隔てぬ瞳に 夜は映り
交わした夢に 星は近づく
峡谷の底に、青い花が咲いていた。
岩の裂け目から細い茎が伸び、月の光も届かないところへ、小さな花を開いている。近づくと、花弁の縁が淡く光っていた。足元にも幾つかあり、俺は踏まないように岩を選んで歩いた。
「こんなところにも咲くんだな。上から見た時には、何もなさそうだったのに」
しゃがみ、顔を寄せた。
土に埋まった根の周りへ、霊子が集まっていた。岩の間を流れてきたものが、その先で少しずつ花へ取り込まれる。身体の中を巡る流れを保ったまま、俺はその様子を眺めた。
『お前様。もう少し、右をご覧になって』
「右?」
顔を向けると、岩陰にも花があった。
こちらは茎が長く、上の花より大きい。光の届く方へ伸びているのかと思ったが、向いている先も暗かった。裂け目の奥から吹いてきた風が花を揺らし、その向こうへ濃い霊子の流れが続いていた。
「よく見つけたな。俺は手前の方ばっかり見てたよ」
『お前様がお顔を下げられた時、岩の下に光が見えんしたので』
花から目を離し、刀を見た。
鞘のない刃を左手に携えていた。切っ先は岩へ向け、花には触れさせていない。俺がしゃがんだ時にも、右の岩陰までは近づけていなかった。
「ゆめ。今の花、俺が気づく前から見えてたのか」
『ええ。お前様の目にも、入っておりんしたよ』
「入ってはいたんだろうけどさ。俺は、あそこに花があると思って見てなかったんだ」
もう一度、岩陰へ顔を向けた。
青い光が、暗い岩の下にある。見つけてからなら、すぐに分かる。さっきも同じところへ目を向けていたのに、手前の花を眺める間、向こうまで気にしていなかった。
『わっちは、こちらも綺麗だと思うておりんした』
「……そうか。俺が見てるものを、お前も見てたんだな」
刀を膝へ置いた。
ゆめとは、これまでも外の景色について話してきた。俺が見た山を知り、歩いた道を知っている。だから、花を見つけたこと自体は不思議ではなかった。
ただ、今は俺の目が動いた時から、ゆめも同じ景色を見ていた。
「もう少し、この辺りを歩いてみようか。ほかにも咲いてるかもしれない」
『でしたら、お足元にも。先ほどから、一輪、草履の傍にござりんす』
足を上げかけて止めた。
岩の縁に、まだ開き切っていない花があった。俺は反対の足から立ち上がり、少し離れたところへ移った。
「危なかったな。見つけたばっかりで踏むところだったよ」
『お前様は、よう遠くをご覧になりますから。近いところは、わっちも見ておきんしょう』
笑いながら、峡谷の奥へ歩いた。
*
裂け目の向こうには、細い水の流れがあった。
岩肌を伝い、浅い溝へ落ちている。花はその周りにも咲いていた。俺は荷を下ろし、岩へ腰を掛けた。刀を膝へ横たえ、右手を水へ差し入れる。
冷たかった。
『随分と、冷たいお水でありんすね』
指を止めた。
「今、ゆめも分かったのか。俺が言う前に」
『ええ。お指をお入れになったところから、こちらにも』
水の中で指を動かした。
指の間へ流れが入り、掌の下を抜けていく。岩へ当たって戻ってきた水が、小指の側へ触れた。
「流れてるのも?」
『お手の端へ、細く当たっておりんす』
刀へ目を落とした。
水には触れていない。刃も柄も乾いたままで、俺の膝の上にあった。
右手を水から出すと、風が濡れた指へ吹いた。
『今度は、お冷えになりんすよ』
「これも分かるんだな」
笑って、手を拭った。
ゆめが俺の身体を通して外を感じている。そのことは、刀を振った時の感触より、ずっと確かめやすかった。俺が何をしたか、後から話す必要がない。水へ触れた時に、ゆめも冷たさを知っていた。
「前から、こうだったか?」
『お前様がお寒いところを歩かれれば、こちらにも伝わっておりんした。けれど、今は、お指のどこへ当たったかまで分かりんす』
「俺の方でも、もう少し分かるようになるといいな。お前が何を感じてるか、言ってもらう前に」
刀の柄へ、拭いた手を添えた。
身体を巡る力は、その先まで続いていた。ゆめの力も近い。けれど、冷たさを知ったゆめがどう感じたのかまでは、まだ分からなかった。
『では、今夜はこちらでも、お手をお取りになって。お前様がお分かりになるまで、離さずにいて差し上げんしょう』
