尽きせぬ飢えに 夜は裂け
満たせぬ孔に 星は沈む
ゼルキオンが消えた。
足元の砂が弾けるより早く右へ刀を向ける。視線の先にはもう白い袖があった。振り上げられた刃が俺の首を狙い、その手前で止まった。
眠りの広がるところへ、切っ先が触れようとしていた。
俺は踏み込んだ。ゼルキオンは刀を引き、後ろへ滑る。追って振った刃が胸元の布を裂いたが、その下の肌までは届かなかった。白い裾が砂へ擦れ、離れた水辺に二本の足跡が残る。
速い。
こちらが足を動かした時にはもう退いていた。夜へ刀を入れればどうなるか、今の一度で察したらしい。
「随分用心深いんだな。さっきは俺の手まで届くか見たいって言ってただろ」
「だから見ている。刀を失ってから確かめる必要はない」
ゼルキオンは裂けた襟へ指を掛けた。
布の下には傷がない。胸の孔が、先ほどより大きく見えた。あいつが指を離すと、白い布がまたその上へ重なる。
「お前が近づけば、あの眠りも近づくのか」
「ああ。離れて眺めてるだけなら、いつまで経っても届かないよ」
返事を待たずに左手を上げた。
「
白い光が水辺を横切った。
ゼルキオンは首を傾け、頬の脇へ通した。向こう岸の岩が貫かれる。その音を聞く前に俺は足を踏み、相手の左へ回った。
刀を横へ払う。
今度はゼルキオンが上へ抜けた。俺の夜が追いつく前に砂を蹴り、白い幹の上へ立つ。枝が足の下で折れたが、落ちるより早く次の幹へ移っていた。
刃を返し、左手をそちらへ向ける。
「破道の九十⸺
林の一角が黒く閉ざされた。
幹も枝も、白い姿も、その中へ収まる。棺の面へ幾つもの槍が現れ、内へ突き込まれた。水辺まで地鳴りが届き、岸の砂が足元から崩れていく。
俺は刀を構えたまま、棺の上を見た。
黒い面が内側から膨れた。
一筋の赤い光が突き抜け、その周りから棺が割れる。砕けた術の向こうへ、ゼルキオンが浮かんでいた。右の肩から胸へ赤い線が走り、袖の先から血が落ちている。
左手の指先には、まだ赤い光が残っていた。
「詠唱もせずにこれだけの技を放つか。お前も長く戦ってきたみたいだな」
「これだけじゃ足りなかったみたいだけどな。もう少し深く入ると思ってたよ」
指先が俺へ向いた。
赤い光が太くなり、林を押し分けながら降ってくる。水が巻き上がった。岸が削れ、背後の尾根へ長い溝が走る。その中で俺の周囲だけは、砂の一粒も動かなかった。
眠りへ届いた光が消えていた。
俺はそこから瞬歩で踏み込んだ。
赤い奔流の内を抜け、ゼルキオンの下へ出る。左手を持ち上げたままの相手へ刀を振り上げた。ゼルキオンは光を止め、身を捻る。切っ先が腹を掠め、白い服へ血が散った。
その右手が動いた。
俺の刃へ合わせようとした刀が、途中で引かれる。ゼルキオンは腕を畳み、また距離を取った。足の裏が空を蹴り、林の向こうへ抜けていく。
俺も追った。
肩へ、腹へ、次には脚へ。太刀筋を変えるたび、あいつは俺の刀と夜の端を見ながら逃れていった。退く先へ鬼道を放てば、その脇へ抜ける。更に追った刃が白い袖を裂き、今度は肘の上へ傷を残した。
ゼルキオンが水の上へ下りた。
俺は岸へ足を置き、刀を下げずに相手を見る。白い服に幾つも赤い筋がついていた。傷は浅いが、こちらから何も届かないわけではない。
向こうの刀は、まだ一度も振り切られていなかった。
『お前様。あのお方、まだ刀を手放すおつもりはござりんせんね』
