卍解のその先を追い求めて。   作:lalaland

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去りゆく足に 春は巡り
待ちわぶ窓に 灯は残る




24.春霞の道行

 

 

 袖の裂け目を縫い終える頃には、鍋から飯の匂いがしていた。

 

 糸を切り、着物を広げた。脇腹の辺りは少し引き攣れている。着てみれば気になるだろうが、腕を上げる邪魔にはならなかった。針をしまおうとすると、向かいから手が伸びてきた。

 

「貸してみい。そこを引いたまま縫えば、着るたびに脇へ食い込むぞ」

「そんなに変かな。袖の方は、ちゃんと合わせたつもりなんだけど」

「袖はよい。脇だけじゃ。お前はいつも、最後の方になると早う済ませようとする」

 

 厳十斎は着物を膝へ広げ、縫ったところを指で撫でた。糸を二つほど切り、布を平らに伸ばしてから針を入れる。俺はその手元を見ながら、火へ寄せていた鍋を下ろした。

 

「刀を振る時には、そんなに急がんのにな」

「刀の方は、途中で投げ出したら斬られるからな。縫い物でまで、爺さんに勝とうとは思ってないよ」

「勝たんでも、自分の着物くらいは縫えるようになれ。向こうへ行ってから、毎度これを持ち帰るつもりか」

 

 笑いながら膳を出した。昨日はあの手から血潮が溢れ、山を削るほどの刃が降ってきた。今は細い糸を引き、俺が皺を寄せたところを直している。

 

 厳十斎は縫い終えた着物を返し、飯の盛られた椀を受け取った。

 

「腕はどうじゃ。針を持つ手は、もう震えておらんかったが」

「動くよ。朝に薪も割ったし、刀を振っても痛くない。ただ、昨日の続きを今からって言われたら、飯を食ってからにしてほしいかな」

「儂も今からとは言わん。畑へ出る前に、また山を崩されてはかなわんからのう」

 

 椀を持ち、飯を口へ運んだ。向かいでは厳十斎が煮た芋を箸で割っている。俺も一つ取ろうとして、直したばかりの袖を汁へ浸けそうになった。

 

 手首を返して避けると、厳十斎が鼻で笑った。

 

「昨日も、それぐらい避けておったら、縫わずに済んだものを」

「そっちは爺さんが斬ったんだろ。汁と同じように避けられたら、あんなに楽しくはならなかったよ」

 

 厳十斎は箸を止め、俺を見た。それから少し口元を緩め、割った芋の半分をこちらの椀へ入れた。

 

 飯の後には、持っていく紙を選び直した。

 

 手合わせの前に分けた束へ、昨日のことを書いたものを加える。厳十斎が使った鬼道も、血潮が曲がってきたところも、忘れたくなかった。途中で図を描いていると、横から指が差し入れられた。

 

「こちらへ回った時、お前の足はもう上にあったぞ。そこへ儂が追いついて、刀を合わせた」

「ああ、そうだったな。血潮を踏んで跳んだところと、一緒になってた。爺さん、もう一回こっちへ座ってくれないか。あの七本が落ちてきた時のことも確かめたい」

「飯を食う前に聞いておけばよかったのう。儂は、これから水を汲みに行くつもりじゃ」

「じゃあ、戻ってからでいいよ。桶は俺が持つから」

 

 厳十斎は紙を押さえていた指を離し、立ち上がった。俺も筆を置き、戸の脇へ並べた桶を取る。

 

 春までには、まだ少し日があった。

 

 朝には薪を割り、昼には紙を広げ、畑へ呼ばれれば鍬を持って出た。手合わせで崩した谷へも一度戻った。削れた斜面は雪に覆われていたが、岩場へ穿った穴は残っている。その縁に立って二人の動いたところを辿ると、家で書いた図へ幾つも直すところが見つかった。

 

 書き足した紙を持ち帰れば、厳十斎も覗きに来た。

 

 俺が何を考えて刀を振ったのか尋ね、自分ならここを狙うと言う。その話を聞いているうちに日が暮れ、ゆめから飯を忘れていると呆れられた。

 

 手合わせの話が一通り済む頃には、家の外へ続く斜面にも土が見え始めていた。雪解けの水が細い溝を流れ、水場へ下りる道の脇で、小さな芽が葉を開いていた。

 

