卍解のその先を追い求めて。   作:lalaland

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散りゆくものに 名は残らず
眠れるものに 命は宿る




17.血潮の宿り

 

 

「それで、右の奴は斬れたのか」

 

 湯を飲んでいた老人が、椀の縁から目を上げた。

 

「逃げた」

「またか」

「胸に刀を刺されておるのに、腕を伸ばしてきたからの。大きいのを残して、山を下りていった」

「そいつを追う余裕はなかった?」

「その時は、大きいのの首を取る方が先じゃった」

 

 老人は椀を置き、火鉢へ手を寄せた。指先を温める姿からは、胸を貫かれたまま人を斬った男を思い描きにくい。けれど話を聞いているうちに、梁ほどの刀を折った手と、目の前の細い手が重なって見えるようになっていた。

 

「右の奴とは、その後も?」

「会わなんだ。探したが、見つからんかった」

「爺さんから逃げ切ったなら、随分な奴だったんだろうな」

「儂を避けて暮らすほど、長く生きたとも限らん」

 

 雪の積もった斜面へ目を向けた。

 

 俺も、昔斬り合った相手のその後を知っているわけではない。逃した男に何十年か経って会ったこともあれば、翌朝には別の奴に殺されていたこともある。あの頃は自分が明日も生きているかさえ分からなかった。

 

 三万年という長さに気を取られていたが、老人が語っているのも、一度きりの死合だった。その前にも、その後にも、この男が血を流した日はあったのだろう。

 

「腕を戻した時、刀を握ってた手も戻ったんだよな」

「そうじゃ」

「すぐ動いた?」

「動かねば、左の男は斬れんかった」

「……そうか。形だけ戻したわけじゃないんだな」

 

 老人は俺の右腕を見た。

 

「石の次は、腕か」

「爺さんの話を聞いてたら、そっちも気になってきた」

「斬ってやろうか」

「いや、それは頼んでない」

 

 老人が笑ったので、俺も笑った。

 

 紙へ戻る前に、もう一つ聞いた。

 

「斬られる前に疲れてたら、その疲れもなくなるのか」

「腕を斬られたことをなくしても、その前に山を登ったことまではなくならん」

「動くようには戻るけど、元より強くなるわけじゃない?」

「儂が戻したのは、斬られた腕じゃ。腕を鍛え直したのではない」

 

 俺は右手を開き、指を曲げた。掌の傷はもう薄くなっていたが、刀を握り続けたところは硬い。山本の下へいた頃から、何度も皮が裂け、そのたびに治ってきた手だった。

 

 眠った石を戻す時にも、老人は消えたことだけをなくした。その前からある欠けた縁は、欠けたままだった。

 

「爺さん。俺の身体を見て、どれくらい生きたか分かる?」

「顔を見れば、若いと思うじゃろうな」

「実際には、もう六百年以上は生きてるんだけど」

「そうか」

 

 老人は俺の顔をしばらく眺めた後、膝へ手を戻した。

 

「儂より若い」

「そこは比べなくていいよ」

 

 火鉢の炭が崩れた。老人が火箸を伸ばし、赤いところを寄せる。俺は自分の手を裏返した。

 

 六百年以上も、この身体で暮らしている。

 

 それだけ長く使ってきたのに、身体のことを知ろうとした時、まず思い浮かぶのは霊力だった。刀を握る力も、鬼道を放つ力も、身体から出ている。だから力の動きが分かれば、自分のことも分かるつもりでいた。

 

 けれど、それでは、この手そのものを見ていなかった。

 

        *

 

 春になって山へ出ると、冬の間に折れた枝がいくつも落ちていた。拾って束ね、白い糸で括る。老人が籠を背負うより、俺がまとめて持ち帰る方が早かった。

 

 枝を持ち上げた時、切れた先が掌へ食い込んだ。

 

「いて」

 

 束を下ろすと、親指の付け根に血が滲んでいた。刺さった小さな木片を抜き、傷を押さえる。普段ならそのまま枝を拾い直すところだったが、その日は手を開いて見た。

 

 皮膚の切れたところから、血が出ている。

 

 霊子へ意識を向けると、傷の両側にある形は捉えられた。掌を流れた血も、指先から落ちた一滴も分かった。ただ、傷口の細かなところまでは区別しきれない。表面を見つけられることと、身体の中で何が起きているかを知ることは、まだ遠かった。

 

『お前様。お手をどうかなさいんしたか』

「枝で切った。大した傷じゃないよ」

『でしたら、血をお拭きになっては』

「ちょっと見てたんだ。これ、放っておいても塞がるだろ」

『そのままにしておけば、袖が汚れんす』

 

 言われて袖へ目を向けた。持ち上げた束から血が移り、茶色い布へ赤い筋がついている。

 

「……先に洗うか」

 

