幾夜も お前を夢と呼んだ。
その名を知らぬまま 朝を迎えた。
庭へ下りると、木刀を持った男がこちらへ向き直った。さっきまで山本に何か答えようとしていた口を閉じ、俺の左手を見ている。握り方を聞きたいのだろうが、こちらにも教え方の心得はない。ひとまず隣に立ち、同じように構えてもらった。
「両手で持ってる時と、片手を離した時。どっちが押し返せる?」
「両手です」
「じゃあ、今は離さなくていいよ。俺はもう片方の手で術を使いたかったから、離したんだ。何もしないなら、そのまま握ってた方がいい」
試しに横から木刀を押すと、男は両手で支えた。そこで左手を離してもらう。切っ先が下がり、慌てて握り直したところで、縁側の山本が足の位置を指摘した。俺の説明では手だけの話になっていたが、身体の向きも変わるらしい。言われた通りに立ち直した男は、今度は片手でも少し長く耐えた。
人に教えるというのは面倒だ。自分ができることを見せれば済むと思っていたが、どこから違っているのかを探す必要がある。何度か同じことを繰り返すうち、山本が俺の剣をすぐに直そうとしなかった理由も、少し分かってきた。
「烏有さんは、術を使わない時にも離すんですか」
「あるよ。相手の腕を掴みたい時とか、殴った方が早い時とか」
「殴る……」
「刀を持ってるからって、刀だけで戦ってくれるとは限らないだろ。俺はそれで、何度か痛い目に遭った」
男が山本を見た。山本は否定せず、相手の手元だけを見ているなと言った。その後はもう一人も加わって、掴まれた時にどうするかという話になった。俺が手首を押さえ、山本が抜き方を教える。抜けたと思って踏み込んできたところで足を払うと、二人とも今度は足元ばかり気にし始めた。
そうしているうちに日が傾いた。飯を食い、使った場所を片づけ、案内された部屋へ荷物を置く頃には、門下生たちの話し声も減っていた。昼間は狭く感じた建物が、夜になると随分広い。隣の部屋で誰かが寝返りを打つ音まで聞こえた。
借りた寝具の横で刀を抜き、油を薄く引いた。刃に目立つ傷はない。布を滑らせる手つきも、もう考えずにできる。最初にこれを教えてくれた男が見れば、少しは褒めてくれるだろうか。いや、油を使いすぎるなと、また言われる気もした。
刀を収めて枕元へ置く。普段ならそのまま横になるところだが、今夜は柄を握ったまま少し待った。
「話があるなら、聞くよ」
声に出すと、隣の部屋の物音が止まった。そちらへ聞かせたかったわけではないので、続きは胸の内に留める。五百年も聞き流していたくせに、こちらが呼べばすぐ返事をしてくれると思うのも勝手な話だった。
しばらく刀を眺めてから手を離した。布団へ入ると、手入れに使った油の匂いが指に残っていた。
*
次に目を開けた時、俺は石段に立っていた。
右端の欠けた段を見て、足を上げる前に場所が分かった。昔越えた峠に、同じ石段があった。上から水が流れてきて、雨の日には歩けたものではなかったはずだ。今は乾いている。脇に生えていた木も、俺が目印に傷をつけた辺りまで覚えのある形をしていた。
段を上り切ると橋がある。あの峠の先に川などなかったが、その橋にも見覚えがあった。欄干を直すのを手伝ったことがある。渡った向こうの家で、しばらく飯を食わせてもらった。川に張り出した板へ腰を下ろし、子供と釣りをしたことまで思い出した。
ただ、今夜は家がなかった。橋の先には朱塗りの建物が並び、軒先に灯籠が吊られている。川の水は黒く、灯りの映ったところだけが細く揺れていた。
橋を渡りながら、足元を見た。いつの間にか下駄を履いている。板を踏むたびに乾いた音が鳴り、その音の遠さにも覚えがあった。ここへ来たことがある。何度も来て、何度も途中で帰っていた。
通りに人はいなかった。二階の障子には女らしい影が映っているのに、階下の戸は開いていて、誰の履物も並んでいない。どこかで三味線が鳴っていたが、歩いても音のする場所へ近づかなかった。
以前なら、気味が悪いと思って引き返していた。今夜は奥へ進んだ。次の角を曲がる前から、そこに何があるのか分かる。門をくぐり、階段を上り、廊下の突き当たりへ向かった。障子越しの灯りに、自分の影が伸びている。
