満ちたる月に 果ては見え
明けざる夢に 道は続く
細い糸を、岩の窪みへ渡した。
両端を留め、真ん中へ小石を載せる。糸は沈まなかった。指を動かすと石だけが持ち上がり、その下に、白い線が残った。
少しずつ細くする。
以前なら、この辺りで石の重さに負けていた。今は、目を凝らさなければ見つからないほど細くしても、形が崩れない。俺は石を岩へ戻し、指先に残った糸を眺めた。
「こんなに変わるんだな。同じ
『昨日は、石まで割っておいででありんしたね』
「挟むところに力を入れすぎたんだ。今日は持ち上がっただろ。次は紙を拾えるくらいにするよ」
荷から一枚取り出し、岩の上へ置いた。
白い糸を端へ触れさせる。持ち上げたところで紙に皺が寄ったので、糸を二本に増やし、下から支えた。風に煽られても破れず、俺の掌へ戻ってきた。
紙には、五十年前の記録が残っていた。
今となっては、随分と弱い術を使っている。それでも、当時の俺には、そこへ書いた量が扱いやすかった。刀を振る時にも、瞬歩で踏み出す時にも、それを頼りに身体を動かしていたのだ。
今の身体で、もう一度合わせ直す。
糸を解き、立ち上がった。湖までの道へ足を向け、岩の縁から下りる。着地した石は砕けなかった。続けて歩き、岸へ着いたところで腰の刀を抜いた。
水際に、小さな石があった。
刃を当て、その真ん中を斬る。二つになった石は左右へ倒れたが、その下の地面には傷が入らなかった。
『今度は、お水を残されんしたね』
「毎回あんな波を立ててたら、落ち着いて修行できないからな。湖には、もう少し付き合ってもらいたいし」
刀を戻し、水へしゃがんだ。
指先を浸すと、冷たさが伝わった。周囲の霊子は、そうしている間にも身体を巡っている。量を減らさなくても、触れた水を吹き飛ばさずに済んだ。
掌へ水を掬い、顔を洗った。
*
刀を振る場所は、湖から離れたところへ移した。
岩山を越えると、白い砂の広がる土地があった。少し遠くに大きな岩が並び、その間へ風が抜けている。荷は湖の傍へ残し、身体の内と外を巡る流れを保ったまま、そこまで通った。
初めは歩いた。
次に走り、やがて瞬歩を使った。踏み出す時に脚へ通す力を減らすと、身体が軽々と前へ進んだ。以前のつもりで距離を決めれば、止まる場所を越えてしまう。
岩へぶつかる前に足をつき、向きを変えた。
砂が後ろへ噴き上がった。俺はその跡を振り返り、次にはもっと早く力を緩めた。何度も往復するうちに、岩の手前へ、砂を舞い上げずに立てるようになった。
刀を抜いたのは、それからだった。
踏み込み、斬り上げる。刃の向きを変えて横へ払い、そのまま後ろへ下がった。身体を動かすために使う分と、刀へ乗る分を確かめながら、一つずつ繋いでいく。
長く使ってきた動きは、身体が覚えていた。
ただ、同じ動きで届くところが変わっている。踏み込みが深くなり、刀は速く、振り抜いた後にも余裕があった。以前は足を止めて受けていた斬撃を思い浮かべ、横へ抜けてから、相手の背へ届く位置に刃を返した。
先生と、もう一度斬り合ってみたい。
そう思うと、自然に次の動きが浮かんだ。先生なら、俺が背へ回る前に向き直るだろう。そこへ刀を合わせ、押し返された時には、左手から鬼道を放つ。
誰もいない砂の上で、足を運んだ。
刀を振り終えても、循環は続いていた。
『随分と楽しそうでありんすな。先ほどから、こちらへも笑い声が届いておりんす』
「先生の刀を思い出してたんだ。今なら、あの時は間に合わなかったところにも手が届きそうでさ。爺さんの瞬歩も、もう少し長く追えるかもしれない」
『では、お帰りになった折には、またお怪我をなさるおつもりで』
「そこは、俺が勝って帰る方も考えてくれよ。これだけ修行してるんだから」
笑いながら刀を下げた。
帰ったら、きっと手合わせを頼む。