 枝を括り直し、肩へ担いだ。傷のある手を使わずに済むよう、束の下へ腕を差し入れる。家へ戻って水を汲むと、ゆめは洗い終えるまで黙っていた。

 

 その日から、傷のあるところへ時々意識を向けた。飯を作る前、薪を運んだ後、寝る前に一度。力を込めず、何かの術を使おうともせず、変わったところを探した。

 

 出血は止まり、切れたところには薄い皮ができた。数日すると、指を広げても痛まなくなった。

 

 俺が毎晩見張っていたから治ったわけではない。今までの傷も、見ていない間に治っている。眠っている時も、別のことをしている時も、身体は傷を塞いでいた。

 

 紙へその経過を書くと、老人が後ろから覗いた。

 

「枝で切ったところか」

「ああ」

「毎日、見ておったのう」

「見てなくても治るんだけどな。その間に、何をしてるのか知りたくて」

 

 老人が俺の掌を取った。傷はもう細い線になっている。指で軽く擦り、それから手を離した。

 

「分かったか」

「塞がったのは分かった。途中で何が起きてたのかは、まだよく見えない」

「また枝へ手を刺すなよ」

「わざとやったわけじゃないって」

 

 老人は畑へ出ていった。俺は筆を置き、治った傷の隣へ指を添えた。

 

 力を抜いた白縫(しらぬい)は、形を保てなくなって散る。俺が働かせていた力を止めれば、その糸はもう糸ではなくなった。

 

 身体は違った。

 

 霊圧を抑えたままでも、手は手としてここにある。指へ力を込めている間だけ形を作っているわけではない。眠っている時には、俺はこの手を動かそうとさえしていなかった。

 

 それでも朝には、同じ指で刀を握っていた。

 

 身体の形が残るだけなら、石もそうだ。けれど石の欠けたところは、放っておいても戻らない。俺の掌では、切れたところが塞がった。

 

 同じ霊子でできている、と一行書いただけでは、その違いは分からなかった。

 

        *

 

 それから何度か、山に雪が降った。

 

 石を眠らせる試みも続けたが、山へ持っていく紙には、身体について書いたものが増えた。手を動かした時と、動かす前。術を放つ時と、何もしていない時。分かったところへ印をつけ、次に確かめた時に違っていれば書き直した。

 

 力を集めた掌は捉えやすい。けれど、それだけを見ていては、掌そのものと区別がつかなくなる。

 

 初めて河原の石を調べた時と、似ていた。今度は相手が自分の身体だから、なおさら分けにくい。意識を向ければ、そこへ力を寄せてしまう。指を動かさずに見ようとしても、見るつもりが働き掛ける方へ変わっていることがあった。

 

 山の道を歩く時にも、指先へ意識を向けた。持っている枝や石へ力を移す時、どこまでが俺の身体なのかを確かめる。白縫は身体から離れていても、自分の力を感じられた。けれど、それを引かれても俺の指が伸びるわけではない。

 

 外へ出した力が自分のものであることと、それが自分の身体であることは、同じではなかった。

 

「爺さん。刀を握ってるところへ力を込めたら、刀も手みたいに感じることがあるんだ」

「ならば、よう握れておる」

「でも、刀へ傷がついても、俺の手から血は出ないだろ」

「刀に傷がついて手から血が出るなんぞ、そんな奇怪なことが起こるわけがなかろうて」

 

 縁側で草履を直していた老人は、顔を上げずに答えた。俺は笑い、鞘へ置いていた手を離した。

 

「そういうことじゃなくてさ。自分の力があるだけじゃ、自分の身体にはならないんだなって」

「お前は、刀まで腕にしたいのか」

「今は、自分の腕が何で腕のままでいられるのか知りたい」

 

 老人が紐を引き、草履の鼻緒を締めた。

 

「眠っておる間もか」

「ああ。ゆめと話してる時なんか、自分の身体へは全然気を向けてない。傷を治そうとも考えてないのに、目が覚めると塞がってるだろ」

 

 老人は直した草履を横へ置いた。

 

「儂が覗いた時には、寝ておったよ」

「見たのか」

「飯を食わんから、呼びに入った」

「いつ?」

「何年か前じゃ」

 

 そんなことがあったとは知らなかった。

 

 飯を呼ぶ声を聞かなかった時、俺はゆめと何を話していただろう。思い返しても、どの日か分からない。対話に気を取られ、老人が戸を開けたことにも気づいていなかったらしい。

 

「普通に寝てた?」

「息をしておった。肩を叩けば、目を開けた」

「……起こされたのか」

「飯が冷める」

 

 寝ぼけたまま膳の前へ座ったことは何度もある。老人に起こされたことまで忘れている日もあったらしい。

 

 俺は鞘を膝へ置き、しばらく縁側に座っていた。

 

