積もる歳月に 刃は馴染み
醒めぬ袖にも 春は触れる
路地の壁へ手をつくと、雨に濡れた土が指へついた。
刀を持ったばかりの頃、俺はここで転んだ。抜いた刃を向けてくる男から逃げようとして、泥へ足を滑らせたのだ。顔はもう思い出せないが、壁を掴んで起き上がったことも、鞘ごと刀を抱えて走ったことも覚えていた。
「この後、刀を抜く練習ばっかりしてたな」
「眠る前にも、起きてすぐにも」
「抜くのが遅くて死にかけたんだから、そりゃ必死にもなるよ」
ゆめが俺の腰へ目を向けた。
今は柄へ手を伸ばせば、迷わず刀を抜ける。長い年月の間に覚えたものが、考えるより先に身体を動かしていた。
俺はこの身体で生きてきた。その経験を覚えている魂魄が、今も刀を握っている。昔の自分が何度転んでいたとしても、今日、老人と斬り合った俺へ続いていた。
壁から手を離し、指の泥を払った。
「思い出してみると、格好悪いところばっかりだな」
「今のお前様なら、よう逃げられんしょう」
「そこは斬ってくれって言わないんだ」
「斬るばかりが、お前様ではありんせん」
ゆめの手を取り、路地を出た。
橋へ戻るまで、昔の話をした。俺が忘れていたところを、ゆめが覚えていることもあった。川の向こうに座敷の灯りが見えると、今夜は何を飲もうかと聞かれた。
俺は酒と答え、それから、肴も欲しいと付け足した。
*
老人との手合わせは、山で暮らす日々の一部になった。
畑へ出る日は朝のうちに済ませ、麓へ下りる日は休んだ。長雨の後には足場のよいところへ移り、冬は深い雪を踏み固めて斬り合った。家の周りには雪が落ちなくても、岩場までの道は毎年埋まる。
初めて刀を合わせた春から、二十年ほどが過ぎた頃には、互いの足運びも随分覚えていた。
だからこそ、同じ攻め方ばかりはできなかった。右へ回れば待たれ、下へ刃を向ければ先に足を引かれる。こちらも老人の肩が動く前に踏み込み、受ける刀ごと押し返した。
力を抑えた打ち合いだけではなくなっていた。
岩を踏み砕くほど踏み込み、刀を振った風で斜面の雪を削る。老人が受けた刃を外へ逃がせば、背後の岩壁に長い傷が走った。夕方にそこへ座り、二人で握り飯を食うこともあった。
俺は戦いながら、自分の霊力と、それを宿す身体の霊子を別々に捉えられるようになっていた。
以前は掌へ力を集めると、その強い気配ばかりを追ってしまった。今は霊力を増やしても、手の構成を見失わない。刀へ移した力も、腕へ残した力も分かる。身体の外へ放った後まで、同じように追えた。
霊子は身体を構成するもの。霊力は、その魂魄が持つ力。
言葉としては、前世から知っていた。けれど実際には、力を感じることも、身体を捉えることも、長らく同じ感覚で済ませていた。その二つを分けて扱えるようになったことが、山で積み重ねた年月の成果だった。
ある日の夕方、手合わせを終えてから
糸を太くする時には、集める霊子を増やす。太さを変えず強く張らせる時には、そこへ持たせる力を増やす。以前からできていたことを、今はどう違うか分かった上で行えた。
老人が荷を括るのに使っていた糸を指した。
「そちらは細いままでええ。解く時に面倒じゃ」
「分かってるよ。今日は別のことを試す」
荷へ巻く糸とは別に、指先から一本伸ばした。
今までは、糸を作る時に形を定め、その形を保たせていた。途中から曲げたり枝分かれさせたりする時には、俺がその都度動かしていた。
ならば、その働きも初めから術へ含めればいい。
鬼道の詠唱が、炎の形だけでなく、放たれる方向まで定めているように。
「爺さん。ちょっと、その枝を持ち上げてくれるか」
老人が傍の枝を拾った。俺は糸で一度巻き、その輪へ指を添える。締めつける力を強くするのではなく、枝へ沿って巻く働きを続けさせた。
老人が枝を傾ける。
白い糸は垂れず、木肌へ沿った。先へ滑らせると、細くなったところでは輪が縮み、節へ掛かると広がった。
