踏みゆく砂に 月は沈まず
満ちゆく力に 夢は眠らず
34.白砂の足跡
砂の上には、俺の足跡だけが続いていた。
振り返ると、遠くの砂丘へ登ったところから、緩やかな線が延びている。風の当たるところでは既に崩れていた。ここへ来てから随分と歩いたが、空の明るさは変わらない。頭上には月があり、その下へ白い砂が広がっていた。
現世で砂漠を歩いた時には、日が昇れば暑くなり、沈めば冷えた。ここでは着物を脱ぐほど暑くもなく、夜を待って休むこともできない。腹が減らないので、飯を食う間隔で時を数えることもなかった。
「これ、紙へ残しておかないと、また何百年も経つな」
荷から一枚出し、歩いた日数を書き足した。寝て起きるたびに一本、長く起きていた時にはその分も加える。正確な日付は分からなくても、現世で三百年を数え直した時よりは楽になるだろう。
『お食事の記録がなくなると、随分と短くなりんすね』
「魚を何匹食ったかばっかり書いてたわけじゃないだろ。今日は向こうへ見えてるところまで行くよ。砂とは色が違うし、何かあると思うんだ」
紙を収め、先へ進んだ。
近づくにつれて、黒い形が幾つも分かれた。岩かと思っていたが、枝があった。背の低い木が寄り集まり、砂丘の陰に小さな林を作っている。
幹は灰色で、葉は細かった。月の光を受けたところだけ、銀色に見える。根元には砂が溜まっていたが、その奥には硬い地面もあった。
枝へ手を伸ばした。
爺さんの山で見た木と同じように、その中へ霊子がまとまっている。葉を一枚摘むと、細かな筋に沿って力が通るところを捉えられた。指先へ寄せた大気の霊子と並べ、それぞれの感触を確かめる。
この林も、歩いてきた砂も、俺の身体も霊子でできていた。
掌へ集めたものを解き、葉を荷へ収めた。もう少し奥まで見てみようと枝の間へ入った時、砂が鳴った。
足音は、俺のものではなかった。
林の向こうに、白い顔が見えた。縦に長い仮面の両脇から角が伸び、その下へ黒い身体が続いている。低く構えた四本の脚が、ゆっくり砂を踏んだ。
俺は荷の紐を肩へ掛け直した。
「そんなに見なくても、こっちからは寄っていかないよ」
虚は答えなかった。口を開くと、細い牙の奥へ赤い光が集まった。
腰から刀を抜いた。
光が膨らむより先に踏み込み、仮面の中央へ刃を入れる。振り抜いたところで虚の身体が左右へ倒れ、枝へぶつかった。喉に溜めていた光は放たれず、やがてその姿も崩れていった。
刀を払って鞘へ戻す。
根元に荷を置き、さっき拾った葉をもう一度出した。斬る前に巡らせた霊力と、斬った後の身体を確かめる。使った分は、既に周囲から補われ始めていた。
『お怪我もなく、何よりでありんす』
「ああ。でも、こいつを何匹斬ったところで、爺さんとの手合わせほど身体を使うことにはならないな。もう少し、広く歩いてみよう」
枝の下へ座り、刀を膝に置いた。
休む間にも、身体へ入ってくる霊子は捉えられた。ここへ来た目的を思い出し、その流れへしばらく意識を向けていた。
*
林を離れた後には、岩の続くところへ出た。
高いところへ登ると、砂丘の間に黒い帯が見えた。下りてみれば、地面が深く裂けている。崖を伝って底へ降りると、そこには月の届かない道があった。
壁へ触れながら歩いた。
岩には穴が幾つもあり、その向こうから虚の気配がした。出てこないものへは手を出さず、俺の道へ降りてきたものだけを斬った。刃を受けるものもいたが、次の一太刀が届く前に首を取れた。
地上へ戻った時には、最初に降りたところが分からないほど離れていた。
また砂を歩いた。
