隔てる夜に 橋を架け
名もなき岸に 舟を待つ
魚を焼いている間に、浦原のことを思い出した。
一護たちを虚圏へ送り出す時、あいつは地下の広い場所で術を使っていた。詠唱もしていたはずだ。杖を持って立つ姿は浮かぶのに、何を唱えていたかは出てこない。
前世なら、読み返せば済んだ話だった。今は棚を探したところで、俺が書いた紙しかない。
「何を笑っておる。さっきから、魚を眺めたまま手が止まっておるぞ」
「昔、読んだものを思い出してたんだ。今やってる術にも、使えそうなところがあってさ」
「考えるなら、焼けてからにせい。そちらの腹は、もうよい頃じゃろう」
串を回し、火に近かった腹を上へ向けた。皮から落ちた脂が炭へ触れ、細い煙が立つ。老人は膳を出し、椀へ飯を盛っていた。
詠唱は忘れてしまった。それでも、浦原が術で
死神にも、世界を渡る道は作れる。
焼けた魚を皿へ移し、老人の前へ置いた。
「次に作る術も、道を開くものか」
「ああ。今度は、別の世界まで繋げたい。現世とか、虚圏とか。向こうへ行ってからも、自分で行き先を選んで渡れるようにしたいんだ」
老人は箸を取り、魚の腹を開いた。
「山の道が楽になったと思うたら、もう別の世界か。お前の行きたいところは、随分と多いのう」
「ここで見てきたことを、向こうでも確かめたいからな。霊子でできたものばかり見てると、それが当たり前になってくるだろ。現世じゃ、人の身体も石も、また違うはずだ」
「なら、帰る道もよう確かめておけ。行ったきりになっては、聞いた話も持ち帰れんぞ」
「もちろん。爺さんの家に戻る道も、残しておくよ。向こうで面白いものを見つけたら、持って帰ってくる」
老人は魚の骨を皿の端へ寄せ、俺を見た。
「食えるものなら、なおよいな」
俺は笑って、自分の魚へ箸を入れた。
*
岩場へ立てた白い口の向こうに、家の庭が見えていた。
縁側には、朝干した着物が掛かっている。風が吹くたびに袖が揺れ、その下を老人が歩いていった。俺は口を閉じ、両手を下ろした。
これまでは、入口と出口を定め、その間を繋いでいた。岩場の端、谷の向こう、麓の松。距離が変わっても、術へ与える働きは同じだった。
今度は、その両端を別々の世界へ置く。
こちらの口を保ち、向こうの世界へもう一つ開く。間には、人が歩いて渡れる道を通す。帰る時には、今立っている世界を出発点にして、同じことをすればいい。
「ゆめ。千里一重を使う時、二つの場所を一緒に定めてただろ。今度は、片方をここに置いたまま、もう片方を別の世界へ繋ぎたいんだ」
『こちらを離れても、お帰りの口は残しておくということでありんすか』
「ああ。まずは、それで往復してみる。その後は、向こうで一度閉じてから、こっちへ開き直せるようにしたい」
腰の刀へ手を添えた。
「尸魂界から現世へ行く術だけ作っても、虚圏に行きたくなったら、また一からだ。どこにいても、渡る先を選べるようにしておきたい」
『随分と、遠くまでお出かけになるおつもりで。今度は、何年ほど歩いてお戻りになるのでしょう』
「どうだろうな。山へ来た時にも、こんなに長くいるつもりじゃなかったしさ」
千里一重の詠唱を書いた紙を広げた。
初めて二つの口が繋がった時には、出口の傍にいる老人の指が、こちらの手へ触れた。俺はあの感触を思い出しながら、紙へ両手を置いた。
左の掌で、今いるところを定める。
右の掌で、繋ぐ先を定める。
同じ山の中で何度か試すと、二つを分けて扱っても道は開いた。左手に保った口はそのままにして、右手で出口を岩場の端から林の入口へ移す。向こうへ差し入れた
俺は紙の端へ、そのやり方を書いた。
帰りにも使うなら、左右の役目を入れ替えて確かめる。入口を右に、出口を左に定めても、術は同じように働いた。
どちらの手へ何を持たせるかは、俺が決められる。
それから、世界を渡るための言葉を書き始めた。
*
雪の降る季節にも、岩場へ通った。
左手でこちらの口を保ち、右手に集めた力を、その奥へ通す。初めのうちは、林や谷へ出口が開いた。右手を動かすと繋ぐ先もずれたが、どれだけ離しても、見えるのはこの山だった。
俺は術を閉じ、書いた詠唱を読み直した。
千里一重には、距離を畳む働きを与えている。これから作る道には、世界を隔てる境を越える働きも要る。
紙へ、
