卍解のその先を追い求めて。   作:lalaland

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砂の果てに 影は伸び
氷の涯に 星は巡る





29.星霜の旅衣

 

 

 海の向こうに見えた陸は、思っていたよりも長く続いていた。

 

 岸へ上がってから何日も西へ歩いたが、次の海は現れなかった。川を渡り、林を抜け、岩の多い山へ登る。頂から向こうを眺めると、遠くにもまた山があった。前世で見た地図では指一本で隠れたところに、幾つもの谷と川が収まっている。

 

 俺は荷から紙を出し、歩いてきた方へ線を引いた。

 

 初めの頃は、曲がったところまで細かく描いていた。今は大きな川と山、それから気に入って長く留まった場所に印をつけている。それでも、一枚には収まらなかった。

 

『お前様。そのお山も、お登りになるのでありんすか』

「登るよ。あの白いところまで行ってみたいんだ。こっちの山には草が生えてるのに、向こうはまだ雪が残ってる」

『お戻りになる道も、お忘れなきよう。今朝まで歩いておいでの谷は、もう随分と小さくなりんした』

「大丈夫。戻りたいところには印を残してる。ただ、帰りも同じ道を歩くかは分からないな。向こう側にいい場所があったら、そっちへ下りるかもしれない」

 

 紙を畳み、荷へ戻した。

 

 この辺りの山には、人の歩いた跡がある。けれど、白い峰へ近づくにつれて、それも見つからなくなった。草の間にあった踏み跡は岩へ途切れ、やがて木そのものがなくなる。足元に残った低い草を越えると、風が直接、着物へ当たるようになった。

 

 雪の下から岩が出ていた。

 

 そこへ足を置き、上へ登る。登れないところだけ霊子を固めて渡った。瞬歩で頂へ抜けることもできたが、斜面を歩いていると、下からは見えなかったものが見つかる。岩の裂け目へ氷が詰まり、その奥を細い水が流れていた。

 

 指を差し入れると、冷たかった。

 

 爺さんの山で暮らしていた頃と、よく似た冷たさだった。けれど、目を上げた先には家も畑もない。岩と雪が重なり、その上を雲の影が流れている。

 

 俺はもう少し登り、広く空いたところへ荷を置いた。

 

 刀を抜くと、刃へ白い峰が映った。

 

        *

 

 風の強い日には、刀を振るう音が聞こえなかった。

 

 袖が腕へ巻きつき、踏み込んだ足の下で雪が崩れる。俺は次の岩へ重心を移し、刃を振った。腕だけ強くしても身体が流れるので、足から腰へ、肩から指へと力を通し直す。

 

 山を壊すほど出す必要はない。

 

 それでも、長く続ければ使った分は積もった。刀を振り終えた後も、寒さを凌ぐために身体へ霊力を巡らせる。寝る時には風を避ける結界を保ち、荷を濡らさないための術も解かなかった。

 

 初めの冬には、下の林へ何度も戻った。

 

 食うものを探し、乾いた枝を拾い、岩陰へ火を起こす。そこで休んでいる間に、身体へ残った霊力を確かめた。修行に使った分より、何もしていないつもりの時間に使っていた分が、案外多かった。

 

 寒ければ、身体中へ力を増やしていた。

 

 風が強まれば、結界の全てを厚くしていた。

 

 夜、紙へ書いてみると、どちらもその時に必要な量をよく見ていなかった。指が冷えたのに脚へまで同じだけ通し、風の来ない側の壁まで強めている。

 

「……長く使うと、こういうところが響くんだな」

 

 俺は火の上へ掌をかざした。指先が温まってから、身体へ通していた力を少し減らす。

 

『お寒ければ、わっちをお呼びになればよろしゅうござんす。夜の装いなら、その袖よりは厚うなりましょうに』

「それも考えたよ。でも、始解してない時にも、長く動けるようにしときたいんだ。爺さんと斬り合った時は、最後まで刀を振れた。あの後でも、まだ歩けるくらいにはしておきたい」

