連なる星に 境は溶け
醒めぬ夜に 夢は寄り添う
峡谷の底へ下りると、砂の下から白い枝が突き出ていた。
屈んで掘ると、枝は更に下へ続いている。折れたものが埋まっているのかと思ったが、指で砂を除くうちに、太い幹が現れた。上を見れば、岩壁の途中にも同じような枝がある。
林ごと、砂へ埋もれたらしい。
俺は幹の傍へ立ち、谷の奥へ目を向けた。岩壁に挟まれた道が曲がり、その先にも白い枝が覗いている。足元からは、湖の傍より濃い霊子の流れを感じた。
「随分下まであるな。砂がなかった頃には、この辺りも林だったのかもしれない」
『お掘りになって、確かめられるので?』
「気にはなるけど、全部掘ってたら、また何十年も居つくことになりそうだ。向こうから見えてる枝を辿ってみるよ。どこかで根元まで出てるかもしれない」
幹から手を離し、歩き始めた。
頭上の星は、峡谷へ下りてからも見えていた。細く開いた空へ幾つも灯り、岩壁の縁を照らしている。俺の傍へ落ちてきた砂は、肩へ触れる前に消えた。
卍解を保ったまま、岩の間を抜ける。
外から迎えた霊子が身体を巡り、その中へ、ゆめの力が重なっていた。湖を離れた時より、流せる量が増えている。それでも、歩く脚には余分な力を込めなかった。
地面を砕かず、枝も折らずに進める。
岩壁の低くなったところで、幹の根元が見つかった。太い根が石を抱え、下へ伸びている。俺はその隣へ荷を下ろし、紙を広げた。
座っていた湖の次に、この谷を描く。
脇へ霊子の流れを書き添えると、筆先から落ちた墨が少し滲んだ。風は紙へ届かず、白い砂も寄ってこない。卍解している間は、外で筆を持つのも楽だった。
『お前様。こちらへ来られてから、まだお眠りになっておりんせんね』
「そういえば、そうだな。眠くなったら休むつもりだったけど、歩いてるうちに、次が見たくなってた」
『お身体は楽でも、お休みまでお忘れにならぬように』
「分かった。今夜はここにしよう。書き終わったら、そっちへ行くよ」
筆を置き、荷から敷くものを取り出した。
幹へ背を預ける。卍解は解かなかった。刀を膝へ横たえ、身体を巡る流れを保ったまま目を閉じると、川の音が聞こえ始めた。
*
ゆめのいる楼閣で、茶を飲んだ。
戸は開いていた。向こうの屋根を越えて星が見え、川から上がった風が、俺の袖へ入ってくる。外では風を眠らせていたのに、ここでは頬へ触れた。
ゆめは、その隣へ膳を置いた。
「お腹は、お空きになっておいでで?」
「不思議なくらい減らないよ。湖にいた時から飯は随分減ってたけど、卍解してからは、歩いても刀を振っても平気なんだ」
「それでも、お茶までお忘れになっては、わっちがお出しするものに困りんす」
「それは飲むよ。ここへ来る楽しみまで減らすつもりはないからな」
椀を口へ運んだ。
温かかった。膝に置いてからも、その温もりが掌へ残る。俺は指を開き、川の方へ顔を向けた。
水の上へ、星が映っていた。
夜空だけを見ていた頃には気づかなかったが、川に映る光も増えている。外で卍解した時に広がった星と、同じ並びを探してみた。朱の橋の上に、見覚えのある三つがあった。
「外で見える夜空も、ここにある星なんだな」
「お気づきになりんしたか」
「ああ。今までは、綺麗だなって眺めてた。こうして比べると、同じところが幾つもある」
ゆめが俺の隣へ座った。
川に落ちた星明かりへ、二人の影が重なる。外で巡らせている力へ意識を向けると、ここにいても、その流れが分かった。岩へ預けた背も、膝へ横たえた刀も、遠くなってはいなかった。
「卍解してる時は、俺の力も、ゆめの力も使ってる。こうしてここへ来ても、その感じが残ってるよ」
「お前様がわっちの名を呼ばれたまま、おいでになっておりんすから」
「今までは、戦いが終わったら解いてたからな。こんなふうに過ごしたことはなかった」
椀へ、もう一度口をつけた。
