散りゆくものに 名は残らず
眠れるものに 命は宿る
「それで、右の奴は斬れたのか」
湯を飲んでいた老人が、椀の縁から目を上げた。
「逃げた」
「またか」
「胸に刀を刺されておるのに、腕を伸ばしてきたからの。大きいのを残して、山を下りていった」
「そいつを追う余裕はなかった?」
「その時は、大きいのの首を取る方が先じゃった」
老人は椀を置き、火鉢へ手を寄せた。指先を温める姿からは、胸を貫かれたまま人を斬った男を思い描きにくい。けれど話を聞いているうちに、梁ほどの刀を折った手と、目の前の細い手が重なって見えるようになっていた。
「右の奴とは、その後も?」
「会わなんだ。探したが、見つからんかった」
「爺さんから逃げ切ったなら、随分な奴だったんだろうな」
「儂を避けて暮らすほど、長く生きたとも限らん」
雪の積もった斜面へ目を向けた。
俺も、昔斬り合った相手のその後を知っているわけではない。逃した男に何十年か経って会ったこともあれば、翌朝には別の奴に殺されていたこともある。あの頃は自分が明日も生きているかさえ分からなかった。
三万年という長さに気を取られていたが、老人が語っているのも、一度きりの死合だった。その前にも、その後にも、この男が血を流した日はあったのだろう。
「腕を戻した時、刀を握ってた手も戻ったんだよな」
「そうじゃ」
「すぐ動いた?」
「動かねば、左の男は斬れんかった」
「……そうか。形だけ戻したわけじゃないんだな」
老人は俺の右腕を見た。
「石の次は、腕か」
「爺さんの話を聞いてたら、そっちも気になってきた」
「斬ってやろうか」
「いや、それは頼んでない」
老人が笑ったので、俺も笑った。
紙へ戻る前に、もう一つ聞いた。
「斬られる前に疲れてたら、その疲れもなくなるのか」
「腕を斬られたことをなくしても、その前に山を登ったことまではなくならん」
「動くようには戻るけど、元より強くなるわけじゃない?」
「儂が戻したのは、斬られた腕じゃ。腕を鍛え直したのではない」
俺は右手を開き、指を曲げた。掌の傷はもう薄くなっていたが、刀を握り続けたところは硬い。山本の下へいた頃から、何度も皮が裂け、そのたびに治ってきた手だった。
眠った石を戻す時にも、老人は消えたことだけをなくした。その前からある欠けた縁は、欠けたままだった。
「爺さん。俺の身体を見て、どれくらい生きたか分かる?」
「顔を見れば、若いと思うじゃろうな」
「実際には、もう六百年以上は生きてるんだけど」
「そうか」
老人は俺の顔をしばらく眺めた後、膝へ手を戻した。
「儂より若い」
「そこは比べなくていいよ」
火鉢の炭が崩れた。老人が火箸を伸ばし、赤いところを寄せる。俺は自分の手を裏返した。
六百年以上も、この身体で暮らしている。
それだけ長く使ってきたのに、身体のことを知ろうとした時、まず思い浮かぶのは霊力だった。刀を握る力も、鬼道を放つ力も、身体から出ている。だから力の動きが分かれば、自分のことも分かるつもりでいた。
けれど、それでは、この手そのものを見ていなかった。
*
春になって山へ出ると、冬の間に折れた枝がいくつも落ちていた。拾って束ね、白い糸で括る。老人が籠を背負うより、俺がまとめて持ち帰る方が早かった。
枝を持ち上げた時、切れた先が掌へ食い込んだ。
「いて」
束を下ろすと、親指の付け根に血が滲んでいた。刺さった小さな木片を抜き、傷を押さえる。普段ならそのまま枝を拾い直すところだったが、その日は手を開いて見た。
皮膚の切れたところから、血が出ている。
霊子へ意識を向けると、傷の両側にある形は捉えられた。掌を流れた血も、指先から落ちた一滴も分かった。ただ、傷口の細かなところまでは区別しきれない。表面を見つけられることと、身体の中で何が起きているかを知ることは、まだ遠かった。
『お前様。お手をどうかなさいんしたか』
「枝で切った。大した傷じゃないよ」
『でしたら、血をお拭きになっては』
「ちょっと見てたんだ。これ、放っておいても塞がるだろ」
『そのままにしておけば、袖が汚れんす』
言われて袖へ目を向けた。持ち上げた束から血が移り、茶色い布へ赤い筋がついている。
「……先に洗うか」
