尽きゆく夜に 手は重なり
醒めぬ夢に 朝は宿る
ゼルキオンの掌に、赤い光が膨れていた。
俺は右の肘を地面へつき、身体を引きずった。折れた左腕が砂へ擦れる。痛みで息が詰まり、持ち上げかけた膝がまた落ちた。頭上の光は、もうあいつの顔を隠すほど大きくなっていた。
刀を握る指へ、ゆめの手が触れている。
それを確かめようと、柄を握り直した。血に濡れた掌の中で、刀が僅かに滑る。重なっているはずの手は見えなかった。それでも、指の背へ添えられた温もりだけは分かった。
「ゆめ。……悪いな。最後まで付き合わせて」
『何を今更、仰りんす。お前様が握っておいでなのは、わっちでござりんしょう』
声を聞いて、顔を上げた。
赤い光の向こうに、ゼルキオンの翼があった。黒い霊圧がその縁から流れ、空へ広がっている。逃げたところで追いつかれる。刀を振っても、今の俺にはあいつの肌へ傷をつけることさえできなかった。
最後の一つで、何を使えば勝てる。
さっきから、そればかり考えていた。もっと強い力を。今まで叶えてもらったものを、全部越える力を。そうして考えるたび、火も雷も消えていった光景が浮かんだ。
あいつの掌が下がった。俺へ向けて、光が傾いた。
「……まだ、終わりたくないな」
口にすると、胸が痛んだ。息を吸い直しても、血の味は消えない。こんなところで死ぬつもりはなかった。もう少し虚圏を歩いたら、爺さんのところへ帰るはずだった。
先生にも会いたい。俺がいない間に、何をしていたのか聞いてみたかった。
見ていない土地がある。試していない鬼道がある。温泉へ戻って、何も考えずに湯へ浸かる日があったっていい。夜になればゆめのところへ行き、今度は石でも霊子でもなく、その日にあったことを話す。
そんな続きを、まだ幾らでも思い浮かべられた。
「ゆめ。俺は、まだお前と生きていたい」
重なった指が、僅かに動いた。
「行ってないところも、やってないことも、山ほどあるんだ。帰りたいところもある。……その全部に、お前と一緒に行きたい」
刀を胸の前へ寄せた。上がらない左手の代わりに、右の指へ力を込める。
「だから、俺と一緒に生きてくれ。この先も、ずっと」
赤い光が放たれた。俺はゆめの手を握った。
『九夜。明日を欲しがるお方に、今宵限りの別れなど。わっちは、よう申しんせん』
赤い奔流の中へ、朱の灯がともった。
一本の細い柱が立ち、その隣へもう一本が現れる。裂けた地面を朱の線が渡り、俺の周りへ丸く繋がった。黒く染まっていた空の一角に、星が見えた。
虚閃が、その外側を流れていた。
俺は息を吸った。熱は届かない。足元の砂も、刀を握る手も残っていた。胸へ当たっていた重い霊圧が薄れ、ようやく顔を持ち上げられる。
目の前に、ゆめがいた。
黒い髪へ簪を挿し、朱の裾を砂へ広げている。俺の手に重なっていた白い手が、今は見えた。袖の先から伸びた指が、血のついた俺の指を包んでいた。
「……来てくれたのか」
「お前様がお呼びになったのでござりんしょう。こんなお姿で、独りにしておけるものですか」
ゆめが俺の頬へ手を添えた。
そこも切れているのだろう。指が触れると痛んだ。俺は顔を歪めたが、その手から離れたくはなかった。
光の向こうで、ゼルキオンが掌を下ろした。
虚閃が途切れる。朱の柱の外には、まだ黒い霊圧が満ちていた。取り込もうとしても、その先へ繋がらない。傷も戻っていない。俺はゆめに肩を支えられ、どうにか膝を立てた。
「最後の夢か」
ゼルキオンが近づいてきた。
