去りゆく春に 影は伸び
待ちわぶ夜に 灯は残る
side:逆瀬川厳十斎
桶を持ち上げると、道の下で烏有が振り返った。
まだ、そこにおったか。
家の裏を指してから桶を上げてみせると、あやつは笑って手を振った。背負った荷が揺れ、枝の下へ頭を下げる。黒い髪が木々の間へ隠れてからも、しばらく足音が聞こえていた。
儂は水場へ向かった。
道の端には、割った薪が積んである。冬のうちに烏有が運んだものじゃ。長いものと短いものを分け、雨の当たらぬところへ寄せてある。初めの頃は手近なところへ置いて、後から全部積み直す羽目になっておった。
桶へ水を入れ、持ち上げる。
二つとも儂が持つのは、久しぶりじゃった。
片方を持って先に歩く背を見慣れてしもうていた。足元へ気をつけろと言えば、分かっていると返し、そのくせ、帰りには岩の隙間へ目を向けておる。何か見つけるたびに立ち止まるので、儂が先に家へ着くこともあった。
今日も麓へ下りる途中で、余計なものを見つけておるかもしれん。
紙を買うと言うておったが、あやつのことじゃ。夕方まで岩を眺めてから、店が閉まったと文句を言う顔も浮かぶ。
家へ戻り、水を甕へ移した。
縁側には、儂の草履だけがあった。
桶を伏せ、畑へ出た。土の乾き具合を見て、端から水をやる。雪解けの水が多すぎるところは溝を掘り、低い方へ流した。鍬を振るううちに陽が高くなり、腹が減ったので家へ戻った。
鍋の蓋を取った。
朝の飯が、まだ随分と残っていた。
「……炊きすぎたのう」
椀へよそい、火の傍へ座る。
朝には向かいで飯を食うていた男が、もうおらん。裂けた着物を膝へ広げ、儂の縫うところを覗き込んでおった。刀を合わせた時にはあれほど細かいところまで見ておるのに、自分の着物になると、皺が寄っていても気にせん。
次に来た時にも、縫い直すことになるじゃろう。
そう思いながら、飯を口へ運んだ。
*
奥の部屋へ入ると、棚へ紙が詰まっていた。
束の端には、烏有の字がある。雪の落ちるところを描いたもの、石を眠らせた時のもの。棚へ収まらぬ分は、紐で括って下へ置かれていた。
百年前には、この辺りへ籠を積んでおった。
一冬だけ世話になると言うので、寝るところを空けてやった。春が来れば出ていくものと思うていたが、雪が解けても、あやつは庭をうろついておった。今度は土の中にあるものが気になると言う。飯へ呼べば戻ってきたので、そのまま置いておいた。
次の冬にもおった。
薪を割り、屋根へ上がり、畑へ出る。自分の使う道具を直し、足りぬものがあれば麓へ買いに行くようになった。いつからここへおるのが当たり前になったのか、儂にもよう分からん。
机へ手を置いた。
端に、小さな傷が幾つもついている。紙へ術を試すなと叱ったことを思い出した。外へ出てやると言うた翌日には、今度は縁側の板を焦がしておった。
大きな術ばかり得意で、細かな用には随分と手間を掛ける男じゃった。
棚から一束取り、広げた。
岩場で斬り合った時の図があった。儂の立ったところへ印があり、血潮の流れが何本も描かれている。後から書き足したところは字が細かく、端には、儂が話したことまで残してあった。
よう覚えておる。
大きな刃を避けながら、足元へ回した流れまで見ていた。追いついて刀を合わせた時の位置も、少し直してやれば、すぐに思い出した。
こんな話をする相手は、長くおらんかった。
昔のことを覚えておる者は少ない。刀を交えた者の多くは、儂の前で死んだ。儂との戦いの後まで生きた者とも、いつしか会わなくなった。顔は浮かんでも、声を思い出せぬ者がある。
烏有は、そいつらの話を聞きたがった。
何を使い、どう振るい、どこで儂の腕を落としたか。聞いているうちに自分も刀を持ちたくなるのか、話の途中で立ち上がったこともあった。
儂も、ついていった。
そのつもりで話しておらん日にも、結局は岩場へ出ていた。
「よう、刀を持たせてくれたわ」
紙を重ね、元の束へ戻した。
布団は壁際へ畳まれている。筆立ても、洗った石も、そのままじゃ。次に戻った時には、荷を下ろしてすぐに紙を広げるつもりなのじゃろう。
棚の隙間へ指を入れ、少し詰め直した。
もう一束くらいは、置けるようになった。
*
夕方、縁側へ腰を下ろした。
畑の向こうでは、山の影が長くなっていた。稜線の上に薄い雲がある。昨日より赤く見えるのは、陽の沈むところへ掛かっておるせいじゃろう。
