過ぎゆく春に 道は延び
名もなき峰に 夢は渡る
家の前へ置かれた壺を、しばらく眺めていた。
朝の水汲みを終えた女が、その隣へもう一つ置く。俺は道の端へ寄り、通り過ぎてから手を上げた。
「すみません。少し、聞きたいんだけど」
女は振り返らなかった。家の中へ声を掛け、出てきた子供へ空の籠を渡している。俺の立っているところへ目を向けることもなく、二人で奥へ入っていった。
昨日も確かめたことだった。それでも、こうして暮らしているところまで来れば、誰かと話せるような気がしていた。
俺は下ろしかけた手へ霊子を集めた。
指先の周りへ薄く重ね、皮膚に沿わせてみる。
これも、霊子で作ったものだった。
集めた分を解き、袖へ手を戻す。霊圧を上げれば何かを感じる者はいるかもしれないが、普通に話をするために集落を震わせるわけにもいかなかった。
死神が入って動かせて、人には生きた人間と同じように見える身体。浦原なら幾つも作っていたが、俺が思い出せるのは出来上がったものばかりだった。中身をどう作るかなど、読んでいた時には考えもしなかった。
『お前様。そのお手では、まだ皆様に届かぬようで』
「そうだな。見える身体を作ればいい、くらいに思ってたけど、形を似せるだけじゃ駄目みたいだ。今ある術を少し変えれば済むものじゃないんだろうな」
家の中から、子供の声がした。俺はそちらへ一度だけ顔を向け、腰の刀へ手を添えた。
「まあ、急がなくてもいいか。飯なら自分で取れるし、寝るところも作れる。話したい時には、お前がいるしさ」
『わっちでよろしければ、お付き合い致しんす。ただ、お食事のお話ばかりでは困りんすよ』
「昨日は魚を食った話しかしてないみたいに言うなよ。ちゃんと石も調べただろ」
『ええ。その後で、魚を二匹』
俺は笑い、道を外れた。
田の間を抜けると、少しずつ人の声が遠ざかった。向こうに見える山には、まだ朝の霧が掛かっている。どこかへ繋がる道を探していたが、登るなら、あの斜面を真っ直ぐ行ってもよかった。
この身体で歩けるところは、随分と多い。
草の濡れた坂へ足を掛け、木々の間へ入った。
*
峠を越えた先には、また山があった。
川沿いに下りると平らな土地へ出たが、その向こうにも峰が重なっている。高いところへ登るたびに、次に歩いてみたい場所が見つかった。人の通った跡がなくても、獣の足跡を辿れば水場へ着くことがある。何もなければ、自分で林を抜けた。
雨の続く日は、岩の張り出したところへ荷を置いた。
屋根代わりの結界を広げ、落ちてくる水を脇へ流す。風が入る方へ一枚足してから火を起こすと、濡れた袖も乾いた。寝床を整えた頃には居心地がよくなり、翌日も雨なら、そのまま紙を広げていた。
山を歩くのは、初めてではない。
それでも、道の向こうにあるものが何なのかは、来てみなければ分からなかった。崖から落ちる水を見つけた時には、その下まで下りてみた。大きな木の根元へ獣が集まっていれば、少し離れて座り、日が暮れるまで眺めることもあった。
滝の落ちるところでは、しばらく修行した。
濡れた岩へ足を置き、水が落ちてくる真下へ入る。肩を叩かれ、着物が身体へ貼りついた。足元から流れが抜けていく中で、刀を振った。
刃が水を割った。
割れたところはすぐに埋まり、次の水が肩へ落ちる。右から振り、左へ返し、足を踏み替えた。霊力を腕と脚へ巡らせながら、踏んだ岩が滑るたびに重心を戻した。
力を増やせば、岩ごと踏み砕いてしまう。
水を押し返すほど霊圧を出しても、この場所へ来た意味がなくなる。俺は身体へ通す分を保ち、外へ溢れたものを収めながら振り続けた。肩を打つ水も、足を払う流れも、そのまま受けた。
日が暮れる頃には、刀を握る掌へ熱が残っていた。
岸へ上がり、袖を絞る。置いておいた荷を開くと、腰の刀からゆめの声がした。
『あれだけ濡れておいでなのに、まだ水へお入りになるのでありんすか』
「顔を洗うだけだよ。口にも入ってきたからな」
『お湯でしたら、百年でもお入りになれますものを』
「それは言わない約束にしないか。今、ちょっと戻りたくなった」
湯の代わりに火を起こした。
魚を焼きながら、今日のことを書き残す。どこへ力を通し、どこで足が滑ったか。刀を振った時に腕から漏れた分も、覚えているうちに書いた。
