てみたいんだ」
机の石はそのままにした。老人に戻してもらうところばかり見ていては、自分の刀で起きていることが分からない。試すものは、山へ行けば幾らでもある。
家を出ると、老人が軒先に座っていた。折れた柄杓から柄を抜き、先を削っている。
「また山へ行くのか」
「昼までには戻るよ」
「水を汲んでから行け。空じゃ」
桶を持ち上げると、本当に空だった。昨日の夕方に使ったまま戻していたらしい。俺は刀を腰へ差し、水場へ向かった。
山へ着いた頃には日が高くなっていた。
平らな岩へ小石を置き、少し離れて刀を抜く。
〈現を離れ、夢路を辿れ。待つ夜に果てはなし、
膨れ上がる霊圧を抑え、長くなった袖を左腕へ寄せた。肩に落ちた髪を払うと、黒に混じる金、白、赤の房が指を滑った。帯の位置を直してから、小石へ刃を触れさせる。
見た目は変わらなかった。初めから動いていないものを眠らせても、眺めているだけでは違いが分からない。
けれど、刃を返せば消える。
白銀の刃文が石を横切り、岩の上には何も残らなかった。欠片も粉も落ちていない。俺は刀を下ろし、石のあった場所へ手を伸ばした。
「眠ったことは分かる。でも、何が眠ったのかは、これじゃ見えないな」
『動くものをお使いになっては?』
「それだと、また動かなくなったって話に戻るだろ。もう少し別のものを試したいんだけど」
足元から次の石を拾い、掌で転がした。冷たい。雪の下にあったものだから当然だったが、その冷たさを感じながら、今度は火を使ってみようと思った。
翌日は二つの石を持っていった。
しばらく待ってから火を消し、眠らせていない方へ触れた。指先に熱が伝わってくる。もう片方は、山で拾った時の冷たさを残していた。
位置を入れ替え、もう一度試した。火に近い側も、遠い側も確かめたが、眠った石は温まらなかった。
「止まるのは、動きだけじゃないんだな」
石へ手を添えたまま、ゆめに話した。
「飛んできた石なら、飛ぶのが止まる。火に当てた石なら、温まるのが止まる。何もしてないように見えても、外から受けて変わることはあるんだ」
『お前様も、眠っておいでの間に冷えなんす』
「そうだな。布団を蹴れば寒くなる。俺が普通に寝るのとは、随分違うらしい」
眠った石の下では、まだ火が揺れていた。薪は燃え、灰になって崩れていく。その上に吊った石だけが、火から熱を受け取らない。
目で見える動きがなくなったことを、俺は眠りだと思っていた。けれど、目に見えないところでも変化は止まっている。
白縫を外した。眠った石は落ちず、枝の下に残った。
それでも、石の輪郭は捉えられた。周りの霊子とは違うまとまりが、そこにある。今まで眠らせてきたものを、初めて斬る前のように見ていた。
*
そうして試すうちに、幾年かが過ぎた。
雪が解ければ山の水を使い、冬には氷を使った。風の強い日には吹き上がる雪を、雨の日には岩を打つ雫を。家から離れた場所で始解し、起きたことを紙へ書いて戻った。
老人が見に来る日もあったが、毎回ではない。俺が山へ出ている間に酒を飲み、帰ると寝ていることもある。寝ていると思って静かに飯を作っていれば、出来上がる頃には起きていた。
ある秋の日、岩場で火を眠らせた時には、老人も隣にいた。
刃へ触れた炎が揺れるのをやめる。赤い形は残っているのに、近づけた掌へ熱は届かなかった。火の上へ枯れ枝を差し入れても、焦げた匂いはしない。
老人はその様子を見てから、持っていた芋を懐へ戻した。
「それでは焼けんな」
「飯の火は、向こうに作るよ」
「先に作っておけばよかろうに」
仕方なく、少し離れたところで火を起こした。老人はそちらへ芋を埋め、また戻ってきた。
燃えている火と、眠った火が並んでいた。片方では薪が爆ぜ、もう片方には音がない。
「火が燃えなくなっても、形は残るんだな」
俺は動かない炎へ目を向けた。輪郭だけなら、火が燃えているところを絵へ描いたようにも見える。けれど、触れている刃を通じて、まだそこにあることは分かった。
「石もそうだった。落ちないし、温まらない。それでも石そのものは残ってた」
「では、返す刀ではどうなる」
「消えるよ」
刀を返した。
炎がかき消える。赤い光もなくなり、向こうの岩肌が見えた。そこへ意識を向け続けたが、白縫を解いた時のように霊子が散っていく様子は追えなかった。
自分の術で起きたことなのに、使うたびに同じところで見失う。
「ゆめとは、話したのか」
「話してるよ。今日も聞いてた」
「刀を握って尋ねるばかりではないぞ」
老人に顔を向けると、既に芋の方へ歩き始めていた。
「顔を見て話せ。儂の顔は、嫌というほど見ておろう」
俺は刀へ目を落とした。朱の組紐が、山の風に揺れていた。
