移ろう岸に 風は帰り
過ぎ去る世に 影は留まる
海の向こうに、低い山が見えた。
夜のうちは黒い形だけだったが、明るくなるにつれて、裾に木が生えているのが分かった。岸には白い波が寄せ、その奥へ家の屋根が幾つか並んでいた。
俺は水面近くへ下りた。
足元に固めた霊子の下を、小さな船が通っていく。二人の男が乗り、岸から離れる方へ進んでいた。交わされた声を聞いて、そちらへ顔を向ける。
聞き覚えのある響きだった。
言葉の全部が分かったわけではない。それでも、長く歩いてきた大陸の岸とは違う。俺は船の行く先を少し眺めてから、陸へ向き直った。
「帰ってきたな」
草履の下へ砂が入った。
最後の足場を解き、波の届かないところへ上がる。荷を下ろして振り返ると、さっきまで歩いていた海が、朝の光を受けていた。
『こちらが、お前様の仰っていた国でありんすか』
「ああ、たぶんな。海を渡る方角も見てたし、船の上で話してた言葉にも覚えがある。初めに来たところからは、随分離れてると思うけど」
婆さんの家を出てからも、旅は続いていた。
町を抜け、山へ入り、また川へ沿って歩いた。大陸の岸へ出た時には、そのまま渡るつもりだったが、北の方に見えた山が気になった。登って向こう側へ下りると、今度は大きな湖があった。
そこから流れる川を辿った。
凍る頃の湖も見てみたくなり、次の季節には別の岸から戻った。海へ出れば、前に通らなかった島へ上がる。そうして歩いている間にも、紙の束は増えていった。
婆さんに教わったことは、その道中で何度も使った。
荷を包む結界へ、周囲の霊子を寄せる。集まったものへ働きを与え、自分から通す力を減らしていく。雨に降られた日にも、海を渡る間にも、術を保つための使い方を変えた。
今、背負ってきた紙は濡れていなかった。
俺は包みの端を確かめ、荷を担ぎ直す。岸へ上がってきた男が、こちらのすぐ脇を通り過ぎた。船から運んだ籠を下ろし、中の魚を並べ始める。
少し離れた家から、女が出てきた。
二人が話す声を聞きながら、俺は道へ入った。
*
海から離れると、畑と田が増えた。
川へ沿って家が建ち、その間を人が歩いている。水を運ぶ者も、草を抜く者もいた。初めて現世へ来た日に見たものと、よく似た暮らしだった。
けれど、同じ景色ではなかった。
家の前を馬が通った。背へ乗った男が手綱を引き、向こうの道へ入っていく。荷を運ぶ者たちがその脇へ寄り、通り過ぎてから、また歩き始めた。
俺も、その後を辿った。
道が広くなり、向こうに囲いが見える。中には大きな建物があった。人の出入りするところを見ていると、同じ荷を運ぶ者でも、そこへ入れる者と、外で待つ者がいる。
少し高いところへ上がった。
囲いの内側には、幾つもの屋根が並んでいた。柱の多い建物があり、その前には広く空けたところがある。俺はしばらく眺めてから、別の方へ目を向けた。
遠くに、瓦の屋根があった。
「……ああ。もう、あるんだな」
思わず声が出た。
現世へ出た頃にも、こういうものを探していた。先生のところには建物があり、爺さんの家にも長く住んだ。それで、日本にも似た景色があるような気がしていたのだ。
今、目の前にあった。
屋根の形を確かめたくて、そちらへ歩く。近づくにつれて、軒へ並んだ瓦の先が見えてきた。柱が立ち、その間から、奥へ入る人の姿が見える。
寺だろう。
中国でも、こういうところを幾つか見た。こちらでは、周りの家よりも屋根が高く、遠くからでもよく分かった。
俺は軒の下へ入り、上を見た。
木を組んだところへ瓦が重なっている。その下を歩いていた男が、柱の傍へ立ち止まった。何かを見上げてから、奥へ向かう。
俺も、その先へ目を向けた。
前世で知っていた日本へ、少し近づいた気がした。
まだ、街も電車もない。俺が暮らしていた家へ続く道も見つからない。それでも、学校で見た写真の中にあったものが、ここでは人の使う建物として立っている。
教科書へ載る前の景色だった。
俺は柱へ手を添えた。
木の表面には、削った跡が残っていた。
*
日が高くなってから、寺を離れた。
大きな建物のあるところばかりを歩いた後では、低い屋根の並ぶ道が落ち着いた。家の間から煮炊きの匂いが漂い、戸口へ子供が座っている。
男が一人、その前へしゃがんだ。
子供の足へ何かを合わせ、紐を結んでいた。終わると立たせ、少し歩かせる。子供は二歩ほど進み、振り返って何か言った。
俺は道の端へ止まった。
爺さんに草履を編んでもらった時のことを思い出した。足を並べ、鼻緒を合わせてもらい、そのまま家の前へ出た。あの草履は、今も荷の奥へ入っている。
俺にとっては、まだ顔を思い浮かべられる出来事だった。
けれど、あの家を出てから、随分と経った。
温泉で百年暮らした。その後は、現世へ出て、山と海を歩き続けている。子供の草履を直した男が、俺の立つところを見ずに道へ出てきた。
横へ寄る。
男は籠を持ち、向こうへ歩いていった。子供がその背へ声を掛け、手を振っている。
『何か、気になることがおありで』
俺は腰の刀へ目を落とした。
「いや。爺さんに草履を合わせてもらった時を思い出したんだ。あの子も、今、同じようなことをしてもらってただろ」
『お荷物の中にも、まだ残っておいでですね』
「ああ。あれは履き潰したくなくてさ。旅に使う方は何度も替えたけど、爺さんのは、しまったまま持ってきてる」
子供が家へ戻った。