考えてみれば、卍解を使っている間は、相手ばかりを見ていた。何を願えば倒せるか。次の攻撃をどこから受けるか。ゆめと話していても、その場を凌ぐためのことが多かった。
今は、急いで願う必要がない。
刀を握っている時にも、飯を食う代わりに茶を飲んでいる時にも、同じ力が巡っている。それを一日中感じていられる。
「しばらく、こうして暮らしてみたいな。何か掴もうとして、ずっと力ばっかり追ってきたけど、普段どうなってるかも見ておきたい」
「では、わっちのところへも、今より多くお越しなんし。刀を握るお手ばかり見ておいででは、こちらのお顔をお忘れになりんすよ」
「忘れるわけないだろ。前より会いに来てるのに、まだ足りないのか」
「ええ。お前様がお歩きになる先を、わっちもお聞きしとうございんす」
俺は笑い、椀を膳へ置いた。
峡谷の林の話をした。幹の下まで伸びた根と、岩壁へ引っかかった枝。掘ってみようか迷ったことまで話すと、ゆめは袖で口元を隠した。
結局、埋もれた林を全部掘るつもりだったのかと聞かれた。
そこまでは考えていなかったが、一本くらいは、根の先を見たくなっていた。
*
谷を抜けてからも、夜を連れて歩いた。
砂の少ない土地では、黒い岩が地面を覆っていた。表面は滑らかで、足を置くたびに星が映る。割れ目へ下りると、細い水の流れがあり、その先には浅い池が幾つも並んでいた。
別のところには、石の柱が立っていた。
一本ずつは細かったが、近づくと、上で枝分かれしている。柱の間を歩けば、切り立った山のように高いものもあった。俺はその上へ登り、遠くに見えた白い地平を眺めた。
砂原へ戻った頃には、十年ほど過ぎていた。
卍解は続いていた。
初めのうちは、周囲へ眠りを広げるところまで意識していた。歩く先の地面を残し、触れるものを選び、巡らせる量が増せば霊圧を収める。その一つ一つを確かめていた。
やがて、荷を下ろす時にも、紙を広げる時にも、手間が要らなくなった。
触れようとした岩は消えない。座る地面も、そのまま残る。外から襲いかかってきたものは、俺がそちらへ顔を向ける前に眠った。
砂丘を越えていた時、後ろで虚の咆哮が上がった。
振り返ると、幾つもの脚を持つ虚が、砂を蹴って走ってきていた。低い頭から二本の角が伸び、開いた口へ赤い光が溜まる。俺はその足元から、少し横へ離れた。
放たれた
赤い光は真っ直ぐこちらへ伸び、俺の数歩手前で消えた。後ろから続いていた光も同じところで途切れ、虚の口が閉じる頃には、何も残っていなかった。
刀を上げる必要もなかった。
虚が砂へ爪を立てた。
こちらへ飛びかかりかけ、途中で止まる。光の消えたところを見ているらしい。俺が一歩近づくと、脚が後ろへ動いた。
「そっちから来たんだろ。俺は、向こうへ歩いてただけなんだけどな」
刀を下げたまま、進んだ。
虚は身体を翻し、斜面へ逃げた。白い砂が噴き上がり、頭が砂丘の向こうへ隠れる。俺はその姿が見えなくなるまで眺め、元の方角へ向き直った。
『お追いにはならぬので』
「逃げたならいいよ。追っていったら、向こうの山まで寄り道しそうだ。今日は、あの石の並んでるところへ行ってみたい」
遠くへ見える黒い線を指した。
ゆめが笑った。
『そのお山も、いずれはお登りになるのでしょうに』
「まあ、帰りに気になったらな」
砂丘を下りた。
攻撃が届かなかったことよりも、その間に循環が一度も乱れなかったことが気になっていた。虚を見ても、刀へ力を込めようとしても、流れは続いていた。
俺が一つずつ整えなくても、身体が保っている。
その中にあるゆめの力も、十年前より身近に感じられた。
*
二十年を越えた頃、刀を握っていて、ふと手を止めた。
白い岩の上だった。向こうには砂の斜面があり、その下で、細い枝の林が揺れている。俺はそこで刀を振り、歩きながら覚えた動きを繋いでいた。
踏み込み、刃を返す。
