隔てた袖に 夜は巡り
重ねた影に 星は宿る
ゆめの髪飾りが肩へ当たった。
顔を向けると、まだ川を眺めていた。繋いだ手は膝の上にあり、指を少し動かせば、向こうの指も動く。俺はそれを握り直し、屋根の上へ現れた星を見た。
「昼間の感じ、ゆめにも分かってたんだよな。俺が次にどっちへ振るか、言う前から」
「ええ。お前様が刃を返される時には、わっちも、そちらへ向いておりんした」
「俺が動かしてから、ついてきたんじゃなくて?」
「次のひと振りを、お前様と共に。お言葉になさる前から、わっちもそのつもりでおりんしたよ」
刀を振った時の腕を思い出した。
右から左へ払い、そのまま刃を返した。長く使ってきた動きだった。次に何をするか、頭の中で順番を辿る必要はない。ゆめにも、同じように次が分かっていたという。
「そっか。じゃあ、俺だけが上手く振れたわけじゃないんだな」
ゆめが肩から顔を上げた。
「お前様は、どなたの刀を振っておいでで?」
「お前のだよ。そうなんだけどさ、今までは俺が願って、お前が叶えてくれるところばっかり見てたんだ。刀を振る時にも、一緒にやってたんだなって」
「ようやく、お気づきになりんしたか」
笑っているので、俺も笑った。
繋いだ手を持ち上げる。ゆめは指を離さず、俺が掌を返せば、その動きへ合わせて手首を返した。こちらから引かなくても、触れたままついてくる。
「こういう感じだったのかな」
「今は、お手をお取りになりたいのでしょう」
「ああ」
「でしたら、わっちも、そのように」
白い指が俺の指の間へ入り、もう一度握られた。
昼間のことを話そうとしたはずだったが、しばらく、その手を眺めていた。
*
白い岩を下り、林の中へ入った。
枝の間にも星明かりが落ちていた。足元には薄い砂があり、ところどころで根が露出している。低い枝を手で持ち上げ、荷を通してから離した。枝はゆっくり元へ戻った。
歩く間も、身体の内と外を巡る流れは続いていた。
掌へ力を集めなくても、指先まで届いている。刀を握れば、その先にも、ゆめの力があった。昨日の感触を探そうとして手を止めかけたが、今朝は、そのまま歩いた。
『今日は、お振りにならぬので?』
「場所が狭いからな。枝を払って進むほどでもないし、向こうへ抜けてからにするよ」
『昨日は、何度も同じところをお振りになっておいででしたね』
「ああ。できたら、もう一回やりたくなるんだよ。でも、同じところばっかり見てると、お前に手を取られてても気づかなくなりそうだ」
刀の中で、ゆめが笑った。
林を抜けると、緩やかな斜面があった。上へ登るにつれて木が減り、やがて白い砂だけになる。振り返ると、さっきまで歩いていた枝が、黒い帯のように続いていた。
荷を下ろした。
時を数える術を確かめ、紙へ印を移す。湖を離れてから二十年を越えていたが、まだ、あの辺りへ戻るつもりはなかった。目の前には、歩いたことのない砂原が広がっている。
刀を構えた。
一度、ゆっくり振った。足を踏み替え、そのまま次へ繋ぐ。右腕を巡る力は、刃へ届くところまで捉えられた。
昨日のようには感じない。
けれど、そこで止めなかった。
背へ回る相手を思い浮かべ、身体を返す。刃を受ける角度へ刀を立て、左手を胸の前へ出した。爺さんと何度も繰り返した動きだった。その手へ集めた力を解き、また刀を振る。
砂へ細い線が入った。
続けて踏み込み、腰を落とす。刃を上げた時には、背へ流れた髪が遅れて肩を滑った。黒に混じる金、白、赤の房を払い、そのまま横へ薙いだ。
何度も続けた。
ゆめの力がどこにあるかを探すより、次に刃を向けるところへ目を置いた。身体へ巡るものは途切れず、刀も、俺の動きへ遅れずについてきた。
振り終えてから、息を吐いた。
「今日は、どうだった?」
『途中から、お前様のお声が静かになりんした』
