閉じた瞳に 岸は失せ
巡りゆく夜に 魂は満ちる
掌へ置いた指が、僅かに痺れていた。
腕を伝って入ってきた霊子を胸へ巡らせると、肩の辺りに重さが残った。そこから先へ通そうとすると、自分の霊力まで乱れる。俺は取り込む量を減らし、腕に留まっていた分をゆっくり外へ戻した。
目を開ける。
湖の向こうには岩山があった。座る前と同じところへ月が掛かり、水面の光が揺れている。膝へ置いた手を持ち上げると、指は普段通りに動いた。
「集めるだけなら、幾らでもできるんだけどな」
指先へ霊子を寄せた。掌の上に球を作り、そのまま肩の高さまで持ち上げる。形を変えて輪にし、広げてから解いた。
外で扱う分には困らない。
身体へ取り込む時にも、減った力を補うくらいなら自然にできる。けれど、今は使って減らしたわけではなかった。既にある力へ、更に外から取り込んだものを加えようとしていた。
『お前様。腕へばかり集めておいででは、窮屈になりんせんか』
「そうだな。外で術を作る時と同じように、先にここへ寄せてた。入れるところから決めすぎてたのかもしれない」
両手を膝へ戻した。
腕へ集めるのをやめ、身体の周り全体へ意識を向ける。胸や背へ触れるものも、脚の傍を流れるものもあった。その中から少しずつ迎え、自分の霊力を巡らせながら馴染ませていく。
今度は肩へ重さが溜まらなかった。
ただ、量を増やすと腹の奥が張った。俺はそこで止め、入ってきた分が手足まで巡るのを待った。
湖へ寄せる波の音を聞きながら、同じことを繰り返した。
*
何度目かに目を開けた時、結界の外へ砂が積もっていた。
座っている岩の下まで白い粒が寄り、荷を置いたところにも薄く溜まっている。筆を取りに手を伸ばすと、包みの上から細かな砂が落ちた。
座る前に記したものを見た。
どれほど経ったのか、自分の感覚だけでははっきりしなかった。何度か眠ったことは覚えている。身体の内側へ意識を向けているうちに、その間隔が長くなっていた。
「時を残す方も、考え直すか」
紙を眺めてから、小さな術を作った。
輪の内側に霊力を一定の速さで巡らせ、一巡するたびに白い点を加える。点が輪を埋めたところで外側へ一つ移す。その繰り返しが続くように整え、荷の傍へ置いた。
現世にいた時の一日を思い出しながら、巡る速さを決めた。多少のずれは出るだろうが、眠るたびに数えるよりはましだった。
『今度は、ご自身がお忘れになっても、こちらが覚えておいでで』
「ああ。これなら座ってる途中で、何日目だったか考えなくて済む。たまに見て、紙へ移せばいいよ」
砂を払って荷を包み直し、湖へ下りた。
水で顔を洗った。指の間から落ちた滴が、岸の石へ当たる。水面へ映った自分の顔を見てから、濡れた手を拭った。
刀を振りたくなった。
腰へ差した柄に手を掛け、少し考える。そのまま一度抜き、湖へ向けて構えた。腕へ巡らせた力は、以前より落ち着いていた。切っ先を上げても、肩の内側に張りは出ない。
一太刀だけ振った。
刃が風を切り、その先で水面が細く割れた。俺は刀を戻し、岩の方へ向き直った。
『もう、お戻りになるので』
「今日は、これでいいよ。今の感じを忘れないうちに、もう少し続けたい」
草履へ入った砂を落とし、元の場所へ座った。
*
初めの数年は、取り込める量を少しずつ増やした。
胸の奥へ張りが出ることも、脚へ力が溜まって動かしにくくなることもあった。そのたびに流れを整え、一度に入れる分を減らした。強引に押し込めば早く進むようなものではなかった。
身体は、前の日に馴染んだものを覚えていた。
同じ量を迎えても、次には楽に巡る。そこでまた少し増やし、手足まで行き渡るのを待つ。何度も重ねるうちに、座り始めた頃には腹が張った量でも、普段の呼吸を変えずに受けられるようになった。
入ってきたものが、自分の霊力と共に巡った。
その感触を追い続けていると、外から取り込んだ分を一つずつ区別する必要も減っていった。初めは腕へ入ったところから先まで覚えていたものが、何度も巡るうちに馴染み、今ある力の中へ混じる。
俺はそこで、出ていく方にも意識を向けた。
少しだけ外へ流す。
その分を迎え、また巡らせる。身体へ力を溜め込むばかりだった頃より、流れは滑らかになった。胸へ集めず、手足で止めず、全身を通して周囲へ戻す。
座っている岩の周りに、静かな流れができた。
大気の霊子が寄り、俺の身体を巡り、再び外へ流れていく。その中で身体が少しずつ変わっていることも捉えられた。
以前より多くの力を巡らせても、内側が軋まない。
皮膚の下も、腕の奥も、同じ量では重さを感じなくなった。身体を形作る霊子のまとまりが、その流れを受け止められるようになっていた。
目を開け、左手を握った。
力を込める前から、指に強さがあった。
「……変わってるな」
声に出すと、ゆめが答えた。
『この頃は、お前様の力が静かに巡っておいででありんす。以前は増やされるたびに、こちらにも波が立っておりんした』
「今は?」
『川の流れが増しておりんす。それでも、岸を越えては来んせん』
俺は掌を開いた。
身体のことだけを見ていたつもりだったが、変化は精神世界にも現れていた。自分の内側へ目を向けると、そこを巡る力まで、前より深く捉えられた。
ゆめの言葉を紙へ残し、また目を閉じた。
*
十年を越えた頃から、長く座っていることが苦にならなくなった。