「ああ。抜いたばっかりでなくすのは、惜しいんだろうな」
声を落として答えた。
ゆめの気配は、刀を握る腕にも胸にもある。術を続けて放ち、瞬歩を繋いでも、身体を巡る流れは乱れなかった。昔なら息を整えたくなったところで、今は次に踏み込む足へ力を送れる。
何十年も、一緒に歩いてきた。
その年月が、刀を振るうたびに返ってきていた。
「そのままで、まだ続けるか」
ゼルキオンが顔を上げた。
「お前の方からは届く。俺の刀は、近づけるだけで失われる。随分と都合のいい夜だ」
「帰る前に付き合えって言ったのは、お前だろ。俺も斬られたくないからな。使えるものは使わせてもらうよ」
「そうだな。ならば、俺もそうしよう」
刀が持ち上がった。
切っ先が俺を向かず、ゼルキオン自身の胸の前へ来る。左手が刃へ添えられた。血に濡れた指が滑り、銀の刀身に細い筋を残していく。
俺は足を止めた。
帰刃を使うところまで、ようやく来た。
胸元の孔から黒いものが溢れた。煙のように揺れていたが、風に流れてはいない。白い服の上へ這い、刃へ触れ、血の筋を包んでいく。
ゼルキオンが、静かに口を開いた。
『飽くな⸺
刀が黒く染まった。
切っ先から柄まで、胸の孔へ吸い込まれるように消えていく。刀を握っていた指が開き、その掌からも黒いものが溢れた。
水がなくなった。
ゼルキオンの足元を中心に、丸く底が露わになる。そこから岸へ向かって広がり、白い幹の根へ届いた。木が倒れる音はしなかった。根に触れたところから幹が失われ、枝も葉も、そのまま黒い波の内へ消えていった。
俺は後ろへ跳んだ。
さっきまで立っていた岸が消える。足を置き直した岩の下でも、砂が抜けていった。崩れているのではない。黒いものが触れたところには、欠片さえ残らなかった。
霊圧が更に上がった。
肩へ掛かる重さが増し、岩の表面が砕ける。俺は身体へ力を巡らせ、足場が割れる前に空へ移った。下を見れば、水辺の半分がもうなくなっていた。
その中心に、ゼルキオンがいる。
姿は人のままだった。
仮面も、角も、生えてはいない。両手と胸元を黒く染め、何も持たずに立っていた。先ほど斬った肩の傷から流れる血まで、黒いものの内へ呑まれていた。
「……随分と腹が減ってるらしいな」
ゼルキオンが俺を見上げた。
「お前は、食えば満たされるだろう」
「まあな。今は、あまり腹も減らなくなったけど」
「俺は、満たされたことがない。初めに何を食ったかも忘れた。あの林へ来たものを最後に食ってから、どれほど経ったかも分からん。それでも、腹は減る」
右手が持ち上がった。
掌をこちらへ向ける。
「お前の夜なら、少しは満たせるのかもしれないな」
黒い波が空へ伸びた。
俺は左手を向けた。
「
白い光が黒い波へ突き立つ。
先端が消えた。
光を送り続けても、ゼルキオンの掌まで届かない。黒いものが白い光の周りへ絡み、その長さを削りながら、こちらへ上がってくる。
俺は術を止め、横へ抜けた。
波が追って曲がる。足元を掠めたところで、その端が俺の眠りへ入った。
消えるはずだった。
黒い先端が僅かに欠けた。だが、その奥から続くものが夜へ食い込み、欠けたところを押し広げてくる。腕を振って距離を取った時には、俺の袖まであと半歩のところへ迫っていた。
背筋へ冷たいものが走った。
眠りは続いている。
俺もゆめも、その力を止めていない。
それでも、黒い波は近づいてきた。
『お前様。あれは、こちらの眠りまで喰らっておりんす』
