卍解のその先を追い求めて。   作:lalaland

30 / 40


峰の向こうに 風は生まれ
波の彼方に 道は続く




30.万里の遊歩

 

 

 氷の岸が見えなくなった頃、海の上で荷を担ぎ直した。

 

 北へ向かっていることだけは分かる。足元に固めた霊子の下を、長い波が幾つも抜けていった。前には陸も島も見えなかったが、振り返っても同じ景色だった。

 

 少し笑ってしまった。

 

「こんなところ、前の身体なら絶対来られなかったな」

 

 歩くための足場を、もう一つ先へ作る。山で何度も踏んできたものだった。海の上でも、足を置くところさえあれば進める。風の強いところでは少し高く上がり、波が静まれば水面近くへ下りた。

 

『お前様。その先には、何があるのでありんすか』

「分からないよ。陸はあるはずだけど、どの辺に着くかまではな。そろそろ、見たことない岸へ上がってみたいんだ」

『では、もう少し高いところからお探しになっては。先ほどより、海ばかり眺めておいででありんす』

「それもそうか。ここからじゃ、島のすぐ横を通っても気づかないかもしれないな」

 

 上へ足場を重ねていく。

 

 高くなるにつれて、波の一つ一つが小さくなった。遠くに白い筋が見える。雲かと思ったが、その下に黒いところがあった。

 

 そちらへ進んだ。

 

 近づくと、黒いものは岩になった。波を受けるたびに白い水が噴き上がり、その奥へ緑の斜面が続いている。俺は岸の上まで渡り、木の生えたところへ下りた。

 

 草履の下へ土が戻った。

 

 しばらく、そのまま立っていた。氷の上にも岩はあったが、ここには草がある。足を動かせば葉が擦れ、土の匂いが立った。荷を下ろすより先に、近くの木へ掌を当てる。

 

 幹が太かった。

 

 上を見ると、枝が随分と高いところへ伸びている。葉の間を、鮮やかな色の鳥が横切った。

 

「ゆめ。今日は、こっちだ」

『もう、お決まりになったので』

「あの鳥を見たい。森の中へ入っていったから、追ってみよう」

 

 枝を避け、斜面へ足を掛けた。

 

        *

 

 森の中では、歩くたびに何かが動いた。

 

 落ち葉の下から小さいものが逃げ、幹の上では虫が脚を動かしている。頭上で枝が鳴ったので顔を上げると、長い尾のある獣がこちらを見ていた。俺が立ち止まる間に、隣の木へ跳び移る。

 

 鳥の姿は、もう見つからなかった。

 

 代わりに、その獣を追った。枝から枝へ移るのを下から眺め、通れないところでは幹へ足を置いて登る。高い枝へ立つと、さっきまで頭上を覆っていた葉が、今度は足元へ広がった。

 

 その向こうに、山が見えた。

 

 森の端から突き出した斜面には、木の少ないところがある。頂に雲が掛かり、風に流されては、また隠れた。

 

 俺は幹へ手を添え、しばらく眺めた。

 

『今度は、あちらでありんすか』

「分かる?」

『そのお顔で、見上げておいでですから』

「鳥は見失ったけど、いいものが見つかったな。あそこへ登ったら、森がどこまで続いてるか見えそうだ」

 

 枝から下り、山のある方へ進んだ。

 

 途中で川へ出た。水は茶色く濁り、向こう岸まで幅がある。渡ろうとした時、岸の泥へ大きな足跡が残っているのを見つけた。指のような形が幾つか並び、その間へ水が溜まっていた。

 

 俺は隣へ自分の足を置いた。

 

 大きさが随分違う。

 

「……これ、何が歩いたんだろうな」

 

 川の方で水音がした。

 

 顔を向けると、岸に近いところへ長い背中が浮いている。少し進んでから、その先にある口が見えた。歯が並び、目だけが水の上へ出ていた。

 

 鰐だった。

 

 泥へ残った跡と見比べてから、俺はしゃがんだ。ゆっくり泳いできた身体が岸へ寄り、太い尾が水を押す。鼻先が俺のすぐ前まで来たところで止まった。

 

 こちらが見えているのかは分からない。

 

 けれど、近くで口を開けたので、さすがに立ち上がった。

 

「邪魔したな。そこ、使っていいよ」

 

 横へ退くと、鰐は泥へ腹を乗せた。俺の足跡の上を前脚が踏み、爪の先まで形が残る。

 

 川を渡ってから振り返った。

 

 さっきまで俺のいたところに、長い身体が横たわっていた。森から聞こえる鳴き声の中で、その鰐だけは、ほとんど動かなかった。

 