「今日は、開ける前に帰りなんすか」
中から声がした。
手を止めた途端、聞き覚えのある声だと分かった。昔はもっと苛立って聞こえたが、声そのものが変わったわけではなさそうだった。
「いや。入ってもいい?」
「それを今さら、お尋ねになるかえ」
障子を開けた。
女が一人、膳の前に座っていた。黒地の着物に金の模様が走り、重ねた襟の内側だけが深い赤をしている。結い上げた髪には幾本もの簪が挿してあった。灯りを受けても、どこか目の届かないところがある。顔ははっきり見えているのに、目を逸らせば忘れてしまいそうで、俺は入口に立ったまま見ていた。
女は箸を置いた。向かいにも膳があり、そちらには手をつけた跡がない。
「立ったままでは、顔もよう見えん。座りなんし」
「悪い。ちょっと驚いてた」
言われた場所へ座ると、女がこちらを見直した。眉の形も、口元も覚えている。夢から醒めるたびに忘れた顔を、近くで見てようやく思い出した。
「俺を呼んでたの、あんただったんだな」
「ほかに誰がおりんす。呼べば眠らせろと仰るし、顔を見れば知らぬ女と仰る。今宵もそうなら、膳を下げようと思うておりました」
「そこまで言ってた?」
「言うた方は、お忘れになれるもの」
返す言葉がなかった。
知らない女に小言を言われた夢を、何度も見た覚えがある。寝ている時まで怒られたくないと、こちらも言い返していた。夢だから何を言ってもいいと思っていたのだ。向こうが覚えているとなると、話がまるで違ってくる。
「すまん。夢だと思ってたんだよ。起きたら飯を探さないといけなかったし、雨が降ってれば寝床も変えなきゃならなかった。ここで何を話したか、考える余裕がなかった」
「知っておりんす」
「……知ってるのか」
「お前さんが腹を空かせた夜も、傷を抱えて眠れなんだ夜も。わっちだけが、別のところにおったわけではありんせん」
女の目が俺の腰へ向いた。そこにはいつもの刀があった。部屋に置いてきたはずなのに、ここでは身につけている。柄に手を触れると、女が僅かに目を細めた。
「五百年、共に歩いた相手に向かって、誰だと聞くのは酷でありんしょう」
「そうだな。そりゃ、怒るよな」
橋も石段も、俺だけが覚えていたわけではなかった。あの時、腰にはこの刀があった。飯を食う間も、川で魚を待つ間も、寝る時も、手の届くところへ置いていた。持っていない自分の姿を思い出す方が難しい。
山本には、死んだ男から借りたと話した。最初は確かにそうだった。ただ、返す相手がいなくなってからも、借り物と呼ぶには長く使いすぎていた。
「名前を、聞かせてくれないか」
女がすぐには答えなかった。俺の顔を見たまま、膳の横に置いていた扇を取る。開くことはせず、閉じた先を自分の膝へ重ねた。
「聞いて、どうしなんす」
「今度は忘れない。刀を借りる時にも、礼を言う時にも、名前くらい呼びたいだろ」
「今まで、礼など言うたことがありんしたか」
「これから言うんだよ。まだ一緒に歩いてもらうつもりなんで」
女は扇で口元を隠した。笑われたのかと思ったが、目は逸らさなかった。そのまま少し待つと、扇を下ろした口から、ゆっくり声が出た。
「
聞いた瞬間に、分かった。
夢の通い路。何度もここへ来て、帰っていった俺が、とうとう聞かなかった名だった。女はもう一度呼べとも、覚えたかとも言わなかった。ただこちらを見ている。俺は腰の刀から手を離し、その顔へ向き直った。
「
「名を聞いた端から、縮めなんすか」
「全部呼ぶ時は、ちゃんと呼ぶよ。普段の話で毎回言うには長いだろ」
「お前さんの口に掛かれば、わっちも随分と安い女になる」
そう言いながら、ゆめは俺の膳を少し近くへ寄せた。冷えていると思っていた椀から湯気が立つ。箸を取ると、その手を眺めてから、自分も箸を持った。
「ほら。夢だからって、腹が減らないわけでもないんだな」
「食べる前から、お喋りばかり」
「聞きたいことが多いんだよ。あんたに何ができるのかも、俺はまだ知らない」
ゆめは椀を持ち上げる手を止めた。俺の問いが意外だったというより、どこから話すかを選んでいるようだった。目が座敷の隅へ向き、そこに置かれた燭台の火を捉えた。
