遠き夢に 星は宿り
重なる影に 夜は開く
広げた紙の端へ、朝の光が差していた。
川から水を汲んで戻ると、昨夜張った屋根の下には薄い影が残っていた。荷を脇へ寄せ、昨日揃えた紙を岩の上へ並べる。古いものほど端が擦れ、何度も折ったところへ別の紙を当てていた。
先生の下にいた頃のものまで持ってきたわけではない。それでも、山を出てから書いた記録を辿れば、その頃に考えていたことも思い出せた。
卍解を覚えた。
その先を探した。
先生の下で百年を過ごしても手がかりを掴めず、旅へ出た。爺さんの山で百年。湯の傍で百年。それから現世を三百年ほど歩いている。
先生に会ってから六百年。この世界へ来てからなら、千百年ほどになる。
「随分、遠回りしたな」
独り言を零しながら、紙へ手を伸ばした。
刀を振る時の身体の使い方も、鬼道へ込める力も、昔よりよく分かる。周囲の霊子を集め、そのまま術へ使うことも覚えた。現世の旅を始めた頃の記録へ目を通すと、今なら直せるところが幾つも見つかった。
けれど、卍解の先へ至るために何が要るのか。その考えを一つにまとめるまでには、時間が掛かった。
婆さんの紙を、身体のことを書いた一枚の隣へ置いた。温泉で調べたものをその下へ並べ、最後に刀の記録を重ねる。
「ゆめ。少し、顔を見ながら話したいんだけど」
『ええ。お待ちしておりんす。今朝のお話は、長くなりそうでありんすな』
「そうなると思う。昨日、聞いてもらいたいことがあるって言っただろ。あれから考えてたら、ほかにも話しておきたくなったことがあるんだ」
刀を膝へ置いた。
屋根と荷の結界を確かめ、岩へ背を預ける。川の音を聞きながら目を閉じると、やがて足元へ、馴染みの道の感触が戻ってきた。
*
朱の灯が、川へ映っていた。
橋を渡ると、向こうの建物からゆめが顔を出した。袖を寄せ、俺が来るのを待っている。軒へ入って振り返ると、夜空には幾つもの星が見えた。
この空を眺めながら、自分のことを考えるようになった。
何を覚え、何に迷い、何を望んでいるのか。それを知るたびに、ここにも見たことのない景色が増えていく。ゆめに教えてもらったことを思い出しながら、向かいの席へ座った。
「お持ちになったものは、そちらへ」
卓の上には筆と紙があった。俺は朝に並べた記録を思い浮かべ、その中から話したいことを書き出していく。ゆめは盃を両手で包み、筆の動くところを眺めていた。
身体のことも、霊子のことも書いた。
けれど、この旅を始めた一番古い理由は、そこにも残していなかった。
「その前に、一つ話しておきたいことがあるんだ。今まで、ちゃんと言ってなかったけどさ」
ゆめが顔を上げた。俺は筆を置き、その目を見た。
「俺、ここへ来る前にも生きてたんだよ。別の世界で、普通の人間として」
盃を包んでいた指が止まった。
「そこには死神の話があった。刀の名前を呼ぶと始解して、その先に卍解がある。先生も、その話に出てくる人だったんだ」
口にしてみると、随分と妙な話だった。百年も教わった先生が、昔読んでいた物語の中にいた。目の前に座る女へ、それをどう説明したものかと思いながら言葉を続けた。
「最初は気づかなかったよ。腹は減るし、斬られたら痛いし、次の日も生きてるために必死だった。昔の日本へ来たんだと思ってたんだ。それが、先生に会ってようやく分かった。俺の知ってる話と同じ世界にいるんだって」
ゆめは盃を卓へ戻した。問い返すまでに、少し間があった。
「では、お前様が初めから鬼道をご存じであったのも、そのお話から」
「ああ。黒棺の詠唱なんか、向こうで覚えたものだよ。実際に使うつもりで覚えたわけじゃなかったけどな。こっちへ来てから、あれほど役に立つとは思わなかった」
あの頃は、口に出すだけで楽しかった。
