星なき天に 翼は開き
果てなき飢えに 王は還る
朱の柱へ張りついた黒いものが、急に離れた。
ゼルキオンの右手へ戻っていく。俺はその肩へ重さを掛け直し、首を狙って刀を振った。刃が肩口へ入り、岩へ血が散る。その上へ雷を落とし、傷口へ火を流した。
あいつの指が、ゆっくりと開いた。
「お前に斬られた数を、途中から数えていなかった」
喉から血が流れていた。胸も腹も裂け、岩へ押しつけられた身体の下には、赤いものが広がっている。それでも、俺を見る目は変わらなかった。
「俺も数えてないよ。そろそろ最後にさせてほしいんだけどな」
「そうだな。俺も、このまま斬られ続けるつもりはない」
胸の孔へ、黒いものが集まった。
俺は刀を振り下ろした。ゼルキオンの肩が裂ける。口から血が零れ、その向こうで唇が動いた。
『喰らい尽くせ⸺
漆黒の霊圧が噴き上がった。
俺は遠くへ移った。さっきまでいた岩場から、黒い柱が空へ伸びる。朱の火も、その中を走っていた雷も見えなくなった。次の瞬間には、こちらまで霊圧の奔流が届いた。
囲いへ張られた星の光が、黒く染まった。
朱の柱へ力を送る。だが、光が戻らない。柱の表面を黒が這い上がり、頭上へ渡した光まで覆っていく。俺は刀を振って正面を割ろうとした。
刃の火が消えた。
切っ先まで纏っていた朱が、根元から黒へ塗り潰される。振り抜いた先にも、切れ目は見えなかった。刀を戻す間に、足元の朱の線まで消えた。
俺は更に遠くへ移ろうとした。
身体が動かなかった。
望んだ場所は見えている。さっきまでなら、それだけで着けた。だが今は、足元を黒い霊圧が流れ、伸ばした腕も、握った刀も、同じ場所に残っていた。
瞬歩を踏んだ。
横へ抜ける。すぐに肩から黒い奔流を浴び、身体が傾いた。足を置こうとしたところには、もう地面がなかった。砂岩が崩れ、その下から大きな亀裂が広がっていく。
地鳴りが響いた。
近くからだけではない。遥か向こうの砂丘が崩れ、その更に先でも尾根が沈んだ。地下から響く音が幾つも重なり、俺のいる空まで震わせていた。
頭上へ目を向けた。
星がなかった。
ゆめと広げた夜空が、黒に塗り潰されていた。光の一つも残っていない。遠くまで見渡そうとしても、ゼルキオンから放たれた漆黒が、空と砂原の境を覆っていた。
「……ゆめ」
柄へ添えられた手の感触はあった。
『ここにおりんす。お前様、お手を離さんで』
俺は刀へ力を送った。
身体の内を巡らせ、外から取り込む流れへ繋ぐ。だが、その先が続かなかった。大気に満ちていた霊子へ触れようとすれば、黒い霊圧が押し返してくる。取り込む前に喰われ、伸ばした力まで削られていった。
もう一度、繋ごうとした。
胸の奥が詰まった。
内から外へ、外から内へ。幾十年も途切れずに続けてきた流れが、俺の身体のところで止まっていた。巡らせても、戻ってこない。刀から返るゆめの力だけを受け、俺は歯を食いしばった。
虚の気配が、次々に消えていた。
砂丘の向こうへ逃げた群れも、地下へ潜ったものも、霊圧が届いたところから途切れていく。遠くにいた
ゼルキオンは、そちらを見てもいない。
この霊圧だけで、存在を保てなくなっている。
並みの死神でも、ここには立てない。それより下なら、刀を抜く間もなく消えてしまうだろう。俺は自分の身体へ力を留めながら、失われていく気配を追った。
数が、多すぎた。