三つとも前世で知っている名だった。けれど術へ含める時には、それぞれが何を指すのか、俺自身が定める必要がある。白縫と呼べば糸が伸びるようになったのも、使い方を覚え、言葉と働きが結びついてからだった。
現世で暮らしていた頃の景色を思い浮かべる。
窓から見た朝の空。雨に濡れた道路。電車の中で、続きを読んでいた漫画。
もう、その街はどこにもないのだろう。この時代には電車も、俺の住んでいた家もない。それでも、生きた人間の暮らす世界はある。
尸魂界へ来る前、俺はそこにいた。
右手へ定めるものを、その世界へ向け直した。
その日、開いた口の奥が暗くなった。
林の木々が見えていたところへ、闇が広がる。向こうから霊子が流れ込み、口の縁へ触れると、白い輪郭が大きく歪んだ。
俺は左手へ力を足し、開いたところを支えた。
右手から伸ばした白縫が、闇の中で曲がる。こちらから送った糸へ、いくつもの流れが当たっていた。岩場を吹く風よりも捉えやすく、それでいて、ずっと荒い。
「……開いたな」
老人が後ろから覗いた。
「今度は、林が見えんのう。向こうまで繋がったのか、それとも、まだ途中か」
「まだ向こうの景色は見えないけど、奥へ続いてる。霊子も流れてきてるし、ここに足場を作って、少し入ってみるよ」
「儂は、こちらにおる。戻ってきた時に口がずれておったら、声を掛けい」
白縫を引き戻し、掌へ収めた。糸は切れていなかったが、奥へ送っていたところは細くなっている。
中には、足を置くものがない。
俺は口の内側へ霊子を集め、平たく固めた。白い足場を一枚作り、その奥へもう一枚続ける。流れへ晒された端が崩れたので、力を通し直し、踏み込むところを厚くした。
入口から一歩だけ入った。
頬へ当たっていた山の風が止む。足元では、集めた霊子が白く光っていた。周囲へ意識を向けると、闇の中を乱れながら流れるものが捉えられる。
前世で見た、一護たちの姿が浮かんだ。
あいつらも、こうして足場を作っていた。
俺は入口へ戻り、外へ出てから口を閉じた。右手へ残っていた感触を確かめ、紙を取る。
世界の間へ、口は届いた。
次は、この道を渡る先まで繋ぐ。
*
その後も、季節は巡った。
開いた口を保つ言葉と、渡る先を定める言葉。それぞれを試し、道の途中で崩れるところがあれば、一度戻って詠唱を変えてみた。
足場は、歩く先へ続けて作るようになった。
白縫を伸ばす時には、初めから糸の先まで形を思い描いている。その使い方を足元へ移すと、一歩進む間に次の足場ができた。後ろに残す分も保ち、同じ道を戻ってこられるようにした。
ある時には、闇の向こうへ淡い明かりが見えた。
右手へ保っていた出口だった。近づくにつれ、流れの向こうに木の枝が現れ、その奥へ青い空が広がっていく。
出口から白縫を伸ばした。
枝へ巻きつけ、軽く引く。木が揺れ、葉が擦れ合った。こちらへ引き戻した糸の先には、小さな葉が一枚ついていた。
俺は口の前で、その葉を指に挟んだ。
尸魂界で拾った葉とは、捉えた時の感触が違っていた。向こうから吹き込む風にも、岩場で感じるほどの霊子は含まれていない。
出口の縁へ手を置き、顔を出した。
林の向こうに、人の声が聞こえる。
木を担いだ男が二人、道を歩いていた。こちらへ顔を向けた一人と目が合うかと思ったが、男はそのまま通り過ぎた。
俺は口の外へ足を下ろした。
土を踏み、顔を上げる。空には雲が流れていた。遠くから鳥の声がして、担がれた木が地面へ置かれる音も聞こえる。
「……来れたよ、ゆめ。あの二人にも、俺は見えてないみたいだ」
『ええ。お前様が顔をお出しになっても、そのまま歩いていきんした。お帰りの道も、まだ開いておりんす』
「一度戻ろう。次に来た時は、向こうを閉じてから開き直してみたい」
振り返ると、木々の間に黒い口が残っていた。
そこへ入り、足場を辿る。帰る先に岩場が見えるまで、左手へ保った繋がりを離さなかった。
老人の傍へ戻ると、俺は摘まんでいた葉を見せた。
「現世まで行けたよ。林に出たんだけど、人も歩いてた。これ、向こうの木から取ってきた葉だ」
「よう戻ったな。こちらでは、お前が入っていった後も、口は動かんかったぞ」
老人が葉を受け取り、裏返した。
「向こうから開く方は、まだか」
「ああ。今日はここまでにした。次は現世へ出てから、一度全部閉じてみる。帰りにも同じ術を使えれば、向こうで旅を続けられるからな」
