卍解のその先を追い求めて。   作:lalaland

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剥がれた面に 貌は残り
明けざる砂に 影は立つ




41.星夜の異客

 

 

 柄を握る手へ、ゆめの感触が残っていた。

 

 指を緩めても、身体を巡る力は途切れない。刀を持ち上げれば、刃に映った星の光が動いた。精神世界で触れた白い指と、今この手にある黒い柄。その両方を思い出しながら、俺は荷を肩へ掛けた。

 

「ゆめ。今日は少し速く歩こうか」

『また、目に留まったものを通り過ぎてから、お戻りになるので?』

「気になったら教えてくれよ。今なら、お前が何か見つけた時にも分かりそうなんだ」

『でしたら、お前様もようご覧になって。わっちが見惚れてしまえば、二人して通り過ぎてしまいんすよ』

 

 笑って、岩の上から下りた。

 

 谷の出口までは、歩けば半日ほど掛かる。昨日はその道を辿り、途中にあった細い水の流れまで眺めていた。今日は一度、向こうまで抜けてみるつもりだった。

 

 足へ力を巡らせ、踏み出す。

 

 黒い岩が後ろへ流れた。次の足を置くところへ目を向けながら、刀を持つ腕は動かさずに保つ。ゆめの力も、俺と共に脚を通っていた。

 

 一度、二度と瞬歩を繋いだ。

 

 曲がり角の先へ出る前に身体を低くし、張り出した岩の下を抜けた。以前なら、ここで刀へ意識を戻していた。今は足元を見ていても、胸から刃まで続くものが分かる。

 

 出口へ立つと、白い砂原が広がっていた。

 

 遠くに見えていた岩山は、まだ遠い。俺は止まらずにそこまで進み、斜面の途中で振り返った。谷の入口が、細い黒い筋になっている。

 

『今の道は、随分と短うござりんしたね』

「歩いた時には、もう少し広いと思ってたんだけどな。速く動くと、見るところも変わるよ」

 

 刀を構え、足を踏み替えた。

 

 向こうに立つ相手を思い描く。先生なら、俺が構え終わるまで待ってはくれない。踏み込んでくる刀を脇へ受け流し、左手を上げる。その間にも、ゆめから巡る力を引き離さずに使った。

 

「破道の六十三⸺雷吼炮(らいこうほう)」

 

 黄の光が、離れた岩へ突き立った。

 

 岩が砕ける前に、その脇へ移る。飛び散る欠片を避け、向こうへ抜けたところで刀を振った。斜面へ長い傷が走り、切り離された岩の上半分が砂へ落ちる。

 

 ゆめは、俺と同じところを見ていた。

 

 術を放つ左手にも、刀を持つ右手にも、その力が巡っている。どちらかを使うたびに、もう一方へ戻し直す必要がなくなっていた。

 

「今の、分かったか。術を撃ってから向こうへ回るところ」

『ええ。お前様が岩の割れるところをお避けになったのも。以前なら、そこへお立ちになっておいででしたね』

「前は、あそこまでしか間に合わなかったんだよ。今なら先へ出られる。相手が術を防いでても、次の刀が届くところまで」

 

 刃を下げ、斜面を眺めた。

 

 まだ、卍解の先へ至ったわけではない。

 

 それでも、この身体と刀でできることは増えている。長く覚えてきた術も、何度となく振るってきた太刀筋も、今の俺たちで繋げれば、以前にはできなかった使い方ができた。

 

「帰った時、先生が驚いてくれるといいんだけどな」

『お前様がそのお顔をご覧になる前に、斬りかかられんせんように』

「それはありそうだな。まず刀を合わせてから話せって言われるかもしれない」

 

 俺は笑い、岩山の向こうへ足を向けた。

 

        *

 

 そこから先にも、歩くところは幾らでもあった。

 

 砂の下へ埋もれた石の道を辿り、幾つもの谷を越えた。狭い裂け目を下りると、底に水が溜まっていることもある。岸へ立つ木は低く、根の一部が水へ浸かっていた。枝へ触れているうちに、ゆめがその先の小さな実を見つけた。

 

 割ってみると、中は空だった。

 

