枯れた手に 刃は宿り
明けぬ夢に 血潮は満ちる
老人は朝の膳を片づけると、部屋の奥の棚へ手を伸ばした。布を解き、黒い鞘を腰へ差す。俺が戸口で待っていると、草履の踵を踏み直しながら出てきた。
「帰る時には、ここへ開け。歩いて戻るには、少々遠い」
「分かってるよ。今日は俺も、帰りまで歩きたいとは思わないだろうし」
庭に
山肌から張り出した岩が、広く平らに続いていた。端の向こうは深い谷で、向かいの斜面には雪が残っている。家も畑もここからは見えない。口を閉じると、吹き上がってきた風が着物の裾へ入り込んだ。
「そういえば、まだ名前を聞いてなかったな」
老人が振り返った。鞘へ掛けていた手を止め、少し呆れたように俺を見る。
「百年も飯を食っておいて、今頃か」
「爺さんで通じてたからさ。聞きそびれたままになってた」
「
「逆瀬川厳十斎……。ちゃんと覚えとくよ」
「呼び方まで変えんでもよい。今さら他人行儀にされても、気色が悪いわ」
俺は笑い、刀を抜いた。厳十斎も鯉口を切り、ゆっくりと刃を引き出す。浅く反った刀身へ朝の光が流れ、切っ先がこちらへ向いた。
その目から、家で見ていた穏やかさが消えた。
喉へ刃を当てられたような感触がした。厳十斎はまだ動いていない。それでも、僅かに顎を上げれば首を取られると思えた。俺は笑みを収め、息を吐いた。
こちらも切っ先を厳十斎の胸へ向ける。足元の小石が震え、岩の表面に細い亀裂が走った。抜いた霊圧へ殺気を乗せると、厳十斎の着物の裾が後ろへ流れた。
「ようやく、その顔になったか」
返事をする前に踏み込んだ。
厳十斎の首へ刃を走らせる。受けた刀が火花を散らし、右へ滑った。押し切るつもりで腕を伸ばしたところへ、厳十斎の切っ先が下から上がってくる。俺は左へ首を倒し、頬を掠める刃の下へ身体を入れた。
空いた左手で肘を押し上げ、そのまま顎へ掌を打つ。厳十斎は顔を引きながら俺の手首を払い、膝を腹へ突き込んできた。左腕で受けると、骨へ響く重さとともに身体が浮いた。
岩へ足が戻るより早く、厳十斎が背後へ回った。
首筋へ迫る刀を振り向きざまに受ける。刃を押し合ったのは一瞬だった。俺が腰を落として斬り返すと、厳十斎はもうそこにいない。向こうの岩へ着地した草履が鳴り、その姿がまた消えた。
右へ瞬歩を踏む。さっきまで立っていたところを刃が通り、遅れて岩が二つに割れた。俺は厳十斎の右側へ抜け、その肩へ刀を振り下ろす。受け止められた刀の下から、左手を胸へ向けた。
【
掌から伸びた光が、厳十斎の残した姿を貫いた。岩場の端へ突き刺さり、向こうの崖を砕く。光が消える前に左足を引き、背後へ肘を打ち込んだ。
厳十斎の掌が肘を受けた。掴まれる前に腕を回し、刀を横へ払う。厳十斎は身を沈めてその下を抜け、俺の足首を狙って斬った。跳んで躱し、空中で霊子を固めて踏み直す。上から落とした刃を厳十斎が受けると、足元の岩が大きく陥没した。
「その左手も、よう動くようになったのう」
「百年近く相手してもらったんだ。刀だけ見てたら斬られるって、嫌でも覚えるよ」
鍔を押し込み、厳十斎の胸へ蹴りを入れた。細い身体が後ろへ滑る。厳十斎は倒れずに足を止め、刀を下げた。
〈流れろ、
刃を伝って、赤いものが溢れた。
切っ先から滴った一粒が岩へ落ち、細い溝を刻んだ。次の滴は落ちる途中で長く伸び、俺の目へ飛んできた。刀で弾くと、左右へ分かれた赤い筋が頬の脇を通り過ぎる。背後の岩が裂け、砕けた石が肩へ当たった。
厳十斎が刀を振った。刀身を覆っていた血潮が伸び、俺の腰へ横薙ぎに迫る。飛び退いた先で、その先端が曲がった。胸へ向きを変えた赤い刃を受けると、刀に沿って流れ、握っている指へ回り込んでくる。