枝を括り直し、肩へ担いだ。傷のある手を使わずに済むよう、束の下へ腕を差し入れる。家へ戻って水を汲むと、ゆめは洗い終えるまで黙っていた。
その日から、傷のあるところへ時々意識を向けた。飯を作る前、薪を運んだ後、寝る前に一度。力を込めず、何かの術を使おうともせず、変わったところを探した。
出血は止まり、切れたところには薄い皮ができた。数日すると、指を広げても痛まなくなった。
俺が毎晩見張っていたから治ったわけではない。今までの傷も、見ていない間に治っている。眠っている時も、別のことをしている時も、身体は傷を塞いでいた。
紙へその経過を書くと、老人が後ろから覗いた。
「枝で切ったところか」
「ああ」
「毎日、見ておったのう」
「見てなくても治るんだけどな。その間に、何をしてるのか知りたくて」
老人が俺の掌を取った。傷はもう細い線になっている。指で軽く擦り、それから手を離した。
「分かったか」
「塞がったのは分かった。途中で何が起きてたのかは、まだよく見えない」
「また枝へ手を刺すなよ」
「わざとやったわけじゃないって」
老人は畑へ出ていった。俺は筆を置き、治った傷の隣へ指を添えた。
力を抜いた
身体は違った。
霊圧を抑えたままでも、手は手としてここにある。指へ力を込めている間だけ形を作っているわけではない。眠っている時には、俺はこの手を動かそうとさえしていなかった。
それでも朝には、同じ指で刀を握っていた。
身体の形が残るだけなら、石もそうだ。けれど石の欠けたところは、放っておいても戻らない。俺の掌では、切れたところが塞がった。
同じ霊子でできている、と一行書いただけでは、その違いは分からなかった。
*
それから何度か、山に雪が降った。
石を眠らせる試みも続けたが、山へ持っていく紙には、身体について書いたものが増えた。手を動かした時と、動かす前。術を放つ時と、何もしていない時。分かったところへ印をつけ、次に確かめた時に違っていれば書き直した。
力を集めた掌は捉えやすい。けれど、それだけを見ていては、掌そのものと区別がつかなくなる。
初めて河原の石を調べた時と、似ていた。今度は相手が自分の身体だから、なおさら分けにくい。意識を向ければ、そこへ力を寄せてしまう。指を動かさずに見ようとしても、見るつもりが働き掛ける方へ変わっていることがあった。
山の道を歩く時にも、指先へ意識を向けた。持っている枝や石へ力を移す時、どこまでが俺の身体なのかを確かめる。白縫は身体から離れていても、自分の力を感じられた。けれど、それを引かれても俺の指が伸びるわけではない。
外へ出した力が自分のものであることと、それが自分の身体であることは、同じではなかった。
「爺さん。刀を握ってるところへ力を込めたら、刀も手みたいに感じることがあるんだ」
「ならば、よう握れておる」
「でも、刀へ傷がついても、俺の手から血は出ないだろ」
「刀に傷がついて手から血が出るなんぞ、そんな奇怪なことが起こるわけがなかろうて」
縁側で草履を直していた老人は、顔を上げずに答えた。俺は笑い、鞘へ置いていた手を離した。
「そういうことじゃなくてさ。自分の力があるだけじゃ、自分の身体にはならないんだなって」
「お前は、刀まで腕にしたいのか」
「今は、自分の腕が何で腕のままでいられるのか知りたい」
老人が紐を引き、草履の鼻緒を締めた。
「眠っておる間もか」
「ああ。ゆめと話してる時なんか、自分の身体へは全然気を向けてない。傷を治そうとも考えてないのに、目が覚めると塞がってるだろ」
老人は直した草履を横へ置いた。
「儂が覗いた時には、寝ておったよ」
「見たのか」
「飯を食わんから、呼びに入った」
「いつ?」
「何年か前じゃ」
そんなことがあったとは知らなかった。
飯を呼ぶ声を聞かなかった時、俺はゆめと何を話していただろう。思い返しても、どの日か分からない。対話に気を取られ、老人が戸を開けたことにも気づいていなかったらしい。
「普通に寝てた?」
「息をしておった。肩を叩けば、目を開けた」
「……起こされたのか」
「飯が冷める」
寝ぼけたまま膳の前へ座ったことは何度もある。老人に起こされたことまで忘れている日もあったらしい。
俺は鞘を膝へ置き、しばらく縁側に座っていた。