*
その夜、ゆめの座敷には火鉢が置かれていた。
襖の向こうから、花街の灯りが差している。外を流れる川には赤い光が揺れ、ときおり橋を渡る足音が聞こえた。
ゆめは火鉢の傍へ座り、俺の来る方を見ていた。
「今夜は、お早いお越しで」
「爺さんに、顔を見て話せって言われた」
「言われねば、お越しになりんせんか」
返す言葉を考えている間に、ゆめが笑った。俺は向かいへ座り、火鉢へ手をかざした。
暖かかった。
山で眠らせた火にはなかった熱が、ここにはある。現実の身体は布団の中で寝ているはずなのに、俺はこの暖かさを感じていた。
「こっちの火でも、手は温まるんだな」
「寒いまま座らせては、長居してくださりんせん」
「そんなことないけどさ」
火鉢へ寄せていた手を引くと、ゆめが自分の手を差し出した。
「こちらも、お確かめになりんすか」
差し出された指へ触れた。火鉢ほどではないが、温かい。触れたところだけでなく、指を握れば柔らかさも分かる。
俺が黙っていると、ゆめは手を引かずに尋ねた。
「火と、同じでありんしたか」
「いや。こっちの方が、離しにくい」
ゆめの指が俺の手を握り返した。少し遅れて、顔を見た。
「……今日、爺さんにも見せたんだ。火を眠らせてから、返す刀で消すところを」
「ええ」
「最初の一刀では、まだそこにある。燃えなくなっても火の形は残るし、石なら石のままだ。なのに、もう一度刃を返すと、そのものまで消える」
ゆめは頷き、火鉢へ目を移した。
「初めの眠りでは、その働きをお休ませしんす。次の刃でお誘いするのは、それより深いところ」
握っていた指が、少しだけ強く俺の手を包んだ。
「石ならば、石そのものを。火ならば、火そのものを。二度と目覚めぬ眠りへ、お連れするのでありんす」
俺は動かなくなった炎を思い出した。
火でありながら燃えず、熱を伝えず、それでもそこにあった。返す刀は、残っていたその火自体を眠らせる。動かなくなったものを、ただ斬って壊していたわけではなかった。
「永遠の眠り、か」
「明ける夜ばかりが、夜ではありんせん」
火鉢の炭が小さく鳴った。
目の前の火は燃えている。山の火は眠り、返す刀で消えた。二つの眠りを同じものとして扱っていたから、石が残ることと消えることが、俺の中で繋がらなかった。
「俺の白縫は、術を解けば霊子に戻る。集めていたものが散るところまで、見たことがあるんだ。でも、お前と眠らせたものは、同じようには見えない」
「どちらも、お目には消えて見えなんす」
「ああ。だから、同じことが起きてると思いかけてた」
そこまで話して、火鉢からゆめへ目を戻した。
「消えたから、散ったとは限らないんだな」
「眠りの底まで、ご覧になるおつもりで?」
「できるなら。お前が連れていくところを、俺も知りたい」
ゆめはしばらく俺を見ていた。それから、握った手を自分の膝へ下ろした。
「ならば、今夜もお帰りになるまで、お付き合いしんしょう」
俺は座り直した。まだ聞きたいことはあったが、繋いでいる手を離してまで紙を探す気にはならなかった。
襖の外で、橋を渡る足音が遠ざかっていった。
*
翌朝、老人は庭の石へ腰を下ろしていた。
俺が桶を持って出ると、顔を上げる。
「話してきたか」
「ああ。最初は働きを眠らせる。返す刀では、物そのものを永遠に眠らせる。だから消えるんだって」
「そうか」
老人はそれだけ言って、手元へ目を戻した。昨日とは別の木を削っている。
「それで、儂に何を聞きたい」
まだ頼んでもいないのに言われて、俺は桶を置いた。
「また、石を戻すところを見せてほしい。今度は、眠らせる前から戻るまでを見てたいんだ」
「飯の後じゃ」
「分かった。米、炊いてくる」
台所へ入り、鍋を火へ掛けた。薪へ火が移り、細い炎が底を舐める。昨夜までなら、あの火を消した後に霊子がどこへ散るのかを探していただろう。
けれど、俺の刀は火を散らしているのか。それとも、俺が捉えられるところから眠りの底へ連れていっているのか。
まだ分からなかった。ゆめから聞いた言葉を、自分の目で確かめたわけではない。
飯が炊けるまでの間に紙を開き、「消えた後、どこへ行く」の下へ一行を書き足した。
返す刀は、そのものを永遠に眠らせる。
机の上から石を取った。欠けた端へ親指を当て、それから隣に置いていた欠片も拾う。
老人が戻したこの石は、ここにある。眠らせたものが消えたことも、戻ってきたことも、俺は見ていた。その間に何が起きていたのかを、今度こそ追ってみたかった。
「焦げるぞ」
庭から声が飛んできた。
紙を置き、慌てて鍋の火を弱める。蓋を取ると、まだ米は無事だった。
俺は石を懐へ入れ、茶碗を二つ並べた。