朽ちぬ刃に 春は巡り
老いぬ夢に 夜は積もる
屋根から剥がした古い板を庭へ落とすと、老人が縁側から足を引っ込めた。
「そちらへ落とすな。今、掃いたところじゃ」
「分かってるよ。あと三枚で終わるから」
板の傷んだところへ指を掛け、釘ごと引き抜いた。下の梁には腐ったところもなく、新しい板を載せれば済みそうだった。屋根の上から声を掛けると、老人は庭へ下り、俺が切り揃えておいた板を抱えた。
あの晩、ゆめから精神世界の話を聞いてから、十年ほどが経っていた。
初めて二人で直した屋根も、今は俺一人で葺き替えられる。畑へ水を引く溝は深くなり、冬に使う薪を積む場所も広げた。麓の店で紙を買う時には、何枚要るか聞かれる前に束が出てくるようになっていた。
老人の顔は変わらない。俺も変わっていないらしかったが、暮らしている家には、二人で手を入れたところが増えていた。
板を受け取り、梁へ釘を打った。掌を調べ始めた頃には、手先へ意識を向けるだけで霊力まで寄せてしまっていた。今は金槌を振りながらでも、柄を握る指と、その中へ込めている力を以前より分けて感じられる。
ただし、分かることが増えたからといって、身体の全てが見えるようになったわけではない。指を曲げる時に何が起きているのか。考えるより先に手が動く時、どこからその動きが始まるのか。紙に残した問いの幾つかは、十年前と同じところにあった。
最後の釘を打ち、屋根から下りた。老人が散らかった板を拾い始めていたので、俺も手伝った。まだ使えるものを小屋へ運び、腐ったところだけを切り落とす。
「昼は何食う?」
「鍋に残っておる」
「昨日の汁か。芋、足しとくよ」
台所へ入る前に袖を払った。木屑が庭へ落ち、老人が箒を止めた。
「……俺が掃く」
「そうしてくれ」
飯を食い、道具を片づけると、いつものように縁側へ紙を広げた。屋根の上で感じたことを忘れないうちに書く。金槌を振る動き自体は、もう考えなくてもできた。けれど、それを細かく調べようとすると、握る指にも、肘にも、余計な力が入っていた。
老人は隣で茶を飲んでいた。俺が右手を開いたり閉じたりしているのを眺め、しばらくして椀を置く。
「刀を振っておる時も、そうして考えるのか」
「いや。斬り合ってる時に指なんか見てたら、腕ごと持っていかれるだろ」
「ならば、一度やってみるか」
筆を持ったまま顔を上げた。
「爺さんと?」
「ほかに誰がおる」
老人は立ち上がり、部屋の奥へ入っていった。俺は書きかけの紙へ石を載せ、腰の刀を確かめる。山本の下を離れてからも刀は振っていたが、向かい合って何度も打ち込める相手は長らくいなかった。
戻ってきた老人の手には、細長い布包みがあった。
縁側へ座り、結んであった紐を解く。布の下から現れたのは、黒い鞘に収まった刀だった。鞘の塗りは所々剥げ、柄へ巻いた紐も俺のものより細い。老人が少し抜いて刃を確かめると、陽の当たったところが白く光った。
「長いこと使ってないんだろ?」
「手入れはしておった」
老人は刃を収め、布を畳んだ。
家の奥の棚に、その包みがあることは知っていた。掃除の時にも動かさず、何が入っているか聞いたこともなかった。老人が時々部屋へ籠もっていたのは、刀を拭くためだったのかもしれない。
「昔の話に出てきたのも、その刀?」
「ああ」
俺は鞘の傷へ目を向けた。
三人に囲まれた時も、腕を斬られた時も、この刀を握っていた。老人はそれ以上何も言わず、腰へ差した。帯へ収まる位置を直す手つきには、迷いがなかった。
*
岩場の手前には、雪解けの水が流れていた。
家の周りには積もらなくても、山の雪がなくなるわけではない。日陰にはまだ白い塊が残り、足元の土は湿っていた。俺たちは広く乾いたところまで歩き、互いに刀の届かない距離で向き合った。
「始解は?」
「まず、そのままで来い。儂も術は使わん」
「分かった」
刀を抜いた。
