降り積む夜に 星は目覚め
帰らぬ夢に 刃は眠る
厳十斎が刀を持ち上げた。切っ先から垂れていた血潮が空へ昇り、赤い筋を引いていく。岩の隙間に残った流れも浮き上がり、その背後へ集まり始めた。
「卍解⸺
山の稜線を越えて、赤い滝が立った。
落ちてくる血潮が岩場へ叩きつけられ、足元の地面を削り取った。砕けた岩まで呑み込み、谷へ落ちながら次の波が膨らんでいく。俺は霊子を固めて上へ跳んだが、滝の上端はまだ遥かに高かった。
飛沫が頬を掠めた。
細い傷から血が流れる。横へ抜けると、別の滴が袖を切った。見下ろした先では、血潮へ沈んだ岩が幾つにも裂けている。波が当たったところも、滴が落ちたところも、鋭い刃で抉られていた。
その滝の前に、厳十斎が立っていた。
「一滴も、粗末にはできんぞ」
刀が横へ振られた。
滝の下から巨大な波が起き上がった。赤い壁がこちらへ迫り、その上では飛沫が幾千もの切っ先を作っている。右も左も血潮に覆われ、頭上まで赤く閉じようとしていた。
俺は刀を胸の前へ立てた。
〈現は一夜、夢は九重。醒めて帰るな、果てて帰れ。卍解⸺
昼の光が、空から失せた。
山の端から深い藍が広がり、頭上を覆っていく。雲がほどけたところへ星が灯り、空の奥まで銀の光が満ちた。白い月が赤い滝の向こうに浮かび、その光が俺の刀身へ落ちる。
迫っていた波が消えた。
胸へ届く手前で赤い壁が途切れ、後から流れ込んだ血潮も次々に失われていく。降り注ぐ飛沫まで消えた向こうに、満天の星が見えていた。俺は刀を立てたまま、その空を仰いだ。
厳十斎が、息を呑んだ。
こちらへ向けていた刀を僅かに下げ、空を見上げている。月の光が頬を照らし、深く刻まれた皺へ淡い影を落とした。滝は今もその背後を流れていたが、厳十斎の目は星を追っていた。
「……なんと美しきことかな」
俺は厳十斎へ目を戻した。
百年近く一緒に暮らしてきた。その間に山の景色を眺める顔も、雪の向こうへ目を向ける顔も見たが、こんなふうに声を漏らすところは初めてだった。
『お前様。今宵は、何をお望みで?』
ゆめの声を聞き、俺は刀を握り直した。厳十斎もゆっくりと顔を下ろし、こちらへ刃を向ける。その口元には、まだ笑みが残っていた。
「この夜を見せてもろうただけでも、刀を持ち出した甲斐があったわ。さあ、お前の夢の続きを見せてくれい」
巨大な滝へ目を戻した。
赤い流れの上に立つ厳十斎から、殺気が放たれる。綺麗だと空を見上げた男は、もう俺の喉へ切っ先を向けていた。
口元が上がった。
「炎が欲しいな。あの滝ごと、焼き尽くせるぐらいのやつを」
『一夜の花を、咲かせましょう。流れる紅も、今宵は灰へお帰りなんし』
刀の上に、赤い火が灯った。
小さな炎が刃を伝い、切っ先まで走る。腕を前へ伸ばすと、その先で大きく膨らんだ。黒い袖が熱に煽られ、背へ流れていた髪が舞い上がる。
俺は刀を振り下ろした。
炎が、滝へ届いた。
赤い血潮の中央へ火が食い込み、下から上まで燃え上がった。水のように流れていたものが火に包まれ、夜空へ長い炎を噴き上げる。岩場を覆った波にも燃え移り、厳十斎の立つところまで火が走った。
厳十斎は刀を振り上げた。
滝の両端から新しい血潮が落ちる。それを束ねて炎へ叩きつけたが、ぶつかった先から赤い流れが燃えた。火が滝の裏へ回り込み、厳十斎の姿を隠す。
俺は左手を向けた。
【
掌から伸びた光が炎を貫いた。
その向こうで、厳十斎が横へ抜けた。光は着物の裾を掠め、滝の奥にある山肌へ突き刺さる。崖に穴が開き、その縁から岩が崩れた。
厳十斎の左手がこちらへ向いた。
【破道の九十八・
七つの光が、夜空へ並んだ。
白い槍が一斉に落ちてくる。一本目が消え、続く二本も先端から失われた。左右から回り込んだ槍も、背後へ落とされた一本も、俺の周囲へ入ったところで消えていく。
最後の光が失われるまで、俺は足を止めていた。
「その術、さっきは随分走らされたよ」
「こちらも、同じように通るとは思うておらん」
厳十斎が刀を引いた。燃えていた滝の脇から血潮が持ち上がり、その前へ厚く重なる。