「食べられるかと思ったんだけどな。種もない」

『もう少し、枝へ置いておけばよかったのでありんしょうか』

「隣のも開いてるよ。これで育ち切ってるんじゃないかな」

 

 薄い殻を水へ浮かべた。

 

 岸から離れ、岩の間へ流れていく。俺たちはその行く先を見送り、根を踏まないように林を抜けた。

 

 虚に出会うことは、以前より少なくなった。

 

 近づいてきたものも、俺の姿が見えるところまで来て足を止める。そのまま引き返すなら追わなかった。大きな身体で砂を蹴り、逃げていく背を見てから、こちらも旅を続けた。

 

 一度だけ、頭上から虚閃(セロ)を撃ち込まれた。

 

 赤い光が、俺を包む眠りへ入ったところから消えていく。振り向く頃には、もう何も残っていなかった。翼を広げた虚が更に口を開こうとしたので、左手を向けた。

 

「穿月(せんげつ)」

 

 白い光が、顔の面を貫いた。

 

 落ちてくる身体を避け、砂へ下りる。刀の傍では、ゆめが静かに息をついた。

 

『お荷物を下ろす間もござりんせんでしたね』

「水を汲んでる時に来なくてよかったよ。あの器、もう一つしかないんだ」

 

 荷へ触れ、割れていないことを確かめた。

 

 虚圏へ来てから、直して使っているものが幾つもある。紙を包む布も、着物の下へ着るものも、何度か縫い直した。爺さんならまだ皺が寄っていると言うだろうが、以前ほど酷くはないはずだった。

 

 夜には、ゆめと川沿いへ座った。

 

 その日に触れたものを話し、見つけたところを紙へ残す。俺が覚えていなかった枝の形を、ゆめが教えてくれた。ゆめが眺め損ねた谷の向こう側は、翌日、俺から見に行こうと言った。

 

 そうしている間にも、年月は過ぎた。

 

 荷へ留めた術を確かめ、紙へ年を書き足す。十年を越え、さらに同じくらい歩いた頃、虚圏へ来てから二百九十年ほどになっていた。

 

 爺さんのところを出てからは、七百年に近い。

 

 紙へ書いた数字を眺め、俺は筆を止めた。旅に出る時には、こんなに帰らないつもりではなかった。温泉を見つけた時も、現世へ渡った時も、もう少し見てからと思っていた。その積み重ねが、この数字になっている。

 

「そろそろ、一度戻ろうか」

『もう、お帰りになられるので?』

「まだ先を見つけたわけじゃないけどさ。何も分からなかったら帰ってくるなって、言われたわけでもないからな。爺さんにも、今のところまで話したいよ」

 

 刀を横へ置き、紙を重ねた。

 

 ゆめの力は、柄から手を離しても胸へ残っている。筆を洗い、墨を包み、そのまま荷へ収めた。

 

『あのお方のお話も、よう増えておいでかもしれんせんね』

「俺がいない間に、また誰か拾ってたりして。部屋へ入ったら、知らない奴が紙を広げてたらどうしよう」

『でしたら、お前様のお石が役に立っておりんすよ』

「あれまで使われてたら、少しくらい文句を言ってもいいだろ」

 

 笑いながら、刀を持ち上げた。

 

 目の前には、黒い岩の尾根が続いていた。何日か前から見えていたものだ。その向こうを眺めたら、帰る場所を決めようと思った。

 

        *

 

 尾根の向こうには、水があった。

 

 細い流れが幾筋も砂を分け、低いところへ集まっている。その周囲へ、白い幹の林が広がっていた。これまで見たものより背が高く、枝も深い。葉の重なるところは、月明かりが届かずに黒く沈んでいる。

 

 斜面を下りながら、俺は周囲へ意識を向けた。

 

 濃い霊子が流れていた。

 

 水辺にも、林にも、尾根の下にも。ただ、虚の気配がない。ここへ来るまでにも、遠くで幾つか感じていたはずだった。あの尾根を越えてからは、砂の下まで探っても見つからない。

 

「随分静かだな。これだけ水があるなら、何かいてもよさそうだけど」

『お前様の夜をご覧になって、先に離れたのでありんしょうか』

「それなら、向こうへ動く気配くらいはありそうなんだけどな」

 