鬼道を作る時には、放ったものが働くように形を整えていた。身体へ通す力も同じように、自分が動く間、必要なところで働かせ続ける。長く刀を振っていても、疲れた後には雑になるところがあった。
翌日には、そこを試した。
その次の日にも、滝へ入った。
雨が増えると水の量も増え、初めに立っていた岩が見えなくなった。場所を変えて続けているうちに、岸の葉が赤くなった。魚の取れるところも少し下へ移り、朝には火から離れた指が冷えるようになる。
冬が来る前に、荷をまとめた。
山の向こうへ下り、別の川へ沿って歩く。そこで見つけた岩場にも、また何日か留まった。
*
朝、荷を担ごうとして、草履の鼻緒が切れた。
片足だけ持ち上げたところで外れたので、思わず手をついて座り直した。新しく編んだものが荷にある。取り出して履き替え、切れた方は底のまだ使えそうなところを残した。
その奥から、小さな包みが出てきた。
爺さんに編んでもらった草履だった。今履いているものより、底が薄い。鼻緒へ指を通すと、山の家で足を並べて大きさを見てもらった時のことが浮かんだ。
随分と履き替えた。
紙の束も、現世へ来た時より厚くなっていた。山を越えたところで書いたものと、何年も同じ川で試したものが混じっている。乾いた日に広げて見直し、今も使うものを外側へ重ねた。
『今度は、どちらへお向かいに』
「川を下ってみようと思う。ずっと山の方へ歩いてたから、そろそろ海が見たいんだ」
『海でありんすか。お魚も、随分と大きくなりましょうな』
「お前も魚の話してるじゃないか」
ゆめが笑った。
包みを荷の奥へ戻し、川へ沿って下り始めた。初めは飛び越えられるほどの流れだったが、谷を抜ける頃には幅が広がっていた。途中から別の川が加わり、水の色も変わる。岸を歩けないところでは斜面へ上がり、また下りられる場所を探した。
ある日、風の匂いが変わった。
湿っているのに、川の傍とは違う。木々の間を抜けると、遠くに平らな光が見えた。俺は歩くのを少し速め、最後の坂を下りた。
海だった。
波が岸へ寄せ、白く崩れて戻っていく。向こうには山も、次の岸も見えない。空と水の境が遥か遠くへ続いていた。
荷を置き、草履を脱いだ。
砂は暖かかった。波へ足を入れると、指の下から少しずつ崩れていく。俺はその感触を確かめながら膝まで進み、海の水へ手を浸した。
前世では、何度か海へ来たことがある。
遊ぶために来て、帰る時間になれば岸へ戻った。遠くを眺めたことはあっても、自分の脚でその先へ行こうとは思わなかった。
今なら、行ける。
「……そういえば、海を渡ったことはなかったな」
腰の刀へ目を落とした。
「この先にも陸があるんだよな。向こうまで行けば、俺が見たことのないものが山ほどある」
『お前様。今、海が見たいと仰って着いたばかりでありんすよ。もう向こう岸へお出かけになるので』
「いや、今日はここにいるよ。せっかく来たんだし、少し潜ってみたい。海の中も見たことないからさ」
『では、お荷物は濡れぬところへ。先ほどから、波が近づいておりんす』
振り返ると、置いた草履のすぐ傍まで水が来ていた。
慌てて戻り、荷を高い岩へ移した。
*
海の中へ入ると、波の音が鈍くなった。
濡らしたくない紙は岸へ置き、刀だけ腰へ差していた。頭まで沈み、目を開ける。上から差す光が水の中を揺れ、砂の上へ幾つもの筋を作っていた。
少し沖へ進むと、足が底を離れた。
霊子を固めて踏むこともできるが、まずはそのまま泳いだ。腕を前へ出し、水を掻く。身体が進み、着物の裾が後ろへ引かれる。魚の群れが横を抜けたので、そちらへ向きを変えた。
岩の間には、細長い草が揺れていた。
小さな魚がその中へ入り、見えなくなる。岸から見ていた青い水の下に、こんな場所が続いていた。俺は岩へ手を掛け、しばらく眺めた。
『お前様。そちらにも、何かおありで?』
「魚がいるんだ。草の間に隠れてて、近づくと奥へ入る。もう少し沖へ行ったら、また違うのが見られそうだよ」
自分の声が聞こえたところで、口元へ手を当てた。
水の中で、普通に話していた。
現世で死神が動いていたことは覚えている。俺自身も、水へ入って困る様子はない。それでも、前世の身体でなら息を止めている時間を気にしていただろう。