俺はその隣へ座り、渡った時のことを書いた。行き先へ口を開く時と、こちらへ戻る時。使った力の動かし方を、同じ紙へ並べて残す。
次に渡った時には、現世へ出てから一度、道を閉じた。
木々の間に残っていた口が消える。そこへ左手を向け、今立っている場所を定めた。右手には、帰る先の尸魂界を置く。
詠唱を辿るとまた闇が開いた。その奥へ足場を延ばして山へ戻る。帰り着いた岩場で、俺は声を出して笑った。
向こうでも、自分で道を開けた。
それからは渡るたび、出口の位置を変えて試した。現世の林から尸魂界の谷へ。岩場から現世の河原へ。開いた場所を紙へ書き、自分がどちらに立っていても、同じ術が働くことを確かめた。
虚圏へ繋いだ時には、出口の向こうに白い砂が見えた。
黒い空に月が浮かび、枝だけになった木が立っている。口へ近づくと、濃い霊子がこちらまで流れてきた。
俺はしばらく、その景色を眺めた。
ここも、いつか歩きたい。
その日は出口の傍までにして、山へ戻った。今まで書いた紙へ三つの世界を並べ、繋いだ道を書き加える。
尸魂界、現世、虚圏。
出発点と行き先を入れ替えても、術へ与える働きは変わらない。今いる世界を定め、渡る世界へもう一方を繋ぐ。
ようやく、そのための鬼道が形になってきた。
*
その年の冬、棚から紙を下ろした。
束へ巻いていた白縫を解き、机に並べる。山へ来た頃に使っていたものは、端がすっかり茶色くなっていた。開くと、眠らせた石の順番と、老人に戻してもらった時のことが書いてある。
最初は、一冬だけ世話になるつもりだった。
老人の話を聞き、山で試し、分かったことを持って旅へ戻る。そんなふうに考えていたはずなのに、屋根を直すのも、畑へ種を蒔くのも、いつの間にか毎年のことになっていた。
紙につけた年の印を数えると、百年近くが過ぎていた。
「爺さん。春になったら、また旅へ出ようと思う」
火の傍で藁を撚っていた老人が顔を上げた。
「道も開けるようになったし、今度は向こうで暮らしながら調べてみたいんだ。尸魂界にも、まだ歩いてないところがある。ここで書いたものを持って、もう少し遠くまで行ってみようと思ってる」
老人は手を止め、机に並んだ紙を眺めた。
「それを、全部背負っていくのか」
「今使うものだけ選ぶよ。残りは、ここへ置かせてもらっていいかな。戻ってきた時に、読み返したいから」
「なら、棚へ戻しておけ。畑の種まで紛れ込ませるなよ。お前が置いた紙を探すと、いつも一緒に出てくる」
「あれは、爺さんが包む紙を探してたから渡したんだろ」
老人は口元を緩め、作りかけの草履を持ち上げた。
「春に出るなら、こちらも間に合う。足を出してみい。前に編んだものより、少し大きくしておる」
俺は机の下から足を伸ばした。
老人が草履へ並べ、踵の位置を見る。その手元を眺めながら、持っていく紙と、棚へ戻す紙を分け始めた。
「爺さん。出る前に、もう一度付き合ってくれないか」
老人は草履へ当てていた俺の足を離し、膝の上へ藁を戻した。
「また道を開くのか。あの暗いところへ連れていくなら、先に言うておけよ」
「そっちじゃなくて、斬魄刀の方。今までの手合わせじゃ、爺さんも刀を解放してないだろ。旅に出る前に、一度ちゃんと戦ってみたいんだ」
老人の目が、俺の腰へ向いた。
「お前の刀も、まだ先があるのじゃろう。あの黒い着物になったところまでしか、儂は見ておらんぞ」
「ああ。俺も卍解まで使うつもりだよ。爺さんぐらい強い相手に、次はいつ会えるか分からないしさ。ここで百年近く世話になって、結局どれくらい強いのか知らないまま出ていくのも、惜しいだろ」
老人は俺の顔を眺め、それから部屋の奥の棚へ目を向けた。布に包まれた刀は、いつものところに置いてある。
「この山へ来た頃に、それを言われておったら断ったじゃろうな」
「今なら?」
「場所を選べ。儂の家も畑も、お前の手合わせのために作ったものではない」
「分かってるよ。谷を二つ越えた先に、広いところがあっただろ。あそこなら、家からも麓からも離れてる」
「なら、明日はそちらへ行くか。道を開けば、歩いて行くより早かろう」
俺は頷き、机へ広げていた紙を重ねた。
老人はまた藁を取り、草履の続きを編み始めた。その細い指が紐を締めるところを見ながら、俺も腰の鞘へ手を添えた。
明日は、あの手が握る刀を、最後まで見ることになる。