「動かしておるのか」
「今は、巻きつくように作った。爺さんが動かすたびに、俺が輪を直してるわけじゃない」
老人は枝を裏返した。糸は巻きついたまま、節の向こうへ移った。
俺は枝の動きへ指を合わせず、掌を開いていた。
白縫に持たせるものを、白い糸の形と、引く力だけで済ませていた。けれど術には、どう働くかまで与えられる。俺が一つずつ動かさなくても、初めに定めた通りに働かせることができた。
糸を戻すと、老人が枝を荷の上へ置いた。
「今までの方が、荷には使いやすいのう」
「こっちは人を捕まえる方に使うよ。動かれるたびに緩んだら困るからな」
老人は俺を見た。
「儂に巻くつもりか」
「いずれは。今言ったら、避けられるだろ」
「言わずとも避けるわ」
俺は笑い、荷を背負った。
言葉が霊力へ形と働きを与えるという考えは、旅の途中で得ていた。ここではそれを、既に使っている術へ反映させられるようになった。
強い力を込めればよい、というだけではない。何を作り、何をさせるか。そこまで定めて初めて、鬼道になる。
*
始解を使って手合わせをしたのは、その冬だった。
俺が石を眠らせるところは、老人も何度も見ている。今度は、自分が動いている間にも同じように通るか確かめたいと言った。
家から離れた岩場へ向かい、刀を抜いた。
〈
跳ね上がった霊圧が、積もった雪を岩場から押し退けた。
斜面へ白い波が走り、剥き出しになった岩に細い亀裂が入る。俺は広がる力を収め、老人へ目を向けた。老人は腰の刀を抜き、雪のなくなったところへ進み出ていた。
黒地に金の模様が浮かび、袖の内から赤い裏が覗く。白い襟の上へ落ちた髪には、金、白、赤の房がそれぞれ一房ずつ混じっていた。ほどけた黒髪を背へ払い、長くなった袖を左手で寄せる。
老人は俺の顔を見て、それから刀へ視線を移した。
「随分変わるのう」
「毎回だよ。動くのには、もう慣れた」
黒い刀身で、白銀の刃文が揺れた。
踏み込んで右肩を狙う。老人が刃を合わせる前に刀を引き、今度は膝へ向けた。足を引いたところへさらに詰め、胸へ突く。
老人の刀が、俺の刃を横へ払った。
鋼の音はしなかった。触れたところから音が抜け、刃の滑る感触だけが手へ届く。老人は受けた刀をすぐに離し、俺の首へ斬り返した。
上体を沈めて躱した。頭の上を刃が通る間に左へ踏み、老人の右腕へ掌を伸ばす。
「
黒い霞が袖へ触れた。
老人の肘から先が止まった。刀を握る指も動かない。俺はその腕の外側へ回り、脇腹へ切っ先を向けた。
老人が左手で刀を取った。
右腕を置き去りにせず、身体ごと向きを変える。左から来た刃を受け流し、俺は後ろへ跳んだ。
着地した時には、老人の右手が再び柄を握っていた。
「戻したな」
「止まったままでは斬り合えんからの」
「じゃあ、何度でも止めるよ」
今度は低く踏み込んだ。
足を狙う刃を老人が避け、胸へ向けた突きを払う。俺は払われた勢いで身体を回し、老人の背へ刀を通した。着物に細い切れ目が入り、そこへ黒い霞が重なる。
老人が向き直る途中で止まった。
俺は刀を返さず、その首へ切っ先を添えた。
「今のは届いた」
「ああ」
老人の肩が動いた。俺は刃を引き、間合いを離した。
着物の切れ目まで消えていた。背へ手を回した老人が、布を摘まんで確かめる。
俺は刀を下げた。
「今、斬ったこともなくした?」
「そうじゃ」
「眠りだけじゃなくて?」
「傷も戻してほしかったか」
老人が笑った。俺も息を吐き、切っ先を岩場へ向けた。
「いや。そこはちゃんと戻してくれ」
石の時には、消えたことだけをなくしてもらい、初めの眠りを残していた。今、老人がなくしたのは、背を斬られたことと、そこへ眠りが通ったことだった。
俺の刀は、触れたものへ眠りを与える。
老人は、その眠りが起きたことをなくせる。
同じ腕が動かなくなり、また動くようになっても、二人がしていることは違った。俺が老人の術を真似て、腕へ霊力を送り込んだところで、同じ結果にはならない。