「眠らせて差し上げる」
「相手を?」
「人ばかりではありんせん。火も眠る。雷も眠る。お前さんへ向けられた刃も、術も」
燭台へ目を向けた。小さな火が芯の先で揺れている。その灯りが眠るというのを、すぐには想像できなかった。
「斬れば、眠るのか」
「触れなんし。斬る腕は、とうにお持ちでありんしょう」
「随分、物騒な寝かしつけ方だな」
「お前さんが五百年かけて覚えたのは、子守唄でありんしたか」
それはそうだ。
笑いながら箸を動かした。ゆめもそれ以上は説明せず、俺が何を食べたか見てから自分の膳へ目を戻した。向かいに誰かが座っている食事は久しぶりでもなかったが、この女と食べるのは初めてだ。何度も用意させたことを思うと、残す気にはなれなかった。
膳を空ける頃、廊下の向こうで足音がした。通りでは誰にも会わなかったのに、と思って障子へ目を向ける。ゆめはそちらを見ず、俺の空いた椀を受け取った。
「お迎えでありんす」
「誰の?」
「朝の」
足音が近づいた。下駄の音とは違う。誰かが廊下を歩いてきて、俺の名を呼んでいる。座敷の灯りが薄くなったので、慌ててゆめへ向き直った。
「また来るよ」
「今度は、夢だったことにしなんすな」
*
目を開けると、塾の天井があった。障子の向こうで男が俺を呼んでいる。返事をして身体を起こし、枕元の刀へ手を伸ばした。柄も鞘も昨夜と変わらない。ただ、持ち上げる前から名前を思い出せた。
外へ出ると、庭ではもう稽古が始まっていた。俺を呼びに来た男が飯はまだかと尋ねてきたが、先に山本へ話したいことがあると伝えた。山本は縁側に座り、昨日折れた木刀の柄を眺めていた。
「先生。会えましたよ」
「そうか」
「名前も、聞けました」
「ならば、呼んでみい」
あまりにあっさり言われたので、こちらの方が少し間を置いた。庭には人がいる。初めて使う能力を、ここで試していいのか迷っていると、山本が門下生たちを下がらせた。縁側から下り、俺の向かいへ立つ。
鞘を払った。見慣れた刃へ朝の光が映る。何百年も見てきた刀だったが、名前を呼ぶのはこれが初めてだった。
「
名を呼び終えるより早く、俺の霊圧が膨れ上がった。
庭の土が沈んだ。塀際へ下がっていた男が膝をつき、木刀を取り落とす。もう一人が支えようとしたが、その男も腰を落としたまま立てなくなった。山本の着物が大きく膨らみ、足元から細かい砂が後ろへ流れていく。
「烏有。霊圧を収めい」
声を聞いて、外へ漏れた分を引き戻した。庭を押していた力が退き、男たちが顔を上げる。まだ呼吸が荒い。眠ったのではない。俺の霊圧をまともに受けて、立っていられなくなったのだ。
「すみません。ここまで変わるとは思ってなくて」
「……そのようじゃな」
山本は俺を見ていた。昨日の打ち合いでも、こちらが左手から術を放った時でも、こんな顔はしなかった。刀より先に俺の身体へ目を向け、何か確かめるように視線を動かしている。
そこでようやく、自分の袖が変わっていることに気づいた。
擦り切れていた布の代わりに、黒地へ金の模様を織り込んだ長い袖が下がっていた。手首を返すと、内側から赤が覗く。襟には白い布が重なり、腰を幅広の帯が締めている。脚を動かせば長い裾がついてきたが、踏み込みを邪魔する重さはなかった。
ゆめの着物を思い出した。座敷で向かい合った時と同じ色を、今は俺が着ている。
「服まで変わるのか。あいつ、こういうことは言わなかったな」
肩へ落ちてきた髪を指で払おうとして、手を止めた。黒い髪に金色の房が混じっている。引き寄せて見直すと、染まったのは一房だけだった。ほかの髪は黒いまま、その隣に白い房があり、反対側には鮮やかな赤が走っている。
「髪も、顔も変わっておる」
「顔までですか?」
「水を見てみい」
縁側に置かれていた桶を覗くと、見慣れたはずの顔が映った。目元が少し違う。顎から頬へ続く線も、以前ほど角張っていない。俺の顔ではあるのに、女と言われても、すぐには否定しきれないものがあった。黒髪の中に混じった金、白、赤が水面へ垂れ、長い袖まで映り込んでいる。
顔を上げると、門下生たちがこちらを見ていた。目が合った一人は、何か言いかけて口を閉じた。
