重ねた袖に 岸は遠く
明けゆく夢に 夜は深まる
目を開けると、右手が刀の柄を握っていた。
眠る前には膝へ横たえ、左手を添えていたはずだった。指を開いてから、もう一度握る。精神世界で取ったゆめの手の感触が、まだ掌へ残っていた。
「ゆめ。さっきの、もう一回やってみたいんだけど。外でもできるかな」
『お手を取るのでありんすか。でしたら、もうお持ちになっておいでで』
「ああ。そうなんだよな。刀を持ってる時には、ずっと触ってるんだ」
柄へ目を落とした。
手の大きさも、触れるところも違う。けれど、ここにゆめがいることは分かる。刃へ巡る力を辿れば、その先まで自分の感覚が続いていた。
今までは、その感覚を長く保とうとしていた。
ゆめの手を取った時には、そんなことを考えていなかった。向こうから差し出された手を見て、俺も取りたいと思った。それが触れる前に伝わってきた。
「お前の方からも、こっちへ来ようとしてたんだよな。俺がどこまで近づけるかばっかり考えてたけど」
『ええ。お前様がお声を掛けられる時だけ、わっちがお傍へ参るわけではござりんせんよ』
「そうだな。さっきも、橋のところで待っててくれたし」
刀を持ち上げた。
身体の内と外を巡る霊子へ、意識を向ける。胸から腕へ、腕から指へ。その先へ伸びていた流れを、刃の途中で止めずに追った。
ゆめの力があった。
そこへ自分の力を通していく。刀を振るために込めた時より、ゆっくりと。切っ先まで届いたものを、そのまま周囲の流れへ返した。
肩の奥が温かくなった。
俺は刀を下げかけ、そのまま待った。腕を通ってきた感触だったが、自分で戻そうとしたものとは少し違う。
『お前様。こちらからも、お迎えになってくださりんすか』
柄を握る指に、力が入った。
「ああ。やってみてくれ。俺も、そのまま続けるから」
身体を巡る流れへ、ゆめの力が入った。
刀から右腕へ、胸の奥へ。初めて外の霊子を取り込んだ時のような重さはなかった。既に知っている力が、いつもより深いところを通っていく。
肩から背へ巡り、左腕にも届いた。
俺は左手を上げた。
指を開き、閉じる。普段と同じように動いた。その内側にある力を感じながら、刀を握る右手も動かした。
「……こっちまで来たな」
『お苦しくはござりんせんか。お前様の内を、このように巡るのは、わっちも初めてでありんす』
「平気だよ。お前がどこにいるか、今はよく分かる」
胸へ、左手を置いた。
刀は右手にある。
けれど、ゆめの力は、そこだけに留まっていなかった。
*
歩き始めると、感触は薄れた。
荷を持ち上げた時には左腕から遠ざかり、岩を下りる頃には、いつもの卍解と同じくらいになった。俺は足を止めず、黒い石の平原へ向かった。
「動くと、まだ戻っちゃうな。今のまま歩けると思ったんだけど」
『先ほどは、ようこちらをご覧になっておいででしたから。今は、お足元も見ておられんす』
「両方できるようにしたいんだよ。戦う時にも、ずっと刀のことだけ考えてるわけにはいかないしさ」
岩の間を抜けた。
前に見えていた溝は、近づくと随分と深かった。底には黒い砂が溜まり、細い草が風に揺れている。俺は端へ沿って歩き、向こうへ渡れそうなところを探した。
ゆめから返ってきた力を思い出す。
あの時は、右腕へ何かを加えようとはしていなかった。身体を巡る流れを続け、刀へも通していた。ゆめはそこへ、自分から力を返してくれた。
もう一度、同じようにしてみた。
胸から手足へ巡るものの一部を、刀へ流す。強く押し込まず、切っ先まで届かせてから外へ返した。周囲へ流れたものが、また身体へ入ってくる。
その中に、ゆめの力もあった。
石を踏み越えた。
