明けぬ夜に 夢は残り
語らぬ傷に 昔は宿る
飯を食い終えると、老人は茶碗の底に残った米を箸で拾った。俺は先に膳を片づけ、懐から石を出す。欠けたところを上へ向けて置き、小さな欠片も隣へ並べた。
「それも持っていくのか」
「前に戻してもらったやつだから。比べるのに使おうと思って」
「なくすなよ。紙が飛ぶ」
俺が机で使っていることまで知っていたらしい。石を懐へ戻すと、老人は箸を置いて立ち上がった。
いつもの岩場へ向かう途中、道端で三つほど石を拾った。大きさの近いものを選んだが、形は少しずつ違う。白い筋の入ったものと、平たいものと、穴のあるものだった。
岩場へ着くと、老人は陽の当たるところへ腰を下ろした。拾った石を見せ、白い筋の入ったものを指で挟む。
「まず、これを眠らせる。消えたら戻してほしい」
「昨日、聞いた通りじゃな」
「ただ、戻す時に、最初の眠りは残せる?」
老人が顔を上げた。
「消えたことだけを、なくすのか」
「ああ。前は石が戻った時、普通に手へ落ちてきただろ。あれだと、最初に眠ったことまでなくなってたのか分からないんだ」
老人は石へ目を向け、それから俺の刀を見た。
「やってみい」
鞘を払い、名を呼んだ。
〈現を離れ、夢路を辿れ。待つ夜に果てはなし、
霊圧が岩場へ広がる前に収めた。黒地の袖を寄せ、石を
目を閉じても、その輪郭は分かった。白い筋までは見えないが、片側が膨らんだ形と、小さく欠けた縁を捉えられる。感覚を保ったまま、刀を返した。
石が消えた。
周囲へ意識を向けたが、霊子が散っていく流れは見えなかった。直前まであったまとまりが失われ、向こうの岩から吹いてくる風だけが袖へ当たる。
「頼む」
老人が右手を持ち上げた。
白い筋の入った石が、元の高さに現れた。
俺は手を出しかけて止めた。石は落ちてこない。白縫もないのに、空中に残っている。
老人の方を見ると、もう手を下ろしていた。
「眠ったままだ」
「そう頼んだじゃろう」
「いや、分かってるけどさ。目の前で見ると、やっぱり驚くよ」
刀を下ろし、石の周りへ指を添えた。初めに眠らせた時と同じ位置にある。輪郭も、欠けた縁も捉えられた。
物として戻ってきたのに、その働きは眠ったままだった。
石が現れたところを何度も思い返した。老人の掌から霊子が流れたようには見えない。大気中から集まって形を作った様子もなかった。ただ、なくなっていたところに、石があった。
「もう一度、同じことをしていいか」
「好きにせい」
今度は目を閉じたまま刀を返した。
姿を見ず、石を構成している霊子のまとまりへ意識を向け続ける。それが失われた後も、顔を動かさずに待った。
やがて、同じところに輪郭が戻った。
目を開けると、白い筋の入った石があった。散ったものが集まる気配は、やはり追えなかった。
「どうじゃ」
「石が戻ったのは分かった。でも、戻る途中が分からない」
「儂が、石を作っておると思うたか」
「そういうわけじゃないよ。ただ、物がここにあるなら、ここへ来るまでに何か起きてるはずだと思ったんだ」
老人は膝の上へ両手を置いた。
「儂は、こいつが消えたことをなくした。砕いてから繋いだわけでも、別の石を持ってきたわけでもない。お前の探しておる動きが、あったとは限らんぞ」
石へ目を戻した。
術で何かを作る時には、霊子が集まる。形を解けば散る。その様子を見られるようになってから、ほかのものも同じように追えると思っていた。
けれど、老人は石を作っていない。ゆめも、石を砕いていない。
「……何が起きたかに合わせて、見る方も変えなきゃならないのか」
声に出してから、眠った石へ意識を向け直した。そこにあることは分かる。なくなる時と戻る時の間に、俺の知らないところがある。それを今まで知った動きだけで埋めてしまえば、見えていないものまで見たことにしてしまう。