白い砂の中に黒い粒が混じるところがあり、足を取られるほど柔らかいところもあった。岩の陰から霊子の流れが立ち上る場所を見つければ、そこで刀を振った。自分の霊力を使い、その後に補われる分を追う。場所が変わるたびに、同じことを試した。
何度も眠り、何度も起きた。
紙の線が増え、その束を一つ包み直した頃、湖へ出た。
初めは、地面に空が映っているのかと思った。砂丘を下りるにつれて月が二つに見え、岸へ近づくと、下の方だけが揺れた。
「水まであるのか」
荷を下ろし、岸へしゃがんだ。
指を入れると冷たかった。掬った水は掌へ溜まり、指の隙間から落ちていく。周囲の砂が白いので、少し沖まで底が見えた。それより先は暗く、何も分からない。
靴を脱いで入ってみた。
膝の高さから急に深くなる。俺は岸へ荷を残し、水の中を進んだ。底には丸い石が幾つもあり、その間を、小さな白いものが逃げていった。
追いかけはしなかった。
水の中でも霊子は濃い。身体を動かすたびに、周囲にあるものと自分の内側を流れる力を確かめた。現世の海で試したことを思い出し、同じ動きをここでも繰り返す。
岸へ戻ると、ゆめの声がした。
『今度は、こちらで長くお過ごしになるのでしょうか』
「少しはいるよ。水の中で試せることもあるし、底の方も見ておきたい。ただ、前みたいに何十年もここだけで暮らすつもりはないな」
濡れた髪を背へ払い、岩へ腰を下ろした。
「もう少し歩いて、ほかのところも探そう。濃い場所も薄い場所もある。その違いで、俺の身体の方がどう変わるか見たいんだ」
湖には波が寄せていた。
音を聞きながら刀を拭き、紙へ岸の形を描いた。次に通る時、同じところへ戻ってこられるように、遠くの岩山も書き加えた。
*
虚圏には、思っていたより多くの景色があった。
砂へ半ば埋まった林。岩の隙間を流れる水。深い谷と、その底へ広がる洞穴。どこまで歩いても砂しかないところを抜けた後に、木々の影が現れることもあった。
気になる方へ歩いた。
地面を踏み、崖を登り、時には空へ足場を作って先を眺める。虚の群れに出くわせば、その中を斬って抜けた。俺の姿を見た途端に逃げるものも増えたが、追ってまで刀を振ることはしなかった。
一太刀では仕留められない虚に出会ったのは、岩山の麓だった。
俺が斬った腕の奥から、別の腕が伸びた。骨のような刃を振り回し、近くの岩までまとめて切り崩してくる。首へ入れた刀を胸の硬い殻で受け、そのままこちらを押し潰そうとした。
殻を斬ることはできた。
けれど、切り口から伸びた腕が俺の手首へ迫った。左手で払い、瞬歩で背後へ抜ける。振り向いた仮面の下へ、掌を向けた。
【
光が胸を貫き、向こうの岩まで穿った。
虚はそれでも立っていた。穴の縁が動き、崩れた肉が寄ってくる。俺は刀を構え直し、その姿を見た。
「丈夫だな。これなら、少しは付き合ってもらえるか」
虚が吼えた。
踏み込んできたところへ、こちらからも入った。振り下ろされた腕を斬り、次の刃を受ける。足元へ伸びてきたものを避け、その背へ回って刀を振った。
何度か打ち合ううちに、相手の動きが遅れ始めた。
俺の腕には、まだ力が残っていた。斬った後に周囲から補われる分が多い。現世で同じだけ動いていた時より、ずっと長く刀を振れる。
最後に仮面を割った。
虚が崩れた後、岩へ刀を立て、呼吸を整えた。身体へ入ってくる霊子を追いながら、使った力を書き留める。
こうした戦いを、旅の中で重ねた。
刀の扱いはよくなった。瞬歩で踏むところも、鬼道を放つ間合いも、相手の動きへ合わせやすくなった。霊力も増えている。ここへ来た頃より強くなったことは分かった。