俺は腕を引き、瞬歩で間合いを外した。血潮が追って岩へ突き刺さり、その奥まで切り裂く。
「なるほど。受けたところからも来るのか」
「受けた刀の先ばかり見ておれば、手が落ちるぞ。次は、もう少し近くで振るう」
厳十斎の殺気が強まった。刀へ纏った血潮が厚くなり、赤い滴が岩場のあちこちへ落ちる。
俺は柄を握り直した。
〈現を離れ、夢路を辿れ。待つ夜に果てはなし、
黒い霊圧が足元から噴き上がった。岩場を渡る風が押し返され、谷の雪が斜面から剥がれ落ちる。厳十斎の血潮も大きく揺れたが、刀身から離れることはなかった。
袖が広がり、黒地へ金の模様が浮かぶ。白い襟の下で赤い裏地が翻り、腰には幅広い帯が結ばれた。ほどけた黒髪が背へ流れ、その中に金、白、赤の房が一本ずつ混じる。
厳十斎は俺の顔を見てから、手元の刀へ目を落とした。
「山へ来た頃にも、随分な霊圧じゃと思うたが……まだ増えておったか」
「爺さんこそ、その量で済むわけじゃないだろ。今日は途中で抑えなくていいよ」
厳十斎が口元を上げた。
赤い刃が、視界を埋めた。
「
刀を振り抜くと、黒い三日月が血潮へぶつかった。触れたところから赤い刃が止まり、その先端が目の前に残る。俺は踏み込みながら刀を返した。
「
眠った血潮が消え、厳十斎までの道が開いた。
そこへ、新たな血潮が溢れてきた。厳十斎の刀から赤い流れが伸び、開けたところを塞ぎながら左右へ広がる。俺は中央へ刃を入れ、触れた血潮を眠らせた。返す刀で消し、その奥へ進む。消えた分だけ次の流れが生まれ、足を止めればすぐに包まれる。
上へ抜けると、厳十斎が左手を持ち上げていた。
【破道の九十・
黒い壁が四方から立った。
詠唱を始める気配はなかった。名が聞こえた時には、頭上まで闇に覆われようとしていた。俺は閉じる直前の隙間へ瞬歩を踏み、棺の外へ抜ける。背中で壁が閉じ、そこへ伸びていた袖の端が切り落とされた。
着地せず、そのまま厳十斎の背後へ回った。振り向いてくる刃へ刀を合わせ、左手を脇腹へ向ける。
【破道の八十八・
【縛道の八十一・
俺の掌と厳十斎の身体の間に、透明な壁が立った。太い雷光がぶつかり、岩場へ青白い光が広がる。壁を迂回するように赤い刃が伸びてきたので、俺は刀を引き、胸へ届く前に触れさせた。
血潮が眠る。返す刀で消したところへ、厳十斎の本来の刃が来た。
受け止めた衝撃で両足が岩へ沈んだ。厳十斎は鍔を押しつけながら、俺の左肩へ掌を伸ばす。俺も左手を上げ、手首を打ち払った。互いの腕がぶつかり、弾かれた手がまた相手へ向く。
【破道の三十三・
厳十斎の指先から青い炎が広がった。俺は身を捻り、刀を炎へ差し入れる。
「
燃え盛っていた炎が、その形のまま止まった。顔の横へ残った青い光を避け、厳十斎の腹へ膝を打つ。厳十斎は左手で受け、俺の軸足を払ってきた。俺は膝を戻さず、その足で厳十斎の肩を蹴った。
二人とも後ろへ飛んだ。間に残った炎の向こうで、厳十斎がまた刀を振る。血潮が青い炎ごと切り裂き、三本に分かれて迫ってきた。
右手で一本を眠らせ、左の掌へ残りを迎える。
「
黒い霞へ触れた二本が、掌の前で止まった。刀を返して三本まとめて消し、開いた視界へ穿月を放つ。厳十斎は横へ瞬歩を踏み、光が通り過ぎたすぐ後を駆けてきた。
速い。
初めの手合わせで追っていた速さを、もう遥かに越えていた。それでも、今は俺の足が間に合う。厳十斎が踏み込むところへこちらから入り、刀を振った。刃がぶつかった位置から二人とも消え、次に打ち合った時には岩場の反対側へ移っていた。