これが虚圏へ広がり続ければ、どうなる。
三界の拮抗という言葉が、頭を過った。目の前の相手を止めなければならない。そう考えた時、黒い柱の中で翼が開いた。
左右が揃っていなかった。
一方は長く伸び、もう一方は途中から大きく欠けている。縁には幾つもの穴があり、何かに喰い千切られたような形のまま、黒い霊圧の中へ広がっていた。
その中央に、ゼルキオンがいた。
黒かった両腕は白くなっていた。白かった身体には黒が広がり、額から二本の角が伸びている。その下に見える顔には、仮面の名残一つなかった。
傷がない。
喉も、胸も、腹も戻っていた。焼けていた腕には白い肌があり、幾度も斬った肩にも跡がない。あいつは両足で立ち、ゆっくりと首を動かした。
身体の表面を、飢えが覆っていた。
掌だけではない。肩も胸も、開いた翼の先までもが黒いものを纏い、その外へ漆黒の霊圧を放ち続けている。
俺は左手を向けた。
重さを掛ける。
ゼルキオンは沈まなかった。
更に力を込めた。腕にも脚にも、頭にも掛ける。だが、あいつは顔を上げたまま、こちらへ歩いてきた。足元の岩が、踏まれる前に消えていく。
雷を落とした。
頭上で白く光ったものが、黒い空へ呑まれた。ゼルキオンまで届かない。続けて火を放つ。掌から噴いた朱が、数歩も進まずに黒く染まり、見えなくなった。
俺は胸へ刀を振った。
あいつの身体に、傷はつかなかった。
白い右手が持ち上がった。
「……全部、か」
七夜の夢へ意識を向けた。
黒い霊圧の奥にいる身体を捉えようとする。だが、肩も腕も分からない。目に見える姿を追うほかなかった。その姿が消えた時、俺は刀を胸の前へ戻した。
腹へ拳が入った。
息が抜けた。
刀を合わせるところまで届かなかった。白い腕が目の前にあり、その拳が腹へ埋まっている。俺は左手で手首を掴もうとした。
顎を蹴り上げられた。
頭が後ろへ跳ね、空が回った。歯が砕け、口の中へ血が広がる。身体を起こそうとしたところへ、ゼルキオンの掌が胸を叩いた。
下へ飛ばされた。
背中から砂岩へ落ちる。岩が割れ、身体がその中へ沈んだ。俺は肘をついて起きようとしたが、腹の奥で激しい痛みが走った。
戻らない。
拳の入ったところへ手を当てる。息を吸っても、傷を受ける前の身体へ戻る感触がなかった。口から零れた血が、胸元へ落ちていく。
『お前様。お立ちなんし』
俺は刀を岩へ突き、身体を持ち上げた。
頭上が赤くなった。
顔を上げる。
ゼルキオンの右手に光があった。その周囲へ黒が集まり、瞬く間に大きくなっていく。俺は横へ瞬歩を踏もうとした。
視界が埋まった。
右も左も、上も見えない。赤い光の縁を探す間もなく、黒い奔流が身体へぶつかった。刀を前へ立てる。腕が押し戻され、肩が軋み、足の下の岩が消えた。
俺は霊圧を噴き上げた。
全身へ留め、刀の前へ集める。だが、正面から押し寄せるものが多すぎた。腕が胸へ叩きつけられ、その上から光が流れ込んでくる。
着物が裂けた。
肩が焼け、腹の傷へ熱が入った。声を出したつもりだったが、何も聞こえない。身体が地面を削りながら後ろへ運ばれ、背中へ幾度も岩がぶつかった。
光が途切れた時、俺は仰向けに倒れていた。
黒い空が見えた。
息を吸う。胸が痛んだ。もう一度吸おうとして、口から血を吐いた。右手には、まだ刀がある。
俺は柄を握り直した。
ゼルキオンが、傍へ降りた。
「戻さないのか」
白い足が、俺の脇にあった。