朱の柱へ、白い掌が添えられる。星の光が波打った。その向こうで、あいつの指がゆっくりと曲がる。
「そうだよ。もう、次はない」
「それで俺を斬れるのか」
「……今のところ、立つのも難しいな」
俺は刀へ目を落とした。
刀を握る右手と、それを包むゆめの手がある。ずっと欲しかった力を叶えてもらった。その最後に頼んだのは、こうして隣にいてくれることだった。
ゼルキオンの指先から、黒いものが広がった。
朱の柱を包み、星の光へ張りついていく。さっきと同じだった。今は止まっていても、あいつは喰い終わるまで手を離さない。
ゆめも、それを見ていた。
「お前様。九つの夢を叶えても、まだ足りぬと仰るか」
俺はその顔を見た。
困ったように、けれど少し楽しそうに、ゆめが笑った。朱の灯が頬を照らしている。その目に映った俺は、血だらけで、刀を握ったまま座り込んでいた。
「……足りないっていうか。このままじゃ、折角来てくれたお前まで巻き込む」
「わっちを置いて、独りでどこへお行きになるおつもりで?」
「そんなつもりはないよ。さっき、頼んだばかりだろ」
ゆめが、俺の手を引いた。
刀が二人の間へ立つ。黒い刃に、俺とゆめの顔が映った。星の光が細くなり、囲いの外から軋む音が聞こえてくる。
「……ならば今宵は、わっちと同じ夢を見なんし」
柄へ添えた指の感触が、胸の奥まで届いた。
俺は目を閉じなかった。ゆめも目の前にいる。けれど、その向こうへ朱楼の灯が見えた。川へ渡された橋があり、夜空の下に花街が続いている。
何度も歩いた道だった。
あの場所で、ゆめは待っていた。夢だと思って帰った夜もあった。名前を知ってからは、こちらから訪ねるようになった。研究が進めば話しに行き、上手くいかなければ隣へ座った。
あの空に星が増えたことも、雨が降ったことも覚えている。
俺の心が、あの世界を変えていた。ここは俺自身なのだと、ゆめは教えてくれた。
刀から返ってくる力へ、意識を向けた。身体を巡り、胸の奥へ届く。そこからまた指へ、刀へと流れていた。外の霊子へは繋がらない。それでも、ゆめとの間には途切れたところがなかった。
俺が握っている。ゆめも、握っている。
今まで幾度となく合わせてきた二つの流れを、俺は追い続けた。どこで俺の力がゆめへ渡り、どこからゆめの力が返るのか。その境を探すうちに、柄を握った感触まで重なっていった。
ゆめの指へ触れている。同時に、血で濡れた俺の指が分かった。
俺を支えている腕の重さも、支えられている肩の痛みも、どちらもここにあった。
「……ゆめ」
「聞こえておりんす」
目の前で、ゆめが答える。その声が生まれるところまで、分かった。
外から霊子を取り込み、自分の力と共に巡らせてきた。少しずつ身体を鍛え、魂魄を高め、流れを保てる器を作った。けれど、どれほど力が増しても、ゆめは刀の向こうにいた。
俺が頼み、ゆめが叶える。そのたびに、俺はゆめの力を使っていた。
今、ゆめの手を握っている感覚が、俺の手を握る感覚へ重なっている。刀の向こうを覗く必要がなかった。名前を呼べば、その声を聞く俺も、呼ばれるゆめも、ここにいた。
俺は息を吐いた。
「随分、遠回りしたな。お前と一緒にいたいなんて、ずっと思ってたはずなのに」
「お前様は、行きたいところが多うござりんしたから」
「これからも多いよ。まだ、減る気がしない」
「ならば、お連れなんし。わっちの帰るところを、お前様の傍にお作りになって」
朱の柱へ、亀裂が入った。