術を放つ時には、力を集め、形を決め、どこへ向けるかを考える。けれど息をするたびに、肺へ命じているわけではない。傷が塞がるまでの間も、俺は飯を食い、眠り、ほかのことを考えていた。
意識して扱う力ばかりを調べていても、身体の全てが分かるわけではなかった。
その働きをどう捉えればいいのかは、まだ分からない。ただ、卍解の先を探していながら、自分の身体については「生まれつきこういうものだ」で済ませていたことに、ようやく気づいた。
*
その夜は、紙を持たずに花街へ入った。
川沿いの灯りが水へ映り、渡った橋の向こうで揺れていた。軒先を通り、いつもの座敷へ上がると、ゆめは俺の手元を見た。
「今夜は、お書きにならないので?」
「ああ。話したくなったら、目が覚めてから書くよ」
向かいへ座ると、ゆめが盃を寄せた。酒を受け、膝の上へ置く。ゆめは俺の右手を取り、掌を上へ向けた。
「また、どこかお怪我を?」
「いや。あの枝の傷も、もう治ってる」
「ならば、よろしゅうござんした」
指を返され、そのまま手を包まれた。
触れれば温かさが分かる。膳の酒には味があり、川から吹く風には冷たさがあった。以前、この座敷で動いている自分は何なのかと考えたことがある。身体を調べ始めてから、その疑問がまた気になっていた。
「ゆめ。俺はここでも、お前に触れたり、酒を飲んだりできるだろ。寝てるのに、随分はっきり感じるんだよな」
ゆめは俺の手を包んだまま、障子へ目を向けた。
「ここは、お前様の精神世界でありんす」
「ああ。それは分かってるんだけどさ」
「では、この川も、空も、お前様と関わりなく在るものとお思いで?」
開いた障子の向こうに、朱い灯りが揺れていた。川も楼閣も、ここへ来ればいつも目にしている。ゆめが待つ座敷まで歩くことには慣れていたが、その景色を自分と結びつけて考えたことはなかった。
「俺の心で、変わるのか」
「お前様の心が泣けば、こちらには雨が降りんす。迷いが晴れぬ夜には、空も落ち着きなく変わる。雲が流れ、風が立ち、灯りも揺れなんす」
俺は障子の外を見直した。
ここで雨の音を聞いた夜もあった。風に障子が鳴ることもあった。そのたびに、今日はそういう天気なのだと思っていた。
「楽しい時は?」
「美しい夜の帳が下りんす。川へ映る灯も、遠くまでよう見える」
「じゃあ、新しいことが分かった時にも?」
「今まで見えなんだ夜空が、見えることもありんすよ」
ゆめに手を引かれ、縁側へ出た。
楼閣の屋根を越えた先に、星が見えた。いつも灯籠や川面へばかり目を向けていたので、あれが以前からあった星なのかは分からない。
「俺、ここへ来ても、お前のところまで歩くだけだったな」
「お急ぎになる夜も、多うござんした」
「聞きたいことがあると、ほかを見なくなるんだよ」
「今夜は、少しご覧になっては」
並んで腰を下ろした。ゆめの袖が板の上へ広がり、俺の膝へ触れた。
「この花街は、お前様自身でありんす。忘れておいでの道も、目を背けた夜も、ここには残る」
座敷までの道には、昔越えた峠があった。世話になった村の橋も、飢えて歩いた山道もある。通るたびに思い出すことはあったが、懐かしい景色として眺めるばかりだった。
「俺が自分のことを知れば、ここも変わっていく?」
「ええ。深くお知りになれば、今のお前様には見えぬ景色もありんしょう。わっちの知るこの夜も、今の姿のままとは限りんせん」
空を見上げた。
外の霊子を調べ、自分の掌へ意識を向けてきた。その間も、毎晩のように訪れるこの景色には、ほとんど何も尋ねていなかった。
「お前は、俺が見てない時にも、これを見てたんだな」
「雨の夜も、晴れた夜も」
俺は繋いだ手へ目を落とした。
「俺が来る前は、何してた?」
「橋のところで、川を」
「何か思い出してたのか」
「昔、お前様が雨を凌いだ夜を。橋の下へ隠れておいででありんした」
覚えのある橋だった。雨で川が膨れ、横になれる場所が狭くなっていくのを、一晩中見ていた。
「その話、聞かせてくれよ」
「お前様も、ご存じの夜でありんしょう」
「ああ。でも、お前がどう見てたかは知らない」
ゆめは俺の手を膝へ載せ、川の方へ顔を向けた。
話し始める声を聞きながら、俺も同じ方を見た。灯りの映る水面には、雨粒の輪が一つもなかった。