湧きたつ水に 歳月は沈み
醒めぬ夢に 春秋は過ぐ
26.湯煙の長夢
現世へ渡る前に、もう少しだけ尸魂界を歩こうと思った。
厳十斎の家を出てから、ひと月ほどが過ぎていた。人のいる方へ下りる道を外れ、山の向こうへ山を越えていると、集落も畑も見なくなる。昼には川で水を汲み、夜には風の入らない岩陰を探した。腹が減れば獣を追い、雨が降れば屋根代わりの結界を張った。
そんな旅の途中で、湯を見つけた。
谷へ下りる前から、妙に霊子の濃いところだとは思っていた。木の根元にも、濡れた岩にも、周囲の大気にも、山を一つ越える前とは比べものにならない量がある。川へ向かっていたはずなのに、斜面の下から白い湯煙が上がっていた。
岩の間へ手を入れると、指先が温まった。
「……温泉か」
上着を脱ぎ、腰の刀を乾いた岩へ置いた。湯の底は浅く、奥へ進むほど深くなる。肩まで沈んで息を吐くと、歩き続けていた脚から重さが抜けていった。
湯がいい。
ただ温かいだけなら、火を焚いて水を沸かせば済む。ここの湯に浸かっていると、山を越える間に身体へ溜まっていたものが、内側からほどけていくようだった。足の裏も、荷を担いでいた肩も、動かすたびに軽くなる。
刀へ顔を向けた。
「ゆめ。ここ、少し泊まっていかないか」
『もう、お出になる気をなくしておいででしょう』
「いや、湯からは出るよ。のぼせるだろ」
『山をお出になるお話でありんす』
それについては、少し考えた。
谷の上には、濡れていない岩棚がある。風も強くない。薪になりそうな木は周囲に生えていて、水にも困らない。
「二、三日ぐらいならいいだろ。せっかく見つけたんだしさ」
『では、その二、三日を、わっちも覚えておきんす』
俺は湯へ首まで沈んだ。
厳十斎の家を出る時には、まだ春だった。山の高いところには雪が残っていたが、この谷では枝の先に若い葉が開いている。湯煙の向こうでそれが揺れるのを見ながら、今日はもう歩かないことにした。
*
三日経っても、腹が減らなかった。
初めの日には、旅の途中で獲った肉を焼いて食った。二日目には、朝から岩棚を整え、夕方まで鬼道を試していた。湯へ戻る頃になって、その日は何も食っていないことに気づいた。
三日目も同じだった。
力を使っていないわけではない。谷の上で
身体へ意識を向けた。
周囲の霊子が、少しずつ入ってきている。
自分で集めようとする前から、身体がそれを受け入れていた。鬼道に使った分も、ここへ戻ってしばらくすると補われている。湯の中では、その流れがさらに捉えやすかった。
翌日は谷を離れ、尾根を二つ越えてみた。
昼を過ぎた頃、腹が鳴った。
「分かりやすいな、お前」
自分の腹へ手を置いて笑った。身体の作りが急に変わったわけではないらしい。川で魚を獲り、焼いてから湯へ戻ると、また腹が落ち着いた。
谷の入口へ立ち、木々の間を見渡した。
ここの霊子は濃い。ただ、遠くまで同じように続いているわけではなかった。湯の周りから斜面の途中までは多く、その先では少しずつ薄くなる。山の向こうへ出れば、旅の途中で感じていた大気へ戻っていた。
「しばらく、ここを使おうかな」
『二、三日ではござりんせんでしたか』
「そうだったな。でもさ、修行しても飯を探しに出なくていいんだ。湯に入れば疲れも取れる。こんなところ、次にいつ見つかるか分からないだろ」
『わっちの申し上げた通りになりんした』
「そこは否定できないよ。もう少し、付き合ってくれ」
刀を持ち上げ、岩棚の奥へ運んだ。
雨の降り込むところを確かめ、薄い結界を屋根にした。平らに張ると水が溜まるので、片側を少し低くする。流れ落ちた雨が寝床へ戻らないよう、岩の端まで延ばした。
旅の荷を下ろし、紙を広げた。
まずは、雨が降るたびに起きなくても済むように、この屋根を保つ言葉から作ることにした。
*
湯へ入りながら紙を広げるには、少し工夫が要った。
初めは岩の上へ置いていたが、手を伸ばすたびに湯が滴る。墨へ水が入った時には、書きかけの詠唱が半分ほど滲んだ。仕方なく、紙と硯を宙へ浮かせた。
腕を動かしても揺れないようにするまで、何度か筆を湯へ落とした。
「生活が便利になっていくな」
『お出かけになって、何をお作りかと思えば』
「こういうのも大事だろ。紙が濡れると、考えてたことまで読めなくなるんだ」
湯の上へ置いた紙に、次の術を書いた。
霊圧を隠す鬼道だった。
山を駆ければ、獣が逃げる。弱い虚が近くにいた時にも、こちらが姿を見るより先に遠ざかっていった。今までも抑えてはいたが、修行へ集中すると周囲への気配りが疎かになる。