『お前様は、あのお方とまた斬り合うおつもりで』

「帰ったら、たぶんな。こっちがどれだけ変わったか、口で説明するより早いだろ。前と同じところで息が上がったら、笑われるよ」

 

 ゆめの笑う声がした。

 

 翌年には、風の当たる面だけ結界を厚くした。身体へ通す力も、歩いている時と座っている時で変える。冷えた指を温めながら、刀を振るための分まで増やさずに済むようになった。

 

 幾つもの冬を越すうちに、山を下りる間隔が延びた。

 

 同じだけ修行しても、夜に残っている力が増えた。刀へ込める量を落としたわけではない。足を踏み替えるたび、腕を引くたびに、必要なところへ移すのが早くなっていた。

 

 ある朝、吹雪の中で刀を収めた。

 

 結界の内側へ入ってからも、指はよく動いた。荷の紐を解き、紙を広げる。以前なら火へかざしてからでなければ、筆を取る気になれなかった。

 

 俺はそのことを書き、日付の印を足した。

 

 この山へ来てから、二十七度目の冬だった。

 

        *

 

 山を下りた先では、草が腰まで伸びていた。

 

 何日歩いても木がまばらにしかなく、風が吹くたびに遠くまで同じ向きへ倒れる。獣の群れがその中を移り、浅い川のところで足を止めていた。俺も水を飲み、少し離れたところへ座った。

 

 道はあっても、行き先を知らせるものはなかった。

 

 日が昇る方と沈む方を見て歩き、夜には星を眺めた。前世で星座に詳しかったわけではないので、名前の分からないものも多い。それでも、何年も同じ空を見ていれば、目印にできる星は増えていった。

 

 大きな川に沿って南へ下った。

 

 暑くなると、荷から厚い着物を外した。雨が続くところでは紙を結界へ包み、乾いた土地へ出れば夜に広げる。道具が傷めば直し、直せなくなれば作り直した。

 

 その間にも、刀は振った。

 

 鬼道を放つ場所には困らなかった。人のいない岩場へ立ち、遠くに狙いを置く。近くでまとまっていた光が、離れるほど広がることもあった。穿月(せんげつ)へ通す力を増やすだけで済ませず、掌を離れた後も形が保たれるように整えた。

 

 出来上がった術を放って終わりにしていた頃より、見るところが増えていた。

 

 撃つ前に掌へ集まった分と、岩へ届いたところに残った分。その間へ散ったものを確かめ、次に放つ時には形を変えた。狙った岩へ細く穴が開くと、近くまで歩いて見に行く。

 

 そうして修行を終えた後、また先へ歩いた。

 

 幾つもの山と海岸を辿り、乾いた大地を越えた。ある時、高いところから見下ろした土地に、大きな獣の群れがいた。長い鼻を振り、耳を動かしながら、木の枝を口へ運んでいる。

 

 俺は斜面の途中へ座り込んだ。

 

「……象だ」

 

 前世で見たものより、随分と近かった。

 

 小さい一頭が大きいものの腹の下へ入り、また顔を出す。木の枝を折る音が、ここまで聞こえた。俺は荷を下ろし、群れが移るまで眺めていた。

 

『あの獣を、ご存じなので』

「ああ。昔、見たことがあるんだ。でも、こんなところで暮らしてるのを見るのは初めてだよ。山を歩いてた時から、こっちへ来たかったんだ」

 

 大きな一頭が顔を上げた。

 

 こちらを見たような気がして、俺も動くのをやめる。やがて耳を揺らし、また枝へ鼻を伸ばした。

 

 アフリカまで来た。

 

 そう思うと、足元の赤い土を掬ってみたくなった。掌へ乗せたそれは乾いていて、指の間から細かく落ちる。前世では、飛行機に乗らなければ来られない場所だと思っていた。

 

 俺は、自分の脚でここへ来ていた。

 

        *

 

 砂の多い土地では、昼と夜で着るものを変えた。

 

 昼には薄い袖で日を避け、夜には山で使っていたものを羽織る。岩陰へ荷を置いて休み、夕方になってから歩く日もあった。どこまでも続く砂の上には、足跡だけが残った。

 