俺は炎を纏った刀を横へ払った。
火が広く走り、積み重ねられた血潮へぶつかった。厳十斎はその裏を瞬歩で抜け、俺の左へ回る。目で追った先には既におらず、背後で血潮が膨らむ気配がした。
振り向くと、赤い波が消えていくところだった。
その向こうに、厳十斎がいた。
左手で次の術を構え、右手の刀で滝から血潮を呼んでいる。こちらへ近づくものは消えても、向こうでは幾らでも次を作れた。炎に焼かれたところを避けながら、足も止めていない。
俺は空を見上げた。
「ゆめ。次は雷にしよう。俺が狙ったところへ、落とせるやつがいい」
『二夜の髪を、お解きなんし。雲なき空にも、鳴くものはおりんす』
星の間に、白い亀裂が走った。
厳十斎の頭上へ雷が落ちる。瞬歩で抜けた後の血潮を貫き、谷底まで白く照らした。俺は刀の切っ先を追わせ、移った先へ次を落とす。
厳十斎が血潮を盾にした。
雷が赤い壁を突き破り、細い身体へ届いた。左肩から腕へ白い光が走る。厳十斎は顔を顰めたが、刀を振る手を止めなかった。
肩の傷がなくなった。
俺はもう一度、切っ先を向けた。厳十斎が上へ跳び、雷がその下を通る。頭上から落ちる次の一本へ断空を立て、砕ける壁の横から血潮を撃ち出してきた。
炎を振るって、赤い流れを焼いた。
雷を落としながら、刀に灯した火も使える。二つ目を願った後も、最初の夢は俺の手元に残っていた。
厳十斎が俺を見た。
「火に雷か。まだ、幾つか持っておる顔じゃな」
「あと七つ。何を使うかは、その時に決めるよ」
「九つまで、望んだものが使えるのか」
「ああ。折角の卍解だしさ。こんなことができたらいいなって、色々考えるだろ」
厳十斎の口元が緩んだ。
「考えておる間にも、刀は来るぞ」
赤い波が、炎の下を潜ってきた。
俺の足元へ入ったところで消えたが、厳十斎はその陰を使って位置を変えていた。雷を落とした先には、刀身から離れた血潮が残っている。
頭上へ顔を向けた。
厳十斎が高く跳び、刀を振り下ろした。滝が大きく傾き、燃えていた血潮まで引き連れて落ちてくる。赤と炎が空を覆い、その隙間から雷の光が漏れた。
俺は両足を踏み開いた。
波の重なりも、落ちてくる滝も、周囲へ入れば消える。だが、その向こうにいる厳十斎まで刃を届かせるには、今の刀では短かった。
「ゆめ。あそこまで届く刃が欲しい。間にあるものごと、斬って通れるやつを」
『三夜の月を、お持ちなんし。遠い枕も、ひと太刀の先にござりんす』
刀身へ、月の光が落ちた。
白い光が切っ先から伸び、落ちてくる血潮を貫いた。俺が腕を持ち上げると、細い刃が夜空まで届く。頭上の赤い壁へ一本の線が入り、その両側が大きく離れていった。
厳十斎が左へ動いた。
俺は踏み込み、刀を横へ振った。
長い白刃が滝を切り開いた。厳十斎の断空を割り、その後ろへ重ねられた血潮まで斬っていく。細い身体が刃の下へ沈んだが、肩に赤い筋が走った。
傷が戻る前に、次の雷を落とした。
厳十斎は右へ抜けた。そこへ炎を走らせ、上へ逃れたところを白い刃で追う。厳十斎の刀が刃へ合わされ、ぶつかったところから血潮が弾けた。
受けられた重さが、右腕へ返ってきた。
俺は腰を落とし、柄を両手で握った。厳十斎も刀を押し返している。その背後から滝が倒れ込み、白い刃の左右へ赤い濁流が迫った。
足元まで、血潮に覆われた。
こちらへ入る分は消え続けている。俺は足場を固め直し、刀を押し込んだ。腕の傷が開き、柄へ血がついたが、指は離さなかった。
厳十斎の刀が傾いた。
白い刃がその脇を抜け、胸へ走る。厳十斎は身体を捻り、切っ先を外した。着物と、その下の肉が斜めに裂けた。
俺は刃を引き、首へ返した。
厳十斎の目が、こちらを捉えた。
「ここまでじゃ」
刀を止めた。
白い切っ先は、厳十斎の喉の前にあった。向こうの刀もこちらへ向いていたが、そこから伸びた血潮は、俺に届く手前で消え続けていた。
二人とも、しばらく構えを解かなかった。