ゼルキオンの白い指が、その間へ伸びてくる。黒いものが灯を覆い、頭上の星を一つずつ隠していった。あいつの掌がこちらへ向き、再び赤い光が集まる。
俺は、ゆめの手を引き寄せた。
肩を支えていた腕が、背へ回った。俺は右足を踏み、ゆめと共に身体を起こす。胸が痛んだ。左腕は上がらない。それでも、顔を上げてあいつを見ることができた。
刀が、俺たちの間にあった。
柄へ重ねた手を離さず、ゆめが近づく。額が触れた。髪が頬へ掛かり、吐いた息が重なった。俺はそのまま、胸の内へ届く声と一緒に言葉を紡いだ。
〈九つの夜を渡り、名を呼ぶ声のもとへ。
醒めれば隔たる夢ならば、目覚めを此処に葬ろう。
現よ、帳を下ろせ。夢よ、その奥より出でよ。
刃を隔てて向かい合う、最後の夜は明けた。
お前の見る夢を、俺の生きる世に。
俺の生きる世を、お前の帰る場所に。
もう、独りで醒めるな。
この先は⸺二人で現と成ろう〉
ゼルキオンの掌から、虚閃が放たれた。
朱の柱が砕ける。星の光が消え、赤と黒の奔流が目の前を埋め尽くした。俺はゆめの手を握ったまま、その名を告げた。
〈
白い光が、俺たちを包んだ。
身体へ届こうとしていた虚閃が消える。足元から白銀の霊圧が噴き上がり、頭上へ一本の柱となって伸びた。砂原も、ゼルキオンの姿も、眩い光の向こうへ隠れた。
刀を握っていた感触が、掌からほどけていった。
刃も、柄も、鍔も、白銀へ染まる。二人の間に立っていた刀が光となり、重なった手へ溶けていく。ゆめの指が消えても、その温もりは失われなかった。
腕へ、胸へ、身体の隅々へ広がってくる。
折れた骨が戻った。焼けた肌が繋がり、胸を塞いでいた血がなくなる。息を吸うと、ゆめも同じ息を吸った。胸の内へ満ちた喜びを、俺も知っていた。
白銀の霊圧が、柱の外へ広がった。
ゼルキオンが放ち続けていた漆黒が消えていく。砂原を覆っていたものも、岩の間を流れていたものも、空へ立ち上っていたものも、白銀に触れたところからかき消された。
外へ、もっと遠くへ。
砂丘の一粒一粒が分かった。岩山を形作る霊子も、その下に広がる森も、大気の中を漂っているものも、すべてが同じように感じられた。
身体へ取り込もうとする必要がなかった。
指を動かす時、自分の指がどこにあるのか探したりはしない。その指と同じように、遥か遠くの砂があった。地下の枝があり、地平の向こうへ続く岩があった。
虚圏を構成する霊子のすべてが、俺とゆめに繋がっていた。
星がともった。
漆黒に覆われていた空へ、幾千もの光が現れる。遠くの地平まで続き、その向こうにも更に広がった。虚圏の空を、満天の夜が覆っていく。
ゆめと見てきた星だった。
新しいことを知るたび、あの花街の頭上に増えていった光。それが今、虚圏全体の夜空に輝いていた。
白い霊圧の柱が、静かに薄れていった。
向こうに、ゼルキオンが見えた。白い掌をこちらへ向けている。指先にはまだ赤い光があったが、その周りを覆っていた黒い奔流はなくなっていた。
頬へ髪が触れた。
白銀だった。
肩へ流れ、胸元へ落ち、背へ長く続いている。黒いところは一房もない。金も朱も、すべて同じ白銀に染まっていた。
俺は右手を持ち上げた。
掌に刀はなかった。細くなった指を開くと、白銀の袖が手首から落ちる。着物も同じ色へ変わり、その上を金色の文様が渡っていた。重なった裾が、足元へ柔らかく広がっている。
身体へ目を落とした。
胸元の膨らみも、帯の下へ続く腰の形も、以前の俺のものではなかった。首へ触れ、顎へ指を添える。細く滑らかな輪郭を確かめながら、唇を開いた。