「それ、分かってからは離すつもりなのか?」
『お前様がお離しになれますなら』
声が笑っていたので、俺も笑った。
もう一度、水へ手を差し入れた。
今度はゆめが何を言うか待たず、指先へ伝わるものを、そのまま感じていた。
*
峡谷を出るまで、二年ほど掛かった。
途中で水の流れが途切れ、深い窪地へ出た。そこから上へ登る道を探し、岩棚を幾つも越える。霊子を固めて足場を作れば早かったが、歩けるところがある間は、そちらへ足を向けた。
ゆめが先に見つけるものが増えた。
頭上の細い亀裂や、砂に埋もれた根。俺が通り過ぎようとした岩の裏へ、小さな骨が積もっていることもあった。何かがそこで虚を食っていたらしく、奥には、古い霊圧の残りがあった。
俺も、ゆめへ見せたいものを探した。
高い岩へ上がり、遠くまで続く砂丘を眺める。谷の底では、天井の裂け目から落ちる月明かりを追った。そこへ身体を入れると、肩と髪だけが白く照らされる。
「どうだ。ここなら、外でも綺麗に見えるだろ」
『お前様。ご自身を、わっちへお見せになるおつもりで?』
「いや、今の光を……そうか。俺の目で見てるんだから、俺の顔は見えないのか」
水のあるところまで戻り、覗き込んだ。
黒い髪の間に、金、白、赤の房が映った。長く解いた髪が肩へ落ち、黒地の襟へ重なる。水面が揺れたので、俺は動かずに待った。
『ええ。よう見えんす』
「わざわざ戻ってきて、何してるんだろうな」
『わっちには、嬉しゅうござりんすよ。お前様が、見せようとなさってくださったので』
俺は水面から顔を上げた。
次の景色を探す時にも、ゆめが何を見ているかを気にするようになっていた。
それで旅が遅くなったとは思わなかった。歩いたところへ、以前より多くのものが残った。
*
岩山の向こうで、砂嵐に遭った。
白い砂が壁のように迫り、遠くの月まで隠していた。風に削られた岩が低く並び、その隙間から、細い音が響く。俺は荷を肩へ寄せ、刀を持ち直した。
砂が、周囲の眠りへ入ったところから消えた。
身体へは届かない。それでも、外側には絶えず白い砂が流れ、少し離れた岩も見えなくなっていた。
『右の岩へ、何か当たっておりんす』
「ああ。俺にも聞こえた。砂より、重い音だな」
右へ顔を向けた。
何も見えない。身体を巡る霊子の向こうへ意識を伸ばすと、岩陰に虚の霊圧があった。こちらが止まったのを知ったのか、その位置が低くなる。
左手を上げた。
【
光が、砂嵐を貫いた。
岩の端が砕け、その向こうで虚が跳んだ。細い身体が一瞬だけ見え、また白い砂の中へ消える。続けて三つの霊圧が動いた。
別の虚もいた。
俺は荷を眠りの内側へ置き、右へ瞬歩を踏んだ。さっきまで立っていたところへ、長い棘が突き込まれる。荷へ届く前に消えたが、向こうの砂に、大きな影が浮かんでいた。
「四体か。見えないところから来るつもりだな」
左手を横へ払った。
【
八つの炎を、離れた岩の間へ走らせた。
砂の壁が赤く染まった。炎を避けた虚が左右へ分かれ、二体が上へ跳ぶ。そのうち一体へ、刀を向けた。
「
黒い三日月が、砂の中へ入った。
上にいた霊圧が止まる。そのまま落ちてくるところへ瞬歩で近づき、仮面を斬った。砕けた白い殻の向こうから、別の棘が飛んできた。
眠りへ触れ、消える。
俺はそちらへ向き直った。
砂の奥で、虚が息を吸った。口へ力を集めているのが分かる。そこへ左手を向けようとした時、背の方で岩を蹴る音がした。
肩を返し、刀を横へ振った。
白い砂から伸びてきた腕が、刃へ触れて止まる。俺は返す刀で、その腕を永遠に眠らせた。肩から先を失った虚が後ろへ退く。
俺も、その姿を見た。
見てから腕へ刃を当てたのではなかった。背で響いた音と、近づく霊圧から、どこへ届くかが分かっていた。
追って仮面を斬った。
左手は、先ほど力を集めていた虚へ向けたままだった。
【穿月】
白い光が走った。
赤い
俺は刀を下げた。
逃げた先を追わず、荷へ戻った。炎を解くと、周囲がまた白い砂に覆われる。荷を持ち上げたところで、ゆめへ声を掛けた。
「さっき、後ろから来た奴。ゆめも気づいてたんだよな」
『ええ。右の肩へ、手を伸ばしておりんした』