ただ、魂魄の霊格を上げるために、何をしているのか。
その答えは、斬った虚の数からは出せなかった。
*
昔描いた湖の岸へ、再び足が着いた。
向こうの岩山を見て、荷の紙を探した。線の擦れた一枚を広げると、山の形も、岸へ突き出した岩も同じだった。ただ、前に腰を下ろしたところには、今は水があった。
少し上へ登り、荷を置いた。
歩いた日数を数え直す。道中で何度か揃えていたので、初めから全部拾う必要はなかった。それでも、最後の束まで辿るには時間が掛かった。
百年ほどになる。
「……もう、そんなに歩いたのか」
紙を重ね、湖へ目を向けた。
前にここへ来た日のことは覚えている。水へ入ったところも、底で見た石も、岸へ戻ってゆめと話したことも思い出せた。その後に通った林や谷まで拾っていくと、確かに、それだけの日々を歩いていた。
俺は刀を外し、岩へ座った。
「ゆめ。少し、やり方を変えようと思う」
『ここまで歩いて、何かお分かりになったのでしょうか』
「身体も術も、前よりよく使えるようになった。戦えば、どこが変わったか確かめられる。ただ、魂魄そのものを高めようと思ってた割には、結局、戦い方ばっかり磨いてた気がするんだ」
膝へ掌を置いた。
霊力を巡らせる。使えば周囲から補われる。その繰り返しを、ここで百年も続けてきた。けれど、取り込んだものが身体へ馴染むところを、長く追ったことは少なかった。
歩いている時には道を見る。
戦っている時には相手を見る。
力が戻れば、また先へ進んでいた。
「今度は座って、そっちへ集中してみるよ。外から取り込むものが、俺の中でどう巡るか。自分の霊力と一緒に使うなら、身体へ入ってきたところから、ちゃんと馴染ませたい」
『お前様が、お座りになったままで。山で紙を広げておいでの時にも、何か思いつけば、すぐに外へお出ましになっておいででしたのに』
「それは、しばらく我慢するよ。湖の向こうも気になるけどな。百年歩いてきたんだ。今度は、自分の中をよく見てみようと思う」
ゆめの笑う声がした。
俺も笑ってから立ち上がり、岩の周りを歩いた。崖が風を遮り、湖を見下ろせるところだった。近くに虚の気配はない。荷を置く場所を決め、周囲へ結界を張る。
道具を出し、紙を乾いたところへ収めた。
刀は、座った時に手が届く位置へ置いた。百年も背負ってきた荷を下ろすと、肩が軽くなった。
『では、今度はわっちとも、ゆっくりお話しになれんすね』
「ああ。一人で黙って座ってるつもりじゃないよ。気づいたことは話すし、ゆめの方からも聞いてくれ。途中で俺が湖へ潜りに行こうとしたら、止めてもらってもいい」
『それは、覚えておきんしょう。お前様からのお頼みでありんすから』
俺は岩へ座り、脚を組んだ。
目を閉じると、湖へ寄せる波の音が聞こえる。着物の袖が風で動き、頬には冷たいものが触れていた。その中へ意識を向けると、周囲の霊子が幾つもの流れになって捉えられた。
少しずつ身体へ取り込む。
腕へ、胸へ、脚へ。自分の霊力を巡らせながら、入ってきたものを追った。術を作る時には外へ留めていた霊子が、今は俺の内側へある。
肩へ力が入ったので、息を吐いた。
急いで集める必要はない。今は、取り込んだ分を身体の隅まで巡らせる。何かを放つために掌へ集めることも、刀へ込めることもせず、その流れを保っていた。
やがて、湖の音が気にならなくなった。
袖を揺らす風も、そのまま受けた。
俺は目を閉じたまま、次に入ってくる霊子を迎えた。