身体に沿わせるように、薄く術を纏った。
袖を動かしても、足を踏み出しても、その形が離れないよう整えていく。瞬歩を使うと背中の方が遅れたので、力の通し方を変えた。刀を振るった時には右腕の周りが破れ、そこから霊圧が漏れた。
何日か後、谷へ鹿が下りてきた。
俺が岩棚へ座っていても逃げず、湯の流れる先で水を飲んでいる。腰の刀へ手を掛けると耳が動いたが、立ち去るほどではなかった。
「
小さく呼び、腕を上げた。
術が身体へ沿って動く。鹿は顔を上げてこちらを見たが、また水へ口を寄せた。
名前を書いた紙を、束の上へ置いた。
その頃には、雨を避ける屋根も、浮かせた筆記具も、使うたびに長い詠唱を辿らずに済むようになっていた。
朝には身体を動かした。刀を振り、斜面を走り、湯へ戻る前に鬼道を試す。昼には紙へ書き、夕方にはその通りに働くか確かめた。夜は湯へ浸かってから、ゆめに会いに行った。
谷の葉が赤くなり、やがて落ちた。
雪が降ると、湯の周りだけが白く煙った。裸の肩へ一片が触れて消える。湯の流れるところには土が見え、少し離れた岩には厚く積もっていた。
俺は屋根を広げ、薪を奥へ寄せた。
冬の間に試したい術が、まだいくつもあった。
*
八つの炎が、空中でぶつかった。
ひとつの標的へ向けたはずなのに、先に着いた炎が膨らみ、後から来た二つを巻き込んでいる。残りもそこで崩れ、岩へ届いた時には、大きな火の塊になっていた。
焼けた岩を眺め、紙へ線を引いた。
これでは、初めから一つの大きな炎を撃つ方が早い。
八つに分けたまま、違うところを通らせたい。正面から防がれた時にも、横や上から届くようにしたかった。一本ずつならできるが、全部を動かすと、途中でほかの炎へ気を取られる。
速さを変え、曲がるところをずらした。
上を通る炎は少し早く出す。岩の後ろへ回す分は、届くまでの距離を長く取る。それぞれを動かしてから、最後に同じところへ集まるようにした。
日が暮れるまで、岩を焼いた。
翌日は走りながら放った。炎へ意識を向けすぎて足場を踏み外し、斜面を少し転げ落ちた。袖についた土を払い、今度は刀を抜いて試した。
何度か季節が巡った頃には、八つを放ったまま、ほかの動きへ移れるようになっていた。
「
正面から二つ、左右から二つずつ。残る炎は上と、岩の裏へ回った。
俺は斜面を駆け下りた。
足を踏み替え、刀を振るう。その間も炎はそれぞれの道を進み、振り向いた時には、標的へ一斉に届いていた。
岩が赤く光った。
火が消えてから近づくと、八つの焼け跡が残っていた。指でその一つを撫で、紙へ書いた術の名の下に、使った時のことを加えた。
防ぐ鬼道も作った。
一枚の壁だけでは、割られたところから次の攻撃が入ってくる。そこで、何枚かを周囲へ置き、それぞれ動かせるようにした。穿月で一枚を撃ち抜き、別の壁をその前へ移す。
間に合わなければ、後ろの岩が砕けた。
結界を厚くする日もあれば、位置を変える速さだけ試す日もあった。割れた壁を残したまま動かすと邪魔になったので、使えなくなった分を解くところまで術へ含めた。
紙は、少しずつ増えた。
湯から手の届くところに置いていた束が岩棚の奥へ移り、その隣へ新しい束が並んだ。買い足すために人のいる土地へ下りると、前に紙を売っていた男が店先にいないこともあった。
息子だという男から買い、魚と酒も抱えて戻った。
腹が減らなくても、焼いた魚の匂いは嬉しかった。
*
「また、鬼道のお話でありんすか」
座敷へ入ると、ゆめが膳の向こうから俺を見た。
朱い灯が障子へ映っている。開けた窓の外では、川へ夜空が映り、楼閣の軒から下がる灯籠も揺れていた。
「今日は、それだけじゃないよ」
向かいへ座り、刀を膝の横へ置いた。
「術を作る時は、何をどう働かせるか、俺が決めてるだろ。炎を八つに分けるなら、分けた後の動かし方まで考える。卍解で火を願った時は、そこを一つずつ決めた覚えがないんだ」
「お前様は、どのような火をお望みか、わっちへお話しになりんす」
「ああ。それを、お前が叶えてくれる。出てきた火を使うのは俺だけど、作るところは、お前に任せてるんだよな」
ゆめは扇を畳み、膝へ置いた。
「では、次の夜には、わっちのするところもご覧になりんすか」
「見たいよ。今まで、出てきたものばかり見てたからさ。願ってから叶うまでに、俺とお前が何をしてるのか、もう少しちゃんと確かめたい」
ゆめが少し笑った。
「ようやく、わっちにも目を向けてくださりんした」
「毎晩会いに来てるだろ」
「お越しになってからも、炎が曲がった、壁が割れたと、そのお話ばかり」
