剥がれた面に 貌は残り
明けざる砂に 影は立つ
柄を握る手へ、ゆめの感触が残っていた。
指を緩めても、身体を巡る力は途切れない。刀を持ち上げれば、刃に映った星の光が動いた。精神世界で触れた白い指と、今この手にある黒い柄。その両方を思い出しながら、俺は荷を肩へ掛けた。
「ゆめ。今日は少し速く歩こうか」
『また、目に留まったものを通り過ぎてから、お戻りになるので?』
「気になったら教えてくれよ。今なら、お前が何か見つけた時にも分かりそうなんだ」
『でしたら、お前様もようご覧になって。わっちが見惚れてしまえば、二人して通り過ぎてしまいんすよ』
笑って、岩の上から下りた。
谷の出口までは、歩けば半日ほど掛かる。昨日はその道を辿り、途中にあった細い水の流れまで眺めていた。今日は一度、向こうまで抜けてみるつもりだった。
足へ力を巡らせ、踏み出す。
黒い岩が後ろへ流れた。次の足を置くところへ目を向けながら、刀を持つ腕は動かさずに保つ。ゆめの力も、俺と共に脚を通っていた。
一度、二度と瞬歩を繋いだ。
曲がり角の先へ出る前に身体を低くし、張り出した岩の下を抜けた。以前なら、ここで刀へ意識を戻していた。今は足元を見ていても、胸から刃まで続くものが分かる。
出口へ立つと、白い砂原が広がっていた。
遠くに見えていた岩山は、まだ遠い。俺は止まらずにそこまで進み、斜面の途中で振り返った。谷の入口が、細い黒い筋になっている。
『今の道は、随分と短うござりんしたね』
「歩いた時には、もう少し広いと思ってたんだけどな。速く動くと、見るところも変わるよ」
刀を構え、足を踏み替えた。
向こうに立つ相手を思い描く。先生なら、俺が構え終わるまで待ってはくれない。踏み込んでくる刀を脇へ受け流し、左手を上げる。その間にも、ゆめから巡る力を引き離さずに使った。
「破道の六十三⸺
黄の光が、離れた岩へ突き立った。
岩が砕ける前に、その脇へ移る。飛び散る欠片を避け、向こうへ抜けたところで刀を振った。斜面へ長い傷が走り、切り離された岩の上半分が砂へ落ちる。
ゆめは、俺と同じところを見ていた。
術を放つ左手にも、刀を持つ右手にも、その力が巡っている。どちらかを使うたびに、もう一方へ戻し直す必要がなくなっていた。
「今の、分かったか。術を撃ってから向こうへ回るところ」
『ええ。お前様が岩の割れるところをお避けになったのも。以前なら、そこへお立ちになっておいででしたね』
「前は、あそこまでしか間に合わなかったんだよ。今なら先へ出られる。相手が術を防いでても、次の刀が届くところまで」
刃を下げ、斜面を眺めた。
まだ、卍解の先へ至ったわけではない。
それでも、この身体と刀でできることは増えている。長く覚えてきた術も、何度となく振るってきた太刀筋も、今の俺たちで繋げれば、以前にはできなかった使い方ができた。
「帰った時、先生が驚いてくれるといいんだけどな」
『お前様がそのお顔をご覧になる前に、斬りかかられんせんように』
「それはありそうだな。まず刀を合わせてから話せって言われるかもしれない」
俺は笑い、岩山の向こうへ足を向けた。
*
そこから先にも、歩くところは幾らでもあった。
砂の下へ埋もれた石の道を辿り、幾つもの谷を越えた。狭い裂け目を下りると、底に水が溜まっていることもある。岸へ立つ木は低く、根の一部が水へ浸かっていた。枝へ触れているうちに、ゆめがその先の小さな実を見つけた。
割ってみると、中は空だった。
「食べられるかと思ったんだけどな。種もない」
『もう少し、枝へ置いておけばよかったのでありんしょうか』
「隣のも開いてるよ。これで育ち切ってるんじゃないかな」
薄い殻を水へ浮かべた。
岸から離れ、岩の間へ流れていく。俺たちはその行く先を見送り、根を踏まないように林を抜けた。
虚に出会うことは、以前より少なくなった。
近づいてきたものも、俺の姿が見えるところまで来て足を止める。そのまま引き返すなら追わなかった。大きな身体で砂を蹴り、逃げていく背を見てから、こちらも旅を続けた。
一度だけ、頭上から
赤い光が、俺を包む眠りへ入ったところから消えていく。振り向く頃には、もう何も残っていなかった。翼を広げた虚が更に口を開こうとしたので、左手を向けた。
「
白い光が、顔の面を貫いた。
落ちてくる身体を避け、砂へ下りる。刀の傍では、ゆめが静かに息をついた。
『お荷物を下ろす間もござりんせんでしたね』
「水を汲んでる時に来なくてよかったよ。あの器、もう一つしかないんだ」
荷へ触れ、割れていないことを確かめた。
虚圏へ来てから、直して使っているものが幾つもある。紙を包む布も、着物の下へ着るものも、何度か縫い直した。爺さんならまだ皺が寄っていると言うだろうが、以前ほど酷くはないはずだった。