「声、出してたか?」
『お口からではござりんせん。次はこちら、今度はあちらと、お決めになるお気配が』
刀を下げ、砂へ刻んだ線を見た。
「途中からは、続けて振ってたな。どこへ力を通すか、毎回考えてなかったよ」
『わっちも、よう振るわれておりんした』
柄へ置いた指を動かした。
昨日の感触が戻ったかと聞かれれば、はっきり答えられなかった。ただ、今朝は最後まで、ゆめの力を探すために刀を止めずに済んだ。
紙へ残す時には、そこから書こうと思った。
*
それから、幾つもの土地を歩いた。
砂丘の続くところでは、昼の代わりに月の位置を見た。岩の多いところでは、高い場所へ上がって次の道を探す。深い割れ目を見つければ底へ下り、水の流れる音がすれば、そちらへ足を向けた。
卍解は解かなかった。
初めには、刀を携えたまま荷を開くのも少し面倒だった。今は膝へ横たえれば、邪魔にならない位置へ収まる。紙を広げる時にも、眠りの届くところを一つずつ決め直す必要はなくなっていた。
岩へ座り、木へ手を掛け、湖の水を掬う。
触れたいものは残り、風に飛ばされた砂は、袖へ届く前に消えた。周囲の霊子は、その間も身体を巡っている。
刀を振るのは、歩く途中だった。
何日か同じ場所で続けることもあれば、一度だけ振って先へ進むこともある。気になる感触があっても、その場へ何年も座り込むのはやめた。紙へ書いておけば、次に振る時にも思い出せる。
ゆめには、その日のうちに話した。
俺が刃を返すより先に、ゆめの方が次を分かっている時もあった。反対に、俺が途中で動きを変え、さっきの方へ振ると思っていたと言われたこともある。
そのたびに、次の日も刀を振った。
十年ほど経つ頃には、腕から刀の先までが近く感じられることも増えていた。
以前は、一度感じれば、もう一度できるまで同じ動きを繰り返していた。今は、そのまま次へ進める。踏み込んだ足も、腰を回した身体も、刃へ乗った力も、まとめて使っている間の方が、よく分かった。
ある時、崖の途中で足場が崩れた。
右足を置いた岩が割れ、身体が下へ傾く。俺は刀を左へ引き、空いたところへ霊子を固めた。次の足を踏んだ時には、既に崖の向こうへ出ていた。
落ちた岩が、谷底で砕けた。
俺は足を止め、握っていた刀を見た。
腕を動かした時に、ゆめの力を借りようとは考えなかった。刀を引くところまで、足を踏み替える動きへ自然に続いていた。
『お前様。今のは、お戻りになってお試しになりんせんように』
「さすがに、もう一回崖を崩したりはしないよ。ただ、今のも一緒だったんだよな」
『ええ。お足元が失せた時には、わっちも、そちらへ』
頷いて、また歩いた。
帰ってから聞かせる話が、一つ増えた。
*
虚の声が聞こえたのは、黒い岩山の傍だった。
長い尾が、斜面を横切っていた。先には骨のような刃があり、振れるたびに岩へ白い傷が入る。俺が足を止めると、上にいた虚が顔を下げた。
仮面は広く、顎の下まで厚い殻に覆われていた。
口が開いた。
俺は荷を岩陰へ下ろし、左手を上げた。
【
光が斜面を走った。
虚が頭を引き、頬の殻が砕けた。そのまま背後の岩を貫いた光へ、長い尾が横から振られる。虚は斜面を蹴り、俺から離れる方へ跳んだ。
足を踏み出した。
虚の口へ、赤い光が集まっていた。放たれた
後ろから続く光も失われていく。
俺はその中を進み、岩山の脇へ回った。虚が顔を向ける。光を吐くのをやめ、今度は尾を大きく振りかぶった。
骨の刃が、岩山へ食い込んだ。
斜面が崩れた。
頭上から大きな岩が落ち、俺と虚の間を塞いでいく。こちらへ飛んだ欠片は眠ったが、向こうには崩れた岩が積もっていた。その陰で、虚の霊圧が右へ移った。
俺は左へ瞬歩を踏んだ。
岩山を挟んで、反対側へ出る。
虚の横顔が見えた。
【
八つの炎を放った。
