知らぬ言葉に 縁は結ばれ
老いた指に 光は集う
屋根の並ぶところへ出ると、道を歩く者が増えた。
荷を背負った男がいて、籠を両手へ下げた女がいる。車輪の音を立てて通り過ぎた荷車には、壺が幾つも積まれていた。俺はその脇へ寄り、向こうに見える門を眺めた。
大きかった。
壁の上まで人が歩いている。門の手前には何人か集まり、荷を下ろしていた。そこで交わされる言葉は、俺の知っているものとは違った。
中国まで来たのだろう。
海岸から川へ沿って進み、人の増える方へ歩いてきた。途中で見た文字には、読めそうなものもあった。けれど、声に出されると、どこで言葉が切れているのかも分からない。
「……見える身体ができても、今度は言葉か」
腰の刀へ手を添えた。
『お話しになるには、まだ覚えるものがおありのようで』
「そうだな。でも、字なら少しは分かるかもしれない。全部知らないものじゃなくて、見たことある形もあったんだ」
門を通り、家の間へ入った。
道の両側で物を広げている。布の上へ器を並べたところもあれば、籠に入れた野菜を売っているところもあった。火の上へ鍋を掛けた店の前では、湯気と一緒に旨そうな匂いが上がっていた。
俺は少し立ち止まった。
椀を受け取った男が、口をつけている。隣では、女が銭のようなものを掌へ乗せていた。それを店の男へ渡し、今度は自分の椀を受け取る。
久しぶりに、誰かの作った飯が食いたくなった。
荷にはまだ食うものがある。腹が減って動けないわけでもない。それでも、椀の縁へ箸を添えて座っている者たちを見ていると、俺もそこへ入りたかった。
しばらく眺めてから、道の先へ歩いた。
店の間を抜けたところで、袖を引かれた。
振り返ると、背の低い婆さんがいた。
白い髪を後ろへまとめ、片手に籠を持っている。もう一方の手は、俺の袖を摘まんでいた。顔を上げ、こちらへ何か言う。
俺は、その指を見た。
「……俺が見えるのか?」
婆さんは眉を寄せた。
言葉は通じなかったらしい。それでも、袖を離さず、今度は俺の腰へ目を向ける。刀を見てから、道の端へ指を伸ばした。
振り返ると、俺のすぐ後ろを荷車が通っていた。
横へ寄れと、言ったのだろう。
俺は婆さんと一緒に道を空けた。車輪が通り過ぎてから顔を向けると、今度は俺の口元を見ている。ゆっくりと何か言い、首を傾けた。
「ごめん。そっちの言葉は分からないんだ」
俺も首を振った。
婆さんはしばらくこちらを眺め、それから袖を離した。自分の胸へ指を当て、道の向こうを示す。何度か同じように動かしたので、俺もそちらへ目を向けた。
ついてこい、ということらしい。
頷くと、婆さんは籠を持ち直して歩き始めた。
俺も後へ続いた。
*
家の軒先には、細い紙が何枚も下がっていた。
赤いものが書かれている。字のように見えるところもあったが、俺には読めなかった。婆さんはその下を通り、戸を開ける。中へ籠を置いてから、俺を手招きした。
部屋には乾かした草の匂いがあった。
壁へ束を掛け、棚には小さな壺が並んでいる。机の上には筆と紙があった。婆さんは椅子へ座り、向かい側を掌で叩いた。
俺は荷を下ろし、腰を掛けた。
紙を一枚出してくれたので、筆を取る。少し考えてから、自分の名前を書いた。
烏有玄十郎。
婆さんは紙へ顔を近づけた。指で初めの二文字を辿り、俺を見る。胸へ手を当てて頷くと、ようやく口元が緩んだ。
今度は婆さんが筆を取った。
沈、と書いた。
自分を指したので、名前だろう。俺はその字を眺めてから、紙の空いたところへ、見えるか、と書こうとした。だが、それだけで通じる気がしない。
結局、目を指してから自分の胸を叩いた。
婆さんは笑った。
筆で俺を指し、それから腰の刀を示す。紙へ何か書き足した。文章の全部は分からなかったが、その中に、鬼、という字があった。
「……まあ、似たようなもんか」
俺が笑うと、婆さんも肩を揺らした。
やがて立ち上がり、火の傍へ行く。小さな鍋の中を混ぜてから、椀へよそって持ってきた。俺の前へ置き、食えというように指を動かす。
湯気が上がっていた。
俺は椀を受け取り、一口飲んだ。温かく、塩気がある。柔らかいものを噛むと、穀物の甘さがした。
顔を上げると、婆さんがこちらを見ていた。
旨いと伝えたくて頷く。椀へ目を落としてから、もう一度頷いた。婆さんは机に肘をつき、俺が食い終えるまで、そのまま座っていた。
言葉は、一つも通じていなかった。
それでも、椀を空にして差し出すと、もう一杯よそってくれた。
*
初めの頃は、紙へ書く方が多かった。
