峰の向こうに 風は生まれ
波の彼方に 道は続く
氷の岸が見えなくなった頃、海の上で荷を担ぎ直した。
北へ向かっていることだけは分かる。足元に固めた霊子の下を、長い波が幾つも抜けていった。前には陸も島も見えなかったが、振り返っても同じ景色だった。
少し笑ってしまった。
「こんなところ、前の身体なら絶対来られなかったな」
歩くための足場を、もう一つ先へ作る。山で何度も踏んできたものだった。海の上でも、足を置くところさえあれば進める。風の強いところでは少し高く上がり、波が静まれば水面近くへ下りた。
『お前様。その先には、何があるのでありんすか』
「分からないよ。陸はあるはずだけど、どの辺に着くかまではな。そろそろ、見たことない岸へ上がってみたいんだ」
『では、もう少し高いところからお探しになっては。先ほどより、海ばかり眺めておいででありんす』
「それもそうか。ここからじゃ、島のすぐ横を通っても気づかないかもしれないな」
上へ足場を重ねていく。
高くなるにつれて、波の一つ一つが小さくなった。遠くに白い筋が見える。雲かと思ったが、その下に黒いところがあった。
そちらへ進んだ。
近づくと、黒いものは岩になった。波を受けるたびに白い水が噴き上がり、その奥へ緑の斜面が続いている。俺は岸の上まで渡り、木の生えたところへ下りた。
草履の下へ土が戻った。
しばらく、そのまま立っていた。氷の上にも岩はあったが、ここには草がある。足を動かせば葉が擦れ、土の匂いが立った。荷を下ろすより先に、近くの木へ掌を当てる。
幹が太かった。
上を見ると、枝が随分と高いところへ伸びている。葉の間を、鮮やかな色の鳥が横切った。
「ゆめ。今日は、こっちだ」
『もう、お決まりになったので』
「あの鳥を見たい。森の中へ入っていったから、追ってみよう」
枝を避け、斜面へ足を掛けた。
*
森の中では、歩くたびに何かが動いた。
落ち葉の下から小さいものが逃げ、幹の上では虫が脚を動かしている。頭上で枝が鳴ったので顔を上げると、長い尾のある獣がこちらを見ていた。俺が立ち止まる間に、隣の木へ跳び移る。
鳥の姿は、もう見つからなかった。
代わりに、その獣を追った。枝から枝へ移るのを下から眺め、通れないところでは幹へ足を置いて登る。高い枝へ立つと、さっきまで頭上を覆っていた葉が、今度は足元へ広がった。
その向こうに、山が見えた。
森の端から突き出した斜面には、木の少ないところがある。頂に雲が掛かり、風に流されては、また隠れた。
俺は幹へ手を添え、しばらく眺めた。
『今度は、あちらでありんすか』
「分かる?」
『そのお顔で、見上げておいでですから』
「鳥は見失ったけど、いいものが見つかったな。あそこへ登ったら、森がどこまで続いてるか見えそうだ」
枝から下り、山のある方へ進んだ。
途中で川へ出た。水は茶色く濁り、向こう岸まで幅がある。渡ろうとした時、岸の泥へ大きな足跡が残っているのを見つけた。指のような形が幾つか並び、その間へ水が溜まっていた。
俺は隣へ自分の足を置いた。
大きさが随分違う。
「……これ、何が歩いたんだろうな」
川の方で水音がした。
顔を向けると、岸に近いところへ長い背中が浮いている。少し進んでから、その先にある口が見えた。歯が並び、目だけが水の上へ出ていた。
鰐だった。
泥へ残った跡と見比べてから、俺はしゃがんだ。ゆっくり泳いできた身体が岸へ寄り、太い尾が水を押す。鼻先が俺のすぐ前まで来たところで止まった。
こちらが見えているのかは分からない。
けれど、近くで口を開けたので、さすがに立ち上がった。
「邪魔したな。そこ、使っていいよ」
横へ退くと、鰐は泥へ腹を乗せた。俺の足跡の上を前脚が踏み、爪の先まで形が残る。
川を渡ってから振り返った。
さっきまで俺のいたところに、長い身体が横たわっていた。森から聞こえる鳴き声の中で、その鰐だけは、ほとんど動かなかった。
*
山へ登る途中、雨に追いつかれた。