その時の二人の顔まで思い浮かび、俺はもう一度、砂を踏んだ。
*
鬼道を使うと、変化は更にはっきりした。
指先へ作った小さな火が、岩へ深い穴を穿った。
俺は離れたところへ、幾つもの結界を張った。
厚さを揃え、間を空けて並べる。そこへ
「……これでも、まだ多いか」
手を下ろし、結界を張り直した。
次は放つ光を細くした。流す霊力も減らし、最初の一枚だけを抜けるように狙う。二枚目に亀裂が入ったので、更に減らした。何度か続けるうちに、穴の開いた一枚の向こうへ、無傷の結界を残せた。
それから、威力を順に上げていった。
二枚を貫く。三枚を貫く。放つ前に決めたところまで届き、その先では止まる。太く広げれば岩を削り、絞れば小さな穴を開けた。
術を使う間にも、周囲の霊子は身体を巡っていた。
放つために力を使えば、その流れから補われる。以前より遥かに強い術を繰り返しても、次に使う分が残った。休まずに続けた日の終わりにも、俺は歩いて湖へ戻れた。
その途中で、虚に襲われることがあった。
岩陰から出てきた大きな腕が、頭へ振り下ろされる。掌の内側に口があり、そこへ赤い光が溜まっていた。俺は足を止め、左手を上げた。
「
透明な壁へ、腕が叩きつけられた。
骨を打つ鈍い音がして、虚が吼える。続けて放たれた光も壁の表面へ広がり、俺のところへは届かなかった。相手が腕を引く前に瞬歩で脇へ抜け、その顔の前へ立った。
刀を一度振った。
仮面が割れ、巨体が砂へ倒れた。俺は刃を払い、断空を解く。荷を置いた湖までは、まだ少しあった。
『今日は、刀だけでお済ませになりんしたね』
「近かったからな。術を撃つより、この方が早かった。壁も壊れなかったし、前より随分楽に受けられるよ」
歩きながら、左手を握った。
どれほど強くなったのか、まだ全てを確かめられたわけではない。ただ、今まで使ってきた刀も術も、俺の身体が変わった分だけ、確かに先へ進んでいた。
*
三十年ほど過ぎた頃から、記録の数字が変わらなくなった。
初めは、使い方が馴染んだからだと思った。少ない力で扱えるようになれば、同じ術を使うために必要な量も落ち着く。それなら、身体の方を調べれば変化が見つかるはずだった。
座って、巡らせる量を増やした。
身体の内側へ意識を向け、腕も胸も、脚の奥も確かめる。以前は数年も経てば、受け止められる量が増えていた。身体を形作る霊子も、その分だけ強くなっていた。
今は、前に調べた時と同じところで止まった。
もう少し増やすと、全身へ張りが出る。流れを整えても、長く続けても、その先へは進まない。量を戻せば、身体はすぐに楽になった。
そのまま、幾年も続けた。
霊子の濃いところを探し、湖の底へ下りたこともあった。岩山の裂け目へ入り、大気の流れが溜まるところにも座った。場所が変わっても、俺が巡らせられる量は変わらなかった。
力を使い切ってから、迎え直すことも試した。
刀を振り、鬼道を放ち、瞬歩で走る。身体へ残った力が少なくなったところで、外から取り込んだ。回復は早かった。それでも、元へ戻った後に、以前より多く留められるわけではなかった。
紙へ、その結果を書いた。
何年分も並べると、同じところへ印がある。
俺は筆を置き、刀へ手を添えた。
「ゆめ。たぶん、そろそろなんだと思う。死神としての霊格の上限が来てるんじゃないかな」
『そうお思いになるほど、お調べになったのでありんすね』
「ああ。場所も変えたし、取り込む量も、使い切ってから戻すやり方も試した。身体の霊子は前よりずっと強い。自分の内側まで、昔よりよく分かる。それでも、ここ十年ほどは、器の上限が上がってないようなんだ」
白い砂へ、月の光が落ちていた。
身体の周りを巡る霊子へ意識を向ける。その流れは、今もよく分かった。もうこれ以上の霊子の循環量を増やすことは、今の俺ではできない。