 その足跡も、風が吹けば埋まった。

 

 翌朝には、昨日登ったところの形が変わっている。高く盛り上がっていた砂が崩れ、窪みだったところへ新しい筋ができていた。俺は地面へつける印をやめ、岩のあるところまで歩いてから位置を書き残した。

 

 結界にも、山とは違う使い方が要った。

 

 風を全部遮れば、内側の熱が逃げにくい。隙間を広げれば砂が入り、紙も寝床もざらついた。俺は風の来る側へ薄い面を幾つも重ね、入ってくる流れを横へ逃がした。砂が落ちるところを外へずらしてから、寝床の傍へ空気を通す。

 

 初めの夜には、顔へ砂を浴びた。

 

 二晩目には、荷の下へ溜まった。

 

 直しながら使っているうちに、朝、袖を払わずに起きられるようになった。爺さんの庭では雪が外へ落ちていたが、俺の術には、風を受ける面も、砂を落とす隙間も要る。その形を確かめるのに、この場所はよく向いていた。

 

 ある夜、結界の上を風が通った。

 

 中では紙の端も揺れなかった。俺は筆を置き、外へ出た。昼に熱かった砂は冷え、上には、目を離しにくいほどの星が広がっていた。

 

『今宵は、お休みにならぬので』

「もう少し見てからにする。山でも海でも、空は見てたんだけどな。ここは下に何もないから、星ばっかり目に入る」

 

 腰の刀を少し持ち上げた。

 

「お前にも、見えてる?」

『ええ。お前様が、長く眺めておいでのものほど、よく』

 

 俺は砂へ座った。

 

 しばらく二人とも話さなかった。風が遠くの砂を動かし、足元には冷たさが増していく。それでも、星の場所が少し変わるところまで、そのまま眺めていた。

 

 翌朝、結界を解いた。

 

 修行を続けるなら、また留まればよかった。けれど、今日は歩きたかった。紙を包み、荷を担ぐ。昨日まで寝床の傍へ寄せていた砂が、解いた面のところを流れていった。

 

 その向こうへ、足を踏み出した。

 

        *

 

 南へ進むと、夜に見上げる星が変わった。

 

 長く目印にしていたものが低くなり、やがて見えなくなる。代わりに、前にはなかった星の並びを覚えた。岸に沿って歩いた後、海へ出た。途中にあった島で休み、また南へ進む。

 

 海へ浮かぶ白いものを見つけた時には、近くまで下りてみた。

 

 波へ揺れていたのは氷だった。上へ乗ると、足元で鈍い音がした。見えていたところより下の方が大きく、海へ潜ると、青白い塊が深いところまで続いている。

 

 更に先には、白い岸があった。

 

 岩の上に雪が積もり、その向こうへ氷が続いている。岸を上がると、黒と白の鳥が幾つも並んでいた。俺が横へ寄るより早く、その間を小さいものが歩いていく。

 

 ペンギンだった。

 

「……本当に来られたな」

 

 南極へ行ってみたいとは思っていた。

 

 前世では、思っただけで終わった場所だった。ここへ来るための船も、金も、休みもなかった。地図の下にある白いところを、遠いまま眺めていた。

 

 今は、その上へ足を置いている。

 

『お前様。袖をもう一枚、お重ねになった方がよろしいかと。先ほどから、そのお手が冷えておりんす』

「そうだな。見てたら忘れてた。あいつら、あのままで平気なんだな」

 

 荷を開き、着物を重ねた。

 

 海岸を離れると、歩くものの姿はすぐに減った。白いところばかりになり、どこまで進んだか分かりにくくなる。俺は岩の出ている場所を選び、時々高く上がって来た方を確かめた。

 

 日が沈みにくい頃も、昇らなくなる頃もあった。

 

 初めはその長さに慣れなかった。空が明るいまま修行を続け、腹が減ってからようやく休んだこともある。暗い日が続くようになると、今度は空だけ見ていても、いつ起きればいいか分からない。

 