老人の刃は俺のものより短く、反りも浅かった。切っ先をこちらの胸へ向け、両手で柄を握る。肘を張ることも、足を大きく開くこともない。畑の畝を跨ぐ時とさほど変わらない立ち方だった。
俺は右足を前へ置き、刀を上げた。
首を狙って振り下ろす。老人は半歩退き、俺の刃へ刀を斜めに当てた。岩へ切っ先が落ちる前に手首を返し、そのまま脇腹へ横に薙ぐ。
今度は受けられなかった。
老人が内側へ踏み込んでいた。刀を持つ俺の手へ柄頭が迫る。肘を引いて躱し、左足で身体を回すと、老人の刃が腹の前を通り過ぎた。
近い。
肩をぶつける距離で右手を上げ、老人の刀を押し上げた。空いた左手で胸を押す。老人は俺の腕へ手を添え、身体を横へずらしたが、俺も足を踏み替えて追った。刀の柄を握り直し、背へ回ろうとする肩を切っ先で追う。
老人が離れた。
俺は足を止めず、突いた。刃を払われたところで腕を引き、次の斬撃へ移る。上から受けさせておいて下へ回し、膝を狙う。老人が脚を引いたところへ、今度は胸を狙って踏み込んだ。
金属の鳴る音が、岩場へ続けて響いた。
老人の刀が低くなった。俺は右から斬り上げ、刃を外側へ弾いた。開いた肩口へ切っ先を向けた時、老人の左手が俺の柄へ触れた。
そのまま肘を押さえにくる。
柄を引かず、左手を離して老人の手首を掴んだ。身体を寄せ、右手の刀を首の横へ運ぶ。老人も刀を返していた。俺の脇へ刃が当たる前に、掴んだ腕を押して一歩離れた。
二人の切っ先が、互いの身体の前で止まった。
「……危ねえな」
「よう動くのう」
老人は刀を下ろした。俺も切っ先を引き、息を吐く。
「今の、術は使ってないよな」
「使うと言うておらん」
「いや、見えた動きだけなのに、入りづらかったからさ」
受けた刃を押し返せば、押していた場所から老人がいなくなる。身体を離そうとすれば、離れる前に柄が届いた。速さで追いつけないわけではない。こちらが動こうとした時には、もう次の動きが重ねられていた。
それでも、何もできなかったわけではなかった。胸へ向けた突きは老人の袖を掠めていたし、最後は首へ刃を届かせている。老人の身体を捉えようとしすぎた時ほど、自分の足が遅れた。
「もう一度いいか」
「来い」
今度は間合いへ入るまで、余計なことを考えなかった。
刀が届く距離へ踏み込み、老人の右肩へ斬りつける。受けられた刃を滑らせ、左へ回る。老人が向き直るより先に足を入れ、刀を握る腕の下へ潜った。
老人の膝が上がった。
腿へ左手を当てて止め、右手の刀を引く。刃を寝かせ、老人の胴へ押し当てる直前、肩へ掌が当たった。胸の前を刀が通る。俺は上体を反らして避け、踏ん張った足で岩を蹴った。
老人が三歩退いた。
追って振り下ろした刃を、老人の刀が受け止める。今度は流させなかった。柄を押さえたまま位置を変え、老人の足を払う。
老人は転ばず、俺の肩へ手を掛けた。その重さを感じたところで左へ身を捻り、掴まれる前に離れる。顔を上げた時には、老人も刀を構え直していた。
俺の足元で、薄い岩が割れていた。
「それくらい動けるなら、初めからそうすればよかろう」
「さっきは、見ようとしてたんだよ」
「今は?」
「斬られないようにしてた」
老人が俺の足元を見た。割れた岩へ目を落とし、それから自分の刀を確かめる。
「まだ続けるか」
「ああ。今の、もう一度やりたい」
昼の陽が岩場を越えるまで、何度も刀を合わせた。
腕を狙われれば引く。足を払われれば踏み替える。老人の動きへ合わせて、俺の身体は次々に動いていた。頭で順番を辿ろうとした時には、既にその動きが終わっていることもあった。
山本と毎日斬り合っていた頃にも、同じことはしていた。その前の五百年には、できなければ死んでいた。
老人の刃を避け、刀を返す。目の前にある腕を斬ろうとすると、こちらの手首へ切っ先が向いた。握りを緩めて刀の角度を変え、その刃を外へ逃がす。
避け方を思い出してから動いたわけではなかった。