それでも、分かる字だけを並べれば何でも通じるわけではない。婆さんが眉を寄せた時には、絵を足した。俺が分からない時には、向こうも実物を持ってきてくれた。
水を運べと言われた日には、桶を指してから、外へ連れていかれた。
翌日、同じ言葉が聞こえると、今度は俺から桶を持った。婆さんが頷く。それで、その言葉を一つ覚えた。
飯、火、戸、紙。
暮らしの中で使うものから増えていった。町へ出た時には、婆さんが人と話すのを聞いた。戻ってから紙へ書いてもらい、同じものを指して声に出す。発音がおかしい時には、何度も言い直させられた。
俺が戸口を掃いていると、通り掛かった子供が立ち止まった。
箒を見ていた。
俺の方へは目を向けないまま、一歩近づき、また退く。婆さんが外へ出て声を掛けると、ようやく走っていった。
俺は箒を止めた。
「……これ、まずかったか」
その頃には、短い言葉なら通じるようになっていた。婆さんは箒を取り上げ、俺の背へ軽く当てる。
「外では、わたしが持つ。お前は、内でやれ」
俺は笑って頷いた。
中へ戻ってから、窓越しに外を見る。婆さんが箒を動かしていた。道を通る者は、今度は誰も立ち止まらない。
俺が見えるのは、この家でも婆さんだけだった。
*
婆さんの術を初めて見たのは、裏庭だった。
地面へ紙を置き、四隅に石を乗せる。赤い文字を書いた細い紙が、その周りへ並んでいた。婆さんは俺へ少し下がるように言い、右手を上げた。
指へ、光が集まった。
身体の中から出てきたものだけではなかった。庭へ漂っていた霊子が動き、軒の下からも、木々の間からも、同じところへ寄ってくる。
俺はそちらへ意識を向けた。
光が細く伸び、針の形になった。婆さんが指を振ると、紙の中央へ落ちる。地面へ浅く刺さり、残っていた光が、少し遅れて消えた。
「もう一度、見せてくれないか。今の、集まるところを見たい」
婆さんは俺の顔を見た。
「見えたのか」
「ああ。外から来てた。婆さんの手だけじゃなくて、あの木の方からも」
指を伸ばすと、婆さんは頷いた。地面の紙を置き直し、今度はゆっくり右手を上げる。
霊子が寄った。
俺も、外にあるものを集めることはできる。足場を作る時にも、術の形を整える時にも使ってきた。けれど、婆さんの指へ近づいたものは、そこへ触れる前から、細い針に沿って並び始めていた。
向きを変えると、その流れも曲がる。
俺は紙の傍へしゃがんだ。婆さんが指を下げ、今度は光を地面へ並べる。細い線が四つ伸び、紙を囲った。
そこへ手を差し入れると、指が押し返された。
力を込めれば通せる。だが、そのまま止めて、形を確かめた。四つの線には、外から集まった霊子が残っていた。婆さんの指が離れた後も、同じところで働いている。
俺は顔を上げた。
「これ、どうやって動かしてる?」
「紙に書いてあるだろう。ここへ来い。ここへ留まれ。そうさせている」
「書いたものに合わせて、動かすのか」
「書くだけで動けば、誰でもできる。お前も、その刀へ字を書くだけで振るうのか」
俺は笑った。
「それじゃ振れないな。力も要るし、どこへ動かすか、自分で決めなきゃならない」
「なら、手を出してみろ。お前がいつもやるものを見せてくれ」
右手を開き、
細い糸を指へ掛け、向こうの枝へ伸ばす。巻きつけてから引くと、枝が少し下がった。婆さんは糸を眺め、俺の手首へ指を添える。
「お前の方から、随分と出ている」
「俺が作った術だからな。外にあるものも使うけど、動かすための力は、自分から通してる」
「それだけ持っていれば、そうするかもしれないね。わたしが同じことをしたら、夕方には寝込むよ」
婆さんは俺の糸から手を離し、指先へもう一度、光を集めた。
今度は、枝へ向けた。
外から寄った霊子が細く連なり、その先へ巻きつく。婆さんが手を下げると、枝も下がった。俺の白縫と並んで、二本の光が同じものを引いていた。
向こうへ流れている、婆さん自身の力は少なかった。
その小さな力に、集まった霊子が従っている。
俺は二本の光を見比べた。
前世で、よく似た使い方を見たことがある。
周囲の霊子を集め、武器にしていた者たちだ。婆さんが同じものかは分からない。弓も見ていないし、その名を口にしたこともない。それでも、目の前にある力の扱い方は、俺が思い出したものによく似ていた。
霊子の隷属。
あの言葉を、今なら、前より具体的に考えられる。
*
俺は婆さんから、赤い文字を書いた紙を一枚借りた。
同じ形へ筆を動かしてみたが、紙の上に何かが起きるわけではなかった。何が書かれているのかも聞き、どの線がどの働きを持つのか、分かるところから書き留めた。
婆さんは、全部を説明しようとはしなかった。