 術を放つ時には、力を集め、形を決め、どこへ向けるかを考える。けれど息をするたびに、肺へ命じているわけではない。傷が塞がるまでの間も、俺は飯を食い、眠り、ほかのことを考えていた。

 

 意識して扱う力ばかりを調べていても、身体の全てが分かるわけではなかった。

 

 その働きをどう捉えればいいのかは、まだ分からない。ただ、卍解の先を探していながら、自分の身体については「生まれつきこういうものだ」で済ませていたことに、ようやく気づいた。

 

        *

 

 その夜は、紙を持たずに花街へ入った。

 

 川沿いの灯りが水へ映り、渡った橋の向こうで揺れていた。軒先を通り、いつもの座敷へ上がると、ゆめは俺の手元を見た。

 

「今夜は、お書きにならないので?」

「ああ。話したくなったら、目が覚めてから書くよ」

 

 向かいへ座ると、ゆめが盃を寄せた。酒を受け、膝の上へ置く。ゆめは俺の右手を取り、掌を上へ向けた。

 

「また、どこかお怪我を?」

「いや。あの枝の傷も、もう治ってる」

「ならば、よろしゅうござんした」

 

 指を返され、そのまま手を包まれた。

 

 触れれば温かさが分かる。膳の酒には味があり、川から吹く風には冷たさがあった。以前、この座敷で動いている自分は何なのかと考えたことがある。身体を調べ始めてから、その疑問がまた気になっていた。

 

「ゆめ。俺はここでも、お前に触れたり、酒を飲んだりできるだろ。寝てるのに、随分はっきり感じるんだよな」

 

 ゆめは俺の手を包んだまま、障子へ目を向けた。

 

「ここは、お前様の精神世界でありんす」

「ああ。それは分かってるんだけどさ」

「では、この川も、空も、お前様と関わりなく在るものとお思いで?」

 

 開いた障子の向こうに、朱い灯りが揺れていた。川も楼閣も、ここへ来ればいつも目にしている。ゆめが待つ座敷まで歩くことには慣れていたが、その景色を自分と結びつけて考えたことはなかった。

 

「俺の心で、変わるのか」

「お前様の心が泣けば、こちらには雨が降りんす。迷いが晴れぬ夜には、空も落ち着きなく変わる。雲が流れ、風が立ち、灯りも揺れなんす」

 

 俺は障子の外を見直した。

 

 ここで雨の音を聞いた夜もあった。風に障子が鳴ることもあった。そのたびに、今日はそういう天気なのだと思っていた。

 

「楽しい時は?」

「美しい夜の帳が下りんす。川へ映る灯も、遠くまでよう見える」

「じゃあ、新しいことが分かった時にも?」

「今まで見えなんだ夜空が、見えることもありんすよ」

 

 ゆめに手を引かれ、縁側へ出た。

 

 楼閣の屋根を越えた先に、星が見えた。いつも灯籠や川面へばかり目を向けていたので、あれが以前からあった星なのかは分からない。

 

「俺、ここへ来ても、お前のところまで歩くだけだったな」

「お急ぎになる夜も、多うござんした」

「聞きたいことがあると、ほかを見なくなるんだよ」

「今夜は、少しご覧になっては」

 

 並んで腰を下ろした。ゆめの袖が板の上へ広がり、俺の膝へ触れた。

 

「この花街は、お前様自身でありんす。忘れておいでの道も、目を背けた夜も、ここには残る」

 

 座敷までの道には、昔越えた峠があった。世話になった村の橋も、飢えて歩いた山道もある。通るたびに思い出すことはあったが、懐かしい景色として眺めるばかりだった。

 

「俺が自分のことを知れば、ここも変わっていく?」

「ええ。深くお知りになれば、今のお前様には見えぬ景色もありんしょう。わっちの知るこの夜も、今の姿のままとは限りんせん」

 

 空を見上げた。

 

 外の霊子を調べ、自分の掌へ意識を向けてきた。その間も、毎晩のように訪れるこの景色には、ほとんど何も尋ねていなかった。

 

「お前は、俺が見てない時にも、これを見てたんだな」

「雨の夜も、晴れた夜も」

 

 俺は繋いだ手へ目を落とした。

 

「俺が来る前は、何してた?」

「橋のところで、川を」

「何か思い出してたのか」

「昔、お前様が雨を凌いだ夜を。橋の下へ隠れておいででありんした」

 

 覚えのある橋だった。雨で川が膨れ、横になれる場所が狭くなっていくのを、一晩中見ていた。

 

「その話、聞かせてくれよ」

「お前様も、ご存じの夜でありんしょう」

「ああ。でも、お前がどう見てたかは知らない」

 

 ゆめは俺の手を膝へ載せ、川の方へ顔を向けた。

 

 話し始める声を聞きながら、俺も同じ方を見た。灯りの映る水面には、雨粒の輪が一つもなかった。

 

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