「『……ようやく、同じところから見えんすな』」
二つの声が重なった。
俺の声と、ゆめの声だった。同じ言葉が、同じ口から出ている。言おうと思ったことも、その声を聞いた喜びも、胸の内で重なっていた。
ゆめへ呼びかける必要はなかった。
ここにいる。
腕を動かせば、その感覚を共に知る。星を見上げれば、同じ美しさに心が動く。刀を通して返ってくるのを待たなくても、ゆめの思いが俺の内にあった。
ゼルキオンが、右手を握った。
「刀はどうした」
俺は袖の内へ手を収めた。指先から流れる白銀の霊圧が、着物の縁を淡く照らしている。かつて黒い眠りの夜を纏っていた身体を、今はその光が包んでいた。
「『ここにおりんす。もう、離して持つこともござりんせん』」
「……その姿が、お前の探していたものか」
ゼルキオンの視線が、白銀の髪から袖へ移った。それから空を見上げる。欠けた翼の向こうにも、星が輝いていた。
俺も、その空を見た。
ずっと遠くにあると思っていた。卍解を得た先に、更なる力があるのなら、何としてでも辿り着きたかった。そのために世界を渡り、自分の身体を鍛え、ゆめと話し続けてきた。
今は、同じ身体でここに立っている。
「『ええ。随分と、お待たせしてしまいんした』」
ゼルキオンが掌を開いた。
赤い光が膨れる。その周りへ漆黒が集まり、こちらへ向けて渦を巻いた。掌の中に圧縮された霊子も、そこへ注がれる力も分かった。あいつが放つ前から、俺たちの手の届くところにあった。
赤と黒の奔流が砂原を削り、視界を埋め尽くす。俺は立った場所から動かず、袖の端を二本の指でそっと持ち上げた。
光が、ほどけた。
先端から細かな粒へ変わり、後から続く奔流も同じように崩れていく。熱を生む結びつきを外し、前へ進む力を収める。荒れ狂っていた霊子は、俺の目の前で静かに浮かんだ。
白銀の光が、幾つも瞬いた。
その一つが袖へ寄り、金色の文様を照らした。俺は指先を僅かに返し、光を空へ散らす。ゼルキオンの掌から続いていた虚閃も、すべて同じ光となって夜へ昇った。
髪の一筋さえ、乱れなかった。
ゼルキオンが掌を閉じた。赤い光が途切れる。空へ流した霊子は、もう大気の中へ溶けていた。
「俺の虚閃を、何にした」
「『少し、明かりをお借りしただけでござりんす。折角の夜に、あまり眩しいものを向けるものではありんせんよ』」
あいつの両腕から、黒い飢えが溢れた。
今度は光にせず、そのまま押し寄せてくる。砂を喰らい、地面へ深い溝を作りながら、俺の立つ場所を左右から包もうとした。
俺は袖を下ろした。
黒い波が止まった。
左右の縁が、裾へ届く少し手前で揃っている。ゼルキオンが力を注ぐほど、その後ろへ黒が重なった。けれど、先端は一寸も進まなかった。
その霊子を、俺たちが留めていた。
飢えを広げる力も、何かを喰らおうとする働きも、どう組まれているのか分かる。望めば、虚閃と同じようにほどける。向きを変え、あいつ自身へ返すことさえできた。
俺は白銀の袖を重ね、腹の前へ手を添えた。
「『随分と、可愛がってくださんしたな。お返しもせずに帰っては、寝覚めが悪うござりんす』」
ゼルキオンが、俺の足元を見た。
俺は一歩も動いていなかった。白銀の裾は、光の柱が消えた時と同じ場所へ広がっている。そのすぐ外に、黒い波が留まっていた。
あいつが顔を上げた。口元が動き、笑みになった。
俺もゆめも、その顔を見て笑った。
「『さあ、今度はわっちにお付き合いなんし。夜はまだ、明けておりんせんよ』」