隔てる山河に 道は眠り
渡らぬ岸にも 灯はともる
昨夜考えた言葉を、朝のうちに紙へ書きつけた。白縫の詠唱には、巻きついたものへ沿い続ける働きも加える。声に出して辿り、長すぎるところを削っていると、老人が後ろを通った。
「今日は山へ行かんのか」
「これを書いたら行くよ。爺さんは?」
「麓じゃ。塩が切れる」
「じゃあ、俺も行こうかな」
筆を置き、紙を重ねた。老人が棚から袋を取る間に、俺も刀を腰へ差した。
家を出てしばらくは、並んで歩ける道が続く。畑の脇を抜けた先で細くなり、そこから谷へ下っていく。何十年も歩いてきた道だった。どの岩が滑るかも、雪が残りやすいところも覚えている。
谷へ入る手前で振り返ると、木々の間から家の屋根が見えた。
「近くに見えるんだけどな」
「何がじゃ」
「家。ここから麓まで行って戻ると、結構歩くだろ」
「嫌なら、帰りは走れ」
「爺さんを置いて?」
「塩も置いていけ」
俺は笑い、先へ足を向けた。
前世で読んだ死神たちは、
けれど今は、鬼道衆もいない。門の管理を頼める場所もなければ、地獄蝶を連れていく当てもなかった。
現世へ行くなら、自分で道を用意する必要がある。
その前に、この山で試せることがあった。
「麓と家を繋げられたら、買い物も楽になるよな」
「誰が繋ぐ」
「俺」
「なら、塩を買ってからにせい」
老人は谷の向こうを指した。木々の隙間に、村から立つ煙が見えていた。
俺はそこへ目を向けながら、昨夜の続きを考えた。
白縫には、巻くという働きを持たせられた。炎には、狙ったところへ飛ぶ働きを与えられる。門を作るなら、そこを通ったものが、もう片方の門へ出るように定めたい。
最初は、この山の中でいい。
入口と出口の両方を自分の目で見られるところに作り、何が通ったかを確かめる。それができれば、次は谷を挟んで試せる。
「爺さん。帰ったら、少し付き合ってくれないか」
「また石か」
「石も使うと思う。でも、今度は消さない」
「そうか」
老人は足元の枝を踏み越えた。
「消したら、呼べ」
*
岩場の両端へ、平たい石を一つずつ置いた。
片方は俺の足元にあり、もう片方は老人の傍にある。間は二十歩ほどだった。どちらの石も、霊子のまとまりを捉えられる。
掌を開き、足元の石の上へ霊子を集めた。
白い輪が立ち上がる。大きさは茶碗ほどにした。老人の傍にも同じ輪を作り、それぞれへ意識を向けたまま、小石を一つ拾った。
「そっちを見ててくれ」
「見ておる」
手元の輪へ、小石を入れた。
指を離すと、小石は輪を抜け、そのまま足元へ落ちた。老人の傍には何も出てこない。
俺は落ちた石を拾った。
輪は二つとも残っている。片方へ入ったものを、もう片方へ送るつもりで作ったが、まだその働きが通っていなかった。
「ただの輪っかだな」
「石を投げれば、こちらまで来るぞ」
「それだと、俺も投げてもらうことになるだろ」
「投げてほしいのか」
「今はいいよ」
石を掌へ戻し、二つの輪を見た。
手前を入口、向こうを出口と考えていた。そのために、輪の内側へ小石を運ぶ力も加えていた。けれど小石は、輪を通った先でも俺の手元にあった。
いったん両方を解いた。
今度は、離れた二つを繋いだところから作る。白縫を枝へ巻く時にも、どこへ触れ、どう続くかまで術へ含めた。
荷から紙を出した。昨夜、ゆめと話した後に書き足した言葉を、二つの石へ意識を向けながら辿る。
【踵を失くした巡礼 戸口に伏せる双頭の獣
逆さに架かる橋 水底に沈む七つの敷居
盲いた番人は鍵を呑み 帰らぬ客は鈴を鳴らす
東の窓に西の月 南の棺に北の花
隔てよ 連なれ 互いの背を踏み彼岸へ至れ
閉じた瞼の裏に戸を開き 千里の果てを一歩に畳め】