        *

 

 荷を結ぶと、背負える大きさに収まった。

 

 棚へ残す紙の方がずっと多かった。眠らせた石を描いたものも、雪の落ちるところを毎日書いていたものも、その中にある。束の端へ中身を書きつけ、手前から順に並べていった。

 

 奥の部屋には、畳んだ布団が残っていた。

 

 初めてここへ置いた時には、籠をどかすところから始めた。今は床へ荷物も置いていない。掃いたばかりの板へ朝の光が差し、壁際には俺が使っていた筆立てだけがあった。

 

「そちらの布団は、出しておかんでよいのか」

 

 戸口から厳十斎が覗いた。俺は最後の紙を棚へ押し込み、振り返った。

 

「戻る日が決まってないからな。畳んどいた方が邪魔にならないだろ。筆も置かせてもらうよ。向こうから持って帰ったものを、ここで調べたい時に使うから」

「置くのは構わん。墨まで干からびさせて帰ってくるなよ。使わん分は、蓋をしておけ」

 

 言われて机へ戻り、墨を磨った石を洗った。使いかけのものを包み直し、筆と一緒に置く。荷を持ち上げたところで、厳十斎が戸口から退いた。

 

 縁側には、新しい草履が揃えてあった。

 

 腰を下ろして足を入れる。編んだ藁がまだ硬く、足の裏へ細かな凹凸が当たった。鼻緒を指で広げ、踵を合わせてから立つと、厳十斎が足元を見た。

 

「少し歩いてみい。指の間が痛むようなら、今のうちに緩める」

「このくらいなら大丈夫だよ。前のやつも履いてるうちに馴染んだし、むしろ今度の方が足を置きやすいな」

 

 庭を横切り、畑の端まで歩いて戻った。踵はずれず、鼻緒も指へ食い込まない。厳十斎は俺が戻るところまで見てから、縁側へ腰を下ろした。

 

「底を厚うしてある。山を歩くなら、その方が長く持つじゃろう」

「ありがとう。こんなのまで用意してもらったら、また一冬だけ世話になるとは言いづらいな」

「もう言わん方がよい。儂も、次には信じん」

 

 荷を肩へ掛けながら笑った。厳十斎の脇には、水汲みの桶が置いてある。俺が出た後は、それを持って家の裏へ回るのだろう。畑へ出る鍬も、軒下の薪も、昨日と同じところにあった。

 

「最初は、どちらへ行くつもりじゃ」

「麓で紙と食い物を買って、それから現世へ渡ってみるよ。前に道を試した時は、林を少し歩いただけだったからな。今度は川とか山とか、人の暮らしてるところも見て回りたい」

 

 厳十斎は庭の向こうへ目を向けた。

 

「生きた者のところへ行くのなら、お前の飯はどうする。向こうでは、姿が見えんのじゃろう」

「それも確かめてくる。持っていった分でしばらくは歩けるし、困ったらこっちへ戻れるからな。腹を空かせたまま、何十年も頑張るつもりはないよ」

「その時は、こちらへ来い。飯くらいはある。何も見つけておらんからと、帰るのを遅らせんでもよいぞ」

 

 俺は荷の紐へ掛けていた手を止めた。

 

 厳十斎は、こちらを見ていた。俺が雪のことばかり尋ねていた頃にも、同じ顔で椀を差し出してくれた。何をしているのか分からず、毎日庭をうろついていた俺へ、薪を割れと斧を渡した。

 

「……ああ。そうするよ。土産を見つける前でも、腹が減ったら帰ってくる」

「腹が減るたびに来るとは言うておらん。向こうでも、少しは自分で探せ」

 

 俺は吹き出した。厳十斎も笑い、膝の上へ両手を置く。

 

 腰の刀を差し直した。鞘の先が荷へ当たらないところまでずらし、紐を締める。縁側に置き忘れたものがないか見てから、厳十斎へ向き直った。

 

「爺さん。長いこと世話になった。飯も、寝るところも、いろいろ教えてもらったことも。ここへ来てよかったよ」

「お前がおったおかげで、屋根を直すのは楽になった。薪もよう割ったしな。飯を多う炊くのにも慣れてしもうた」

 