誰もいないところで詠唱を唱え、最後に技の名を呼ぶ。何も起きないと分かっていても、黒い棺が立ち上がるところを思い浮かべた。今では、その中へ相手を閉じ込めるところまで自分の手でできる。
「ずっと黙ってて悪かったな。先生には、とても言えなかった。でも、ゆめには話しておくべきだったと思う。ここは俺自身の世界だって、教えてもらってたのにさ」
ゆめは俺の顔を見ていた。やがて袖を寄せ、卓の上で手を重ねる。
「わっちも、初めて伺うことばかりでありんす。お前様が覚えておいでのことを、わっちが何もかも知っているわけではありんせん」
「そうだったな。俺が話さなきゃ、伝わらないこともあるよな」
「ええ。ですから、今、聞かせていただけたことを嬉しく思いんす」
俺は肩から力を抜いた。話す前には気になっていたゆめの顔を、ようやく落ち着いて見られた。
「向こうでその話を読んでた頃から、気になってたんだ。卍解の先はないのかって。あれだけ凄い力を使えるのに、その先へ進めたら、どんなことになるんだろうってさ」
虚の中には、解放した姿から更に変わる奴がいた。
前世でそれを見た時には驚いた。そんなものがあるなら、死神にもあるのだろうかと続きを待った。その期待を、俺はこっちへ来てからも持っていた。
「それを、お前様ご自身で確かめようとなさった」
「ああ。先生のところで卍解を覚えた時は嬉しかったよ。昔、使ってみたいと思ってた力が、本当に使えたんだから。でも、覚えたら余計に、その先を見たくなった」
先生の下でも探した。刀を振り、ゆめと話し、鬼道を覚えた。それでも手がかりを掴めず、時間だけはあるのだからと旅へ出た。
その時には、六百年も探し続けるとは思っていなかった。
「前世の俺が聞いたら、羨ましがるだろうな。千年以上も生きて、まだ斬魄刀のことを考えてるんだぞ。山へ登っても海へ潜っても、結局そこへ戻ってくる」
「そのお方も、わっちにお会いになりたかったのでしょうか」
ゆめがこちらを見た。真面目な顔をしているので、俺も少し考えてから答えた。
「会いたかったと思うよ。ただ、自分の刀がこんな綺麗な人になるとは思ってなかっただろうけど」
「では、そちらの夢は叶っておいででありんすな」
「そうだな。そこは、昔の俺に自慢していいと思う」
ゆめが口元を袖で隠した。
俺も笑ってから、書きかけの紙を二人の間へ寄せる。前世で思いついた願いを、今は自分の足で追いかけている。その途中で覚えたことを、今日はゆめに全部聞いてもらいたかった。
「それでさ。ここまで旅してきて、ようやく考えがまとまってきたんだ。俺が卍解の先へ進むには、まず俺自身を、もっと深いところから変えなきゃならないんじゃないかって」
自分の掌へ目を落とした。
山を登り、海へ潜り、雪の中で刀を振った身体だ。昔より強くなっている。使える霊力も増えたし、長く戦えるようにもなった。その変化は、自分で覚えていた。
だからこそ、今ある身体を上手く使うことだけでは届かないところがあるのではないかと思った。
「俺の身体も霊子でできてるだろ。外へ集めた霊子で術を作る時は、込める力に耐えられるように形を整える。身体の方にも、同じように考えられるところがあるはずなんだ」
婆さんに教わった輪を、指先へ思い浮かべた。
ただ量を増やせば強くなるわけではなかった。どこを支え、どう繋ぐかで保てる力が変わる。それを身体へ当てはめるなら、今の俺を構成している霊子にも、もっと力を受け止められる強さが要る。
「もっと大きな力を得ても、それを使う身体が今のままだったら、途中で耐えられなくなるかもしれない。卍解の先へ行くなら、その力で動けるところまで身体を鍛えておかなきゃならないと思う」