戸口にいた女が何か言い、その後ろへ入っていく。俺は二人の姿が見えなくなってから、歩き始めた。
「そろそろ、紙も全部見直したいな。途中では、その時使うものばっかり広げてたから、随分古いのもある」
『では、今宵は筆のお傍でありんすか』
「そうするよ。雨の来なさそうなところを探して、荷を全部出そう。現世へ来た頃に書いたものも、今なら、もっとよく分かるだろうし」
道を外れ、川のある方へ下りた。
*
川の上流で、平らな岩を見つけた。
水の届かないところへ荷を置き、包みを一つずつ開く。紙の束を広げると、その間から、赤い文字を書いた一枚が出てきた。
婆さんにもらったものだった。
端へ、俺が小さく説明を足している。どこへ集め、どこへ留めるか。初めに見せてもらった時には、その字を読めなかった。
今は、その働きも思い出せた。
指先へ周囲の霊子を寄せた。
細い輪を作り、紙の傍へ留める。その下へ石を置き、指を動かした。輪が狭まり、石を挟んで持ち上げる。少し離れたところへ移してから、地面へ戻した。
もう、途中で形が緩むことはなかった。
婆さんの庭では、輪を保つだけでも、指先へ意識を向けていた。今は、石を動かしながら、反対の手で紙を広げられる。雨を避ける屋根を張っても、その輪を崩さずに済む。
俺は術を解き、古い紙を隣へ並べた。
山で刀を振った記録があった。海の中で確かめたものと、砂の上で直した結界。その下には、南極で使う力を調べたものがある。
どれも、同じ俺が書いた。
初めの頃には、その日に起きたことばかり残していた。後になるほど、前に試したものへ書き足すことが増えている。一度うまくいった術も、別の場所で使えば直すところが見つかった。
その年月を、順に拾った。
日本の山と海で四十年。大陸から南極まで歩いていた年月。その後に各地を巡った分と、中国へ渡ってからの日々。
最後まで数えて、俺は筆を止めた。
三百年ほどだった。
「……そんなになるか」
川の音が聞こえた。
顔を上げると、さっきまでと同じように水が流れている。日も、まだ高かった。俺が紙へ向かっている間に変わったものは、岩へ伸びた影くらいだった。
けれど、現世へ来たのは三百年ほど前になる。
あの日、田へ入っていた者たちがいなくなった後も、その子や孫が暮らし、また次の者へ渡していったのだろう。俺が魚を追って海へ潜り、知らない山を登っている間に、幾人もの一生が過ぎていた。
俺は初めの日に書いた紙を広げた。
低い屋根と、田と川。
今日見た瓦の屋根を、その隣へ描く。大きな囲いの中には、人の集まる建物もあった。前世で習った名前を辿ると、ヤマト王権という言葉が浮かんだ。
もう、そういう時代を歩いているのだろう。
西暦なら、六百年くらいか。
細かい年は分からない。それでも、初めに出てきた頃から、三百年ほど過ぎたことと、今日の景色は噛み合っていた。
俺は筆を置いた。
「ゆめ。俺、現世へ来てから三百年くらい歩いてたみたいだ」
『どの岸でも、お前様は次を探しておいででありんしたから』
「そうだな。海へ出たら向こうが見たくなって、山へ登ったら、裏へ下りたくなってた。気づいたら、ここまで来てたよ」
紙へ残った線を指で辿った。
あの滝へ入った日のことも、砂の上で星を見た夜のことも覚えている。婆さんが出してくれた飯も、袖を引いた手も、思い出せた。
それらの間にあった年月だけが、随分長かった。
「この世界にきてから、いや、特に先生と会ってからか。興味があるものに吸い寄せられて、鬼道や卍解の先を研究して、旅をして。気がつけば何百年と時間が経っている。時間の流れは早いものだなぁ。」
腰の刀へ掌を置いた。
ゆめは、しばらく何も言わなかった。
俺もそのまま、川の流れを眺めた。
*
夕方には、紙を全部揃え直した。
旅先で見たものは一つにまとめ、術の記録は、今も使うものから並べる。古い一枚と、新しく書いたものを重ねると、同じ術へ何度も手を入れてきたことが分かった。
荷の底には、爺さんの草履を戻した。
その上へ婆さんの紙を入れ、最後に、現世へ出た最初の日の一枚を収めた。包みを閉じても、今日はまだ背負わなかった。
川から少し離れたところへ、寝床を整える。
屋根の形を作ると、周囲の霊子が寄ってきた。薄い面を保ちながら、自分から通す力を整える。旅を始めた頃より、ずっと少なくて済んだ。
刀を外し、手の届くところへ置いた。
「この辺りで、現世の旅は一区切りにしようか」
鞘へ指を添えると、ゆめの声がした。
『まだ、お歩きになりたいところも、おありでしょうに』
「あるよ。見てないところは、たぶん見たところより多い。でも、それはまた来てもいい。今はここまでに分かったことを、ちゃんと一度まとめたいんだ」
俺は岩へ背を預けた。
「山を歩いてる時は刀と身体のことを考えてた。術を試してる時にはそっちばかり見てた。婆さんのところでは外の霊子の使い方を覚えた。今ならまとめて考えられそうな気がする」
『では、今宵はゆっくりお休みになって。明日、わっちにもお聞かせくださいなんし』
「ああ。聞いてもらいたいことが随分あるよ」
川の向こうで、鳥が鳴いた。
空を横切り、木々の間へ入っていく。俺はその姿を目で追ったが、今日は立ち上がらなかった。
荷の中には、三百年の道が残っている。
明日は、それを初めから広げてみよう。
そう思いながら脚を伸ばすと、夕方の風が、乾いた袖へ入ってきた。