老人が俺の顔を覗いた。
「少し、芋でも食うか」
「まだ飯を食ったばっかりだろ」
「お前はな」
老人は懐から芋を出した。昨日のうちに焼いておいたらしく、皮へ灰がついている。
俺も隣へ座った。石は胸の高さに残したまま、差し出された半分を受け取る。割ったところから、僅かに湯気が立っていた。
「次は、初めに眠ったことも戻せる?」
「今か」
「食い終わってからでいいよ。手を出して待ってるから」
芋を食べ終えると、石の下へ掌を差し入れた。老人が指を動かす。
石が落ちた。
掌へ当たる重さが戻り、俺は指を閉じた。白い筋を撫で、欠けた縁を確かめる。さっきまで空中に残っていたものが、今は普通の石だった。
老人は二つを別々に扱えた。
物そのものが永遠に眠ったことと、その働きが眠ったこと。後から起きた方だけをなくせば、石は眠ったまま現れる。さらに初めの眠りもなくせば、落ちてくる。
俺はそれぞれの順番を紙へ書いた。今朝までの疑問に、一つは自分の目で答えられた。
ただし、石が消えた間にどこへ行ったのかは、まだ書けなかった。
*
その冬は、雪が深かった。
麓へ下りる道が埋まり、何日か続けて家にいた。薪を割り、道具の手入れをし、夕方には水場で濡らした袖を火の傍へ掛ける。山へ行かない間は、紙を広げてゆめと話した。
『まだ、石をお眺めになっておいでで?』
「途中まで分かったからな。もう少し分かりそうな気がして」
『この頃は、わっちより石へ触れておいででありんす』
俺は机から手を離した。
「夜には会いに行ってるだろ」
『お越しになってからも、石のお話ばかり』
それは否定できなかった。
紙を重ね、石をその上へ置いた。火に掛けていた湯が沸いたので、鍋を下ろす。老人の椀へ注ぎ、自分の分も縁側へ持っていった。
家と畑の周りには、雪がない。敷地の外では土も岩も埋まっているのに、庭の小石は夏と同じように見えていた。上から降ってくる雪は屋根へ届く前に脇へ流れ、吹き込んできた雪も庭を避けて外へ落ちる。風だけが縁側まで入り、湯の表面を揺らした。
老人は椀を持ち、畑の向こうを眺めていた。
「爺さん」
「何じゃ」
「石が消えたことを戻せるなら、眠ったところまで全部戻す方が楽なのか」
老人は椀を膝へ置いた。
「お前は、何を戻してほしいと頼んだ」
「消えたことだけ」
「ならば、それだけじゃ」
答えを聞いてから、庭へ目を戻した。
雪は一つも消えていない。敷地へ入ってこなかった分も、向こうの斜面へ積もっている。雪かきをしなくて済むのに、麓への道が開くわけではなかった。
「ここの雪も、そうなのか」
「そうとは?」
「この敷地には雪が落ちてこないようにしてる。降ってくる雪を、一つずつ押し退けてるんじゃなくて」
老人は頷いた。
「ここへ落ちてこんようにしただけじゃ。山には降る」
「だから、外へ落ちるのか」
「落ちるところは、ほかにもあるじゃろう」
初めて来た日、俺は老人の使う力を探した。降ってくる雪へ力を加えて動かしているなら、その流れが見えるはずだった。自分でも雪を横へ押し、同じように庭を空けてみた。
見た目は似ていた。けれど俺は、その時そこにある雪を動かしていた。老人が変えたのは、雪がこの敷地へ落ちてくるということだった。
老人が眠った石を戻してくれた時も、俺は霊子が集まるところを探していた。既に知っている術の使い方で、何をしているのか考えていたのだ。
「爺さんは、雪でも石でも、何が起きるかを選んで変えてるんだな」
「お前も刀を抜けば、何でも斬るわけではなかろう」
老人の視線が、俺の腰へ向いた。
刀で斬るところなら選べる。鬼道の狙いも、込める力も変えられる。ただ、この老人が選んでいるものは、それよりずっと広かった。
庭へ降りかかった雪が、斜面の方へ流れていった。老人は見てもいない。俺がここへ来る遥か前から、家の周りではこうして雪が落ちる先を変えていたのだろう。