「……戻してる、つもりなんだけどな」
「お前の夢は、ここまでか」
俺は刀を横へ振った。
足を狙った刃が、踏まれた。
岩へ押しつけられる。刀を引こうとしたところへ、ゼルキオンの膝が胸へ落ちた。骨の折れる音が、身体の内から聞こえた。
俺は血を吐き、左手をあいつの顔へ向けた。
「破道の九十⸺黒棺」
黒い壁が立ち上がった。
ゼルキオンの肩を越える前に、その壁が崩れた。あいつの霊圧へ呑まれ、棺の形さえ残らない。白い指が俺の左手首を掴んだ。
身体が持ち上がった。
俺は右の刀を、あいつの首へ向けた。肘を打たれ、刃が下がる。そのまま顔へ拳が入った。
一度。
身体を捻ろうとしたところへ、もう一度。
目の前が白く弾けた。左手首を掴まれているせいで、離れられない。足をゼルキオンの腹へ当て、蹴り離そうとする。
掴んでいた手が離れた。
胸を蹴り抜かれた。
俺は後ろへ飛び、残っていた岩壁へ叩きつけられた。壁が崩れる。落ちてくる岩を刀で払い、膝をついて身体を支えた。
口から血が垂れた。
何を、願えばいい。
俺はゆめを呼ぼうとした。
火は消された。雷は届かなかった。刃を遠くへ届かせても斬れず、傷は戻らず、望んだところへ移ることもできない。
守りも、目も、重さも。
叶えてもらったものが、全部ここにあるはずだった。
だが目の前には、黒しかなかった。
『お前様』
ゆめの声が聞こえた。
柄へ指が触れている。それだけは、まだ分かった。俺は唇を開き、息と共に声を出した。
「あと、一つ……だったよな」
『ええ。お前様の望みを、お聞かせなんし』
もっと強い火。
もっと速い雷。
あいつにも届く刃。
考えた端から、今まで頼んだものが浮かんだ。そのどれも使いたかった。ゆめは叶えてくれた。それが今、何一つ届いていない。
では、何を。
何なら、この黒を越えられる。
顔を上げた。
ゼルキオンの掌が、また赤く光っていた。
俺は横へ跳んだ。瞬歩へ繋ぎ、崩れた岩場を抜ける。視界の端から虚閃が迫った。刀を立て、身体を捻る。
左肩から、光を浴びた。
足が地面を離れた。横へ飛ばされ、砂原へ落ちる。転がる身体を止めようとして、左腕をついた。
肘が折れた。
俺は呻き、刀を握った右手だけで身体を起こした。ゼルキオンが歩いてくる。欠けた翼の下で、白い両腕が揺れていた。
傷を戻したい。
そう願えば、四夜と同じになる。
守りたい。斬りたい。逃れたい。
それも、もう願った。
九つもあると思っていた。
最後の一つを、口にできない。
「何を探している」
ゼルキオンが足を止めた。
俺は刀を持ち上げた。切っ先が揺れる。右腕まで力が回りきらず、血に濡れた柄が掌の中で滑った。
「……お前を斬る方法だよ」
「まだ、その刀でか」
「ああ。手放すつもりはない」
白い掌が、俺の頭へ伸びた。
俺は刀を突いた。
胸へ向けた刃が、その手に払われる。拳が頬へ入り、身体が横へ倒れた。地面へ肩を打ち、折れた左腕に重さが掛かった。
叫びが漏れた。
俺は右の肘をつき、また身体を起こした。立つところまでは届かなかった。膝を引き寄せ、刀を前へ置く。
頭上で、霊圧が膨れた。
ゼルキオンが俺を見下ろしていた。その掌に赤い光が集まり、周囲から漆黒が流れ込んでいく。
ゆめの指が、俺の指へ重なった。
俺はその手を握ろうとした。
何を願えばいいのか、まだ分からなかった。
それでも、刀だけは離せなかった。