左右へ抜け、上を取り、足元へ潜る。追ってくる血潮を眠らせながら、厳十斎の刀を受けた。厳十斎も俺の切っ先を逸らし、刀を振るたびに新しい血潮を生み出してくる。岩場には止まった赤い刃が幾つも残り、動けるところが狭くなっていった。
俺は頭上の血潮へ刀を返し、消えたところへ跳んだ。厳十斎が追ってくる。左手の指から伸ばした白い糸を、その刀を握る手首へ巻きつけた。
【
腕を引いた。厳十斎の切っ先が横へずれ、胸が開く。そこへ踏み込んだ時、手首に掛けた糸が外れた。
厳十斎が、巻きつかれたことをなくした。
戻ってきた刀を受けながら、外れた白縫を引き直す。糸を背後の岩へ掛け、厳十斎の左足へ回した。こちらへ引くと、その踵が僅かに浮いた。俺は刀を押し上げ、肩へ刃を走らせる。
着物が裂けた。浅く切れた肩から血が出る。厳十斎は足へ掛かった糸を外しながら俺の袖を斬り、続けて喉へ突いてきた。顎を引いて躱すと、切っ先が白い襟を掠めた。
間合いを外した時には、厳十斎の肩の傷がなくなっていた。俺の袖には裂け目が残っている。
「一度外されたぐらいで、糸を捨てんようになったのう」
「爺さんには何度も外されたからな。毎回、出し直してたら間に合わないよ」
頬を伝った血を袖で拭った。厳十斎の目は俺の刀を捉えたままで、殺気も薄れていない。俺も刃を下げず、左手を前へ出した。
【破道の九十・黒棺】
厳十斎の足元から黒い壁が立ち上がる。閉じる直前、赤い血潮が壁の上を越えた。厳十斎はそれを追うように跳び、空中でこちらへ刀を振るった。
俺は黒棺の脇へ瞬歩を踏み、降ってくる血潮へ夜渡を放った。黒い三日月が赤い流れを止め、その奥にいる厳十斎へ迫る。厳十斎は身体を捻って躱し、着地と同時にこちらへ来た。
黒棺が背後で閉じた。その響きを追い越して、俺たちの刀がぶつかった。
右手の刃で首を狙いながら、左手で胸を撃つ。厳十斎は俺の手首を払い、足を踏み込んで切っ先を押し返す。離れれば血潮が来る。近づけば刀と掌が待っている。
俺は厳十斎の膝へ蹴りを入れ、崩れたところへ刀を振り下ろした。厳十斎が受けた刃を横へ流す。その脇から肩へ体当たりし、開いた左手を腹へ押しつけた。
【穿月】
厳十斎も俺の左手首を掴み、外へ捻った。光が脇を通り、後ろの岩を貫く。俺は掴まれた腕を引き寄せ、厳十斎の足を払った。
二人とも地面を離れた。
空中で厳十斎の刀を受け、霊子の足場を踏んで押し返す。厳十斎も同じ高さへ足を置き、こちらの刃を弾いた。ぶつかった霊圧が岩場へ落ち、広い亀裂が谷まで走る。
俺は最後に一太刀を振り抜き、厳十斎と反対側へ降りた。
着地した岩が崩れたので、一歩だけ横へ移る。厳十斎も向こうへ降りている。刀を握る指は動き、肩も上下していた。俺の腕にも重さが残っていたが、まだ振れる。胸の奥は、むしろ始める前より熱かった。
「……爺さん。山でずっと野菜を作ってた身体じゃないだろ、それ」
「お前も、紙に向かっておるばかりではなかったようじゃな。足を追うだけでは、斬れんようになった」
厳十斎が刀を持ち上げた。赤い血潮が切っ先から垂れ、砕けた岩の間へ流れ込む。俺も刀を構え直すと、その顔に笑みが浮かんだ。
「小手調べは、ここまでじゃ」
刀身を伝っていた血潮が膨らんだ。
「上げていくぞ。置いていかれるなよ」
赤い霊圧が噴き上がった。
岩場が沈み、厳十斎を中心に地面が砕けた。吹き飛ばされた岩が空中で粉々になり、谷の向こうへ赤い光が広がる。肌へ当たる霊圧が痛い。息を吸った胸の内側まで押され、刀を握った指へ力が入った。