 足を止め、林へ目を向けた。

 

 葉が揺れていた。

 

 その下へ、男が立っている。

 

 白い着物に見えたが、近づくにつれて違うことが分かった。襟は首の途中まであり、膝より下まで続く裾の脇が開いている。袖から出た手は空で、左の腰へ細い刀を差していた。

 

 黒い髪が、頬へ掛かっていた。

 

 顔には、仮面がなかった。

 

 俺は歩く速さを落とし、男の前へ向かった。身体を巡るものを保ったまま、眠りを広げている範囲も確かめる。相手はその外側へ立ち、俺が近づくのを見ていた。

 

 死神ではない。

 

 そこは、間違えようがなかった。

 

 虚の気配がある。けれど、今まで斬ってきたものとは、身体の形から違っていた。骨の腕も、獣の脚もない。こちらを見る目も、仮面の穴から覗いてはいなかった。

 

 破面。

 

 その言葉が浮かび、俺は顔から首、袖へ出た手まで見た。どこにも、仮面の欠片らしいものがない。

 

 男が、こちらへ目を向けたまま口を開いた。

 

「随分と長く、夜を連れて歩いているな。ここへ来るまでに昼を忘れたか」

「この世界は、元からずっと夜だろ。俺も、もう長いこと昼は見てないよ」

 

 答えながら、男の足元を見た。

 

 砂へ影が落ちている。そこからこちらへ向けて力を放つ様子はない。ただ、目の前にいる身体から、霊圧の大きさが測れなかった。

 

 抑えているのだろう。

 

 俺もそうしている。けれど、これだけ近くへ来ても、相手がどのくらいまで隠しているのか分からないのは、久しぶりだった。

 

「俺が来るのを分かっていたのか」

「星が動いていた。初めは空が変わったのかと思ったが、見ているうちに、お前が歩いていると分かった。何処まで来るか待っていた」

 

 男は頭上を見た。

 

 俺と共に広がった星空が、林の上まで続いている。枝の隙間にも、幾つもの光が見えていた。

 

「その夜は、お前の刀が作るのか」

「ああ。長く一緒に歩いてるんだ。少し試したいことがあってな」

「この砂でか。歩くには、もっと景色の変わるところもあるだろう」

「ここも、歩けば随分変わるよ。山もあるし、水もある。俺はまだ見てないところが多い」

 

 男が俺を見た。

 

 その目が僅かに細くなった。笑ったのかどうかまでは分からない。

 

「そうか。俺には、長く同じものに見えていた」

 

 葉の間へ風が通った。

 

 袖が揺れ、胸元の襟が僅かに開く。その奥へ、黒い穴が見えた。俺はそこから顔へ目を戻した。

 

「一つ聞いてもいいか。お前、仮面はどうしたんだ」

 

 男は自分の頬へ触れた。

 

 指が、目の下から顎へ滑る。白い欠片も、骨に似たものもない。その手を下ろしてから、こちらへ向き直った。

 

「剥いだ。顔を覆っていたものは、もう残していない」

「……自分でか」

「長いこと生きていると、気になってくるものだ。面を剥いだらどうなるのか、とな」

 

 胸の奥へ、ゆめの気配が寄った。

 

 俺が感じたものを、ゆめも捉えている。男はまだ何もしていない。刀にも触れず、足も動かしていなかった。それなのに、俺はその両手から目を離したくなくなっていた。

 

「その姿になってから、長いのか」

「数えてはいない。俺の面がなくなった頃、同じ姿のものは他にいなかった。面を剥ごうとして、自分の身体まで崩したものはいたがな」

 

 言い終えて、男は林の奥へ目を向けた。

 

 昔、そこへ誰か立っていたのかもしれない。今は白い幹が並ぶばかりで、虚の気配は一つもなかった。

 

 俺は、前世で見た破面を思い出していた。

 

 いずれも、仮面の名残があった。頭に、頬に、顎に。砕いた後にも残ったものが、その姿の一部になっていたはずだった。

 

 目の前の男には、それがない。

 

