喰らえぬ夢に 夜は燃え
帰らぬ星に 花は咲く
刀を振り下ろした。
黒い塊へ切れ目が走り、その奥で血が散った。ゼルキオンの胸を斬ったはずだった。だが、刃を肩へ戻した時には、切れ目はもう塞がっていた。
更に雷を落とす。黒い表面が白く光った。内へ入った雷が幾度も枝分かれし、その間から朱の炎が噴き出す。ゼルキオンの姿が、一瞬だけ見えた。
あいつはまだ立っていた。右腕をこちらへ伸ばしている。
俺は左へ移った。さっきまで胸のあった場所を、細い黒いものが貫く。振り返ると、遠くに残っていた岩山へ丸い穴が開いていた。そこから上が崩れ、落ちていく途中でまた喰われた。
広げるだけじゃない。俺を狙って伸ばす速さまで上がっていた。
「そんなに広げて、火まで抱え込むつもりか。さっきから、ずっと中で燃えてるぞ」
「分かっている。お前が斬ったところも、まだ痛む」
黒いものの内側から声が届いた。ゼルキオンが、ゆっくりと右腕を下げる。肩から血が落ちた。その雫が胸元を伝う前に、朱の火へ照らされた。
「痛むなら、少しくらい止まれよ」
「お前も止まらなかっただろう。腹に俺の腕が入っている間さえ、刀を握っていた」
俺は腹へ手を添えた。傷はない。破れた着物の下へ指を入れれば、戻った肌がある。それでも、背中から腕を通された感触は覚えていた。
「戻せなかったら、あれはもう少し堪えたと思うけどな」
「俺には戻せん。だから、動くうちに使う」
ゼルキオンの両手が開いた。黒い塊が、こちらへ迫った。
俺は遠くへ移り、刀を振った。胸元を狙った刃が右腕を裂く。あいつは腕を前へ出したまま、身を退かなかった。黒いものが更に膨らみ、斬ったところさえ見えなくなる。
今度は頭上へ移った。そこにも飢えが伸びてきた。雷を落とし、火を流して離れる。下へ抜けようとしたところには、既に別の波が広がっていた。
俺を追っている。球のように膨らんでいたものが、腕を伸ばすように形を変えた。離れれば細く長く、近づけば広く厚くなる。瞬歩で走る必要はなくなっても、移った先で刀を振るう時間まではなくならない。
刃を上げたところへ、黒い縁が届いた。右手の小指が消えた。
俺は腕を引き、後ろへ移った。柄へ添えていた指が戻る。握り直した掌に汗が滲んでいた。
『お前様。お指だけで済むうちに、次をお考えなんし』
「ああ。あいつの近くへ行けば、立つ場所ごと喰われるな」
頭上には星があった。その下で、黒いものが広がり続けている。まだ何も触れていないところへ移っても、ゼルキオンが掌を向ければ、そこまで届いてくる。
俺は刀を立てた。
「ゆめ。俺たちのいるところを、誰にも喰わせたくない。あいつの飢えがどれだけ来ても、この身体と刀に触れる前に止められるように」
黒い波が、正面から押し寄せた。
『六夜。軒は貸しても、この床ばかりは。お前様とわっちの二人きり』
足元へ、朱の線が引かれた。それが丸く繋がり、頭上へ伸びる。幾本もの細い柱が俺の周囲へ立ち、その間へ星の光が渡った。
黒い波が触れた。朱の柱は消えなかった。
波がその間へ押し入り、身体まで届こうとする。だが、星の光へ触れたところで止まった。後ろから続くものが重なっても、目の前の黒い縁はそれ以上近づいてこない。
俺は息を吐いた。左手を伸ばす。指の先まで、何も触れない。
「……綺麗な部屋だな」
『お召し物を直すには、少々落ち着かぬ眺めでありんすけど』
「それは帰ってから頼むよ。今は、あいつに付き合わないと」
刀を振った。刃の届いた先で、ゼルキオンの左脚から血が噴いた。黒いものが揺れ、その内側にある白い姿が沈む。俺は続けて雷を落とし、傷を負った方の膝を狙った。
ゼルキオンが脚を引いた。その頭上へ次を落とす。
黒い掌が雷を受けた。白い光が指の間へ吸い込まれ、その腕へ火が燃え移る。あいつは右手でそれを押し出したが、左腕は持ち上がったまま、僅かに震えていた。
今なら、届く。
俺はゼルキオンの正面へ移った。朱の柱も、一緒に来た。黒いものが周囲を覆った。上も下も見えなくなる。それでも、刀を握る手へは何も触れなかった。
胸へ向けて突いた。ゼルキオンの身体が横へ流れる。切っ先が脇腹を貫き、その向こうへ血が飛んだ。俺は刀を抜き、相手の退いた方へ移った。
首を狙う。黒い右手が、目の前へ来た。
俺は構わず振った。朱の線へ触れた指が止まる。そのすぐ向こうで、ゼルキオンの頬から胸へ傷が走った。白い服が開き、血に濡れた肌と、その中央にある孔が見えた。