「……それは、悪かったな。今日はもう少し、ここにいさせてくれ」
ゆめは返事の代わりに、徳利を持ち上げた。
差し出した杯へ酒が落ちる。窓の外には、見覚えのある山の稜線があった。湯を見つけた谷の上から、何度も眺めた形だった。
翌日から、卍解を使う場所を遠くへ移した。
湯の周りで試すには、願うものが大きすぎる。山をいくつも越えた先へ行き、誰もいないことを確かめてから刀を持ち上げた。
夜空の下で、ゆめへ願った。
火が生まれる時。雷が落ちる時。刀へ、願った力が宿る時。
叶った後にも使い、解いてから紙へ書いた。鬼道で同じものを作って比べる日もあった。自分の左手と、右手に握った刀。その両方から生まれる力を、何度も確かめた。
夕方には湯へ戻った。
岩棚へ紙を広げると、朝とは違うところへ日が当たっていた。墨を擦り、分かったことから書いていく。書けないところは空け、次に試すものを隣へ残した。
その繰り返しで、夏が終わった。
秋も、冬も、また次の春も過ぎた。
*
棚を作り足そうとして、古い紙を下ろした。
端の傷んだ束を開くと、雨を避ける屋根の図が出てきた。まだ水を落とす向きも決めていない頃のもので、横には、湯へ落とした筆のことまで書いてある。
思わず笑った。
ついこの間のことのように覚えていた。
それから、紙の端につけていた年の印へ目が止まった。
次の束を開いた。さらに奥の束も下ろし、印を追っていく。途中で数え直し、買ってきた紙を使い始めた年も確かめた。
「……百年?」
もう一度、初めの束を見た。
百年ほどが過ぎていた。
岩棚の外では、湯が変わらず湧いている。谷へ来た時に立っていた木も、何本かはまだ同じところにあった。けれど、寝床の下へ敷くものは何度も替え、着物も買い直している。初めに作った棚は湿気で傷み、とっくに薪へ回していた。
荷の底から、厳十斎に貰った草履を出した。
擦り切れた鼻緒へ指を通す。今履いているものは、これを真似て自分で編んだ何足目かだった。
『二、三日では、済みんせんでしたな』
「覚えてたのか」
『覚えておくと、申し上げんした』
「そうだったな……。参ったよ。ここへ来た時には、現世へ行く前に少し寄るつもりだったんだけど」
草履を荷へ戻した。
百年と聞けば、前世では考えられない長さだった。一人が生まれ、歳を取り、死ぬところまで収まってしまう。
今の俺には、紙を何束か使い、術を作り、湯へ入っていた間だった。
短かったと思う。
ただ、目の前へ並べた紙は、その年月を省かず残していた。初めには扱えなかった術があり、今は一息で使えるものもある。八つの炎を動かしながら刀を振れるようになるまで、何度もこの谷へ帰ってきた。
「そろそろ、行こうか」
『今度こそ、山をお出になるので?』
「ああ。湯は惜しいけど、このままだと、また百年経ちそうだ。向こうで確かめたいことも増えたしな」
紙を集め、持っていく束を選んだ。
今度は、置いていく棚がない。使っている術も、卍解について書いたものも荷へ収めた。雨を避ける屋根を解き、寝床にしていたところを片づける。
最後に、もう一度だけ湯へ入った。
肩まで沈むと、やはり出るのが惜しくなった。
「……明日にしようかな」
『お前様』
「分かってるよ。今、出る」
俺は笑い、湯から上がった。
*
谷の上へ立つと、朝の風が頬へ当たった。
湯煙が木々の間を抜けている。百年前と同じように見えるその下へ、しばらく目を向けた。
また入りたくなったら、帰ってくればいい。
荷を担ぎ直し、左手を上げた。
今立っている尸魂界を、こちらへ定める。右手には、これから歩く現世を置いた。山の家で作り、何度も渡って確かめた道だった。
【左手に座す灰の番人 右手に眠る砂の花嫁
三つに裂けた冠 互いの岸を知らぬ双子
橋を喰らう蛇は尾を呑み 戸を守る鳥は眼を閉じる
此岸に靴を 彼岸に影を 帰らぬ者に帰るべき門を
隔てる壁よ背を向けよ 閉ざせる闇よ身を横たえよ
左に留め 右に招け 離れし両の掌を一条に結べ
星の届かぬ淵に梁を渡し 名もなき空に敷居を据えよ
我が立つ岸より 我が望む岸へ
三つの世を隔てる帳よ⸺今ひとたび、道となれ】
黒い口が開いた。
奥へ白い足場を延ばす。遠くには、繋いだ出口から光が入っていた。湯煙の向こうへもう一度だけ顔を向け、それから腰の刀へ手を添える。
「行こう、ゆめ。今度は、向こうで面白いものを探そう」
『ええ。お帰りのお話が、湯の加減だけになりませぬように』
笑いながら、一歩を踏み出した。
背中へ当たっていた山の風が止み、足元に白い道が続いた。