厳十斎の身体から溢れる霊圧は、まだ増えていた。血潮が足元を覆い、砕けた岩の隙間から幾筋も立ち上がる。その中に立つ細い身体が、さっきより大きく見えた。
俺は口元を緩めた。
「そうこなくちゃな」
抑えていた霊圧を解き放つ。黒い奔流が赤を押し返し、頭上へ突き抜けた。袖が大きく広がり、背へ流れた髪が舞い上がる。足元の岩は崩れたが、その下へ霊子を固めて立った。
赤と黒がぶつかり、山の斜面を削った。谷底から巻き上がった雪が、二人の間で散っていく。
その雪が落ちる前に、厳十斎が来た。
刀を受けた腕が後ろへ跳ねた。踏んでいた足場まで割れ、身体が押し出される。俺は空中へ次の足場を作り、刀を引き戻した。厳十斎は既に右へ回っていた。
首を狙う刃へ刀を合わせ、左の掌を胸へ打ち込む。厳十斎も左手を突き出した。掌がぶつかったところで霊力が弾け、二人の袖が裂ける。俺は腕を引く勢いで腰を回し、横へ斬り抜いた。
厳十斎の刀が受けた。刀身から溢れた血潮が、そのまま俺の両肩へ走る。右を刀で眠らせ、左へ手枕を広げた。返す刀でまとめて消すと、足元から次の赤い刃が突き上がってきた。
瞬歩で上へ抜ける。厳十斎も同じ高さへ来た。刃を交えた途端、血潮が背中へ回り込む。俺は厳十斎の刀を押し下げ、その肩を踏んで更に上へ跳んだ。赤い刃が足の下を通り過ぎ、向こうの山肌へ深く食い込んだ。
「
振り下ろした刀から黒い三日月が落ちる。厳十斎は横へ抜け、俺が踏むはずの足場へ血潮を走らせた。霊子を固め直す前に赤い刃が届く。俺は空中で身体を返し、その刃へ刀を触れさせた。
眠らせた血潮を一度だけ踏む。止まった赤い刃を蹴って厳十斎へ飛び、すれ違いざまに刀を振った。
厳十斎の頬が切れた。俺の脇腹にも熱が走る。黒い着物の下へ血が滲んだが、足は止めなかった。振り向きながら左手を伸ばし、厳十斎へ光を撃ち込む。
【
厳十斎は断空を立てた。ぶつかった光が壁の表面を白く染める。俺は出力を上げ、その中央へ押し込んだ。透明な壁へ亀裂が走り、次の瞬間には砕け散った。
光が厳十斎の肩を掠め、遠くの崖を貫く。
厳十斎は傷を戻しながら、右手の刀をこちらへ向けた。血潮が束になって伸びてくる。俺は左手を下げ、飛んでくる先端へ刃を差し入れた。
「
眠らせた血潮が消えた。その向こうに、厳十斎の左手が見えた。
【破道の九十八・
頭上に七つの光が灯った。
一つ一つが、俺の身体より大きい。白い光の中心に黒い筋が通り、長い槍の形へ伸びていく。七本の切っ先がこちらへ傾いた時には、周囲の霊子が激しく震えていた。
俺は真横へ瞬歩を踏んだ。
一本目が落ちた。さっきまで俺のいたところを貫き、岩場を下まで穿つ。遅れて光が膨らみ、深い穴から柱になって噴き上がった。
残りの六本も向きを変えた。
俺の移動した先へ二本が落ちる。上へ抜けようとすると、そこへ三本目が来た。刀から夜渡を放ち、その切っ先へぶつける。黒い三日月に触れたところが止まった隙に、俺は槍の脇を抜けた。
背後で光の柱が立つ。頬へ熱が当たり、着物の裾が焦げた。残る三本はまだ頭上にある。その下で、厳十斎が刀を振った。
赤い血潮が正面から押し寄せた。
躱す先には光の槍が待っている。俺は足場を蹴り、血潮へ真っ直ぐ踏み込んだ。刀を触れさせて眠らせ、返す刃で消す。開けたところへ身体を通した瞬間、左右から二本の槍が落ちてきた。
左へ手枕を広げ、右へ刀を振るった。
黒い霞へ触れた槍が止まり、もう一本も切っ先から眠った。腕へ伝わる圧が重い。俺は歯を食いしばり、刀を返して二本を消した。
最後の一本が真上から来る。
【破道の九十・