正面から二つ。左右へ回した四つが、その脚の外側へ向かう。残る二つは上へ昇り、虚が跳ぼうとしたところへ落とした。
尾が炎を払った。
骨の刃へ二つがぶつかり、火が広がる。その間に、横から回した炎が脚へ届いた。虚の身体が傾いたところへ、上から残る二つが落ちた。
咆哮が響いた。
俺は刀を持ち上げた。
「
黒い三日月が、炎の間を抜けた。
尾を振り直そうとしていた虚の腕へ触れる。その腕が止まり、胸の前に残った。虚は動く方の脚で地面を蹴り、斜面へ身体を引きずった。
腕を眠らせても、まだ逃げようとしている。
そこへ左手を向けた。
【穿月】
光が、仮面を貫いた。
虚の身体が岩へ倒れ、その重さで斜面の端が崩れた。尾の先が最後に一度動き、やがて、殻も肉も消えていった。
刀を下げた。
身体を巡る流れは、戦う前から続いていた。鬼道を放ち、瞬歩を踏み、刀を振る。その間にも、周囲から迎えた霊子が手足へ届いていた。
右腕へ意識を向けた。
夜渡を放った時には、刃の先まで近かった。
それでも、その感触を確かめるために手を止めず、次の穿月まで続けられた。
「ゆめ。今の、分かったか。刀を振った時」
『ええ。お前様が、あの腕をお眠らせになりたいのが』
「その後も、まだ一緒だったよ。左手へ力を集めても、こっちが遠くならなかった」
柄を少し持ち上げる。
刀を握っていることが、右腕を曲げていることと同じくらい、自然だった。
『お前様が、次の術を放たれるまで、わっちも、そのお手に』
「……そっか。今までは、感じたところで止まってたんだな」
笑って、岩陰へ戻った。
荷はそのまま残っていた。包みを開き、紙を取り出す。戦った位置を書き始めると、刀の中から声がした。
『今夜は、また術のお話ばかりでありんすか』
「いや。今のは、顔を見て聞きたいよ。俺がどう感じたかだけ書いとくから、続きはそっちで話そう」
返事の代わりに、笑う声がした。
俺は紙へ、刀を振った後も続いていた、と書き足した。
*
その夜、ゆめと橋を渡った。
座敷へ向かう途中で、俺から川沿いの道へ足を向けた。ゆめは何も聞かず、隣へ来た。二人で歩けるところまで袖を寄せ、欄干の低いところへ腰を下ろす。
外で見た岩山の話をした。
虚が尾で斜面を崩したことも、火を避けて逃げようとしたことも話した。ゆめは途中で頷き、俺が刀を振ったところでは、繋いだ手へ目を落とした。
「お前様は、あの時、わっちへお任せになるおつもりではござりんせんでしたね」
「任せるっていうか、一緒に使ってたんだと思う。右手で刀を振って、左手で鬼道を放った。どっちも、そのままできたよ」
「わっちも、そのように。お前様が刃を向けられた先へ、共に参りんした」
俺は川を見た。
水面には、二人の影があった。ゆめの袖が俺の膝へ掛かり、風が吹くと、その影も一緒に揺れた。
卍解の先へ届いたわけではない。
刀はまだ、俺の手にある。ゆめは隣に座り、俺の話を聞いている。それでも、外で刀を振った時には、以前ほど二人の間を遠く感じなくなっていた。
「湖を出てから、三十年くらいか。ここまで来るのにも、結構掛かったな」
「もう、そのように?」
「ああ。荷へつけてる術を見たよ。虚圏へ来てからなら、二百三十年ほどになる。爺さんに話したら、まだ歩いてたのかって言われそうだ」
「お前様は、あのお湯だけでも百年、お入りになっておいででしたもの」
「それと比べたら、今回は随分歩いたよ。ゆめにも、ちゃんと話してるだろ」
「ええ。以前より、ようお聞かせくださりんす」
ゆめが肩へ寄った。
俺は繋いだ手を膝へ置き、向こうの空を眺めた。見覚えのある星の隣へ、細い光が一つ増えている。
「明日も、歩こうか。あの岩山の向こう、まだ見てないんだ」
「では、今宵はもう少し、こちらに」
袖が、俺の腕を包んだ。
明日の話をするのはやめ、ゆめへ顔を向けた。