下では晴れていたのに、岩の多い斜面へ出たところで雲の中へ入った。髪へ細かい水がつき、着物の肩が濡れていく。俺は荷へ張った結界を確かめ、袖を少し捲った。
岩の窪みに水が溜まっている。
踏むところを選び、上へ進んだ。急なところでは両手も使う。腰の刀が岩へ当たらないように身体を寄せ、指を掛けたところへ足を上げた。
頂へ出ると、風が強かった。
雲が横へ流れ、目の前が開けた。歩いてきた森は遥か下へ広がり、川がその中を曲がっている。海の方には、岸を囲む白い波まで見えた。
俺は岩へ腰を下ろした。
「登ってよかったな」
荷を開き、食うものを出す。森で拾ってきた実を一つ割ると、中は柔らかかった。口へ入れてから、顔をしかめる。
酸っぱかった。
『先ほどは、随分と旨そうに眺めておいででしたが』
「匂いはよかったんだよ。甘そうだったから、幾つも持ってきた」
『まだ、荷に残っておりんすね』
「……焼いたら、ちょっと変わるかな」
もう一つ齧った。
やっぱり酸っぱい。俺は笑って包みへ戻し、山の向こうを眺めた。登ってきた側とは違い、向こうには深い谷がある。その底を細い川が通り、更に先では、茶色い土地が広がっていた。
「下りるなら、あっちだな。森とは違うものが見られそうだ」
『今宵は、こちらへお留まりになるので』
「いや、まだ明るいし、谷まで下りたい。水の傍で寝れば、明日はそのまま川を辿れるだろ」
岩から立ち、荷を背負った。
下り始めてから、さっきの実をもう一つ出した。口へ入れる前に少し迷ったが、腹は減っている。
ゆめが、刀の中で笑っていた。
*
谷の底では、空が細かった。
左右から岩壁が立ち、見上げたところだけが青い。川へ沿って歩くと、壁の形が変わった。赤いところも、白い筋の入ったところもある。崩れた石へ手を当てると、細かい粒が指へついた。
足元へ落ちたものを見てから、壁へ目を戻した。
水の届くところは滑らかだった。少し上には、深く削れたところがある。今の川よりも、高い位置まで続いていた。
ここも、長い年月を掛けて変わったのだろう。
俺がここへ来る前から水は流れ、岩を削っていた。歩いていく先にも同じ跡があり、時々、大きな石が川を塞いでいる。水はその脇から抜け、更に下へ続いていた。
俺も、その先へ進んだ。
行き止まりに見えたところでは、川が岩の下へ入っていた。覗き込むと、暗い奥から水音が返ってくる。荷を持ち上げ、濡れないように包み直してから、膝まで水へ入った。
『お前様。その中へ、お入りになるので』
「少し見てくる。狭くなったら戻るよ。水の通ってるところなら、向こうにも出口があるかもしれない」
掌へ光を灯した。
濡れた天井が照らされ、丸い窪みが幾つも見えた。足元の流れを確かめながら進む。背を屈めたところもあったが、その先で急に広くなった。
光を高く上げる。
天井から石が細く垂れ、床の方にも尖ったものが伸びていた。その間を水が通り、低いところへ溜まっている。近づくと、先端から一滴落ちた。
澄んだ音がした。
俺は足を止め、次が落ちるまで待った。掌の光が水面へ映り、僅かに揺れる。奥にも同じようなものが並び、光の届かないところまで続いていた。
「……入ってみるもんだな」
刀へ手を添えると、ゆめもすぐには答えなかった。
そこでしばらく眺めた後、来た方へ戻った。出口へ近づくにつれて光が入り、掌の術を解いても足元が見えるようになる。
外へ出ると、川の音が大きかった。
俺は荷を担ぎ直し、また下流へ向かった。
*
海へ出た後は、岸を辿った。
岩ばかりのところを越えると、長い砂浜があった。更に進めば、木の根が水へ入り、岸そのものが森になっている。干いたところを歩いたはずなのに、戻ってきた時には水が満ちていた。
別の岸へ上がると、今度は黒い砂が足についた。
近くの山から煙が上がっている。登ってみると、岩の裂け目から熱い風が出ていた。俺は顔を近づけすぎずに覗き、少し離れたところから奥を眺めた。赤いものがゆっくり動き、暗い岩の縁を照らしている。
