遠き朝に 生は芽吹き
帰らぬ影に 風は触れる
道の向こうから、鳥の声が聞こえた。
白い足場を踏み、出口へ近づく。闇の中を流れていた霊子が背へ遠ざかり、代わりに草の匂いが入ってきた。木々の間から差す光へ目を細めながら外へ出ると、草履の下で湿った土が沈んだ。
振り返って道を閉じた。黒い口のあったところには枝が伸び、その向こうへ朝の空が見えている。頬へ当たる風も、揺れる葉も、見た目には
それでも、身体へ入ってくる霊子は随分と少ない。
百年もあの湯に浸かっていたせいか、深く息を吸っても物足りなかった。試しに指先へ霊子を集めると、白い糸になるまでの流れがよく見える。温泉の周りでは手を伸ばした先に幾らでもあったものが、ここでは周囲から寄ってきていた。
『いかがでありんす。久方ぶりの現世は』
「静かだな。耳には色々聞こえるんだけど、霊子を追ってる方は静かだよ。あの山に慣れすぎたかもしれない」
『湯からお出ましになるまで、百年も掛かりんしたから』
「そこはもう少し、修行してた方を覚えといてくれないかな」
糸を解き、荷を担ぎ直した。木々の向こうに水の光るところがあったので、そちらへ歩く。枝を抜けた先で斜面が下り、その下には川と、幾つかに区切られた田が広がっていた。
人がいた。
膝まで水へ入り、腰を曲げている。岸へ置いた籠には草が積まれ、隣の田からも同じように引き抜いたものが投げられていた。少し離れたところでは、子供が二人、泥をつけた脚で畦を走っている。
俺は斜面の途中へ立ち止まった。
向こうに見える家は、屋根が低い。地面へ沈むように建っているものもあれば、柱の上へ床を持ち上げたものもある。道には車も電柱もなく、遠くの山まで見渡しても、俺の知っている街へ繋がるものは見つからなかった。
「……思ったより、昔だな」
山本に会った頃から、大体どれほど過ぎたかは分かっている。そこへ転生してからの年月を足せば、俺がこの世へ来て八百年ほどになるはずだった。
原作より二千年ほど前に山本のところへ行って、そこから三百年。
そう考えてから、もう一度、田の向こうへ目を向けた。
西暦で言えば、三百年くらいか。
弥生だったか、古墳だったか。前世で習ったはずなのに、その辺りは黒棺の詠唱ほどよく覚えていない。少なくとも、侍が城を取り合っている頃ではなかった。
『何か、お探しのものでも』
「いや。もっと瓦屋根とか、そういうものを見かける気でいたんだ。先生のところには普通に建物があったし、爺さんの家にも長くいたからさ」
『こちらに、そのお屋敷があるとは限りんせん』
「そうなんだよな。あっちの暮らしで、こっちまで考えてた」
俺は畦へ下りた。田の水へ空が映り、歩くたびに足元の草が揺れる。向こうから走ってきた子供が、俺のすぐ脇を通り過ぎた。
こちらには目も向けなかった。
振り返ると、もう一人も俺を避けずに走ってくる。少し横へ寄って道を空けたが、その子は何も知らずに追いかけていった。
見えないことは、爺さんの山から道を試した時に確かめている。あの時は戻る方へ気が向いていたが、ここで旅を続けるとなれば、話は増える。
飯を分けてもらいたくても、声を掛けられない。宿を頼んだところで、相手には聞こえないだろう。腰の刀も荷も一緒に見えていないのだから、今のままでは、魚を持っていっても妙なことになる。
「爺さんの土産を探す前に、買い物できる身体を考えなきゃな」
『そのまま魚だけお持ちになれば、皆様、腰をお抜かしになるかと』
「魚が一人で歩いてきたら、俺でも食う前に刀を抜くよ」
笑ってから、田の中へ目を戻した。
女が一人、腰を伸ばしていた。額へ手を当て、岸へ置いた器から水を飲む。その喉が動き、息が漏れ、また腰を曲げて草を抜き始めた。
生きている人間を、こんなふうに眺めるのは久しぶりだった。
*
川を下ったところで、荷を下ろした。
広い岸には小石が積もり、水へ近いところほど黒く濡れている。俺は乾いた石へ座り、草履を脱いで足を浸した。流れが足首へ当たり、指の間を抜けていく。
水を両手で掬った。
透明なものが掌へ溜まり、隙間から落ちる。飲めば喉を通った。冷たさも、重さも分かる。現世へ来たからといって、周囲のものへ触れられなくなったわけではなかった。
手近な石を拾い、もう一方の掌には霊子を集めた。
山で何度も作った、小さな球だった。大きさを揃えて二つを並べる。石の方は表面へ水が残り、白い球の方では集めた霊子が形を保っている。
右手へ作ったものは、どこをどう固めたか、自分で分かっていた。左の石へ同じように意識を向けても、掌の上にある重さへ、そのまま霊子のまとまりを重ねて見ることはできなかった。
前世で読んだ言葉が、ようやく目の前へ並んだ。
これまでにも、その違いは考えてきた。爺さんの家で現世から持ち帰った葉を調べたこともある。けれど、山へ戻れば身体も土地も霊子でできている。紙へ書いていた方の世界に、今は俺自身が立っていた。
石を川へ戻した。白い球はまだ掌へ残っている。