それは、家へ雪が落ちてこないこととも繋がっていた。
雪を押す術なら作れる。敷地へ近づいた雪を、外へ弾くようにもできるだろう。けれど、それで老人と同じように事象を書き換えたことにはならない。
「爺さんのやってること、前よりはっきり分かるよ」
「できるようになったか」
「そこは別だな。俺が今できるのは、起きてるものへ働き掛ける方だ」
老人は刀を肩へ載せた。
「ならば、それで儂を捕まえてみい」
俺は左手を開いた。
指先から白縫が伸びる。老人は糸を見た途端、足を横へ動かした。
「覚えてたか」
「先に言うたじゃろう」
糸を岩へ掛け、その向こうから回した。
老人が刀で払う前に引き、足首へ巻く。枝へ巻きつけた時と同じように、動く足へ沿わせる働きを与えてあった。老人が踏み替えても、輪は緩まなかった。
俺は一気に間合いへ入った。
老人が糸へ目を落とす。次に見た時には、足首から外れていた。
糸は切れていない。足を巻いていた部分が岩場へ落ち、俺の手に繋がっている。
「それもなくすのかよ」
老人の刀が、俺の胸へ向いた。
黒い刃で受け、そのまま脇へ滑らせる。左手で老人の肩を押し、足を入れ替えて背へ回った。刀を首の横で止めると、老人の切っ先も俺の腹へ届いていた。
二人とも、そこで手を止めた。
「……今のは?」
「糸が儂の足へ巻きついたことをなくした」
「そうだろうと思ったよ」
刀を引き、老人から離れた。
使った糸を指先へ戻す。老人が外したところも、白縫としての形を残していた。術全体を壊されたわけではない。巻きついたという結果だけが、なくなっていた。
老人は刀を収めた。
「ようできておった。足を引いても緩まなんだ」
「次は腕にも巻く」
「今日はもうええ。飯にするぞ」
俺も始解を解き、刀を鞘へ戻した。
袖が短くなると、冷たい風が手首へ当たった。岩場から押し退けた雪は、斜面へ白く積もっていた。
*
夜、ゆめの座敷で白縫の話をした。
昼に老人が外した輪も、動く足へ沿っていたところも、自分の手で確かめられた。言葉で考えていたことを、術として使えたのが嬉しかった。
「名前は同じでいいと思うんだ。縛るものなのは変わらないから」
「お唱えになる言葉は?」
「そこは直したい。形を作るだけじゃなくて、相手へ沿って離れないように」
ゆめが盃を置いた。
「お相手に合わせて、糸が変わるのでありんすね」
「ああ。俺がその都度直さなくても、術にやらせられる」
以前、赤火砲の詠唱を辿った時には、炎にして、まとめて、放つという働きを考えた。白縫にも、それと同じように、術の中へ含めるものがある。
形だけを名づければ、形だけの術になる。
どう働くかまで言葉へ収めれば、その名で呼び起こせるものも増える。俺が使い慣れた白縫には、何百年も積み重ねた使い方があった。それを一つずつ言葉へ定め直せば、まだ改められるところがあった。
「新しい術も、作れそうだな」
「何をお作りになるので?」
「まずは、離れた場所同士を繋ぐものかな。三界を歩きたいのに、今のままじゃ道がない」
ゆめは俺を見た。
俺は盃を取り、酒を飲んだ。老人の家を出る日を、今夜決めるつもりはなかった。まだ教わりたいことも、試したいこともある。
けれど、山の外で何をするかは、以前よりはっきりしていた。
霊子を集め、霊力で働かせ、言葉でその形と動きを定める。長く使うばかりだった鬼道を、今は自分で組み立てられる。習った術の続きを、自分の手で作れるようになっていた。
「明日は、また爺さんへ巻くつもりで?」
「言ったからな。向こうも待ってるだろ」
ゆめが笑い、空いた盃へ酒を注いだ。
俺は受け取ってから、膳へ置いた。今夜のうちに詠唱へ入れたい言葉を幾つか考え、ゆめに聞いてもらった。糸の名に相応しいものを選ぶ間、障子の向こうでは川の灯りが静かに揺れていた。