「お前様は、随分とお強くなられました。それでも、まだ足りぬと」
「ああ。今の俺ならできることは増えたよ。でも、俺が欲しいのは、その先の力まで扱える身体なんだ」
紙へ、身体と書いた。
その隣へ魂魄と書き、筆を止める。
「身体を構成する霊子を強くするだけで済むとも思えない。俺が俺として生きて、考えて、力を使ってる。そっちも含めて、魂魄そのものが、もっと高いところまで至る必要があるんじゃないかな」
その高さを、今の俺は測れない。
けれど、先生と初めて向き合った時にも、爺さんが霊圧を解き放った時にも、相手の前へ立っただけで身体が強張った。戦い方を覚えるたびに、その圧に耐えられるようにもなっていった。
魂魄の存在そのものに、強さの差がある。
それを仮に、
「死神として至れる、一番高いところまで自分を鍛える。身体も、魂魄も。その上でようやく、卍解の先へ進む支度ができるんじゃないかって考えてる」
ゆめは紙を眺め、それから俺へ目を戻した。
「では、その先では、わっちはどうなるのでしょう」
俺は向かいに座る姿を見た。
刀を腰へ差している時にも、声は届く。始解すれば姿が変わり、卍解すれば、願った夢が現れる。そこまで共に来ても、俺はゆめへ頼み、ゆめが応えてくれる形で力を使っていた。
「ゆめは、もう一人の俺なんだよな。ここも俺自身の世界で、その中にゆめがいる。だったら最後には、俺とゆめが一つになるところまで進むんじゃないかと思った」
ゆめの目が、僅かに動いた。
「……わっちと、お前様が」
「ああ。俺が刀を持って力を借りるところから、更に先へ行く。俺自身が、ゆめの力を備えた存在になる。そういう形があってもいいんじゃないかな」
口に出してから、卓へ置いた自分の手を見た。
まだ、試せるものではない。ゆめの手を取ったところで、そのまま一つになるわけでもないだろう。それでも、何を目指して鍛えるのかは、以前よりはっきりしていた。
「もちろん、今考えた仮説だよ。ゆめが消えたり、俺が俺じゃなくなったりするようなことはしたくない。一緒に進んで、その先へ行けるか確かめたいんだ」
ゆめが卓へ手を伸ばした。紙の端を押さえていた俺の指へ、白い指が重なる。
「ならば、わっちにもよくお話しくださいなんし。お前様お一人で、どこまでもお決めになられては困りんす」
「ああ。今度は、考えたところからちゃんと話すよ。今日みたいに、何百年も後になってから言うことがないようにな」
「そのお約束は、忘れんせんよ」
俺は頷き、重ねられた手をしばらくそのままにしていた。
軒の向こうでは、川へ星が映っている。顔を上げると、二つの灯の間に、細い光が一つ見えた。
*
川の音が戻ってきた。
目を開けると、岩の上へ朝に広げた紙が並んでいた。刀は膝にある。俺は柄へ手を置いてから筆を取り、ゆめへ話したことを新しい一枚へ書き始めた。
身体を構成する霊子の強度。
魂魄そのものの霊格。
そして、斬魄刀との一体化。
その下へ、もう一つ書き足した。
自然にある霊子を、自分の力と共に使うこと。
婆さんのやり方を覚えてから、術へ使う力は減らせた。周囲にあるものを集めて形を作り、俺がそこへ働きを与える。今も頭上の屋根には、その使い方を取り入れている。
けれど、刀を振る時や身体を動かす時には、まだ自分の霊力を頼っていた。
「外にある霊子も、身体の中にあるものも、同じように扱えるようになりたいんだよな。術を作る時だけじゃなくて、俺自身が力を使う時にも」
指先へ霊子を寄せた。
細い流れが集まり、掌の上に留まる。そこへ自分の霊力を通すことはできる。それを身体全体で行い、呼吸や瞬歩や刀の一振りまで保てるようにするには、今よりずっと馴染ませなければならなかった。