夜には、ゆめと川沿いへ座った。
その日に触れたものを話し、見つけたところを紙へ残す。俺が覚えていなかった枝の形を、ゆめが教えてくれた。ゆめが眺め損ねた谷の向こう側は、翌日、俺から見に行こうと言った。
そうしている間にも、年月は過ぎた。
荷へ留めた術を確かめ、紙へ年を書き足す。十年を越え、さらに同じくらい歩いた頃、虚圏へ来てから二百九十年ほどになっていた。
爺さんのところを出てからは、七百年に近い。
紙へ書いた数字を眺め、俺は筆を止めた。旅に出る時には、こんなに帰らないつもりではなかった。温泉を見つけた時も、現世へ渡った時も、もう少し見てからと思っていた。その積み重ねが、この数字になっている。
「そろそろ、一度戻ろうか」
『もう、お帰りになられるので?』
「まだ先を見つけたわけじゃないけどさ。何も分からなかったら帰ってくるなって、言われたわけでもないからな。爺さんにも、今のところまで話したいよ」
刀を横へ置き、紙を重ねた。
ゆめの力は、柄から手を離しても胸へ残っている。筆を洗い、墨を包み、そのまま荷へ収めた。
『あのお方のお話も、よう増えておいでかもしれんせんね』
「俺がいない間に、また誰か拾ってたりして。部屋へ入ったら、知らない奴が紙を広げてたらどうしよう」
『でしたら、お前様のお石が役に立っておりんすよ』
「あれまで使われてたら、少しくらい文句を言ってもいいだろ」
笑いながら、刀を持ち上げた。
目の前には、黒い岩の尾根が続いていた。何日か前から見えていたものだ。その向こうを眺めたら、帰る場所を決めようと思った。
*
尾根の向こうには、水があった。
細い流れが幾筋も砂を分け、低いところへ集まっている。その周囲へ、白い幹の林が広がっていた。これまで見たものより背が高く、枝も深い。葉の重なるところは、月明かりが届かずに黒く沈んでいる。
斜面を下りながら、俺は周囲へ意識を向けた。
濃い霊子が流れていた。
水辺にも、林にも、尾根の下にも。ただ、虚の気配がない。ここへ来るまでにも、遠くで幾つか感じていたはずだった。あの尾根を越えてからは、砂の下まで探っても見つからない。
「随分静かだな。これだけ水があるなら、何かいてもよさそうだけど」
『お前様の夜をご覧になって、先に離れたのでありんしょうか』
「それなら、向こうへ動く気配くらいはありそうなんだけどな」
足を止め、林へ目を向けた。
葉が揺れていた。
その下へ、男が立っている。
白い着物に見えたが、近づくにつれて違うことが分かった。襟は首の途中まであり、膝より下まで続く裾の脇が開いている。袖から出た手は空で、左の腰へ細い刀を差していた。
黒い髪が、頬へ掛かっていた。
顔には、仮面がなかった。
俺は歩く速さを落とし、男の前へ向かった。身体を巡るものを保ったまま、眠りを広げている範囲も確かめる。相手はその外側へ立ち、俺が近づくのを見ていた。
死神ではない。
そこは、間違えようがなかった。
虚の気配がある。けれど、今まで斬ってきたものとは、身体の形から違っていた。骨の腕も、獣の脚もない。こちらを見る目も、仮面の穴から覗いてはいなかった。
破面。
その言葉が浮かび、俺は顔から首、袖へ出た手まで見た。どこにも、仮面の欠片らしいものがない。
男が、こちらへ目を向けたまま口を開いた。
「随分と長く、夜を連れて歩いているな。ここへ来るまでに昼を忘れたか」
「この世界は、元からずっと夜だろ。俺も、もう長いこと昼は見てないよ」
答えながら、男の足元を見た。
砂へ影が落ちている。そこからこちらへ向けて力を放つ様子はない。ただ、目の前にいる身体から、霊圧の大きさが測れなかった。
抑えているのだろう。
俺もそうしている。けれど、これだけ近くへ来ても、相手がどのくらいまで隠しているのか分からないのは、久しぶりだった。
「俺が来るのを分かっていたのか」
「星が動いていた。初めは空が変わったのかと思ったが、見ているうちに、お前が歩いていると分かった。何処まで来るか待っていた」
男は頭上を見た。
俺と共に広がった星空が、林の上まで続いている。枝の隙間にも、幾つもの光が見えていた。
「その夜は、お前の刀が作るのか」
「ああ。長く一緒に歩いてるんだ。少し試したいことがあってな」
「この砂でか。歩くには、もっと景色の変わるところもあるだろう」
「ここも、歩けば随分変わるよ。山もあるし、水もある。俺はまだ見てないところが多い」
男が俺を見た。
その目が僅かに細くなった。笑ったのかどうかまでは分からない。
「そうか。俺には、長く同じものに見えていた」
葉の間へ風が通った。
袖が揺れ、胸元の襟が僅かに開く。その奥へ、黒い穴が見えた。俺はそこから顔へ目を戻した。