「ゆめ。こっちでも、身体は今まで通り動くよ。川にも入れるし、水も飲める。ただ、周りから補える分は少ないな」
『では、お食事もまた、お忘れなく』
「ああ。今朝はまだ腹が減ってないけど、あの湯にいた時みたいにはいかないだろうな。使った分と、戻る分は見ておきたい」
白い球を解いた。散った霊子へ意識を向けてから、膝へ両手を置く。
ここなら、外から入るものに紛れず、自分が使った力を追いやすい。少ないのは旅をするには不便だが、身体の中で何をしているか確かめるには都合がよかった。
川の向こうで、男が網を引いていた。
水面へ顔を出した魚が跳ね、男が両手で網を持ち上げる。岸へ上がると籠へ移し、また川へ入っていった。肩にも背にも筋肉があり、流れへ踏ん張る脚が太い。
さっきの田にも、この川にも、生きた身体があった。
俺は自分の腕へ目を下ろした。
この身体で八百年ほど歩き、刀を振り、鬼道を使ってきた。傷を負えば血が出るし、使えば疲れる。それでも、向こうの男と俺を形作っているものは同じではない。
腕へ少しだけ霊力を巡らせた。
指を握る。肩を動かす。立ち上がって一歩踏み、川の中へ入った。膝へ当たる流れを受けながら、今度は足へ通した力を減らす。踏み留まる位置を変え、どこへ力が要るのか確かめた。
『お前様。そのまま、お魚までお捕りになるので』
「折角だからな。身体を動かしてるうちに、ちょっと腹も減ってきた」
川底の石へ手を掛け、覗き込む。
小さな魚が影へ逃げた。指を伸ばすより早く隙間へ入ってしまったので、別の石へ回る。対岸では網がまた引き上げられ、朝の光を受けた魚が幾つも跳ねていた。
俺はそれを眺め、腰を伸ばした。
「網も作っとくか」
『鬼道でありんすか』
「糸はもうあるんだ。魚が抜けないように編めばいい」
指から
魚が二匹、白い糸の中で跳ねた。
持ち上げると、水だけが隙間から落ちた。俺は岸へ戻り、魚を外して網を解く。霊力を使った分はあるが、腹の方へは、もう焼いた匂いが浮かんでいた。
『山でお覚えになった術も、随分と色々なものに使われんすな』
「爺さんに見せたら、先に魚を取れって言われそうだけどな」
枯れ枝を集め、火を起こした。串へ通した魚を傍へ立てると、皮が乾き、少しずつ色がついていく。対岸の男がこちらを見たので、俺は思わず顔を上げた。
男は川を見ていた。
俺のいる岸へ目を向けたまま、網の端を直している。こちらへ呼びかけることも、魚の焼ける火を気にすることもなかった。
俺は串を回した。
「見えてないんだよな。まだ、こっちが慣れないよ」
『あちらの方には、いつもの川でありんしょう』
「そうだろうな。俺だけ、初めてのところへ来てる」
焼けた魚を持ち上げた。塩は荷に残っていた分を使った。皮を齧ると、腹がますます減ってくる。
温泉を出て、まだ一日も経っていなかった。
*
夕方には、川沿いの高いところへ上がった。
田の向こうに煙が幾つも立っている。昼に働いていた者たちが戻り、子供も家の前へ集まっていた。水を運ぶ者がいて、薪を抱えた者がいて、その中を犬が走り抜けていく。
少し遠くには、土を盛った大きなところがあった。
自然の丘にしては形が整い、裾を囲むように水が光っている。近づけば、あれが何なのか分かるだろう。前世の教科書へ載っていたものを思い出しながら、俺はしばらく眺めた。
古墳、だったか。
あれが俺の思っているものなら、この辺りにも誰かを葬った大きな墓がある。今の世に生きている者が、その死を迎えた者のために土を運んだのだ。
山の家では、百年も同じ顔を見て暮らしていた。
あの湯の周りには、俺以外に人がいなかった。
ここでは、百年も経てば、田へ入っていた者も、畦を走っていた子供もいなくなる。爺さんの家で草履を編んでもらった日のことは、今も少し前のように思えるのに、その間に人の一生が過ぎる。
『気になるものが、おありで?』
俺は刀へ手を添えた。
「明日は、あの辺りまで歩いてみようと思ってる。ここがどこなのかも、まだ分からないしな。川だけじゃなくて、人の暮らしてるところも見ておきたい」
『今宵のお宿は、いかがなさるのでしょう』
「そこの木の下でいいよ。雨が来たら屋根を張る。しばらくは、寝るところに困らないだろ」
荷を下ろし、幹へ背を預けた。草の上へ脚を伸ばすと、夕方の風が袖へ入ってくる。川の音はここまで届き、集落からは誰かの笑う声が聞こえた。
紙を一枚広げ、今日見たものを書き始めた。
田と家、川で拾った石。自分の身体へ巡らせた力と、白縫で魚を捕った時のこと。山で使っていた紙の続きへ、現世での一日が加わった。
最後に、魚を二匹食ったと書く。
『お土産には、残されなかったので』
「今日の分を持って帰ったら、爺さんに笑われるだろ。道を作って、百年も温泉にいて、最初の一日で戻ることになるんだぞ」
『魚が旨ければ、お喜びになるかもしれんせん』
「それは、帰る時までにもっといいのを探しとくよ」
紙を畳み、荷へ収めた。
木々の向こうで、夕日が沈んでいく。俺はその明るさが消えるまで、家々から上がる煙を眺めていた。