膝を上げ、向こうへ足を置く。右腕だけを追っていた時には薄れた感触が、今度は残った。
「ゆめ。今も続けてくれてる?」
『ええ。お前様が、お足をお動かしになるところまで』
「俺の方でも分かるよ。さっきより弱いけど、脚まで来てる」
もう一歩、進んだ。
次の岩へ乗った時には、少し遠ざかった。それでも完全には失われなかった。俺はそのまま、溝の向こうへ歩いた。
広いところへ出てから、刀を構えた。
一度振り、足を踏み替える。腕を上げたところで力が刃へ寄り、胸へ残っていた感触が薄くなる。俺は振り終えてから、また巡らせた。
ゆめが、戻ってきた。
今度は刀を止めず、次へ繋いだ。刃を返す時にも、身体を巡る分まで引き寄せないようにする。右腕から先だけが強くなるのを抑え、全身を使って踏み込んだ。
黒い岩へ、長い傷が入った。
『今のは、こちらにも、お足を踏まれた重さが』
「俺も、刀を振った時に、お前がどこまで来てたか分かった。腕だけじゃなかったよ」
刃を下げ、切っ先を見た。
身体を鍛え、魂魄を強くし、外の霊子を使えるようになった。その流れを、今はゆめと共に使っている。
刀へ渡していたものが、俺の身体へも返ってくる。
まだ長くは続かない。
それでも、次に何をすればいいかは、もう分かっていた。
*
黒い石の平原を越えると、背の低い林があった。
幹は白かったが、葉は濃い灰色をしていた。近づくと、枝に見えたものの幾つかは、地面から直接伸びている。砂の下で繋がっているらしく、一本の根が、離れた幹のところまで続いていた。
俺はその間を歩いた。
葉へ触れる時には、ゆめにも伝わった。ざらついたところも、縁の硬いところも、同じように感じられるという。俺が指を離しても、ゆめはもう少し触れていたかったらしく、手が枝の傍に残ったこともある。
「今、離すのが惜しかったのか」
『ええ。裏の方は、まだ触れておりんせんでしたので』
「じゃあ、そっちも見よう。俺は表だけで、だいたい分かったつもりになってたな」
葉を返した。
裏には、細かな白い筋があった。指を滑らせると、表より柔らかい。俺も少し意外で、隣の葉まで触ってみた。
こうしている時の方が、長く続くこともあった。
ゆめが何を感じているか、俺にも少しずつ分かるようになっていた。声を聞いてから振り返る前に、そちらへ目を向けたくなる。見つけたものを眺めていると、ゆめがそれを気に入ったことまで伝わってきた。
俺が笑えば、ゆめも笑った。
その声が聞こえる前から、胸の奥が温かくなる。
刀を振る時にも、同じようにできる日が増えた。
足を踏み出し、腰を回し、刃を向ける。身体を巡る力をゆめも使い、ゆめから返ってくるものを俺も使った。動くたびにどちらの分かを確かめる必要はなくなっていった。
十年ほど経った頃、刀を膝へ置かずに紙を書けるようになった。
岩の上へ横たえ、柄から手を離す。
初めはすぐに感触が薄れたが、その日は、胸を巡るものが残った。筆を取り、紙を押さえても、ゆめの力が身体を通っていた。
「離しても、続いてるな」
刀へ顔を向けた。
刃には、星の光が映っている。手を伸ばせば届くところにあったが、俺はそのまま筆を動かした。
『お前様。今度は、何をお書きになるので?』
「今のこと。刀を置いても続けられたって。それと、お前が教えてくれた葉の裏側も描いとこうと思って」
『でしたら、その葉は、もう少し細うござりんしたよ。先の方も、そこまで丸くは』
俺は筆を止めた。
思い出すと、ゆめの言う形が浮かんだ。あの時、二人で触れた葉だった。表へ目を向けていた俺より、ゆめは裏側を長く眺めていた。
紙の端へ、もう一枚描いた。
「こうか?」
『ええ。そのように』
刀へ触れずに、続きを書いた。
*