白い輪が現れた。
手前の輪の内側が、薄く揺れた。向こうの岩場が透けて見えていたところへ、別の景色が重なる。老人の着物が大きく見え、すぐに崩れた。
輪が歪む前に、力を引いた。
「今、そっちにも何か見えたか」
「お前の手が見えた」
「俺は、爺さんの着物が見えた」
「では、次は手を振れ」
もう一度作った。
同じ詠唱を辿り、二つの口を繋ぐ働きを保つ。輪の内側に老人の膝が現れた。顔を上げれば、老人は離れた石の傍に座っている。それなのに、手元の輪を覗くと、すぐ向こうに着物の皺まで見えた。
俺は小石を近づけた。
輪の内側へ入った先が、指の間から見えなくなった。老人が身を屈める。
「出てきたぞ」
まだ石を離していない。
俺は指で摘まんだまま、少し引いた。老人の傍へ出ていた先も引っ込む。もう一度差し入れると、老人が指を添えた。
小石を引かれる感触が、こちらの手へ届いた。
「離すよ」
「よい」
指を開いた。
老人が小石を持ち上げた。俺の傍には落ちていない。二人の間に広がる岩場にも、転がったものはなかった。
「……渡ったな」
輪を保ったまま、俺は息を吐いた。
老人は小石を裏返し、欠けた縁を撫でていた。それから、懐へ手を入れた。
「これも通るか」
「通してみてくれ」
出てきたのは、以前戻してもらった石だった。
「そっちが持ってたのか」
「お前が机へ置いていくからじゃ」
輪の向こうから、石が差し出された。
俺は受け取り、掌へ載せた。欠けたところも、白い筋もそのままだった。老人の指が離れると、いつもの重さが手へ掛かった。
石を置いてから、水を入れた竹筒でも試した。
蓋を開け、少しだけ傾ける。流れた水は輪の内側へ入り、老人の側に置いた椀へ落ちた。こちらの地面は濡れていない。椀には水が溜まり、老人が指先を浸した。
「冷たい」
「そりゃ、さっき汲んだからな」
水を止め、竹筒を置いた。
小石も、水も、もう片方へ届いた。俺は輪へ手を近づけ、指の先を差し入れた。老人が向こうで手を上げる。
その指が、俺の指へ触れた。
「分かるか」
「ああ」
手首まで入れ、動かしてみた。老人の傍で、自分の手が開く。握れば拳になり、引けばこちらへ戻った。
俺は手を抜き、二つの輪を閉じた。
岩場には、初めに置いた平たい石が残っていた。水の入った椀は老人の足元にあり、竹筒はこちらにある。
その間に何が通ったかを、紙へ書いた。
「次は、お前が入るのか」
「もう少し大きくしてからな。今の穴じゃ、頭も通らない」
「頭だけ来られても困る」
老人が椀を持って立ち上がった。
俺も紙を荷へ入れた。家へ戻る途中、向こうで触れられた指を何度か曲げた。今はもう、普通に自分の手元にある。
そこを通って、身体ごと向こうへ歩いていく。
帰ったらゆめにも話そうと思った。
*
その日から、山で試すことが一つ増えた。
初めは岩場の端から端へ。次は、道の曲がり角を挟んで。入口から出口が見えなくなっても、そこへ出した小石は届いた。
輪を広げる時には、内側へ映る景色が崩れやすかった。人が通れる大きさにした途端、向こう側の地面が斜めに見えることもある。俺は二つの口の向きを揃え、入った足が、出た先の地面へ着くように直した。
老人は出口に座り、通したものを確かめてくれた。
石の次には薪を渡した。長い枝も通し、籠も送った。籠の中へ水の入った椀を置いて通した時には、向こうで老人が持ち上げるまで、水面が揺れずに残っていた。
「そろそろ、俺も通るよ」
「いつじゃ」
「今」
岩場に立てた口を、頭が当たらない高さまで広げた。
向こう側に老人が見える。俺は刀の鞘を左手で押さえ、一歩を差し入れた。足の裏が、出口の岩へ触れた。
そのまま身体を進める。