昼には、その山を下りた。
海へ近いところで水が温かかったので、腰まで入ってみた。長くいるつもりはなかったが、脚を伸ばすと気持ちがよかった。
『また百年、お入りになるのでありんすか』
「今日は出るよ。あの時は、湯の周りに霊子が多かったからな。ここは普通に腹が減るし、そろそろ飯を探したい」
『では、そのお言葉を覚えておきんす』
「そんなに信用ないか?」
笑いながら岸へ上がった。
着物を着て、山の反対側へ歩く。振り返ると、煙はまだ上がっていた。あの赤いものも、今頃は同じように動いているのだろう。
次の島では、雨に降られた。
その次の岸では、長い間、川が見つからなかった。高く上がって水のあるところを探し、そこへ下りる。草の中に獣がいれば眺め、見たことのない木があれば、その下を歩いた。
以前なら、修行に向いたところを見つけた時点で荷を下ろしていた。
今は、もう少し先まで行く。
刀を振るのは、夕方に空いた場所を見つけてからでよかった。寝床を囲む結界も、海へ出る時の足場も、移動するたびに使う。昨日は風を受け、今日は波を越え、明日は木々の間を抜ける。使う力も、保つ形も、そのたびに変わった。
荷を濡らさずに川を渡り、そのまま斜面を駆け上がる。
瞬歩で深い割れ目を越え、着地したところから、また歩く。腰の刀を揺らさずに身体を動かすのも、長く続ければ修行になった。
ある日、細い枝の上へ降りた。
枝が僅かにしなっただけで、折れなかった。そのまま踏み出し、隣へ移る。下の木々を抜けるよりも遠くまで見えるので、しばらく上を歩いた。
風が顔へ当たった。
俺は次の枝へ跳び、遠くに見えた川の方へ向かった。
*
川の傍で荷を開くと、包んでいた紙の順番が分からなくなっていた。
黒い砂を挟んだ一枚の下から、洞窟で描いたものが出てくる。その間には、知らない鳥の形があった。旅の途中で足したものを、乾かすたびに重ね直していたせいだった。
俺は平らな石へ並べた。
どの場所も覚えている。
ただ、いつ行ったかを思い出そうとすると、少し迷った。あの谷を下りたのは、煙の上がる山へ行く前だった。鳥を描いたのは、その後だろう。似たものを別の森でも見たので、途中まで線を引き直している。
紙の端へつけた印を数えた。
南極を出てから、三十年近くが経っていた。
「……よく歩いたな」
今回は、同じところへ何十年もいた覚えがない。
それでも、谷を抜けるのに季節が変わり、岸を辿っている間に年を越した。気になる山へ寄れば、その向こうから別の川が見える。川を下れば海へ出て、海には次の島があった。
どれも、自分で選んで歩いてきた道だった。
俺は紙を揃え、刀へ目を向けた。
「ゆめ。次は、少し行き先を決めてみようか」
『また、何か見つけられたので』
「今、思い出したんだ。日本へ出た時は、家の造りを見て、随分昔だと思っただろ。でも、中国なら、あの頃から大きな町があったはずなんだよな」
川の向こうで、煙が上がっていた。
人のいるところは、旅の途中にも何度か通った。けれど、建物の間へ入るより、その先に見えた山へ向かうことが多かった。誰にも声が届かないまま、知らない土地を歩くことにも慣れていた。
今なら、あの頃とは違うものを見られるかもしれない。
「前にここを歩いてた人が、何を残したかも見てみたい。山も川も面白かったけど、人が作ったものにも、まだ見たことないのがあるだろ」
『では、今度は町へ』
「ああ。そこまでの道は、また歩いて探すよ。途中にいい景色があったら、少しくらい寄ってもいいし」
ゆめが笑った。
『少しでお済みになれば、よろしゅうござんすが』
「今回は、ちゃんと着くって。町へ行くつもりで、山へ百年いるようなことはしないよ」
紙を荷へ戻し、立ち上がった。
足元の川は、来た方から流れてきていた。その水に沿って、しばらく岸を歩く。やがて向こうへ渡り、木々の間へ入った。
前世で見た地図を、頭の中へ広げる。
海と山を辿ってきた道の先に、今度は、町のあるところを置いた。