けれど、何も分からず動いていたわけでもない。刃が届くところも、自分の手が間に合うところも、斬り合っている間は分かっていた。それを一つずつ言葉にしようとすると、途端に遅くなる。
老人が刀を下ろしたので、俺も足を止めた。
「今日はこの辺にするか」
「……そうだな。付き合ってくれてありがとう」
袖で額を拭いた。老人も襟元を引き、岩へ腰を下ろす。すぐ隣へ座ろうとすると、俺の刀を指した。
「先に収めろ」
「ああ、悪い」
刃を拭いて鞘へ戻した。座ると、使い続けた腿に張りを感じた。手にも熱が残っている。身体の細かなところを眺めていた時より、よほどはっきり分かることがあった。
「爺さんは、受ける前に決めてるのか。次にどっちへ動くか」
「決めておる時もある。お前が違う方から来れば、変える」
「その時、足を動かそうとか、腕を上げようとかは?」
「そこまで考えておったら、お前の刀が当たる」
俺は自分の掌へ目を落とした。
「だよな。俺もそうだった」
力を込めるところを調べるために、何年も指をゆっくり曲げていた。けれど刀を避ける時には、掌だけでなく身体中が動く。目で見たものに合わせ、足を踏み替え、刃を向け直していた。その一つずつへ、別々に命じてはいなかった。
あの動きを、俺はどうやって覚えたのだろう。
前世から持ってきたものではない。転生したばかりの頃には、人が刀を抜くだけで足が竦んだ。初めて斬り合った夜も、思った通りに動けたわけではなかった。
何百年も使った身体が、今は考えるより先に刃を避けている。
「爺さん。俺、身体を調べる時は、何もさせない方が分かると思ってた」
「動かしては分からんのか」
「動くところまでは分かる。でも、こうして使ってきたものまで止めてたんだな」
老人は刀を腰から抜き、膝へ置いた。
俺も鞘へ手を添えた。握りの位置を直そうとしなくても、指はいつものところへ収まった。
*
その夜、花街を流れる川の傍へ下りた。
座敷へ入る前に、橋から続く石段へ足を向けた。川面へ映った灯りの間を、細い波が通っている。ゆめは欄干へ寄り、俺が近づくと顔を上げた。
「今日は、よう刀をお振りになりんしたね」
「見てたんだろ。久しぶりに、まともに斬り合ったよ」
隣へ立ち、川を眺めた。老人と刃を合わせていた時の音は、もう聞こえない。けれど腕を上げれば、あの打ち合いを思い出せた。
「俺がまだ刀を持ったばかりの頃も、覚えてるか」
「ええ。鞘から抜くのにも、お手間が掛かっておいでで」
「そっか。そこから見られてるんだよな」
昔の自分を思い出し、少し笑った。死体の傍から持ち出した刀を抜けず、鞘を足で押さえたことがあった。抜けた勢いで刃を落とし、拾う時には柄より先に刀身へ手を伸ばしていた。
今日の俺を見れば、同じ人間だとは思わないだろう。
「いつから今みたいに動けるようになったのか、分からないんだ。先生のところへ行く前にも、そこそこは動けてた。でも、五百年のどこで覚えたのかって聞かれるとさ」
ゆめは袖の内へ手を重ねた。
「初めから、おできになったわけではありんせん」
「ああ。それは覚えてる」
「おできにならなんだ夜も、ここには残っておりんす」
橋の先へ目を向けた。
いつもの座敷へ続く道の脇に、低い塀があった。何度も通った場所なのに、その奥を覗いたことはない。塀へ添うように細い路地が延び、灯りは途中で途切れていた。
あの先に何があったか、今は思い出せなかった。
「少し歩いてもいいか」
「お供しんしょう」
石段を上がり、橋を渡った。ゆめの歩幅へ合わせて、路地の前で足を止める。暗いところへ目を凝らすと、足元には濡れた土があった。
昔、こういう道を歩いた。
刀を抜いて待っている男が、曲がった先にいた。顔はもう曖昧だったが、足が動かなかったことは覚えている。逃げようとして踵を返し、泥へ滑って倒れた。
俺は路地へ一歩入り、その時に壁へついた手を思い出した。
ゆめが隣へ来る。俺は急いで奥へ向かわず、足元の土を見た。今日、老人の刀を避けた足も、ここで滑った足も、自分のものだった。