あの手合わせの時には、ここから続く空が夜になった。
儂の血潮が、あやつへ届くところから消えていく。その向こうへ、一つずつ星が灯った。山を越え、頭上へ広がり、空の奥まで満ちていった。
刀を下げたことは、よう覚えておる。
相手を前にして、儂があんなふうに空を見上げるとは思わなんだ。
幾万の夜を見てきた。
血を流したまま迎えた夜も、焚き火の傍で刀を抱いて眠った夜もあった。戦の前には雲の動きを見た。月が明るすぎれば、次の日まで動かぬこともあった。
あの夜は、いつまでも眺めていたかった。
もっとも、烏有は儂を眺めたままにはしてくれなんだが。
滝へ火をつけ、雷を落とし、最後には儂のところまで届く刃を欲しがった。三つとも、思うたように振るう。最初の火も消えぬうちから次を使い、こちらが逃れた先へ、また刀を向けてきた。
何とも欲深い卍解じゃ。
手に入れたものを一つずつ見せる顔は、飯の後に珍しい石を取り出す時と、よう似ておった。それでいて、刀の先は儂の喉へ来る。気を抜けば、本当に斬られていたじゃろう。
儂が止めた時、あやつの刃は届いていた。
膝へ置いた手を、持ち上げた。
あの時、柄を押し返していた指を開く。傷はなくしても、力を使った重さまでは戻さんかった。久しぶりに、椀を持つ腕へ疲れが残った。
烏有には、儂の傷を戻すところを随分と見せた。
石も戻した。消えたことだけをなくしてくれと頼まれた時には、そこまで見たいのかと思うた。戻った石へ顔を寄せ、目を閉じて、また同じことをしてほしいと言う。
儂ができることを、あやつも自分の目で確かめようとしておった。
刀の先も、そのつもりなのじゃろう。
卍解を使えるだけでは、まだ足りん。自分の魂魄がどうなっておるのか、何があればその先へ届くのか。そんなことを話しながら、何十年も紙を増やしてきた。
儂にも、答えてやれぬことはあった。
生きた年月の長さで、何でも分かるわけではない。己の刀を振るい、己の術を使い、こうして生き残ってきた。その間に見なかったものを、烏有は探しに行く。
次に戻った時、どんな顔で話すじゃろうな。
見つけたと笑う顔も、まだ分からんと紙を広げる顔も浮かんだ。どちらであっても、話は長くなるじゃろう。
縁側から立ち上がり、火へ鍋を掛けた。
今度は米を量ってから入れた。
*
翌日、刀を持って家を出た。
部屋の奥へ置いてあるのを取り、鞘を腰へ差した。戸を閉める前に畑を見たが、水をやるのは戻ってからでよい。まだ朝の冷たさが残っていた。
岩場へ続く道を歩いた。
烏有がよう足を置いていた石へ、儂も草履を掛ける。あやつは長く歩いてきた分、道の悪いところでも足を止めん。こちらが話しながら歩くと、後ろへついてきているつもりが、いつの間にか隣へおった。
その足を、儂が追った。
最後の手合わせでは、背へ回ろうとするあやつへ瞬歩を踏み、何度も刀を合わせた。卍解を使われてからは、狙うところを変えても、こちらの血潮が届かん。刃を合わせれば、向こうから次の雷が落ちてくる。
久しく、あれほど忙しく斬り合うておらんかった。
岩場へ着き、刀を抜いた。
刃へ朝の光が当たる。
正面に烏有が立つところを思い浮かべた。こちらが振れば、あやつは右へ抜ける。追うた先では、左手を上げておるじゃろう。そこへ同じように刀を向ければ、また術を撃たれる。
足を踏み替えた。
右へ出るつもりで身体を動かし、途中で左へ向きを変える。刃を振り上げ、そのまま前へ踏み込んだ。切っ先が岩へ触れ、細い線を残した。
もう一度、構えた。
今度は足を止めずに続けた。刀を払って身体を返し、低く沈んでから上へ抜ける。着物の裾が岩へ擦れたが、気にせず次を振った。
烏有が戻るまでに、まだ日がある。
百年になるか、もっと掛かるか。それはあやつが決めることじゃ。儂は畑へ水をやり、薪を割り、時にはこうして刀を持って出ればよい。
息を吐き、刃を下げた。
腕へ、心地よい重さが残っていた。
「次も、あの夜を見せてもらうかのう」
刀を収め、家へ戻った。
水場から桶を運び、畑へ出る。鍬を取ろうとして、軒下へ置いた斧が目に入った。柄には烏有の手が馴染んだ跡があり、刃の欠けたところも直してある。
薪は、まだよう積んであった。
儂は斧をそのままにして、鍬を持ち上げた。
帰ってきたら、またあやつに割らせよう。