「俺も分かったよ。どこへ刀を向けるか、決める前に、もう腕が動いてた。あの時、お前も、同じところを見てたんじゃないか」
刀を握る指へ、温かさがあった。
『お前様のお耳にも、背へ近づく音が届いておりんした。わっちも、そこへ刃を向けとうござりんした』
「ああ。俺も、あの腕を止めたかった」
柄を握り直した。
思いついた動きをゆめへ伝え、その力を使った、という順番は思い出せなかった。俺が斬ろうとした時には、ゆめもそうしようとしていた。
そのまま、二体目へ鬼道を放てた。
「一緒にやるって、こういうことなのかな」
言ってから、少し笑った。
今の斬り合いを、もう一度やり直す必要はなかった。肩の位置も、刀を振った感触も、はっきり覚えている。
『今宵は、ようお聞かせくださいなんし。わっちも、お前様がどうお感じになったか、聞いてみとうござりんす』
「ああ。砂嵐を抜けたら休もう。今度は、俺ばっかり話さないようにするよ」
刀を携え、白い砂の中を歩いた。
*
砂嵐を抜けた先には、黒い石の平原があった。
風の削った溝が遠くまで続き、その間へ、硬い草が生えている。俺は低い岩へ腰を下ろし、時を数える術を確かめた。
湖を出てから、五十年近くになる。
虚圏へ来て、二百五十年ほどだった。
砂を払って紙を開くと、峡谷で描いた青い花が出てきた。隣には、ゆめが見つけた大きな花もある。あの時から、もう二十年近い。
「これも、そんなに前になるのか」
紙を重ねた。
長く生きてきたから、年月が早く過ぎることには慣れていた。それでも、昨日のように思い出せる景色へ二十年という数字がつくと、少し妙な気がした。
ゆめと歩いた夜は、よく覚えていた。
同じところへ何度も刀を振り、できたかどうかだけを書いていた頃より、思い出すものが多い。花の色も、水の冷たさも、二人で笑った声も残っていた。
荷を岩へ寄せ、刀を膝へ置いた。
目を閉じると、川の音が近づいた。
*
ゆめは、橋の向こうに立っていた。
朱の灯が髪へ映り、長い袖が欄干へ掛かっている。俺が歩いていくと、いつものように手を差し出した。
その手を取る前に、指先へ触れる感触が分かった。
俺は足を止めた。
ゆめの手は、まだ届いていない。目の前に白い指があり、その向こうで、ゆめも俺を見ていた。
「……今、手に触れたか?」
「いいえ。まだ、お前様をお待ちしておりんした」
手を見下ろした。
何も握っていない。それなのに、向こうの指が俺の手を迎えようとしているのが分かった。ゆめも、少し驚いた顔で自分の掌を見ている。
「ゆめの方は?」
「お前様が、わっちの手をお取りになろうとなさったのが。いつもでしたら、お顔を見て、そう思うておりんしたけれど……今は、こちらにも」
ゆめが、空いている手を胸へ添えた。
俺はもう一歩近づき、その指を取った。
今度は、触れた。
細い指が掌へ収まり、温かさが伝わる。さっき感じたものと同じだった。ゆめも俺の手を握り、しばらく二人で眺めていた。
「外では、俺が触った水の冷たさがお前にも分かっただろ。今度は、俺の方にも届いたんだな」
「ええ。お前様がお取りになる前から、わっちも、お手を重ねとうござりんした」
顔を上げた。
ゆめが笑っていた。
「よう、ここまでお越しくださりんしたね」
俺は、その手を握り直した。
卍解の先へ届くために、ゆめと一つになることを考えていた。どれだけ力を巡らせられるか。どこまで刀の先を近く感じられるか。そればかり確かめていた時には、気づかなかった。
手を取りたいと思った。
ゆめも、取ってほしいと思っていた。
その気持ちが、触れる前から分かった。
「……もう少し、分かりたいな。今のを、刀を振ってる時にも」
「では、明日もご一緒に。今宵は、こちらでお話を聞かせておくんなんし。砂の中で、よう戦っておいででしたもの」
「ああ。ゆめがどう感じたかも聞きたい。俺と同じだったところと、お前の方が先に気づいたところを」
繋いだ手を引くと、ゆめが隣へ来た。
橋を渡り、川沿いへ歩いた。頭上には、広がった夜空がある。青い星が幾つか、見覚えのある星の間へ灯っていた。
峡谷の花と、よく似た色だった。
ゆめも足を止め、同じ星を見上げた。
俺は何も言わず、その横顔を眺めていた。