 厳十斎は家の中を振り返った。炉の上には、朝飯に使った鍋が掛かっている。視線を戻すと、俺の腰へ目を落とした。

 

「刀の話も、久しぶりにようした。昨日今日覚えた者には、話しても通じんところまで、お前とは話せたからのう」

 

 俺は柄へ手を添えた。血潮の滝が立った時の景色を思い出す。その前には、湖の底まで掘り返した昔話があり、胸を貫かれたまま刀を折った話もあった。

 

「俺も、まだ聞きたい話が残ってるよ。次に来た時も、続きを聞かせてくれ。爺さんの覚えてる奴らが、どんな刀を使ってたのかも知りたい」

「ならば、その分、お前も向こうの話を持ってこい。儂が三万年前の話をして、お前は昨日買った魚の話だけでは、釣り合わんぞ」

「魚は魚で、気になるだろ」

「旨かったならな。骨ばかりのものなら、そこで食ってから来い」

 

 庭へ風が入った。着物の裾が揺れ、背負った荷の端が肩へ触れる。俺は紐を握り直し、家の前から伸びる道へ足を向けた。

 

「じゃあ、行ってくる。爺さんも元気でな。次に来た時、畑ばっかりで足が鈍ってたら困るよ」

「儂の心配はよい。お前こそ、歩いてばかりで刀の使い方を忘れるな。戻ったら、昨日より速う振ってもらうぞ」

 

 振り返って手を上げると、厳十斎も片手を上げた。

 

 その姿を見てから歩き出した。家の周りを出ると、道の脇にはまだ雪が残っている。濡れた土を避け、岩の上へ足を置いた。草履の底がしっかり掛かり、荷を背負っていても滑らなかった。

 

 しばらく下ってから、一度だけ振り返った。

 

 厳十斎が桶を持って立ち上がるところだった。俺に気づくと、家の裏を指し、それから桶を持ち上げてみせた。思わず笑って手を振り、また前を向いた。

 

 水場へ下りる道と分かれ、麓へ続く斜面を歩いた。何度も薪を背負って通ったところだった。春先は石の下まで水が回る。足を置く場所を選びながら進んでいると、腰からゆめの声がした。

 

『麓まで道をお開きになるのかと思うておりんした。今日は、お歩きになるので?』

「ああ。この草履も試したいし、しばらく歩いてなかったからな。道を開いたら、山を出るのもすぐ済んじゃうだろ」

『お前様は、ここへお越しになった時も、わざわざ道を外れておいででありんしたね。今日は、ちゃんと麓へお向かいになりんしょうな』

「今日は真っ直ぐ行くよ。紙を買わないと、爺さんの家に戻って書くことになるからな」

 

 ゆめが笑った。俺も鞘へ手を置き、枝の低いところを潜る。

 

 百年前に登ってきた時は、この先に家があるとも思っていなかった。雪に隠れた岩を探し、まだ見たことのない峰へ向かっていた。その途中で灯を見つけ、一晩の飯と寝床を借りた。

 

 今は、あの家の棚へ自分の紙がある。

 

 また山へ来た時には、道を尋ねずに帰れる。庭のどこへ口を開けば畑を踏まずに済むかも、縁側から呼べばどの辺りに返事があるかも知っていた。

 

 木々の間から、下の谷が見えた。

 

 雪の薄くなった斜面を水が流れ、その先には幾つもの山が続いていた。あの向こうに村があり、街道があり、まだ歩いたことのない土地がある。現世へ渡れば、ここから眺めるのとも違う景色が待っているだろう。

 

「ゆめ。向こうへ行ったら、まず川沿いを歩いてみようか。水がある方が、長く調べるにも都合がいいしさ」

『お魚も獲れますものね。お前様が一日じゅう石を眺めておいででも、夕餉には困りんせん』

「石ばっかり見るつもりじゃないよ。今度は、お前とももう少しゆっくり話す」

『そのお約束、山へお戻りになる頃まで覚えていておくんなんし。わっちは、忘れずにおりんすから』

 

 俺は笑って頷いた。

 

 枝の先には、新しい葉が開き始めていた。下るにつれて雪が減り、草履へ当たるものが岩から柔らかな土へ変わっていく。

 

 昼には、麓へ着けそうだった。

 

 背の荷を揺らしながら、俺は木漏れ日の中へ足を踏み出した。

 

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