時を数える術へ点が増え、紙へ移すたびに束が厚くなる。結界の周りには砂が寄り、湖の岸も少しずつ形を変えた。水が近づけば座るところを上へ移し、風に晒されるようになれば岩陰へ寄った。
場所を替える間にも、循環は保てた。
それを確かめた日は、少し長く岸を歩いた。荷を持ち上げ、刀を腰へ差し、段差を越える。動くたびに流れが乱れるかと思ったが、歩く程度なら大きく変わらなかった。
嬉しくなって、そのまま湖を半周した。
戻った時には、ゆめに笑われた。
『向こうまで行かぬようにと、お頼みになったのは、お前様でありんしたね』
「行ってないだろ。こっち側を歩いただけだよ。身体を動かした時に、どうなるかも見ておきたかったんだ」
『ええ。戻っておいでになったので、今宵はそういうことにいたしんしょう』
俺も笑い、岩へ座った。
座ると、手足へ使っていた分が静まった。外から入る流れを増やし、全身へ巡らせる。以前のように一か所ずつ追わなくても、どこを流れているのか分かる。
更に年月が過ぎると、迎える時の感触まで変わった。
身体へ入ってくる瞬間を探していたのに、その境目が曖昧になった。胸の内側で捉えた流れが、そのまま背の向こうにも続いている。腕の中にあるものを追えば、指先から離れたところにも同じ流れがあった。
目を開けかけ、また閉じた。
自分の身体の位置は分かる。膝へ置いた手も、組んだ脚も、岩へ触れたところも捉えられた。それと共に、周囲を巡る霊子まで近く感じられた。
身体を巡らせていた力を、そちらへ流した。
外へ出たところで意識を切らず、その先を追う。戻ってきたものを迎える時にも、内へ入ったところで改めて掴み直す必要がなかった。
俺はしばらく、そのまま座っていた。
外を巡っているものと、胸の奥にあるもの。どちらも同じ流れの中へあった。
「ゆめ。今、ちょっと妙な感じなんだ。自分の霊力がどこまでか、前みたいには分からない」
『お身体の具合はいかがで』
「楽だよ。無理に入れてる感じもない。外へあるものまで、そのまま巡ってる。俺の中を通ってるのに、俺だけのものを使ってる感じがしないんだ」
答えながら、掌を持ち上げた。
そこへ球を作ろうと思った。以前のように外から寄せる動きを意識する前に、指の間へ白い光が集まった。身体を巡る流れと、周囲から形を作るものが、そのまま繋がっていた。
俺は球を解いた。
散った霊子の一部が、また身体の周りを巡っていく。その中から次を迎え、胸へ、脚へ、腕へ通した。
目を閉じている間にも、口元が緩んだ。
このやり方で、進める。
*
五十年目の印を紙へ移した。
座り始めた頃の記録を隣へ置くと、書いてある量が随分と少なく見えた。あの時は、これだけを巡らせるにも肩が痺れ、腹の奥が張っていた。
今は、その何倍もの力が身体を通っている。
それを保つために歯を食いしばることも、手足へ意識を張りつけることもなくなった。魂魄と身体が、周囲にある霊子を受け止め、巡らせるものになっていた。
紙を収め、立ち上がった。
膝を伸ばしたところで、自分の重さが岩へ掛かる。その感触まで前とは違った。強く踏んでいないのに、足元へ小さな亀裂が入ったので、俺は力を収めた。
「……まずいな。力加減をちゃんと覚えないと」
腕を持ち上げ、掌へ力を集めた。
薄い光を作るつもりだった。けれど、指先へ生じたものは、すぐに手の幅を越えた。俺は集めるのを止め、少しずつ解いていった。
術の形は覚えている。
そこへ通る力が、昔とは違っていた。
『お前様。随分と大きなものをお作りになるおつもりで』
「いや、これくらいのつもりだったんだけどな。思ってたよりおおきくなってしまった。前までの感覚で力を入れると、余計なところまで壊しそうだよ」
掌を閉じ、刀へ手を掛けた。
抜いた刃を前へ向ける。霊力を巡らせると、身体の周りにあるものまで、それに応じて動いた。刀を振るために使う力を慎重に減らし、腰を落とした。
一太刀を振った。
湖の水が割れた。
岸の近くへ細い筋を入れるつもりだったのに、その先まで水が押し開かれた。露わになった底へ月の光が差し、遅れて両側から水が戻る。大きな波が寄せてきたので、俺は岩の上へ跳んだ。
着地したところでも、石が砕けた。
刀を下げ、湖を見た。
「これは、しばらく歩くのも気をつけた方がいいな」
『それほどお強くなられても、最初になさるのは、お水遊びでありんすか』
「遊んでないって。こんなことになると思わなかったんだよ」
笑いながら刀を戻した。
それでも、柄へ掛けた手はなかなか離れなかった。五十年前に立てた仮説の一つを、自分の身体で確かめられた。魂魄も、それを形作る霊子も、まだ変わっていける。
座っていた岩へ目を向けた。
もう少し、続けよう。
この流れを保ち、身体へ馴染ませながら、今度は調整していこう。刀も鬼道も、今の俺が扱う力で使えるようにしていきたい。
「ゆめ。まだ付き合ってもらうよ。ここまで来たら、どこまで行けるか見たい」
『ええ。わっちも、ここからお前様が振るわれる刀を見てみとうございんす。今度は、湖まで斬らぬようになさって』
俺は頷き、足元の力を確かめた。
まずは岩を砕かずに一歩進む。
草履が地面へ着いた。今度は亀裂が入らなかったので、その隣へもう片方の足を下ろした。身体の内と外を巡る流れは、どちらの足を動かしても続いていた。
湖には、まだ波が残っていた。