ゼルキオンが息を吐いた。口から零れた血が、俺の前へ散った。
「そこまで守るか」
「手までなくなったら、刀が振れないからな。お前が何でも食うせいで、こんなことまで頼む羽目になったよ」
「いい夢だ。お前がどこまで近づいてくるか、よく見える」
左の掌が朱の柱へ添えられた。喰われない。それを見てから、ゼルキオンが顔を上げた。
俺は刀を返そうとして、左へ移った。赤い光が、柱の向こうを埋めた。
先ほどまでのものより遥かに太かった。星の光を張った囲いへぶつかり、その外側を赤く染める。身体へは届かない。だが、ゼルキオンの姿が見えなくなった。
俺は更に上へ移った。赤い奔流が下を通り抜ける。その向こうに、ゼルキオンはいなかった。
背後で霊圧が膨れた。振り向きながら刀を上げる。黒い拳が柱の手前で止まり、その奥でゼルキオンが口を開いた。目の前が、また赤くなった。
俺は横へ移り刀を振った。白い姿が下へ抜ける。その背へ雷を落とすと、肩を焼かれながらも、あいつは右の掌をこちらへ向けた。
もう一度虚閃が放たれる。俺は避けた。
守りは破られていない。それでも光の中にいれば相手を見失う。見えたところへ移って斬ろうとすれば、あいつはもう次の光を放っていた。
そのたびに口元から血が零れていた。左脚は僅かに引きずっている。
俺は刀を胸の前へ戻した。
「それだけ傷を負って、まだ俺を見失わないのか」
「お前の力は大きい。どこへ行っても分かる」
「こっちはお前が出すものに埋もれてるんだけどな」
「ならば俺を見つけろ。お前はまだその刀を届かせたいのだろう」
赤い光が膨れた。俺はその正面へ立ったままゆめを呼んだ。
「見つけたいんだとさ。ゆめ、あいつの身体を見失いたくない。火でも光でも、あの飢えの向こうでも、今どこにいるのか分かるようにしてくれ」
指先へ、白い手が重なった。
『七夜。幾重の御簾で隠そうとも、逢うたお顔は忘れんせん』
虚閃が放たれた。赤い光が俺の周囲を覆う。その向こうで、ゼルキオンが右へ動いた。
見えた。
目で見ているものは赤い奔流のままだった。それでも、肩の位置も、曲げた肘も、傷を庇って浅く踏んだ左脚も分かる。黒いものをどれだけ広げても、その中央に立つあいつの姿は隠れなかった。
俺は刀を振った。赤い光の向こうで、ゼルキオンの右肩が裂ける。続けて腹へ向ける。
あいつは身体を捻った。俺はその先へ雷を落とし、左へ逃れたところへ火を放った。赤い奔流が途切れた。
ゼルキオンの左へ移る。振り向いた掌を朱の柱が止めた。その脇から刀を走らせる。胸へ入った刃を抜き、もう一度、首を狙った。
ゼルキオンが上体を反らした。俺は頭上へ移った。
刀を振り下ろす。左肩から腹まで長い傷が開いた。血が噴き上がった。
ゼルキオンが落ちた。
足を置く地面はもうなかった。俺はその下へ移り、胸へ向けて刀を立てた。落ちてくる白い姿の周りには、まだ黒いものがある。
それが、急に薄くなった。
俺は刀を止めなかった。切っ先が腹へ入った。
ゼルキオンの右手が朱の柱へ触れた。その指は中へ届かない。あいつは手を引かず、俺を見下ろしていた。
「……ようやく、近くで見られたな」
口から血が落ちる、俺は刀を握り直した。
黒いものが全てあいつの胸へ集まっていた。広がっていた飢えが戻っていく。遠くの尾根を呑んでいたものも、頭上を覆っていたものも、一本ずつ細くなり、胸の孔へ吸い込まれた。
その周りで、朱の炎が燃えていた。腹を貫いた刀にも、火がある。
俺は刃を引いた。
ゼルキオンの霊圧が噴き上がった。
朱の柱の外で空が赤く光る。あいつの口元から流れた血が、下へ落ちずに浮いていた。胸の孔に黒い点がある。
小さかった。だがそこへ意識を向けただけで、腕へ鳥肌が立った。
俺は遠くへ移った。星の下へゼルキオンが残る。裂けた胸も、焼けた腕もそのままだった。戻ってきた飢えは、傷を塞いでいない。
あいつは右手を持ち上げた。指先へ黒い点が移った。
「俺が喰ってきたものを、お前にも見せてやろう」
俺は刀を立てた。
七つの夢がまだここにある。刃の火も、空の雷も、身体を守る星の光も消えていない。ゼルキオンの右腕がどこへ向くのかも、今は分かった。
その全てへ、あいつが掌を向けていた。
『お前様』
ゆめの声が近かった。俺は柄を握る指へ、重なった手の感触を確かめた。
「見えてるよ。お前も離れるな」
ゼルキオンの指先から黒いものが放たれた。朱の柱へ触れたところで、止まった。その奥から、更に押し寄せる。
星の光が細く軋む中、俺は刀を振り上げた。