槍の周囲へ黒い壁を立てた。闇が閉じると同時に内側が白く光り、棺が大きく膨らむ。俺はその下を瞬歩で抜けた。
背中で黒棺が砕けた。噴き出した光が岩場へ落ち、足元がごっそり失われる。崩れる岩を飛び越えると、厳十斎が待っていた。
刀を受けた。
その重さに、笑いが込み上げた。
「九十八を、詠唱もなしで重ねてくるのかよ」
「口を開く暇は、作ってくれんかったじゃろう」
厳十斎の左手が俺の腹へ向く。俺は手首を掴み、外へ押し出した。そこから放たれた蒼火墜が脇を通り、谷へ落ちる。こちらも刀を押し込みながら左膝を上げた。
厳十斎は身体を捻った。膝が脇腹へ入り、細い身体が横へずれる。俺は掴んだ腕を離さず、首へ刃を走らせた。
赤い血潮が間へ割り込んだ。
刀が触れたところから眠る。俺は刃を返したが、厳十斎もその間に腕を抜き、こちらの胸へ突いてきた。左手で刀の横を叩き、切っ先を逸らす。白い襟の下へ浅い傷が走った。
二人とも引かなかった。
肩がぶつかる距離で刀を振り、空いた手で腕を払い、足を踏み替えて相手の背を取る。厳十斎が血潮を伸ばすたびに眠らせ、消したところへ刃を入れた。俺が鬼道を放つ時には、厳十斎も既に防ぐか、射線の外へ動いている。
何度目かに打ち合った時、刀を握った右手へ痛みが走った。掌の皮が裂けている。厳十斎の手にも血が滲んでいたが、その指は柄を離さなかった。
俺は刀を押し上げ、左の拳を胸へ打ち込んだ。厳十斎の身体が飛ぶ。その先へ瞬歩で回り、横から斬りつけた。受けられた刃を引き、左手から白縫を伸ばす。
糸が厳十斎の足へ掛かった。
巻きついたことをなくされる前に引く。身体が下へ傾いたところへ、俺は刀を振り下ろした。厳十斎は落ちながら刃を合わせ、足元へ血潮を広げた。赤い流れが跳ね上がり、俺の刀を握る腕へ迫る。
そこへ刀を返すには、厳十斎の刃を離す必要があった。
俺は左手で血潮を眠らせ、そのまま掴んだ。止まった赤い刃を引き寄せ、厳十斎ごと下へ落ちる。砕け残っていた岩へ二人の足が着き、衝撃で周囲が沈んだ。
刀が、またぶつかった。
顔が近い。厳十斎の頬には血が流れ、俺の息も荒くなっていた。それでも、その目にはまだ次の一太刀があった。
「……よく笑うのう。斬られたぞ」
「爺さんも笑ってるだろ」
俺は鍔を押し込み、厳十斎はそれを受け止めた。二人の間へ霊圧が集まり、赤と黒が弾ける。互いに足場を離れ、崩れた岩場の両端へ降りた。
最初に立っていた平らなところは、もうほとんど残っていなかった。七本の槍が穿った穴から谷底が見える。向かいの斜面にも血潮の斬り跡が走り、雪と岩が今も崩れていた。
俺は脇腹へ左手を添えた。血がついたが、傷は深くない。顔を上げると、厳十斎の肩の傷が戻るところだった。
刀を握り直した。
この男と山で過ごした百年が、身体のあちこちに残っている。避けた足も、振った腕も、咄嗟に術を放った左手も、ここへ来た頃よりよく動いた。その全てを使ってなお、厳十斎は向こうに立っていた。
『お前様。随分と、お楽しみでありんすな』
「ああ。そう何度もできないからな」
ゆめの声を聞きながら、刀を胸の前へ持ち上げた。厳十斎も刃を立てる。赤い血潮が刀身へ集まり、足元に残っていた流れまで揺れ始めた。
「そろそろ、見せてもらおうか。お前さんが旅にまで持ち出したその夢を」
俺は厳十斎を見た。さっきまでより静かな声だったが、向けられた殺気は少しも薄れていない。
「爺さんの方も、まだ見てないからな」
「見せるとも。ここまで来て、隠して帰れるものか」
黒い霊圧が、俺の刀へ纏わりついた。
『今宵は、長い夜になりんす』
赤と黒の光が、砕けた岩場を照らしていた。