「まだ試してないことはあるだろうけど、ここへ座って量を増やし続けるだけじゃ、もう進めない気がするよ」
『では、次はどちらへ』
「今夜、会いに行く。刀を使った時のことも、ちゃんと一緒に考えたいんだ」
刀へ添えた掌の下で、柄が温かかった。
*
朱の灯が、川へ映っていた。
橋を渡ると、向こうの楼閣で戸が開いている。ゆめはそこへ腰を下ろし、俺を待っていた。隣へ座ると、袖を寄せ、空けてあったところへ手を添える。
「今宵は、お疲れのようには見えんせんね」
「身体は楽だよ。昔より、ずっと。どれだけ刀を振っても、こんなに余裕がでるとは思わなかった」
川の向こうへ目を向けた。
水は深く、流れも増していた。けれど、橋の下を通るところは静かだった。灯の映った筋が揺れ、楼閣の窓から、夜空が見える。
以前より、星が多かった。
山で爺さんと話していた頃には見つからなかった星が、朱の屋根の上にもあった。俺はその一つを指さし、ゆめへ顔を向けた。
「この世界も、随分変わったな。あれが見えるようになった頃は、外の霊子を巡らせてたんだっけ」
「ええ。お前様が長く目を閉じておいでの間に、夜空も広がりんした。ご覧になるたび、数えておいででありんしたね」
「途中から数え切れなくなったよ。どこを見ても、前にはなかった星があるんだから」
ゆめも、空を見上げた。
黒い髪に挿した飾りへ、灯が当たっている。俺はその横顔を眺め、膝の上へ両手を置いた。
「ここまで来ても、卍解の先には届かなかった。前世で考えたことが、本当にできるかも分からないままだけど……俺は、まだやってみたい」
ゆめが、こちらへ顔を向けた。
「俺の魂魄を強くして、身体も、その力を受けられるようにしてきた。外の霊子も、自分の力と一緒に使える。それでも足りないなら、次は、ゆめと俺が一つになるところを探したいんだ」
言い終えるまで、ゆめは口を挟まなかった。
川から風が吹き、袖の端を揺らした。俺はそれを押さえ、隣へ少し身体を向けた。
「前に話した時には、そうなれば届くんじゃないかって考えてただけだった。でも、今は、そこを試してみたい。卍解してる時には、俺一人じゃ使えない力が使えるだろ。あの状態で、もっと長く一緒にいたら、気づくことがあるかもしれない」
ゆめの指が、俺の手へ重なった。
「お前様は、わっちへ何と願われんす」
「願っただけで届くなら、最初の一夜で頼んでるよ。けど、その先を見つけるのは、俺たちでやりたいんだ。どうなってるかも知らないまま、できたことにはしたくない」
「……随分と、長い夜になりそうでありんすな」
「ああ。まだ、付き合ってもらっていいか」
ゆめは目を細めた。
「五十年も百年も、刀をお持ちになって歩かれるのでしょう。わっちだけ、途中でお帰りになると思うておいでで?」
「そうは思ってないよ。ただ、ちゃんと頼んでおきたかったんだ。これからは、今までよりずっと長く、卍解してるつもりだから」
「では、わっちもお支度を。お前様のお傍で、次の夜を見せていただきんしょう」
重なった手を、握った。
ゆめの指は細かった。そこへ触れた感触も、掌へ返る温かさも、今ははっきり分かる。
俺は、しばらくその手を離さなかった。
*
五十年目の記録を、荷へ収めた。
湖の傍で修行を始めてから、合わせて百年になる。虚圏へ来て、二百年ほど。白い砂を踏んでいた最初の百年と同じだけ、俺はこの湖の周りで過ごしていた。
紙を包み、爺さんの草履が入ったところを確かめる。
時を数えていた術は、小さく畳んで荷へ留めた。これからも動かしておけば、また何十年も歩いてから、慌てて紙を数えずに済むだろう。
結界を解き、荷を担いだ。
岩の上に、座っていた跡が残っている。湖から寄せた水が、その下へ触れていた。俺は岸まで歩き、最後に一度、顔を洗った。