「俺だよ。さっきまでここにいただろ」
「それは、分かっておりますが……」
分かっていても、見直したくはなるらしい。俺ももう一度桶を覗きたかったが、その前に手元の刀へ目を戻した。
刀身の根元から黒が広がっていた。切っ先まで届く頃には反りが深くなり、朝日を映していた面がすべて染まる。白銀の刃文だけが残り、その模様が細い煙のようにゆっくり揺れた。
柄は朱色になっていた。丸い鍔の下側が欠け、そこから同じ色の組紐が一本垂れている。長い袖の端が柄へ触れ、その下で組紐が手の甲を撫でた。
庭の明るさも変わっていた。屋根の向こうには朝の空がある。それなのに、俺たちの立つところだけが暮れた後の色をしている。黒い刀身を持ち上げると、白銀の刃文が、その薄暗さの中でよく見えた。
「……随分と、待たせたようじゃな」
「ええ。向こうにも怒られましたよ」
答えながら、刀を軽く動かした。
腕が楽だった。刀を支えるために力を込める必要がない。踏み込む足にも、手首を返す動きにも、さっきまでとは比べものにならない余裕がある。昨日の木刀を今握れば、どれほど力を抑えて振らなければならないだろう。折れた先を思い出して、少し笑ってしまった。
山本の目が細くなった。
「まだ出せるか」
「出せます。ここで出していいなら、ですけど」
「ここではやめておけ」
即座に返されたので、俺もそれ以上は広げなかった。身体の内に留めたままでも、増えた力はなくならない。柄を握り直すと、山本がこちらへ手を出した。その指先に、小さな火が灯る。
「刀の力は、聞いたか」
「触れたものを眠らせるそうです。人だけじゃなく、火も術も」
「ならば、これに触れてみい」
刀を横にし、刃の先を火へ寄せた。黒い刃が触れたところから揺れが止まる。火は消えていなかった。指先に浮いた形のまま、橙色の光だけを残している。
顔へ当たっていた熱がなくなった。
山本は火を引き寄せ、反対の手を近づけた。そのまま指を差し入れても、火は揺れない。俺が刀を離してからも、燃えていた時の形を保っていた。
「消したのではないのか」
「眠らせるって、そういうことなんでしょうね。俺も今、初めて見ましたけど」
熱のない火を眺めた。斬って散らしたわけでも、こちらの力で押し潰したわけでもない。そこにあるのに、燃えていない。小さな火で試しているから静かに見えるが、これが相手の放った術なら、当たるはずの一撃を止めたことになる。
「人なら、どうなる」
「腕や脚を斬れば、そこが動かなくなるはずです。さすがに、そっちはまだ試してません」
「そうか」
山本は火を消し、門下生へ木刀を持ってくるよう言った。渡された一本を俺の刀へ軽く当てる。手元には確かな重さが届いたが、音は鳴らなかった。木と鋼の触れたところを見直した男が、耳の脇へ手を上げる。
山本はその顔を見ず、もう一度木刀を当てた。今度は少し強い。俺は手首を返して受け流したが、やはり刀の音はしなかった。山本の踏んだ土と、袖の擦れる音だけが聞こえる。
門下生たちが互いの顔を見た。さっきの霊圧とは違うものを、今度は目の前で確かめている。山本は木刀を下ろし、俺の黒い刃へ目を戻した。
「五百年、名も呼ばずにこれを持っておったか」
「俺も、もったいないことをしたなと思ってますよ」
「刀の方は、そう思うておらんかもしれんぞ」
それには、すぐ返事ができなかった。
ゆめは、五百年が無駄だったとは言わなかった。俺がどんな夜を過ごしたかも知っていた。名前を呼べなかった間も、この刀を手放したことはなかったのだ。
柄を握り直すと、朱色の組紐が手の甲を撫でた。山本は木刀を返し、縁側に置いていた自分の刀を取った。
「朝餉の前に、少し歩くぞ」
「どこへですか」
「ここでは狭い」
山本が腰へ刀を差した。門下生の一人がついていこうとしたが、塾に残れと言われて足を止める。俺は黒い刃を一度見下ろしてから、山本の後へついた。歩くたびに長い裾が揺れ、見慣れない色の髪が肩へ触れた。
「先生。昨日は木刀でしたけど」
「今日は、違うものを見せてやる」
門を出るところで山本が振り返った。その目は俺の顔を通り越し、手にした刀を見ていた。俺も柄へ添えた手を離さなかった。