 まだ原作には、千年以上ある。その間を生きているものの全てを、俺が知っているわけではなかった。

 

「俺は烏有玄十郎。お前は?」

「ゼルキオン・アーヴェル」

 

 男は、淀みなく答えた。

 

 長い間呼ばれていなかった名を、思い出す様子もなかった。左手が刀の鞘へ添えられる。その動きを見て、俺は荷の紐を肩から外した。

 

「ここへ来る前から、虚がいなかった。お前がいるからか」

「近づけば食った。そうしているうちに、来なくなった」

 

 ゼルキオンは、俺の刀へ目を向けた。

 

「お前は、気づいてからも下りてきたな」

「林も水も見えたからな。それに、いたのはお前一人だった。話せる相手なら、少し話してみたかったんだよ」

「話を終えたら、帰るつもりだったか」

「ああ。そろそろ、顔を出したいところもある」

 

 荷を岩の傍へ置いた。

 

 包んだ紙が崩れないように向きを直し、その周囲へ結界を張る。草履も、器も、その中へあった。俺は紐を寄せてから、ゼルキオンへ向き直った。

 

 相手は、こちらを待っていた。

 

「刀を抜くつもりなら、その前に言ってくれ。荷まで壊されたくないんだ」

「お前へ届くところで、風が消えている。砂も入らん。その刀を持つ手まで、俺の刃が届くか見てみたい」

 

 右手が、柄へ掛かった。

 

 その顔へ、初めてはっきりと笑みが浮かんだ。

 

「帰る前に、付き合え。長く、この砂へ足を置いているだけだった」

 

 霊圧が噴き上がった。

 

 白い幹が一斉に折れ、林の奥へ吹き飛んだ。水が岸を越えて巻き上がり、足元の砂には幾筋もの裂け目が走る。尾根から崩れた岩が転がり落ち、その音まで、次々と砕ける地面の響きへ呑まれた。

 

 俺は足を開き、身体を巡る力を全身へ行き渡らせた。

 

 肩が重い。胸へ圧迫が掛かり、息を吸うにも力が要った。受け止める霊圧を上げても、ゼルキオンの力はまだ増していく。さっきまで測れなかったものが、今は遠くの尾根を越え、その向こうまで押し広がっていた。

 

 先生の霊圧を思い出した。

 

 爺さんが卍解した時の、あの血潮も。

 

 どちらを思い浮かべても、目の前の男から溢れる量には届かなかった。千年以上生きてきて、こんな霊圧を浴びたことはない。

 

「……とんでもないな、お前」

 

 ゼルキオンは、まだ刀を抜いていなかった。

 

 柄へ手を掛けたまま、こちらを見ている。解放も、技も使っていない。ただ抑えていた霊圧を放つだけで、林も水辺も、その形を失っていく。

 

 千切れた葉が、俺の傍へ飛んできた。

 

 眠りへ触れたところから消え、後には何も残らない。その向こうで、ゼルキオンの指が柄を握った。

 

『お前様。お帰りの前に、随分と大きな寄り道になりそうでありんすね』

「ああ。爺さんには、また長い話を聞いてもらうことになりそうだよ」

 

 刀を持つ指へ、ゆめの感触が重なった。

 

 身体を巡る力は、滞っていなかった。ゆめも俺と共に、目の前の刀を見ている。俺は肩を下げ、息を吐いた。次に吸った時には、胸も先ほどより楽に動いた。

 

 ゼルキオンが、一歩出た。

 

 俺も、砂を踏んだ。

 

「付き合うよ。ただ、手加減はできないからな。斬られてから、話すつもりはないんだ」

「それでいい。俺も、お前の夜を眺めるだけで帰すつもりはない」

 

 抜かれた刃が、星を映した。

 

 俺は霊圧を解き放った。

 

 押し寄せていた力へ、こちらの力がぶつかる。二人の間から砂が噴き上がり、残っていた木々まで根ごと引き抜かれた。黒地の袖が翻り、ほどけた髪が背へ流れる。

 

 頭上へ満ちた星の下で、ゼルキオンの白い袖も激しく揺れていた。

 

 その目が、刀を構えた俺を捉えていた。

 

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