俺の言葉では、まだ通じないところもある。そこで止まると、庭へ出て実際に動かしてくれた。俺も自分の術を使い、どこが違うのか見せた。
ある朝、指へ集めた霊子を、少し離れたところで留めた。
そこへ、細い輪を作る。
自分の力を大量に流し込まず、寄ってきたものの向きを揃えた。輪の内側へ更に集め、回り始めたところで、指を動かす。
輪が横へずれた。
俺は通していた力を少し減らした。形が緩みかけたので、残っている霊子へもう一度、働く向きを与える。今度は、輪が保たれた。
掌へ乗せて作る時より、自分から出す分が少ない。
俺は輪を上へ動かし、次に、細い棒へ変えた。その先を地面へ向けると、集まったものが下へ伸びる。土へ触れる前に止め、また戻した。
「……なるほど。こういう使い方もできるのか」
婆さんは戸口へ座っていた。
俺が顔を向けると、手元の布を膝へ置く。
「もう、わたしの紙は要らないか」
「いや。紙に何をさせてるか、先に見せてもらったからできたんだよ。何も知らずに外の霊子を見てても、今までと同じように使ってたと思う」
輪を解いた。
散っていくものを追ってから、もう一度指を伸ばす。寄ってきた霊子を細く並べ、今度は自分の袖の周りへ沿わせた。
婆さんはその光を眺めた。
「お前は、何をしたいんだ」
「自分の力を、もっと上手く使いたい。今あるものだけで済ませずに、できることを増やしたいんだ。長く歩く時にも、誰かと斬り合う時にも、その方がいい」
婆さんは、腰の刀へ目を落とした。
「まだ、斬り合うのか。町には、こんなところまで刃を持って来る者もいるが」
「ここで誰かを斬りたいわけじゃないよ。でも、帰ったら手合わせしたい相手がいる。そいつに、前より動けるようになったって見せたいしな」
袖の周りへ作ったものを解く。
これで、何もかもできるようになったわけではない。自分の身体へ巡らせる力も、刀を振るうための力も、今まで通り必要だった。
ただ、術へ使う分には、もう一つやり方ができた。
集めた霊子を、自分の力で動かし続ける。その時に、自分の力をどれだけ使えば足りるのか。婆さんの指を見てから、その加減を探せるようになった。
旅の途中にも、試せることだった。
*
荷をまとめた日、婆さんは紙を何枚か出してきた。
町へ来た頃に使ったものだった。俺の名前と、向こうの姓。その隣には、桶と椀の絵が残っている。筆を持った婆さんが、その下へ字を足した。
今なら、大体読めた。
どこへ行く。
俺は笑った。
「海へ戻るよ。その前に、この辺りをもう少し見ていくつもりだ。来た時は婆さんについて歩いてたから、町の方は、まだ見てないところが多い」
「道を聞ける者は、向こうにはいないぞ」
「分かってる。高いところへ上がれば、海のある方は見えるしな。もう少し歩いたら、自分で探すよ」
婆さんは筆を置いた。
棚から包みを取ってきて、俺の荷の上へ乗せる。中には、乾かした食べ物が入っていた。初めに出してくれた飯と、同じ匂いがする。
「歩きながらでも食える。水のあるところで休め」
「ありがとう。飯も、言葉も、術も世話になったな。俺が手伝った分じゃ、全然足りないよ」
婆さんは手を振った。
「薪は、しばらく要らないほど積んでいっただろう。裏の戸も直った。あれを毎日、足で押して閉めずに済む」
「あれ、そんなに長く使ってたのか」
「直せる者が来るまでだよ」
俺は戸の方を見て笑った。
この家へ来てから、季節が一つ変わっていた。山で暮らした年月に比べれば、短かった。それでも、初めに袖を引かれた日のことと、今の婆さんの声の間には、幾つものことが増えている。
荷を背負い、戸口へ立った。
婆さんも外へ出てくる。軒へ下がった紙が風に揺れ、その下でこちらを見上げた。
「また来るなら、戸を叩け。黙って入ると、客が驚く」
「そうするよ。箒も、外では持たない」
「それは、帰ってきてからも覚えておけ」
俺は頷き、道へ出た。
少し歩いて振り返ると、婆さんはまだ戸口にいた。手を上げる。その手が、こちらへ振られた。
見送られるのは、久しぶりだった。
角を曲がってから、刀へ手を添えた。
『よい縁でありんしたな』
「ああ。町へ来てみてよかったよ。今度は、飯を見てるだけで終わらなかったし」
人の歩く道へ入る。
籠を抱えた女が通り過ぎ、その後ろを子供が追いかけていった。俺には気づかず、向こうの店へ駆けていく。
俺も、荷を担ぎ直した。
婆さんにもらった包みが背へ当たり、腰にはゆめがいる。袖の中で指を伸ばすと、道へ漂っていた霊子が、細く寄ってきた。
それを掌の上へ留めてから、海へ向かう道を探し始めた。