        *

 

 山へ登る途中、雨に追いつかれた。

 

 下では晴れていたのに、岩の多い斜面へ出たところで雲の中へ入った。髪へ細かい水がつき、着物の肩が濡れていく。俺は荷へ張った結界を確かめ、袖を少し捲った。

 

 岩の窪みに水が溜まっている。

 

 踏むところを選び、上へ進んだ。急なところでは両手も使う。腰の刀が岩へ当たらないように身体を寄せ、指を掛けたところへ足を上げた。

 

 頂へ出ると、風が強かった。

 

 雲が横へ流れ、目の前が開けた。歩いてきた森は遥か下へ広がり、川がその中を曲がっている。海の方には、岸を囲む白い波まで見えた。

 

 俺は岩へ腰を下ろした。

 

「登ってよかったな」

 

 荷を開き、食うものを出す。森で拾ってきた実を一つ割ると、中は柔らかかった。口へ入れてから、顔をしかめる。

 

 酸っぱかった。

 

『先ほどは、随分と旨そうに眺めておいででしたが』

「匂いはよかったんだよ。甘そうだったから、幾つも持ってきた」

『まだ、荷に残っておりんすね』

「……焼いたら、ちょっと変わるかな」

 

 もう一つ齧った。

 

 やっぱり酸っぱい。俺は笑って包みへ戻し、山の向こうを眺めた。登ってきた側とは違い、向こうには深い谷がある。その底を細い川が通り、更に先では、茶色い土地が広がっていた。

 

「下りるなら、あっちだな。森とは違うものが見られそうだ」

『今宵は、こちらへお留まりになるので』

「いや、まだ明るいし、谷まで下りたい。水の傍で寝れば、明日はそのまま川を辿れるだろ」

 

 岩から立ち、荷を背負った。

 

 下り始めてから、さっきの実をもう一つ出した。口へ入れる前に少し迷ったが、腹は減っている。

 

 ゆめが、刀の中で笑っていた。

 

        *

 

 谷の底では、空が細かった。

 

 左右から岩壁が立ち、見上げたところだけが青い。川へ沿って歩くと、壁の形が変わった。赤いところも、白い筋の入ったところもある。崩れた石へ手を当てると、細かい粒が指へついた。

 

 足元へ落ちたものを見てから、壁へ目を戻した。

 

 水の届くところは滑らかだった。少し上には、深く削れたところがある。今の川よりも、高い位置まで続いていた。

 

 ここも、長い年月を掛けて変わったのだろう。

 

 俺がここへ来る前から水は流れ、岩を削っていた。歩いていく先にも同じ跡があり、時々、大きな石が川を塞いでいる。水はその脇から抜け、更に下へ続いていた。

 

 俺も、その先へ進んだ。

 

 行き止まりに見えたところでは、川が岩の下へ入っていた。覗き込むと、暗い奥から水音が返ってくる。荷を持ち上げ、濡れないように包み直してから、膝まで水へ入った。

 

『お前様。その中へ、お入りになるので』

「少し見てくる。狭くなったら戻るよ。水の通ってるところなら、向こうにも出口があるかもしれない」

 

 掌へ光を灯した。

 

 濡れた天井が照らされ、丸い窪みが幾つも見えた。足元の流れを確かめながら進む。背を屈めたところもあったが、その先で急に広くなった。

 

 光を高く上げる。

 

 天井から石が細く垂れ、床の方にも尖ったものが伸びていた。その間を水が通り、低いところへ溜まっている。近づくと、先端から一滴落ちた。

 

 澄んだ音がした。

 

 俺は足を止め、次が落ちるまで待った。掌の光が水面へ映り、僅かに揺れる。奥にも同じようなものが並び、光の届かないところまで続いていた。

 

「……入ってみるもんだな」

 

 刀へ手を添えると、ゆめもすぐには答えなかった。

 

 そこでしばらく眺めた後、来た方へ戻った。出口へ近づくにつれて光が入り、掌の術を解いても足元が見えるようになる。

 

 外へ出ると、川の音が大きかった。

 

 俺は荷を担ぎ直し、また下流へ向かった。

 

        *

 

 海へ出た後は、岸を辿った。

 

 岩ばかりのところを越えると、長い砂浜があった。更に進めば、木の根が水へ入り、岸そのものが森になっている。干いたところを歩いたはずなのに、戻ってきた時には水が満ちていた。

 

 別の岸へ上がると、今度は黒い砂が足についた。

 

 近くの山から煙が上がっている。登ってみると、岩の裂け目から熱い風が出ていた。俺は顔を近づけすぎずに覗き、少し離れたところから奥を眺めた。赤いものがゆっくり動き、暗い岩の縁を照らしている。