「一つ聞いてもいいか。お前、仮面はどうしたんだ」
男は自分の頬へ触れた。
指が、目の下から顎へ滑る。白い欠片も、骨に似たものもない。その手を下ろしてから、こちらへ向き直った。
「剥いだ。顔を覆っていたものは、もう残していない」
「……自分でか」
「長いこと生きていると、気になってくるものだ。面を剥いだらどうなるのか、とな」
胸の奥へ、ゆめの気配が寄った。
俺が感じたものを、ゆめも捉えている。男はまだ何もしていない。刀にも触れず、足も動かしていなかった。それなのに、俺はその両手から目を離したくなくなっていた。
「その姿になってから、長いのか」
「数えてはいない。俺の面がなくなった頃、同じ姿のものは他にいなかった。面を剥ごうとして、自分の身体まで崩したものはいたがな」
言い終えて、男は林の奥へ目を向けた。
昔、そこへ誰か立っていたのかもしれない。今は白い幹が並ぶばかりで、虚の気配は一つもなかった。
俺は、前世で見た破面を思い出していた。
いずれも、仮面の名残があった。頭に、頬に、顎に。砕いた後にも残ったものが、その姿の一部になっていたはずだった。
目の前の男には、それがない。
まだ原作には、千年以上ある。その間を生きているものの全てを、俺が知っているわけではなかった。
「俺は烏有玄十郎。お前は?」
「ゼルキオン・アーヴェル」
男は、淀みなく答えた。
長い間呼ばれていなかった名を、思い出す様子もなかった。左手が刀の鞘へ添えられる。その動きを見て、俺は荷の紐を肩から外した。
「ここへ来る前から、虚がいなかった。お前がいるからか」
「近づけば食った。そうしているうちに、来なくなった」
ゼルキオンは、俺の刀へ目を向けた。
「お前は、気づいてからも下りてきたな」
「林も水も見えたからな。それに、いたのはお前一人だった。話せる相手なら、少し話してみたかったんだよ」
「話を終えたら、帰るつもりだったか」
「ああ。そろそろ、顔を出したいところもある」
荷を岩の傍へ置いた。
包んだ紙が崩れないように向きを直し、その周囲へ結界を張る。草履も、器も、その中へあった。俺は紐を寄せてから、ゼルキオンへ向き直った。
相手は、こちらを待っていた。
「刀を抜くつもりなら、その前に言ってくれ。荷まで壊されたくないんだ」
「お前へ届くところで、風が消えている。砂も入らん。その刀を持つ手まで、俺の刃が届くか見てみたい」
右手が、柄へ掛かった。
その顔へ、初めてはっきりと笑みが浮かんだ。
「帰る前に、付き合え。長く、この砂へ足を置いているだけだった」
霊圧が噴き上がった。
白い幹が一斉に折れ、林の奥へ吹き飛んだ。水が岸を越えて巻き上がり、足元の砂には幾筋もの裂け目が走る。尾根から崩れた岩が転がり落ち、その音まで、次々と砕ける地面の響きへ呑まれた。
俺は足を開き、身体を巡る力を全身へ行き渡らせた。
肩が重い。胸へ圧迫が掛かり、息を吸うにも力が要った。受け止める霊圧を上げても、ゼルキオンの力はまだ増していく。さっきまで測れなかったものが、今は遠くの尾根を越え、その向こうまで押し広がっていた。
先生の霊圧を思い出した。
爺さんが卍解した時の、あの血潮も。
どちらを思い浮かべても、目の前の男から溢れる量には届かなかった。千年以上生きてきて、こんな霊圧を浴びたことはない。
「……とんでもないな、お前」
ゼルキオンは、まだ刀を抜いていなかった。
柄へ手を掛けたまま、こちらを見ている。解放も、技も使っていない。ただ抑えていた霊圧を放つだけで、林も水辺も、その形を失っていく。
千切れた葉が、俺の傍へ飛んできた。
眠りへ触れたところから消え、後には何も残らない。その向こうで、ゼルキオンの指が柄を握った。
『お前様。お帰りの前に、随分と大きな寄り道になりそうでありんすね』
「ああ。爺さんには、また長い話を聞いてもらうことになりそうだよ」
刀を持つ指へ、ゆめの感触が重なった。
身体を巡る力は、滞っていなかった。ゆめも俺と共に、目の前の刀を見ている。俺は肩を下げ、息を吐いた。次に吸った時には、胸も先ほどより楽に動いた。
ゼルキオンが、一歩出た。
俺も、砂を踏んだ。
「付き合うよ。ただ、手加減はできないからな。斬られてから、話すつもりはないんだ」
「それでいい。俺も、お前の夜を眺めるだけで帰すつもりはない」
抜かれた刃が、星を映した。
俺は霊圧を解き放った。
押し寄せていた力へ、こちらの力がぶつかる。二人の間から砂が噴き上がり、残っていた木々まで根ごと引き抜かれた。黒地の袖が翻り、ほどけた髪が背へ流れる。
頭上へ満ちた星の下で、ゼルキオンの白い袖も激しく揺れていた。
その目が、刀を構えた俺を捉えていた。