その間に、腕を巡る力を追った。刀へ渡ったところまで捉え、その先にあるゆめの力へ意識を向ける。以前はそこで、別の力に触れた感覚があった。
今は、腕から続く流れのまま、刀の先まで分かった。
左手を、刃の近くへ添えた。
触れてはいない。それでも、切っ先まで、指先を伸ばした時のように近かった。俺は刀を動かし、同じ感覚が残るか確かめた。
「ゆめ。今、刀の先まで、手みたいに分かったんだ」
返事を待ちながら、もう一度振る。
今度は、刀を動かそうとしたところまでしか追えなかった。腕には力が巡っている。ゆめもそこにいる。けれど、さっきのように、その全てが一続きには感じられなかった。
『どのような時に、そうお感じになりんした』
「いつもの動きを続けてた時だよ。踏み込んで、刀を返して、そのまま次へ繋ごうとしてた。特別なことはしてない」
そこで立ち止まり、刀へ目を向けた。
構えてから、同じ動きを繰り返した。足の位置も、振る速さも変えなかった。それでも、先ほどの感触は戻らない。
俺は肩の力を抜いた。
「……すぐに、もう一回とはいかないか」
『お前様。今は、わっちの力がどこにあるか、お探しになっておいでで?』
「ああ。さっきは、そのまま続いてたからな。どこでそうなったのか、もう一度確かめたかった」
『先ほどは、わっちとお前様を、お分けになっておいででありんしたか』
刀を下ろした。
思い返す。
腕へ通った力も、刃へ乗った力も、動きながら感じていた。けれど、どこまでが俺のもので、どこからがゆめのものかは、考えていなかった。
今は、それを探していた。
「……考えてなかったな。刀を振ってる間は、全部、そのまま使ってた」
『わっちも、お前様と共に振るわれておりんしたよ』
柄を握った指へ、温かさが伝わった。
それを追いかけようとして、やめた。少しだけ膝を曲げ、刀を構え直す。自分の腕を動かすのと同じように、刃を前へ送った。
岩の縁へ、細い傷が入った。
さっきの感触は、まだ戻らなかった。それでも、次の動きへ繋いだ。振り下ろし、返し、横へ払う。長く身体へ馴染ませた動きを、ゆめと共に続けた。
*
その夜は、ゆめの隣で長く過ごした。
楼閣の戸口から、二人で川を眺めた。俺は昼間のことを話し、刀を握っていた手を開いた。ゆめがその掌へ、自分の指を置く。
「今は、こちらのお手がよくお分かりになるのでしょう」
「ああ。触れてるところも、指が動いたところも分かる」
「わっちも、分かりんすよ。お前様が、こうして触れておいでなのが」
ゆめの指が、掌を辿った。
俺はその手を握った。力を込めすぎないようにしていたが、ゆめは指を絡め、そのまま自分の膝へ置いた。
「昼間は、刀の先まで自分の手みたいだった。でも、ゆめがいなくなった感じはしなかったよ。ちゃんと、一緒にいた」
「ええ。わっちも、お前様の振るわれる先が分かりんした。次にどちらへ刃を返されるか、言葉で伺うより先に」
俺は、握った手を見た。
外の霊子を身体へ巡らせ始めた頃にも、初めは一つずつ追っていた。何度も続けるうちに、その境目を気にせず使えるようになった。
ゆめとも、そうして近づけるのかもしれない。
今日、一度だけ感じたものが、その先へ繋がっている気がした。
「また、刀を振ろう。明日は別のところまで歩いて、そこで試したい。ここへ来たら、その時どう感じたか、ゆめにも聞かせてもらいたいんだ」
「お急ぎには、ならぬので?」
「早く辿り着きたいよ。けど、今日の感じを無理に作ろうとすると、どうも戻らないからな。もう少し、一緒に使ってみたい」
ゆめは頷き、俺の肩へ頭を預けた。
髪飾りが、僅かに鳴った。俺は身体を動かさず、そのまま川へ目を向ける。向こうの屋根の上で、星が一つ、強く光った。
「……あれ、前からあったか」
「今宵、お見えになった星でありんす」
ゆめも、同じ空を見ていた。
その光が川へ映るまで、二人で待った。