俺が刃を下げると、厳十斎も刀を引いた。裂けた胸が戻り、その上へ着物の布が重なる。肩で息をしながら、その手が柄を握り直した。
「……随分と、欲張りな夢じゃな」
「まだ三つだけどな。爺さんがあんな滝を出すから、俺も大きいやつが欲しくなったよ」
厳十斎が笑った。
背後の滝が崩れ、赤い流れが薄くなっていく。谷を埋めていた血潮も消え、深く削られた岩が現れた。俺も卍解を解いた。
星が遠ざかった。
白い月の光が薄れ、空へ昼の明るさが戻る。眩しさに目を細めながら刀を見ると、伸びていた白刃も、纏っていた炎もなくなっていた。
腕が重かった。
厳十斎のところまで足場を作り、隣へ降りた。間近で見ると、額にも汗が浮いている。家で茶碗を持っている時には、こんな顔を見ることはなかった。
「傷を見せい。脇腹と、腕も切られておったじゃろう」
「爺さんも、結構斬られてたぞ」
「儂の方は戻した。お前は、そのまま歩いて帰るつもりか」
俺は刀を収め、裂けた袖を上げた。
厳十斎の指が腕へ触れる。傷がなくなり、脇腹へ残っていた痛みも消えた。刀を握り続けた手の重さは、そのままだった。
「腕は、休ませろよ。飯を食う時に茶碗を落とされては困る」
「今日ぐらい、持ってくれてもいいだろ」
「魚の骨まで取ってやろうか」
「そこまでは頼んでないよ」
笑ってから、削られた谷を見下ろした。
家から離れたところを選んでよかった。最初に立っていた岩場は形を変え、向かいの山肌にも大きな傷が残っている。その上を、昼の雲がゆっくり流れていた。
「爺さん。ありがとうな。最後まで付き合ってくれて」
「最後というほど、遠くへ行くつもりか」
「帰ってくるよ。道も作ったし、今度は歩いて百年かけなくても会いに来れる」
厳十斎は頷き、鞘へ刀を戻した。
「なら、次までに儂も、もう少し足を動かしておくか」
「今日ので足りないのかよ」
「お前が、次も同じ速さで来るとは思うておらんからな」
俺は左手を上げ、
向こうには畑が見えていた。手合わせへ来る前に置いた桶も、縁側の草履も、そのまま残っている。厳十斎が先に渡り、俺も後へ続いた。
*
湯を飲んでいると、ゆめに笑われた。
『三夜で、お帰りになりんしたな』
「九つ全部使うつもりで来たわけじゃないしさ。あの後も続けたら、山がなくなるよ」
『まあ。火までお望みになっておいて、今さら山を惜しまれるとは』
俺は椀を膝へ置き、裂けた袖を広げた。
始解を解いても、元の着物に傷は残っていた。厳十斎は部屋の奥へ刀を戻し、棚から針と糸を下ろしている。
「それも戻してやろうか」
「いいよ。縫えば着られるし。針を貸してくれないか」
受け取って糸を通そうとしたが、指先が僅かに震えていた。穴へ入れ損ね、もう一度近づける。厳十斎はその手を見て、火の傍へ腰を下ろした。
「先に湯を飲め。急いで直したところで、今日はどこへも行かんじゃろう」
俺は針を置いた。
窓の外はまだ明るかった。さっきまで頭上にあった星も、白い月も、ここからは見えない。けれど、あの空の下で願ったものは、はっきり手に残っていた。
燃える刀を振った時の熱。狙ったところへ雷が落ちた光。遠くにいた厳十斎の刃を受け、両手で押し込んだ重さ。
卍解を覚えた頃には、できることを一つ増やすたびに、ゆめを呼んでいた。前世で紙の上に見ていた力を、自分の手で使える。それが嬉しくて、山本のところにいた間も随分と試した。
今日も、嬉しかった。
俺の夢を見て、厳十斎が刀を振ってくれた。三万年以上を生きた男が、あの滝を背負って俺を斬りに来た。その刀へ、自分の刃を届かせられた。
「爺さん」
「今度は何じゃ。着物を戻す気になったか」
「また帰ってきた時にも、付き合ってくれよ。今日より面白いもの、持ってくるからさ」
厳十斎がこちらを見た。
「土産の話か、それとも刀の話か」
「両方。食えるものも、ちゃんと探してくる」
厳十斎の口元が緩んだ。
火の上では、芋が焼けていた。厳十斎が一つ転がすと、皮の焦げたところから細い煙が立つ。俺は椀を持ち直し、湯を飲んだ。
針は、もう少し休んでから取ることにした。