「昔も、こんなふうに使ってたのか」
「家の雪をか」
「戦ってた頃。傷を戻したり、相手の術が当たったことをなくしたり」
老人はすぐには答えなかった。椀の中へ目を落とし、残った湯を飲んでから口を開いた。
「斬られた腕を戻したこともある。胸へ穴を開けられ、それをなくしたこともある」
「……よく生きてたな」
「戻さねば死んでおった」
胸へ穴が開くような戦いを、三万年以上前にしていた。
俺が山本と斬り合った時よりも、更に遥か昔の話だ。その相手が何を使い、どれほど強かったのかは知らない。老人の言葉に出てくる者は、もう誰もここへ来ない。
「相手は、それを見ても戦い続けたのか」
「初めに会うた時は、逃げた」
「逃げられた?」
「追うたよ。次に会うた時には、仲間を連れてきた」
老人は空になった椀を俺へ渡した。
「胸の穴は、その時じゃ」
俺は椀を受け取ったまま、その顔を見た。
「その話、もう少し聞いてもいいか」
「聞いて、どうする」
「爺さんの術が気になるのもあるけどさ。爺さんを殺しかけた奴が、どんな奴だったのか知りたい」
老人は俺を見て、それから雪の積もった道へ顔を向けた。
「大きな男じゃった。腕を上げると、肩が耳へついた」
「そんなにか」
「刀も大きかった。初めに会うた時、家の梁を担いでおるのかと思うたわ」
思わず笑うと、老人の口元も緩んだ。
「そいつが逃げたのか」
「ああ。大きいくせに、逃げ足は速かった」
「爺さんより?」
「その日はな」
俺は空の椀を重ね、縁側へ置いた。
いつもなら聞いたことを忘れぬうちに書きに戻っていたが、今は席を立ちたくなかった。老人も続きを急がず、火の方へ手を伸ばしている。
部屋から火鉢を寄せると、老人は両手をかざした。
「で、仲間を連れて戻ってきてから?」
「三人で来た。大きいのが正面に立ち、残りは左右へ分かれた。儂はそいつの刀を避けて、右におる男を斬ろうとした」
「その間に、左から来た?」
「そうじゃ。腕を落とされた。切り口から血が噴き出して、刀を握っておった手まで地面へ落ちた」
老人は左手を持ち上げ、指を開いた。
「腕を戻して、左の男を斬った。そこへ、正面の大きいのが突いてきた。胸を抜けた刀の先が、背中から見えとった」
俺は火鉢へ伸ばしていた手を止めた。
三人の位置と、老人が踏み込んだ先を思い描く。正面の大きな刀を避けたところへ、左右から別の刃が届く。腕を失っても戦い続けた老人へ、今度は正面から突きが来た。
自分が同じところに立っていたら、どう避けたか。考え始めてから、膝へ手を戻した。
「俺なら、右の奴を先に術で止めるかな」
「止まらなんだら?」
「左を斬ってから、正面へ向き直る」
「右を残してか」
「……そうなるな」
老人が笑った。
「儂も、右を残した。胸を刺されたまま、そいつも斬ろうとしたんじゃ」
「退かなかったのか」
「退けば、刺した刀を抜かれる」
「掴んだのか。その刀を」
「折った。身体に残った分は、後でなくした」
老人は何でもないことのように言った。俺はその細い腕と、火鉢へ寄せた指を見た。
斬られたことをなくせる。それを聞けば、傷つかずに戦える姿を想像してしまう。けれど老人の話には血があり、落ちた腕があり、胸を貫いた刀があった。
その中で、この老人は相手を斬っていた。
「爺さん、随分無茶してたんだな」
「お前は、してこんかったのか」
「したよ。ほかにやりようがない時もあったし、後で考えたら、あった時もある」
「そうじゃろうな」
老人は左手を下ろした。着物の袖が指先を覆い、また今の姿へ戻った。
俺は湯を注ぎ直して椀を渡した。受け取る指は細く、湯気の向こうで僅かに曲がっていた。
「今日は、紙へ書かんのか」
「後で書くよ。今は、続きを聞いてたい」
老人は一口飲み、椀を両手で包んだ。
庭の向こうでは、まだ雪が降っていた。