胸へ意識を向けた。
身体へ巡る霊力は、岸にいた時から途切れていない。腕を動かせば使い、足を掻けばそちらへ通る。水へ沈んだからといって、今すぐ何かが止まるわけではなかった。
俺は岩から手を離し、もう少し深い方へ泳いだ。
水が冷たくなり、上から届く光も薄くなる。身体へ掛かる重さが増えたので、霊力を巡らせ直した。岸へ戻る方角を確かめてから、更に下へ進む。
大きな影が、頭上を通った。
顔を上げると、魚が一匹、俺より遥かに大きな身体で泳いでいた。尾がゆっくりと動き、そのたびに水が揺れる。俺は後を追いかけかけて、足を止めた。
追えば、どこまで行くか分からない。
荷を岸へ置いてきている。
「……今日は、戻るか」
『その方がよろしゅうござんす。お魚を追うて、紙も草履も置いていかれては』
「分かってるよ。でも、次は荷も持って来られるようにしよう。雨を避けるだけならできるし、水が入らないように囲えばいい」
岸へ向き直った。
水の中で術を保ち、泳ぎながら身体へ力を巡らせる。どちらも既にやってきたことだが、同時に続けるなら、海で試すことがあった。
砂のあるところまで戻り、立ち上がった。
頭が水から出ると、波の音が戻ってきた。顔を拭いながら岸へ上がり、岩へ置いた荷を開く。紙を一枚取り出したところで、濡れた袖から水が落ちた。
俺は紙を引き寄せ、袖を絞った。
『海へお入りになる前に、脱いでおけばよろしかったものを』
「途中で気づいたんだけどな。魚を見てたら、そのまま行ってしまった」
火を起こし、着物を乾かした。
紙には、海の中で見たものと、身体へ掛かった力を書いた。次に試す術の形も、その下へ描く。荷を包む結界は、口を閉じたまま持ち運べるようにしたかった。
その日は海の傍で寝た。
翌日も、また潜った。
*
同じ浜へ、何度も夏が来た。
海の中にいる時間は長くなり、岸で寝る日より、沖の岩へ荷を置く日の方が増えた。大きな魚を追っていたら別の浜へ出たこともある。元の場所へ戻るつもりが、途中にあった島を気に入り、そこで冬を越した。
荷へ張った結界は、水を通さなくなった。
初めは背負って泳ぐと形が歪んだ。角を減らして荷へ沿わせると保ちやすくなり、何度か潜っても紙の端が濡れなくなる。水の中で中身を取り出す必要はない。岸へ戻ってから解けばよかった。
刀を振るうのにも、海を使った。
脚を動かして身体を進め、流れの中で刃を振る。空中や岩場で振るう時よりも、袖と刀へ水が掛かる。遠くへ術を放つ時には、どこまで保てるか、岸から伸ばした白縫で距離を確かめた。
修行を終えて顔を上げると、島の影が遠くにあった。
その先へ、また海が続いている。
ある夕方、岩へ腰を下ろして、紙につけた年の印を数えた。山で過ごした分と、浜へ来てからの分。現世へ出てから、四十年ほどが経っていた。
「……そんなにいたのか」
目の前の浜は、初めて見た時とよく似ている。
岸の木は何本か倒れ、新しいものも伸びていた。けれど、波は変わらず寄せてくる。昨日と同じ場所へ座り、明日も同じように潜ろうとしていたら、四十年が過ぎていた。
俺は紙を畳んだ。
「ゆめ。そろそろ、向こうへ行こうか。この辺りの海は随分見たし、陸の方も歩いてみたい」
『今度こそ、海をお渡りになるのでありんすね。お帰りになった時、こちらの岩がまだ同じ形であればよろしいのですが』
「戻る場所は覚えとくよ。海が見たくなったら、また来ればいい」
夕日が水へ長く伸びていた。
荷を背負い、刀の位置を直す。濡らさないための結界を張ってから、岩を下りた。足元へ霊子を固めると、寄せてきた波がその下を抜けていった。
西へ行けば、大陸がある。
前世で見た地図を思い浮かべた。どの岸へ着くかは、渡りながら確かめればいい。気になる島があれば下りるし、海の中を見たくなれば潜る。
少し進んで、振り返った。
四十年を過ごした山も浜も、夕方の光の中にあった。俺はその景色をしばらく眺めてから、また前を向いた。
『向こうに着いても、お魚のお話ばかりはなさいませぬように』
「分かってるって。次は、もっと色々見てくるよ」
波の上へ、一歩を踏み出した。
その先にも、足を置ける場所を作った。島の端が背へ遠ざかり、潮の匂いを含んだ風が、開けた海から吹いてきた。