 

 昼には、その山を下りた。

 

 海へ近いところで水が温かかったので、腰まで入ってみた。長くいるつもりはなかったが、脚を伸ばすと気持ちがよかった。

 

『また百年、お入りになるのでありんすか』

「今日は出るよ。あの時は、湯の周りに霊子が多かったからな。ここは普通に腹が減るし、そろそろ飯を探したい」

『では、そのお言葉を覚えておきんす』

「そんなに信用ないか?」

 

 笑いながら岸へ上がった。

 

 着物を着て、山の反対側へ歩く。振り返ると、煙はまだ上がっていた。あの赤いものも、今頃は同じように動いているのだろう。

 

 次の島では、雨に降られた。

 

 その次の岸では、長い間、川が見つからなかった。高く上がって水のあるところを探し、そこへ下りる。草の中に獣がいれば眺め、見たことのない木があれば、その下を歩いた。

 

 以前なら、修行に向いたところを見つけた時点で荷を下ろしていた。

 

 今は、もう少し先まで行く。

 

 刀を振るのは、夕方に空いた場所を見つけてからでよかった。寝床を囲む結界も、海へ出る時の足場も、移動するたびに使う。昨日は風を受け、今日は波を越え、明日は木々の間を抜ける。使う力も、保つ形も、そのたびに変わった。

 

 荷を濡らさずに川を渡り、そのまま斜面を駆け上がる。

 

 瞬歩で深い割れ目を越え、着地したところから、また歩く。腰の刀を揺らさずに身体を動かすのも、長く続ければ修行になった。

 

 ある日、細い枝の上へ降りた。

 

 枝が僅かにしなっただけで、折れなかった。そのまま踏み出し、隣へ移る。下の木々を抜けるよりも遠くまで見えるので、しばらく上を歩いた。

 

 風が顔へ当たった。

 

 俺は次の枝へ跳び、遠くに見えた川の方へ向かった。

 

        *

 

 川の傍で荷を開くと、包んでいた紙の順番が分からなくなっていた。

 

 黒い砂を挟んだ一枚の下から、洞窟で描いたものが出てくる。その間には、知らない鳥の形があった。旅の途中で足したものを、乾かすたびに重ね直していたせいだった。

 

 俺は平らな石へ並べた。

 

 どの場所も覚えている。

 

 ただ、いつ行ったかを思い出そうとすると、少し迷った。あの谷を下りたのは、煙の上がる山へ行く前だった。鳥を描いたのは、その後だろう。似たものを別の森でも見たので、途中まで線を引き直している。

 

 紙の端へつけた印を数えた。

 

 南極を出てから、三十年近くが経っていた。

 

「……よく歩いたな」

 

 今回は、同じところへ何十年もいた覚えがない。

 

 それでも、谷を抜けるのに季節が変わり、岸を辿っている間に年を越した。気になる山へ寄れば、その向こうから別の川が見える。川を下れば海へ出て、海には次の島があった。

 

 どれも、自分で選んで歩いてきた道だった。

 

 俺は紙を揃え、刀へ目を向けた。

 

「ゆめ。次は、少し行き先を決めてみようか」

『また、何か見つけられたので』

「今、思い出したんだ。日本へ出た時は、家の造りを見て、随分昔だと思っただろ。でも、中国なら、あの頃から大きな町があったはずなんだよな」

 

 川の向こうで、煙が上がっていた。

 

 人のいるところは、旅の途中にも何度か通った。けれど、建物の間へ入るより、その先に見えた山へ向かうことが多かった。誰にも声が届かないまま、知らない土地を歩くことにも慣れていた。

 

 今なら、あの頃とは違うものを見られるかもしれない。

 

「前にここを歩いてた人が、何を残したかも見てみたい。山も川も面白かったけど、人が作ったものにも、まだ見たことないのがあるだろ」

『では、今度は町へ』

「ああ。そこまでの道は、また歩いて探すよ。途中にいい景色があったら、少しくらい寄ってもいいし」

 

 ゆめが笑った。

 

『少しでお済みになれば、よろしゅうござんすが』

「今回は、ちゃんと着くって。町へ行くつもりで、山へ百年いるようなことはしないよ」

 

 紙を荷へ戻し、立ち上がった。

 

 足元の川は、来た方から流れてきていた。その水に沿って、しばらく岸を歩く。やがて向こうへ渡り、木々の間へ入った。

 

 前世で見た地図を、頭の中へ広げる。

 

 海と山を辿ってきた道の先に、今度は、町のあるところを置いた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。