『あの湯の傍では、随分と身体も楽でありんしたね』
「ああ。腹も減らなかったし、使った後に戻ってくる分も多かった。あそこへ長くいたのは、無駄じゃなかったよ」
掌に留めたものを解いた。
身体へ取り込めるだけで、外の霊子を自在に使えるようになるわけではない。その使い方は、現世へ来てから覚えた。今なら、あの湯の周りでも前とは違う修行ができるだろう。
ただ、もう一つ、行ってみたいところがあった。
「次は、
鞘へ置いた指を動かした。
「霊子の濃い世界なんだ。長く身体を馴染ませながら、外にあるものを使う修行もしたい。俺の霊力だけでできることを、周りの霊子まで使って、どこまで広げられるか試すには都合がいいと思う」
それに、虚がいる。
互いを喰らい、長い年月を生きたものもいるだろう。爺さんの山を離れてから、刀も鬼道もよく使った。けれど、あの日のように全てを使って斬り合う機会は少なかった。
鍛えたものを戦いの中でも確かめたかった。
『今度のお旅は、随分と物騒になりそうでありんすな』
「そうだろうな。景色を眺めてるだけじゃ済まないと思う。でも、今の俺なら行ける。向こうを歩く間に、考えたことを一つずつ確かめていこう」
紙の墨が乾くのを待ち、束へ加えた。
現世で書いたものが、その下へ重なっている。山も海も、砂も雪も見てきた。それぞれの場所で試したことが、ようやく次に行くところへ繋がった。
俺は荷を包み直した。
*
川を離れ、人の通らない斜面へ上がった。
枝の向こうに空が見える。地面には草が生え、少し下には水の流れる音があった。俺は荷を背負い直し、刀の位置を確かめた。
現世へ来た日にも、こういうところへ出た。
あの時は、目の前にあるものを全部見てみたかった。今もその気持ちはある。まだ登っていない山も、渡っていない海も残っていた。
それは、また戻ってから歩けばいい。
「じゃあ、行こうか。向こうでも、話に付き合ってくれよ」
『ええ。お前様の夢の続きでありんしょう。わっちも、お供いたしんす』
左手を前へ出した。
立っている現世を確かめ、右手には、繋ぐ先の世界を思い浮かべる。ここへ来るために作った道を、今度は別の岸へ渡す。
【左手に座す灰の番人 右手に眠る砂の花嫁
三つに裂けた冠 互いの岸を知らぬ双子
橋を喰らう蛇は尾を呑み 戸を守る鳥は眼を閉じる
此岸に靴を 彼岸に影を 帰らぬ者に帰るべき門を
隔てる壁よ背を向けよ 閉ざせる闇よ身を横たえよ
左に留め 右に招け 離れし両の掌を一条に結べ
星の届かぬ淵に梁を渡し 名もなき空に敷居を据えよ
我が立つ岸より 我が望む岸へ
三つの世を隔てる帳よ⸺今ひとたび、道となれ】
目の前へ、黒い口が開いた。
流れる闇の中へ霊子を固め、足場を延ばす。向こうへ続くところを確かめてから、一歩目を踏んだ。草を揺らす風が背へ当たり、すぐに遠ざかっていく。
振り返ると、枝の間に青い空があった。
三百年も歩いた世界を、しばらく見ていた。やがて口を閉じ、先へ向き直る。足元の白い道は、闇の奥まで続いていた。
歩くにつれて、周囲へ流れる霊子が濃くなっていく。
出口が見えた。
白いものが、向こうへ広がっていた。砂だった。最後の足場を踏み、外へ出ると、草履の下で細かな粒が鳴った。
空は黒い。
高いところに月があり、その下には白い砂が果てまで続いている。木のようなものが疎らに立ち、風が吹くたびに足元の砂が薄く流れた。
俺は道を閉じ、深く息を吸った。
現世では遠くから寄せていた霊子が、ここでは身体のすぐ傍にある。肌へ触れるものも、周囲へ意識を向けた時の密度も違った。指先を動かすだけで、その流れを幾つも捉えられた。
「……なるほど。これは、長く居たくなるな」
ゆめの笑う声がした。
俺は白い砂を踏み、月の下へ歩き出した。