「……そうみたいだな。寝たままじゃ、食事もできないと思ってたんだけど」
刀を持つ腕へ力を込めた。
頭上から回り込んだ黒い波へ、刃を振るう。眠りを重ねたところが裂け、その両側から黒いものが俺へ寄った。俺は切れ目を抜け、ゼルキオンの背後へ瞬歩を踏んだ。
振り向くより先に肩を狙う。
ゼルキオンの左手が上がった。
黒いものが掌から広がり、俺の刀へ触れようとする。刃が届く寸前で腕を引き、相手の横へ抜けた。胸元を狙って放った
俺は更に離れ、右手の指を確かめた。
刀は残っている。
ゆめの気配も失っていない。だが、今のまま斬り込んでいれば、刃から喰われていたかもしれなかった。
「刀を返しただけじゃ、眠ってくれないか」
『何でもよう召し上がるお方でありんすね。わっちの夜まで、お気に召したようで』
「気に入られても、渡すつもりはないけどな」
ゼルキオンが腕を振った。
黒い波が横へ広がる。
俺は上へ抜けようとして、途中で足を止めた。頭上にも、先ほど避けたものが残っている。背後からは別の波が回り、逃れる先を塞いでいた。
三方から黒いものが迫った。
左手を開き、前へ向ける。
「縛道の八十一⸺
透明な壁が立った。
黒い波が触れると、壁の中央へ穴が開いた。その周りまで喰われる前に俺は足を踏み、壁の下へ潜る。頭の上を黒いものが通り過ぎ、向こうの尾根が大きく欠けた。
遅れて落ちた岩が、黒い波へ呑まれる。
俺は振り返らずにゼルキオンへ向かった。
守って待っていれば、いずれ囲まれる。
正面の黒い波を避け、相手の右へ出る。持ち上がった掌の下を抜け、脇腹へ刀を走らせた。黒く染まっていない白い布へ刃が入り、その下から血が噴いた。
ゼルキオンの身体が僅かに傾いた。
俺は刃を抜き、続けて首へ向ける。その時にはもう、黒いものが傷口から溢れていた。刀を返すより早く広がってきたので、足を引き、顔を逸らす。
頬が熱くなった。
左の袖から、先がなくなっていた。
皮膚へ指を当てると血がつく。袖は裂けていなかった。腕へ残った黒い布が、途中で丸く途切れている。
永遠の眠りを越えて、届いた。
ゼルキオンも腹へ手を添えていた。白い服が赤く染まり、足元へ血が落ちる。傷そのものが消えたわけではないらしい。
俺は頬の血を拭い、笑った。
「斬れるんだな。何でも喰うから、俺の刀も全部なくなるかと思ったよ」
「お前も、傷はつくらしい」
「つくよ。痛いし、血も出る。だから、なるべく斬られないようにしてるんだ」
身体を巡る流れを確かめた。
外から迎える霊子が、先ほどより少ない。ゼルキオンの周囲へあったものが、砂や岩と共に喰われている。それでも身体の内にある力は大きく、ゆめと繋いだ流れも続いていた。
足りなくなってから考えるつもりはない。
俺は刀を持ち上げた。
『お前様。今宵のお望みを、お聞かせなんし』
ゆめの声が、胸の奥へ届いた。
九つの夢。
長い旅の間、使わずに歩いてきたものがある。ゆめと共に巡らせる力を確かめ、今の俺たちで何ができるのかを知るために、取っておいた。
ゼルキオンが、こちらへ歩いてくる。
その足元から、また黒いものが広がった。砂が失われ、岸に残っていた最後の白い幹が根元から消えていく。
俺は、あいつの胸にある孔を見た。
「ゆめ。こいつに、腹いっぱい食わせてやろうか」
柄へ、白い指の感触が重なった。
『ええ、お前様。今宵は、まだ一夜目でありんす』