袖が白い縁を過ぎ、顔へ当たる風が変わった。次の足を出した時には、老人が目の前にいた。
振り返ると、輪の向こうに、さっきまで立っていた石が見えた。
「どうじゃ」
「……歩いただけだったな」
刀も荷も、身につけたままだった。腕を上げ、足を動かし、自分の霊子へ意識を向けた。通る前に捉えていた身体の構成が、そのまま残っている。
老人の横を離れ、もう一度口を通った。
初めの石の傍へ戻る。
往復してから術を解くと、白い縁が細くなり、二つとも消えた。俺は岩場を歩いて老人のところへ行った。
「渡れたのに、歩いて戻るのか」
「今のところを、向こうからも見ておきたくて」
老人が腰を上げたので、空いたところへ座った。
足元の岩には何も残っていなかった。遠くの石も、いつもの場所にある。そこへ道を作り、閉じた後には、また歩くだけの距離が残った。
紙へ、人が通ったことを書き加えた。
試す場所は、少しずつ広がっていった。
谷の両岸に口を作り、林の向こうへ出る。麓へ下りた帰りには、途中の松の傍から家の外へ繋いだ。初めてその道を通って帰ると、老人はまだ薪を割っていた。
「早いのう」
「今日は、谷を歩いてないからな」
背負っていた袋を下ろした。買ってきた塩と油を渡すと、老人は袋の口を開き、中を確かめた。
それからは、買い物の帰りにも術を使った。
始めた頃には、繋いだ先を一息も見失えなかった。何度も使ううちに、詠唱を辿れば道が開くようになった。口を通った先に何があるかを定め、迎える側と送る側を繋ぐ。旅人も、戸口も、橋も、唱える時には術の働きと結びついていた。
そう名づけた術を使い始めてからも、季節は幾度も巡った。
手合わせの後に試し、畑仕事を終えてから紙へ書く。夜にはゆめと詠唱を辿った。最後の一節まで唱えた時に、初めの言葉で定めたものが崩れていないか。開いた口を通り終えるまで、帰る道も保てるか。実際に使いながら、言葉へ込める働きを確かめた。
やがて、名を呼ぶだけでも道を開けるようになった。
岩場で初めて小石を渡した日から、三十年ほどが過ぎていた。
*
秋の終わり、麓で魚を買った。
塩を振って焼けば、夕飯にできる。老人が欲しがっていた油も買い、紙に包んだ魚と一緒に袋へ入れた。
村を出て、松のある道まで歩く。
枝の下へ立つと、山の上に家の屋根が小さく見えた。以前は、ここから谷へ下り、向こうの斜面を登っていた。
俺は袋を持ち直し、空いた手を前へ向けた。
【踵を失くした巡礼 戸口に伏せる双頭の獣
逆さに架かる橋 水底に沈む七つの敷居
盲いた番人は鍵を呑み 帰らぬ客は鈴を鳴らす
東の窓に西の月 南の棺に北の花
隔てよ 連なれ 互いの背を踏み彼岸へ至れ
閉じた瞼の裏に戸を開き 千里の果てを一歩に畳め
白い縁が、俺の前へ立ち上がった。
開いた口の向こうには、家の庭が見える。縁側に置かれた籠と、干してある大根。その傍で、老人が豆を選っていた。
俺は道を通り、庭へ出た。
草履が土を踏む。松の下では頬へ当たっていた風が、ここでは家の陰に遮られていた。
「戻ったよ」
「魚か」
「よく分かったな」
「袋から尾が出ておる」
見ると、紙の端がずれ、魚の尾が覗いていた。袋を置いて包み直してから、背後の口を閉じた。松の幹が見えなくなり、その向こうにはいつもの山道が残った。
老人へ油を渡し、俺も縁側へ座った。
「豆、手伝おうか」
「魚を先にやれ」
「分かった」
袖を捲り、水を汲みに立った。
山を歩いて帰っていた頃より、ずっと早い。夕飯の支度にも間に合い、買ってきた魚をその日のうちに焼ける。
水場へ向かう途中、さっき口を開いたところへ目を向けた。
この山で、離れた場所を繋ぐ道は作れた。
次に作りたいのは、三界を渡れる鬼道だった。