 身体の方で、区切りをつけた。

 

 刀を振り、鬼道を試し、使った分が戻るまで休む。紙へ書く時には、術を使った時間も残した。眠りから覚めたら、同じように身体へ意識を向ける。空の明るさに関わらず、続けられるものが増えていった。

 

 吹雪の夜には、結界を岩へ留めた。

 

 幾つもの面を重ね、どこへ風が当たっているか確かめる。力を通すところを替えながら、内側で別の術を組んだ。片方だけなら慣れていても、長く二つを続けると、細かいところから崩れる。

 

 掌の光を保ったまま、風の当たる面を厚くした。

 

 光を動かし、次に、背へ回った風を受ける。

 

 足元へ作った小さな足場まで保ち続けられるようになると、その上で刀を振った。必要な術を一つずつ増やしても、前に使っていたものを崩さずに済むようになっていた。

 

 幾度も明るい季節と暗い季節が巡った。

 

 ある夜、外へ出ると、空に淡い光が流れていた。緑に見えたところが広がり、端には赤が差す。長い布を揺らすように、その形がゆっくり変わった。

 

 俺は刀へ手を添えた。

 

「ゆめ。今日は、ちょっと修行を休もうか」

『今からお始めになるのかと思うておりんした。何か、気になるものでも』

 

 俺は空を見上げたまま笑った。

 

「見たいものがあるんだ。今、消えたら困るからさ」

 

        *

 

 紙の端に、二百二十という数を書いた。

 

 現世へ来てからの年月だった。

 

 同じ場所で数えた冬と、歩きながら過ぎた季節を、古い紙から拾い直した。幾年か曖昧なところはあるが、大きくは違わないだろう。日本の浜を出てからも、百八十年ほどが過ぎていた。

 

 俺は筆を置き、膝の上へ手を乗せた。

 

 あの浜で四十年を数えた時にも、驚いたはずだった。

 

 それから山へ登り、草原を歩き、砂の上で寝て、ここまで来た。どこでも、少し留まってみようと思っていた。修行で一つ直せば、次の日にも試したくなる。季節が変われば、同じ場所へ違うものが現れる。

 

 見に行って戻り、また試しているうちに、年が増えた。

 

 今朝、刀を振っていたことも、百年ほど前に砂の上で結界を直していたことも、思い出せる。けれど、間にあった一日一日を全て並べることは、もうできなかった。

 

『お前様。長う、こちらにおいでになりんしたな』

「そうだな。山へ来る前は、半年くらいのつもりだったところもあるんだけど。ここも、もう随分長い」

 

 紙を重ねると、古い一枚が出てきた。

 

 田と低い屋根が描いてある。川のところには、魚を二匹食ったと書いてあった。現世へ出た最初の日の紙だった。

 

 俺は指でその端を撫でた。

 

 あの日、田へ入っていた者たちは、もういないだろう。俺がここで修行している間にも、向こうでは人が生まれ、暮らし、死んでいった。あの川も田も、今は別の者が使っているのかもしれない。

 

 紙を畳み、ほかのものと一緒に包んだ。

 

「そろそろ、北へ戻ろうと思う。まだ行ってないところもあるし、こっちへ来る途中で、寄らずに通ったところも多い」

『お帰りの道は、お決まりで』

「海へ出てから考えるよ。前に歩いたところを使ってもいいし、別の岸へ上がってもいい。ただ、今度は人のいるところも少し見てみたいな。山と海ばっかりだったから」

 

 荷の紐を結び、肩へ掛けた。

 

 外へ出ると、風が袖へ入った。長く使っていた結界を解き、岩の傍へ残っていた道具も片づける。寝床にしていたところは、しばらくすれば雪へ埋まるだろう。

 

 腰の刀を直し、海のある方へ歩いた。

 

 高いところから振り返ると、岩の張り出した場所だけが、白い斜面から顔を出していた。何度も帰ってきたところだった。俺はその形を覚えてから、前へ向き直る。

 

 海の向こうには、まだ歩いていない陸がある。

 

 今度は、そこへ行く。

 

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