さらに十年が過ぎた。
虚圏へ来てから、二百七十年ほどになる。湖を離れた後だけでも七十年経っていた。紙へ記した年を見て、そろそろ爺さんが呆れているかもしれないと思った。
現世へ行くと言って家を出たのに、まだ帰っていない。
温泉に百年、現世に三百年。虚圏で過ごした分も合わせれば、爺さんのところを離れてから六百七十年ほどになる。
「戻ったら、まず謝ることになるかな。一度くらい、顔を出しとけばよかった」
『あのお方でしたら、お前様がよう歩かれたことを、お笑いになるかと。それから、飯は食うてきたかと』
「言いそうだな。俺が話を始めても、先に鍋を見ろって言われそうだよ」
笑いながら荷を開いた。
草履は、まだ包んであった。今は別のものを履いているが、爺さんの編んだものも持っている。鼻緒の馴染んだところへ指を添え、それから包み直した。
帰るつもりはある。
ただ、今はもう少し、ゆめと歩いていたかった。
胸を巡る力へ、意識を向ける。何もしていない時にも、そこへゆめがいた。刀へ手を掛けなくても、その力が手足を通っている。
外の霊子を迎え、身体へ巡らせる。
刀にも、同じ流れがあった。
俺は立ち上がり、刃を持ち上げた。
刀を振る前から、ゆめがどこへ向けたいか分かる。俺もそこを斬ろうとしていた。二人で決めた先へ、腕を伸ばした。
離れた岩が、斜めに割れた。
刃を返し、もう一度振る。今度は、腕だけに力を集める必要がなかった。身体へ巡るものが、そのまま刀まで続いている。
振り終えた時、指先へ少し妙な感触が残った。
柄を握っている。
それと共に、握られていることも分かった。
俺は刀を下げず、そのまま見つめた。
「ゆめ。今、俺の手が分かったんだ。お前が取ってくれた方から」
『ええ。わっちにも、お前様がこちらへ触れておいでなのが』
指を少し緩めた。
柄へ触れるところが変わる。掌へ返る感触と、掌が触れている感触が、共にあった。
もう一度、握った。
ゆめも、俺を取っていた。
*
その夜は、川沿いへ座った。
ゆめの手を取っても、もう驚かなかった。俺の指がどこへ触れたか、向こうがどのくらい握ってくれたか。どちらも、触れたところから分かった。
「ようやく、こっちも分かるようになったな。お前ばっかり、俺の見てるものを知ってるのは、少しずるいと思ってたんだ」
「まあ。お前様は、わっちの手までお取りになって、まだお足りにならぬので?」
「足りないよ。ここまで来たら、最後までやってみたい」
ゆめが、俺を見た。
膝へ重なった袖に、川の光が映っている。俺は繋いだ手を少し持ち上げ、白い指の間へ自分の指を入れた。
「俺は、ゆめと一つになったら、どっちかが分からなくなるのかと思ってた。でも、今は、お前のことが前よりよく分かるんだよ。俺だけで刀を振ってたつもりだった頃より、ずっと」
「わっちも、お前様がよう分かりんす。刃を向けられる先も、次にご覧になりたいものも」
ゆめが、指を握った。
「お前様がお帰りになりたい家のことも」
胸の奥が温かくなった。
俺は頷いた。
「ああ。爺さんにも、先生にも会いたい。長いこと掛かったけど、ちゃんと進んだって話したいんだ。二人とも、その後で刀を持ってこいって言いそうだけどな」
「でしたら、わっちも、ご一緒に。今度は、お前様がお手をお取りになるところから、共に参りんしょう」
川の向こうへ目を向けた。
水面へ映った二人の影が、袖のところで重なっていた。流れが揺れても、その間へ隙間はできなかった。
空には、以前より近く見える星がある。
見上げると、ゆめも同じところへ顔を向けた。声を掛けなくても、それが分かった。
もう少しだと思った。
指を緩めても、ゆめの温かさは、胸の奥に残っていた。