「世話になったな」
滴を拭い、立ち上がる。
この循環を保ったまま卍解するのは、初めてだった。
刀を抜いて胸の前に構える。
〈現は一夜、夢は九重。醒めて帰るな、果てて帰れ〉
霊圧が、白い砂を越えて広がった。
黒い空の奥へ星が灯り、湖へ幾筋もの光が映る。頭上には、虚圏で見続けてきた月を抱くように、美しい夜が広がっていた。
「卍解⸺
吹いていた風が、俺の傍で消えた。
舞い上がった砂も、近づいた端から姿を失う。足元の岩と、荷を包んだ術を眠らせぬように保ちながら、外から入ってくるものへ意識を向けた。
身体を巡る霊子の流れは、途切れていなかった。
そこへ、卍解した時の力が重なり、器が広がった。解放と共に星々が夜空へ広がり、その下を、爆発的な霊力の奔流が立ち昇る。虚圏全体へ届くかと思うほどの霊圧に、湖の水面が大きく窪み、向こう岸の岩壁へ亀裂が走った。
慌てて霊圧を収めた。
それでも、身体の内を巡る力は減らなかった。押し広げられた器へ、周囲の霊子が流れ込み続けている。俺は刀を握り直し、その流れを全身へ通した。
「……まだ、入るのか」
さっきまで受け止め切れなかった量が、何の苦もなく巡っていた。胸にも腹にも張りはない。更に迎えても、手足は軽く、刀を握る指までよく動く。
『お前様。お荷物まで、お飛ばしになるところでありんしたよ』
「ああ、悪い。卍解すれば力が増すのは分かってたけど、ここまで変わるとは思わなかった。湖を出る前に、また岩を崩すところだったよ」
振り返ると、岩壁から剥がれた石が湖へ落ちていた。水音が響き、岸へ波が寄せる。俺はそれが近づく前に岩の上へ移り、左手を開いた。
掌へ、小さな白い球を作る。
今度は大きくしすぎなかった。指の間で転がし、細い糸へ変えてから解く。術へ通す分を抑えれば、身体を巡る量が増えても、形は狙った通りに作れた。
五十年、合わせ直してきた感覚が使えた。
「ゆめ。卍解すると、身体へ取り込める霊子の量が増えてる。器が広がったんだ。さっきまで上限だと思ってたところを、もう越えてる」
『お苦しくは、ありんせんか』
「全然。むしろ楽なくらいだよ。こんなに巡ってるのに、まだ余裕がある」
刀へ目を落とした。
身体も魂魄も、長い年月をかけて鍛えてきた。ここ十年ほどは、同じところから進めなくなっていた。それが今、ゆめの名を呼んだだけで、また変わっている。
俺はその感触を、もう一度確かめた。
外から迎えた霊子が、胸の奥を通り、刀を握る腕へ巡る。その先にあるゆめの力まで追おうとすると、自分の身体だけを見ていた時よりも、ずっと深く意識が伸びた。
「これなら、まだ試せることがあるな。卍解したまま循環を続けて、今の俺たちがどこまで受けられるか確かめたい」
『では、またこちらへお座りになるので?』
「いや、歩くよ。もう百年も、この湖に世話になったからな。今なら動きながら続けられるし、ゆめと話しながら、まだ見てないところへ行きたい」
荷の紐を肩へ掛け直した。
岩から砂へ下りても、足元は崩れなかった。身体へ巡る力を保ったまま、次の一歩を踏み出す。俺の周りでは風が眠り、その外側を流れる砂だけが、斜面へ白い筋を残していた。
『それほど楽しそうなお顔をなさって。今宵は、何をお望みでありんすか』
「九つの夢は、まだ取っておこう。今は、こうして一緒に歩ければいいよ。何か見つけたら、その時に相談する」
『ええ。では、今宵の夜道も、わっちと共に』
湖へ背を向けた。
岩山の上まで登ると、白い砂原が遠くまで見渡せた。その向こうには、まだ足を踏み入れていない峡谷がある。月明かりの届かない底からも、濃い霊子の流れが感じられた。
まずは、あそこへ行ってみよう。
刀を携え、斜面を下りる。頭上に広がった星々が、歩く先の砂を照らしていた。
身体の内を巡る力は、湖を離れてからも増し続けていた。